Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

統計による日本で特に若い人の死因。21世紀の現代の人は、イエズス様を知らないが為に、虚しく、苦しんで、そしてどうして良いか、絶望の極地に立っているよう

2020年11月05日 | お説教・霊的講話
2020年10月4日(主日)聖霊降臨後第18主日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、
今日福音でイエズス様は、2つの奇跡を行ないます。1つは霊的な奇跡で、もう1つは肉体的な奇跡です。

最初の霊的な奇跡は、イエズス様が、病気の人が運ばれて来た、その「運んで来た人の信仰」を見て、その彼らの信仰を見て、進んで癒します。
「子よ、信頼せよ。お前の罪は赦された。」

そして第2の奇跡は、肉体的なものです。この肉体的な奇跡は、天主でなければできないのですけれども、価値はずっと低いものです。なぜかというと、「霊魂の癒し、罪の赦し」というのは、「私たちの永遠の命」に関わる事で、永遠の天国に行く事ができるかできないか、それに「永遠」に関わるものですけれども、肉体の健康は、このいくら治されても、この地上で終わってしまう、限りがあるものです。

しかしこの肉体での、目に見える奇跡を、信仰を持たせる為に、永遠の命への縁(よすが)とする手段とする為に、その力を、イエズス様が罪を赦すという力を持っている事を明らかにする為に、手段として、行ないます。
「起きよ。床を取って、家に帰れ。」

その言葉を聞くや否や、何十年もおそらく中風で苦しんでいた人が起き上がって、ひょこりと、そして何事かもなかったかのように、今まで寝ていた床を取って、家に帰って行きましす。これを見て人々は、主の憐みのその力と、その偉大な力に、感謝します。讃美します。

これは私たちに、21世紀の私たちに同じ事を、イエズス様は起こそうとしています。

つい最近、一週間ぐらい前に聞いた話ですが、ある有名な女優さんが、結婚していて、子供を産んだばかりで、お金もあるし、名声もあるし、ファンもいるし、美人だし、健康だし、何の不足もないように見えたにも関わらず、心はうつろで、虚しく、絶望していて、何の為に生きているのか、どこに喜びがあるのか分からずに生きておられたようです。

はたから見れば本当に羨ましいような生活をしていたにも関わらず、本当は一人、寂しく、全く意味を見出せなかったようです。間違った選択をしてしまいました。

そして、もしもこの方が「実は、本当は、私たちの命は、永遠の命の為にある」と、「イエズス様からこれほど愛されているのだ。その憐れみを受け続けているのだ。」「私たちがどんなに苦しい事があったとしても、たった一人だったとしても、私たちにはイエズス様がいる。愛している方がいる。」そしてこの愛する方が、その人に、「娘よ、心配するな」といつも呼びかけている、という事を知っていたら、おそらくそんな間違った事はしなかったと、私は信じています。

そしてきっとこの方も「あぁ、お父さん、イエズス様、私を愛している方、愛しの方。私の愛」と、イエズス様の事を知っていたら、「どんな事があっても、この命を、イエズス様の為に良く使おう」と思っていた事に違いありません。

21世紀の現代の人は、イエズス様を知らないが為に、虚しく、苦しんで、そしてどうして良いか、絶望の極地に立っているように思われます。

統計によると、日本で特に若い人で死んでいる人は、自殺なのだそうです。統計によると、はるかに多い、交通事故よりも、コロナよりも、はるかに多い自殺。かわいそうに。イエズス様の憐みを知らないから。このような人にこそ、イエズス様からの信仰の御恵み、洗礼の御恵みが必要です。

そして21世紀の私たちに、洗礼を受けた私たちにも、イエズス様はその憐れみを、その愛を、知らせようとしています。イエズス様はやはり私たちにも、洗礼を受けた私たちにも、「子よ、娘よ、心配するな。」「元気を出せ。」「安心せよ。お前の罪は赦された」と、「安心せよ。さぁ、床を取って、天国に行け。家に帰れ。」「平和を持て。安心せよ」と。

今日ミサの入祭誦から、どれほど「平和を求める」という祈りが繰り返される事でしょうか。「平和がありますように。」そして「『私たちは家に帰ろう、家に行こう』と、この言葉を聞いて、私たちは喜んだ。」「私たちは、さぁ家に帰って、天国に行こう。」

では、この奇跡が起こる為に、今日福音では誰かが担いで来なければなりませんでした。一体誰が、私たちを担いで来るのでしょうか?

もちろん、教会の祈る人々、そして犠牲を払う人々のその祈りが、犠牲が、病の人を運びます。

しかし皆さんもご存知のように、もっと力強い方が、私たちをイエズス様の前に運んで下さいます。それがマリア様です。ですから10月はロザリオの月、マリア様にたくさんお祈りしましょう。

日本の多くの方が、イエズス様の前に運ばれて来ますように、聖伝の信仰の前に運ばれて来ますように、そして「イエズス様からどれほど愛されているか」という事を知って、そして罪の赦しの喜び、平和を以って、遂には天国の永遠の幸せに入る事ができますように、お祈り致しましょう。マリア様にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




一体誰が私たちを、イエズス様の元に運んで下さるでしょうか?

2020年11月05日 | お説教・霊的講話
2020年10月4日(主日)聖霊降臨後第18主日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(東京)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日福音の中でイエズス様は、奇跡を行ないます。

中風の男が、おそらく何十年も苦しんでいたのでしょう。人々に運ばれて、イエズス様の元にやって来ます。それを見るとイエズス様は、その運んで来た人の信仰を見て、「子よ、信頼せよ。お前の罪は赦された」と仰いました。

これと同じ事が、私たちに現代必要です。

願わくは、私たちの周りの方々が、イエズス様を知らない方々が、イエズス様の声を聞きますように、「子よ、信頼せよ。お前の罪は赦された。」

そして彼らが、イエズス様を知らない人々が、「あぁ、父よ、ありがとうございます!」と答える事ができますように。

そして私たちもイエズス様が今日、イエズス様の元に来た、近くに来た今日、イエズス様からの声を聞いて下さい「子よ、娘よ、安心せよ。お前の罪は赦された。」

イエズス様からの愛をたくさん受けて下さい。私たちは主に平和を求めます。
「平和が私たちにありますように。」

ではその為には、どうしたら良いでしょうか?

私たちも、この中風の男のように、イエズスのもとに運ばれて来る事を提案します。なぜかというと、私たちの信仰は大したものではないのですけれども、運んで来る人の信仰を見て、イエズス様はこの奇跡をされたからです。

では、一体誰が私たちを、イエズス様の元に運んで下さるでしょうか?

マリア様です。マリア様が私たちを運んで下さるようにお祈りしましょう。10月はロザリオの月です。ロザリオのお祈りをたくさん致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




2020年11月8日は、聖霊降臨後第二十三主日(降临后第二十三主日: 성신 강림 후 제 이십삼 주일)です。聖伝のミサのラテン語と日本語・中文・韓国語の対訳のテキストをご紹介いたします

2020年11月05日 | ミサ聖祭

2020年11月8日は、聖霊降臨後第二十三主日(降临后第二十三主日: 성신 강림 후 제 이십삼 주일)です。聖伝のミサのラテン語と日本語・中文・韓国語の対訳のテキストをご紹介いたします

聖霊降臨後第二十三主日(二級祝日 緑)
【ミサ聖祭】天主がわれらに対して行い給うたことを見れば、天主のみ旨こそ、平和と愛以外の何ものでもないことを知るであろう。典礼暦年の終りは近い、キリストの再臨とその審判の日も近い。われらは、十字架によって、復活をうける。
主は言い給う。「私は、平和の考えを考えるのであり、苦しみの考えではない。あなたたちは私を呼ぶだろう、そうすれば私はあなたたちの祈りを聞き入れよう。そして私はあなたたちの捕囚を全ての場所から元に連れ戻そう。」主は、まだ、裁き主ではない。平和を与える方、救い主だ。本当の平和、永遠の至福を与える方だ。
私たちは祖国(天国)に戻らねばならない。「私たちの国籍は天にあり、そこからこられる救い主イエズス・キリストを待っている。」私たちのこの地上での囚われの身から主は解放してくださる。逐謫の身である私たちは、聖父と聖母とに見えることが出来る!逐謫の時はもうすぐ終わる!天のエルサレムに戻る日は近い!「主よ、願わくは、御民の罪をゆるし給え。われらの弱さにより得た数々の罪の鎖より、御身の優しさを持って解放し給え。」「我は、肉身のよみがえり、終わりなき命を信じ奉る!」
聖パウロに倣おう。聖パウロがしばしば話し、また涙とともに訴えることを聞こう。多くの人は、キリストの十字架の敵として生活している。かれらの行先は亡びである。かれらの天主は自分の腹であり、自分の恥に誇りをおいている。かれらは、この世のことだけにしか興味をもたない。ヒューマニストたちだ。
しかし、私たちは、天主の御憐れみと御恵みにより、十字架に付けられたイエズス・キリストを愛するキリスト教信者だ、私たちは、天からこられる救い主イエズス・キリストを待っている。イエズス・キリストは、私たちの卑しい体を、光栄の体のかたどりに変えられるであろう。「我は、肉身のよみがえり、終わりなき命を信じ奉る!」
聖パウロは、私たちに呼びかけている。「私の慕い愛する兄弟たちよ!私のよろこび!私の冠よ!愛するものよ!」と。本日、書簡において、聖パウロが、キリストの十字架を愛せよとわれらにすすめるのは、キリストへの愛を増せということに他ならない。天国に至ったその時、私たちはこう歌うだろう。「主よ、御身は私たちを苦しめる人々から私たちを解放し給うた。御身は私たちを憎む人々を恥ずかしめ給うた。私たちは代々に御身の聖名に賛美するだろう!」
そうだ。キリスト教信者にとって、死は、復活への待望における眠りだ。キリストの言うとおり「ねむっているのだ」。人々はあざ笑うだろう。しかし、最後の日、イエズスがこの地上にもう一度来られて、私たちは起きあがらせる、永遠の命の為に復活させる。「我は、肉身のよみがえり、終わりなき命を信じ奉る!」〈聖福音〉

在礼仪年度末尾的两周内,圣教会邀请我们感谢祈望的情绪。天主既然为我们做了一切,祂如今许给我们平安,我们怎能怀疑祂呢?所说的平安,便是指的,将来在天由战胜罪恶所得的安定永福(进台咏)。为这个缘故,我们在世上越感觉到我们的可怜境况,我们越该以全心信任上主的眷顾。基督初次来世,是为解救世人脱于罪恶的束缚。在圣洗中,祂恩赐我们为天主的子女,及天堂的继承者。现今所需要于我们的,只有一事,便是应依照基督的表样,努力操圣化的生活,并这样常准备着,以欢迎祂于重临世界之时(书信)。到了那日,耶稣将不费吹灰之力的复活我们,一如祂过去在世时,复活了死人一样(福音)。
在现在等待的时期,耶稣是仗藉圣体来援助我们的:祂援助我们克制偏情,解脱世渊,以及培养对天上事物的热切心火。祂援助我们,务使生活于此下土宛如“天国的公民”在这窜流之地似的,同时,祂以自己的圣体养育我们,连在我们的肉身上,也寄放了将来复活的萌芽或保证。

'예수 회당 으뜸의 집에 오사 통소부는 자와 많은 이가 들렘을 보시고 이르시되 '물러들가라.여자가 죽지 아니하고 오직 잔다' 하시니 저들이 비웃더라. 무리를 물리친 후에 예수 들어가사 손을 잡으시매 여자가 일어난지라' (복음)
퉁소부는 사람들, 그들은 그들의 창조주를 '비웃는' 사람들의 '무리'를 표상한다.
그런데 우리들은 얼마나 자주 그들 사이에 끼어 비록 영신적으로는 죽은 것이지만 소위 '생'이란 것을 향락하고 있는지 모른다.
성 바오로께서도 역시 우리에게, '그들의 끝은 멸망이요' '그들의 신은 탐욕'인 '그리스도의 십자가의 원수들'을 대적하라고 경고하신다. '우리의 시민권은 천상에 있으니 우리들은 예수께 '우리의 비천한 육신을 개조하여' 주시기를 간청할 것이며 그렇게 함으로써 '주안에 굳게 서서' 우리의 형제시민들과 더불어 한 마음이 되도록 할 것이다.

Dominica Vigesima tertia post Pentecosten 聖霊降臨後第二十三主日 降临后第二十三主日 성신 강림 후 제 23주일
II Classis 二級祝日 复式【绿】  (2급) 초록색
Ant. ad Introitum. Ier. 29,11,12 et 14. 入祭文 エレミア書、29ノ11,12,14   进台咏(耶29:11-12,14) 초입경(예레미아29.11, 12, 14)
Dicit Dóminus : Ego cógito cogitatiónes pacis, et non afflictiónis : invocábitis me, et ego exáudiam vos : et redúcam captivitátem vestram de cunctis locis. 主は言い給う。私は、平和の考えを考える、苦しみの[考え]ではない。あなたたちは私を呼ぶだろう、そうすれば私はあなたたち[の祈り]を聞き入れよう。そして私はあなたたちの捕囚を全ての場所から連れ戻そう。 上主说:我所怀的计划是和平的计划,不是降灾的计划。你们必呼求我,我也必俯允你们。从你们被掳所在的各国各地,我要重行聚集你们。 주 가라사대 나는 고난의 생각을 하지 않고 오직 평화의 생각을 하노라. 너희가 내게 부르짖으면 나 너희를 들어 허락하여 도처에서 사로잡힌 너희를 구원하리라 하시도다.
Ps. 84, 2. 詩篇、84ノ2 咏84:2  (성영84.2) 
Benedixísti, Dómine, terram tuam : avertísti captivitátem Iacob. 主よ、御身は、御身の地を祝福し給うた。御身はヤコブの俘虜を帰させ給うた。 上主啊!祢已降福了祢的领域,救回了被掳的雅各伯。 주여 너 네 땅에 강복하시고 사로잡힌 야곱을 구원하셨나이다. 
V/.Glória Patri. V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。 光荣归于父……。 영광이 부와 자와...
Dicit Dóminus : Ego cógito cogitatiónes pacis, et non afflictiónis : invocábitis me, et ego exáudiam vos : et redúcam captivitátem vestram de cunctis locis. 主は言い給う。私は、平和の考えを考える、苦しみの[考え]ではない。あなたたちは私を呼ぶだろう、そうすれば私はあなたたち[の祈り]を聞き入れよう。そして私はあなたたちの捕囚を全ての場所から連れ戻そう。 上主说:我所怀的计划是和平的计划,不是降灾的计划。你们必呼求我,我也必俯允你们。从你们被掳所在的各国各地,我要重行聚集你们。 주 가라사대 나는 고난의 생각을 하지 않고 오직 평화의 생각을 하노라. 너희가 내게 부르짖으면 나 너희를 들어 허락하여 도처에서 사로잡힌 너희를 구원하리라 하시도다.
Oratio. 集祷文 集祷经 축문
Absólve, quǽsumus, Dómine, tuórum delícta populórum : ut a peccatórum néxibus, quæ pro nostra fragilitáte contráximus, tua benignitáte liberémur. Per Dóminum nostrum. 主よ、願わくは、御身の民の罪を赦し給え。われらの弱さにより身に付けた数々の罪の鎖から、御身の優しさにより我らが解放されんことを。天主として、(…)。 主,求祢宽恕祢子民的罪过:使我们信赖祢的仁慈,从我们因昏弱所招致罪恶的羁绊中解放出来。因我们主……。 주여 비오니 네 백성의 죄를 풀어주사 우리로 하여금 연약함을 받은 죄의 질곡에서 네 인자하심으로 구원을 받게 하시되, 네 아들 우리 주 예수 그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과... 
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Philippénses. 使徒聖パウロの、フィリッピ人への書簡の朗読。 书信 서간경
Philipp. 3, 17-21 : 4, 1-3. フィリッピ、3ノ17-21, 4ノ1-3 (斐3:17-21;4:1-3) (필립피서3.17-21,4.1-3)
Fratres : Imitatóres mei estóte, et observáte eos, qui ita ámbulant, sicut habétis formam nostram. Multi enim ámbulant, quos sæpe dicébam vobis (nunc autem et flens dico) inimícos Crucis Christi : quorum finis intéritus : quorum Deus venter est : et glória in confusióne ipsórum, qui terréna sápiunt. Nostra autem conversátio in cælis est : unde etiam Salvatórem exspectámus, Dóminum nostrum Iesum Christum, qui reformábit corpus humilitátis nostræ, configurátum córpori claritátis suæ, secúndum operatiónem, qua étiam possit subícere sibi ómnia. Itaque, fratres mei caríssimi et desideratíssimi, gáudium meum et coróna mea : sic state in Dómino, caríssimi. Evódiam rogo et Sýntychen déprecor idípsum sápere in Dómino. Etiam rogo et te, germáne compar, ádiuva illas, quæ mecum laboravérunt in Evangélio cum Cleménte et céteris adiutóribus meis, quorum nómina sunt in libro vitæ. 兄弟たちよ、私に倣う者たちであれ。あなたたちの模範である私たちにしたがって生活している人々を見よ。私がしばしばはなし、いままた涙とともに訴えることであるが、多くの人は、キリストの十字架の敵として生活している。かれらの行先は亡びである。かれらの天主は自分の腹であり、自分の恥に誇りをおいている。かれらは、この世のことだけにしか興味をもたない。しかし、私たちの国籍は天にあり、そこからこられる救い主イエズス・キリストを待っている。かれは、万物を支配下に置く力によって、私たちの卑しい体を、光栄の体のかたどりに変えられるであろう。そこで、私の慕い愛する兄弟たちよ、私のよろこびと冠なる者よ、愛するものよ、主において固く立て。私は、エヴォディアに勧め、シンティケに勧める。主において仲よく生きよ。私のまことの仲間であるシジゴスに頼む。かの女たちを助けよ。いのちの書に名をしるされているクレメンス、その他の協力者と同様に、かの女たちも、福音のために私とともに戦った人々だからである。 弟兄们:请你们效法我,谨慎观察那些依照我们向你们所表示的榜样而行的人。我多次告诉过你们,现在重新含泪告诉你们:有许多人在行为上显出是基督十字架的仇敌。这些人的结局必是灭亡,因为他们以自己的肚腹为神,以羞辱的事为荣,仅仅挂念世上的事物。我们的本乡是天堂,从那里,我们等待我们的救主、我们主耶稣基督降临,祂要按着使万物屈服于自己权下的能力,变化我们卑贱的身体,使它与祂光荣的圣体相似。我最亲爱、最惦念的弟兄们,你们就是我的喜乐,我的荣冠;我最亲爱的,你们要靠着主屹立不摇。我恳切地嘱咐厄奥第,也嘱咐孙第谷,要在主内彼此和睦。你、我忠实的同伴,援助她们吧。她们协助了我宣传福音,如同格肋孟和别的合作者一样,这些人的名字都列在生命册上了。 형제들아 나를 따르는 자 되며 또한 너희게 있는 우리 표양대로 행하는 자들을 바라볼지어다. 대저 나 너희게 가끔 말하였고 (또 지금 울며 말하거니와) 그리스도의 십자가의 원수로 다니는이가 많으니 저들의 끝은 멸망이요 저들의 천주는 저들의 배요 저들의 영광은 저들의 망신인지라 저들은 세속사물을 생각하느니라. 그러나 우리 행동은 천상에 있느니 저리로조차 구세주이신 우리 주 예수 그리스도의 임하시기를 기다리는도다. 저는 만물을 능히 당신께 복종시킬만한 능력으로써 우리 비천한 육신을 개조하사 당신 영화로운 육신과 같이 하시리로다. 그러므로 나의 기쁨이요 나의 화관이요 나의 지극히 사랑하고 사모하는 형제들아 나의 사랑하온 이들아 주 안에 굳이 서 있을지어다. 나 에보디아에게 빌며 신디케에게 간청하노니 한 마음이 될지어다. 또한 나의 진실한 동업자인 네게도 비나니 나와 글레멘스와 다른 우리 동업자들과 한가지로 복음을 위하여 노력한 저들을 도와줄지니 저들의 이름은 생명의 서책에 기록되었느니라.
Graduale. Ps. 43, 8-9. 昇階誦 詩篇、43ノ8-9 台阶咏(咏43:8-9) 층계경(성영4.8,9)
Liberásti nos, Dómine, ex affligéntibus nos : et eos, qui nos odérunt, confudísti. 主よ、御身は、私たちを苦しめる人々から私たちを解放し給うた。御身は私たちを憎む人々を恥ずかしめ給うた。 主啊!祢曾救我们脱离我们的仇人,使忌恨我们的,蒙受羞辱。 주여 너 우리를 핍박하는 자들에게서 구원하시고 우리를 미워하는 자들을 부끄럽게 하셨나이다. 
V/. In Deo laudábimur tota die, et in nómine tuo confitébimur in sǽcula. V/. 私たちは天主において一日中賛美されるだろう。そして御身の聖名において代々に私たちは告白するだろう。 我们整日以天主自豪,时时颂扬祂的圣名。 우리는 종일 천주안에서 자랑하고 영원히 네 이름에 찬미를 드리리이다.
Allelúia, allelúia. V/.Ps, 129, 1-2. アレルヤ、アレルヤ。V/ 詩篇、129ノ1-2 阿肋路亚。阿肋路亚!(咏129:1-2) 알렐루야 알렐루야. (성영129.1,2) 
De profúndis clamávi ad te, Dómine : Dómine, exáudi oratiónem meam. Allelúia. 深い淵から、主よ、私は御身に向かって叫んだ。主よ、私の声を聞き入れ給え。アレルヤ。 上主啊!我自深渊向祢呼吁。吾主啊!求祢俯听我的祈祷。阿肋路亚。 주여 나 깊고 그윽한 곳에서 네게 부르짖나이다. 주여 내 소리를 굽어 들으소서. 알렐루야.
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Matthǽum. マテオによる聖福音の続誦。 福音 복음
Matth. 9, 18-26. マテオ、9ノ18-25 (玛9:18-26) (성마두9.18-26)
In illo témpore : Loquénte Iesu ad turbas, ecce, princeps unus accéssit et adorábat eum, dicens : Dómine, fília mea modo defúncta est : sed veni, impóne manum tuam super eam, et vivet. Et surgens Iesus sequebátur eum et discípuli eius. Et ecce múlier, quæ sánguinis fluxum patiebátur duódecim annis, accéssit retro et tétigit fímbriam vestiménti eius. Dicébat enim intra se : Si tetígero tantum vestiméntum eius, salva ero. At Iesus convérsus et videns eam, dixit : Confíde, fília, fides tua te salvam fecit. Et salva facta est múlier ex illa hora. Et cum venísset Iesus in domum príncipis, et vidísset tibícines et turbam tumultuántem, dicebat : Recédite : non est enim mórtua puélla, sed dormit. Et deridébant eum. Et cum eiécta esset turba, intrávit et ténuit manum eius. Et surréxit puella. Et éxiit fama hæc in univérsam terram illam. その時、こう話しておいでになると、一人の司が近よってひれ伏し、「私の娘が、いま死にました。ですが、あの子のうえに、あなたの手をのべにおいでくだされば、あの子は、生きかえりましょう」といった。イエズスは立ちあがって、弟子たちをつれて司についていかれた。すると、十二年前から出血症をわずらっていた女が、イエズスのうしろから近づいて、そのお服の房にふれた。そのお服にふれただけで、私はなおるにちがいない、と心にいいきかせていたからである。イエズスは、ふりかえって、かの女を見て、「娘よ、信頼せよ。あなたの信仰があなたを救った」とおおせられた。女は、このときいやされた。さて、司の家についたイエズスが、笛吹きと、さわぐ人々とをみて、「みなさがれ。娘は死んではいない、ねむっているのだ」と、おおせられると、人々はあざ笑った。群衆を追い出してから、イエズスがはいって、娘の手をおとりになると、娘は起きあがった。この噂は、その地方一帯にひろまった。 那时候,当耶稣向群众讲话时,有一会堂长到祂跟前来,朝拜祂,说:“我的女儿方才死了,但请祢来,把祢的手放在她身上,她就会活。”耶稣就起来,同了门徒跟他前去。适有一个妇人,患了血漏病已经十二年,她走到耶稣背后,摸祂的外衣的边缘;因为她心中说:“只要我摸到祂的外衣,我就会痊愈的。”耶稣转过身来,看见她说:“女儿!信任吧!你的信德救了你。”就在那时刻,妇人痊愈了。耶稣到了会堂长家里,看见了吹笛的和嘈杂的群众,就说:“退去吧!女孩没有死,她睡着了。”他们就嗤笑祂。群众被驱出之后,祂就进去,一拉女孩子的手,女孩就起来了。这消息传遍了全境。 유시에 예수 많은 사람들에게 말씀하실때에 문득 한 회당 으뜸이 나아와 예수께 절하며 이르되 '주여 내 딸이 금방 죽었사오나 그러나 오사 당신 손으로 저를 덮어주소서. 곧 살아나겠나이다.' 예수 일어나 저를 따라 가실새, 그 문제들도 따라가더니 문득 십이년 동안에 하혈하는 부인 하나이 뒤로 나아와 그 옷단을 만지니 대개 자기 속으로 이르되 나 비록 그 옷단만 만져도 나으리라 함이러라. 예수 돌이키사 저를 보시고 이르시되 '딸아 안심하라.네 신덕이 너를 낫게 하였다' 하시니 부인이 그시로부터 나으니라 예수 회당 으뜸의 집에 오사 퉁소부는 자와 및 많은 이가 들렘을 보시고 이르시되, '물러들가라 여자가 죽지 아니하고 오직 잔다' 하시니 저들이 비웃더라. 무리를 물리친 후에 예수 들어가사 그 손을 잡으시매 여자가 일어난지라, 이 소문이 그 온지경에 전파하니라. 
Credo 信経 信经 신경 외움
Ant. ad Offertorium. Ps. 129, 1-2. 奉献文 詩篇、129ノ1-2 奉献咏(咏129:1-2) 제헌경(성영129.12)
De profúndis clamávi ad te, Dómine : Dómine, exáudi oratiónem meam : de profúndis clamávi ad te. Dómine. 深い淵から、主よ、私は御身に向かって叫んだ。主よ、私の声を聞き入れ給え。深い淵から、主よ、私は御身に向かって叫んだ。 上主啊!我自深渊向祢呼吁。吾主啊!求祢俯听我的祈祷。上主啊!我自深渊向祢呼吁。 주여 나 깊고 그윽한 곳에서 네게 부르짖나이다. 주여 내 소리를 굽어 들으소서. 주여 나 깊고 그윽한 곳에서 네게 부르짖나이다.
Secreta. 密誦 密祷经 묵념축문
Pro nostræ servitútis augménto sacrifícium tibi, Dómine, laudis offérimus : ut, quod imméritis contulísti, propítius exsequáris. Per Dóminum nostrum. 主よ、我らの服従の増加のために、われらは御身に讃美のいけにえをささげ奉る。そは、御身が功徳無き我らになさり給いしことを、御身が憐れみ深く完うし給わんためなり。天主として、(…)。 主,我们献上这赞颂之祭,为增进我们为祢服务的精神;望祢对祢在无功受惠的我们身上所开始了的,惠然予以完成。因我们主……。 주여 우리가 우리 봉사를 완전케 하기 위하여 이 찬미의 제사를 드리오니 우리 공로 없이 너 허락하신 바를 또한 은혜로이 완성케 하시되, 네 아들 우리 주 예수 그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과...
Præfatio de sanctissima Trinitate  序誦  三位一体と主日との序誦 天主圣三的颂谢引 성삼감사경
Vere dignum et iustum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere : Dómine, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus : Qui cum Unigénito Fílio tuo et Spíritu Sancto unus es Deus, unus es Dóminus : non in uníus singularitáte persónæ, sed in uníus Trinitáte substántiæ. Quod enim de tua glória, revelánte te, crédimus, hoc de Fílio tuo, hoc de Spíritu Sancto, sine discretióne sentímus. Ut, in confessióne veræ sempiternǽque Deitátis, et in persónis propríetas, et in esséntia únitas, et in maiestáte adorétur æquálitas. Quam laudant Angeli atque Archángeli, Chérubim quoque ac Séraphim, qui non cessant clamáre cotídie, una voce dicéntes : Sanctus… 主よ、聖なる父よ、全能永遠の天主よ、われらが御身に、いつもどこにても感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいこと、義務と救いである。御身は、御独り子と聖霊と共に、唯一の天主、唯一の主にて在す。すなわち、御身は、一の位格の単一にて在すのではなく、唯一の実体(substantia)の三位にて在す。御身の御光栄について、御身が啓示するがゆえに、われらが信じ奉ることを、聖子について、聖霊について、差別なく、われらは信じ奉る。真の永遠の天主の本性を告白するにおいて、位格における固有性が礼拝され、本質(essentia)における唯一性と、御稜威における等しさも礼拝されるためである。これを、天使らと大天使らは、智天使も熾天使も、讃美し、絶え間なく声を上げ、日々声をあわせてこう言う。聖なるかな、… 主,圣父,全能永生的天主!我们时时处处颂谢祢,实是正义而必须的,属于我们天职的,也属我们得救的。祢与祢的独子及圣神,只是一个天主,只是一个主;不是因为位是单独一个,却是因为三位同具一个性体。的确,我们所怎样依照祢的启示,相信祢享的光荣,我们无区别地也同样确认祢的圣子,也同样确认圣神共享这个光荣。因此,我们在明认圣三真实而永在的天主性上,同时论位,我们敬拜圣三的各一,论体,我们敬拜圣三的无二,论尊荣,我们敬拜圣三的均等。这圣三的尊荣,是天神们和总领天神们,普知天神们和炽爱天神们,所虔诚歌颂的;他们日复一日,永不停止同声高呼说:圣、圣、圣…… 주여, 성부여, 전능하시고 영원하신 천주여, 우리가 어디서나 항상 주께 감사하는 것이 참으로 당연하고 옳으며, 지당하고 구령에 유익하나이다. 주는 외아들과 성신과 더불어 오직 한분의 천주시요, 오직 한분의 주이시되, 한 위가 아니시고, 한 체로서 세 위시니이다. 주의 계시로 우리가 주의 영광에 대하여 믿는 바를, 성자와 성신에 대하여서도 조금도 다름이 없이 믿나이다. 그리하여 우리는 참되시고 영원하신 천주성을 찬미함에 있어, 위로서는 각 품이시요, 체로서는 하나이시요, 지존하시기는 같으심을 찬송하나이다. 천신들과 대천신들 및 케루빔과 세라핌이 이를 찬양하며, 날마다 간단없이 제창하나이다. 거룩하시다, 거룩하시다, 만군의 천주이신 주는 거룩하시나이다. 하늘과 땅에 주의 영광이 가득하나이다. 천상에 좌정하신이여 호산나, 주의 이름으로 오시는 이는 찬미받아지이다. 천상에 좌정하신이여 호산나.
Ant. ad Communionem. Marc. 11, 24. 聖体拝領誦 マルコ、11ノ24 领主咏(谷11:24) 영성체경(성말구11.24)
Amen, dico vobis, quidquid orántes pétitis, crédite, quia accipiétis, et fiet vobis. 真に私はあなたたちに言う。あなたたちが祈って願うことは何であれ、あなたたちはそれを受けるだろうと信じよ。そうすればあなたたちにそのようになるだろう。 我实在告诉你们:你们祈祷时所求的一切,相信必可得到,你们就必能得到。 나 진실히 너희게 이르노니 너희가 기구하여 구하는 바는 무엇이든지 너희가 받을 줄로 믿으라 곧 너희게 되리라.
Postcommunio. 聖体拝領後の祈 领后经 영성체후축문
Quǽsumus, omnípotens Deus : ut, quos divína tríbuis participatióne gaudére, humánis non sinas subiacére perículis. Per Dóminum. 全能の天主よ、願わくは、天主[の玄義(=御聖体)]に与るにより喜ぶを御身が与え給う者たちをして、人間的な危険に陥ることを許し給わざらんことを。天主として、(…)。 全能的天主,祢既恩赐我们分享祢神圣的喜乐,求祢勿许我们陷于世人的危害。因我们主……。 전능하신 천주여 비오니 너 신성한 비사에 즐겁게 참예케 하신자들로 하여금 세속 위험에 지지 않게 하시되, 네 아들 우리 주 예수 그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과...

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2019年11月17日:聖霊降臨後第二十三の主日の聖伝のミサのラテン語・日本語の対訳テキストをご紹介いたします - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 



 


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