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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世会五十周年にあたっての総長 ダヴィデ・パリャラーニ神父からの手紙 (4) 自分に身をゆだね基準を失った現代人

2020年11月11日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会総長ダヴィデ・パリャラーニ神父の聖ピオ十世会創立50周年にあたっての書簡(2020年11月1日付)の続きをご紹介いたします。

聖ピオ十世会は、何と戦うのでしょうか?聖ピオ十世会創立の最初の時から、私たちは教会の敵と戦っています。

教会の敵とは何でしょうか?それは、カトリック教会の司祭職を別のものに変えようとする圧力だったり、カトリック教会の聖伝のミサを廃止させようとする勢力だったり、カトリック教会の聖伝の信仰を妥協させてプロテスタント化させようとする近代主義のイデオロギーだったりします。

しかもカトリック教会の内部でさえ、司教でさえ、ローマにおいてさえも、カトリック教会の聖伝と断絶した新しい教会を作り上げようとする動きがあります。

国家からイエズス・キリストを追い出し、イエズス・キリストの王位を奪った勢力は、今度は、家庭を崩壊させ家庭からイエズス・キリストを追放し、個人の霊魂からもイエズス・キリストを駆逐させようとしています。

それのみならず、カトリック教会からもイエズス・キリストの王位を簒奪し、キリストを単なる選挙で選ばれた大統領であるかのように好きなら選べばよいし、好きでないなら他でもかまわない(エキュメニズム、信教の自由)とされ、ミサにおいてもカトリック司祭は単なる「司会」「座長」にすぎなくなっています。

聖ピオ十世会は、カトリック教会の一部として、これらのイデオロギーに対して信仰を宣言してきました。

聖ピオ十世会総長ダヴィデ・パリャラーニ神父は、50年もの間の戦闘(しかも時にはカトリック教会の内部の高位聖職者たちから受ける聖伝との断絶を要求する圧力に対する抵抗)を続けると、ともすると疲れから、そろそろ「平和の時代」が来ても良いのではないか?こんな戦闘をいつまで続けるのだろうか?という厭戦感を持ってしまう危険があることを警告しています。

或いは全世界で活動を展開している聖ピオ十世会は、50年の間にその主張の正統性がますます多くの方々に認識されてきています。最初はベトレヘムの馬小屋のようなところでミサを捧げ司祭が枕するところもなかったけれども、今では、世界中で立派な大きな教会が次々と建設されて、安定したものとなっています。ともすると、私たちは最初に持っていた清貧の精神、犠牲の精神を、見失ってしまう危険があることをも警告しています。

私たちの戦いは、単なるラテン語やその他の美しい典礼(もちろんそれは極めて大切な要素だけれども!)だけのためではない、私たちが聖伝のミサを守り続けているのは、かっこいいからとかノスタルジアなど感傷的な理由ではなく、救霊のためだ!と訴えています。

私たちの戦いは、単なる神学的な論考や考察や分析だけではなく(もちろん深い正確な正統神学の知識は極めて重要です!)、頭でっかちの理論上の神学知識ではなく、その知識をもとにしたイエズス・キリストとの愛の生活であり、そのイエズス・キリストの聖心の愛を伝えることである、と訴えています。

聖ピオ十世会の会員たちが行っている「戦闘」とは、自分の霊魂においてイエズス・キリストが王として統治するように生きること、ミサ聖祭を生きることです。

では続きをお読みください。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会五十周年にあたっての総長からの手紙

1. 聖ピオ十世会は戦闘的であるべきか?

2. 霊的生命とは何か?

3. 霊的生命のために必要な手段

Que se passe-t-il en revanche, lorsque cesse ce combat pour la vie spirituelle ? その反対に、霊的生命のためのこの戦いを止めてしまうなら何が起こるでしょうか?
   
4. L’homme moderne abandonné à lui-même et sans repères 4. 自分に身をゆだね基準を失った現代人
Pour répondre à cette question, il suffit de porter notre regard sur l’homme moderne. Nous sommes frappés par le manque d’unité qui caractérise sa vie : cet homme ne sait plus qui il est, d’où il vient, ni où il va ; il n’a plus de repères, il est désaxé, écartelé, divisé en lui-même. Si la foi n’est pas totalement évacuée de sa vie, elle n’en est qu’une partie ; elle n’est plus sa vie. L’homme moderne veut absolument bénéficier d’une sphère libre, indépendante. Il veut pouvoir jouir d’un espace dans lequel il n’ait de comptes à rendre à personne, pas même à Dieu. この問いに答えるためには、現代人を見さえすれば充分です。私たちは現代人の人生を特徴づける、統一性のなさに驚きます。自分が何者なのか、どこから来てどこへ行くのか知らない現代人。彼にはもう基準がありません。方向を見失い、自己の中で引き裂かれています。信仰を完全には失っていないとしても、それは彼にとって大した位置を占めておらず、信仰はもはや人生に関係ありません。現代人は自由な独立した世界を絶対的に享受しようとします。誰にも、天主に対してさえも責任を持たない空間を楽しむことを欲しています。
   
Ainsi, par exemple, voit-on la science moderne prétendre pouvoir s’affirmer sans que la foi ne la juge, poussant l’audace jusqu’à juger elle-même la foi. Ainsi voit-on l’éducation et la morale modernes s’affranchir de tout principe, rechercher librement la fin qu’elles veulent, et aboutir finalement à la dysharmonie la plus chaotique. Ainsi voit-on encore la politique laïciste bannir absolument de toute vie sociale la foi et le surnaturel. ですから、例を挙げましょう。現代科学は信仰による判断を待つことなく、自己主張が可能だと主張し、しかも科学は信仰さえも判断することができるとさえ言いのけています。現代の教育と道徳は、すべての原理をかなぐり捨てて、自分の望む目的を自由に追求し、最も混乱した不調和に到達しているのを私たちは見ています。宗教を持たない政治は、市民生活から信仰と超自然を完膚なきまでに締め出しています。
   
Notre-Seigneur est peut-être encore une partie de la vie de l’homme moderne… il n’est plus sa vie. 私たちの主はもしかしたらかろうじて現代人の生活の一部かもしれませんが、もはやその生命ではない。
   
Ces germes d’apostasie, par lesquels Notre-Seigneur se trouve concrètement évacué de la vie des hommes, cette absence de principe menant à la déconstruction et au chaos, inévitablement, rendent absolument impossible toute vie spirituelle unifiée, simple, centrée sur Jésus-Christ. C’est l’affranchissement insolent et provocateur de la royauté du Sauveur. C’est le refus méprisant de ses exigences royales sur les individus et sur les sociétés. Notre-Seigneur est peut-être encore une partie de la vie de l’homme moderne… Il n’est plus sa vie, il n’a plus d’influence totale sur cet homme, il n’est plus le principe de toute son activité… L’union pleine de cet homme avec Jésus-Christ devient donc impossible. この背教の種によって私たちの主は現代人の生活から具体的に排除されていますが、この原理の不在は、不可避的に崩壊と無秩序へと導きます。そして全き霊的生命を、イエズス・キリストを中心とした統一した単純なものとすることを絶対的に不可能にします。これは救い主キリストの統治からの図々しい挑発的な解放です。個人と社会に対するキリストの王としての要求を軽蔑的に拒否することです。私たちの主はもしかしたらかろうじて現代人の生活の一部かもしれませんが、もはやその生命ではありません。主はもはやこの人間の上に完全な影響力を持たず、人間の全ての活動の原理ではありません……この人間とイエズス・キリストとの完璧な一致は、従って不可能になります。


ヴィガノ大司教、マカリック報告書への最初の反応を公表「バチカンの虚構は続いている」

2020年11月11日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教、マカリック報告書への最初の反応を公表「バチカンの虚構は続いている」

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教のマカリック報告書についてのコメントを日本語でご紹介いたします。

‘The Vatican fiction continues’: Abp. Viganó issues first response to McCarrick report
「バチカンの虚構は続いている」 ヴィガノ大司教(ビガノ大司教)、マカリック報告書への最初の反応を公表

「この話に登場する多くの人物とは異なり、私には、何も恐れる理由はありません。私が行った糾弾と真実が矛盾するとか、恐喝されるとかをおびえる理由はありません。」

2020年11月10日 米国東部標準時間12時1分

2020年11月10日 (LifeSiteNews) 以下は、マカリック報告書に対するカルロ・マリア・ヴィガノ大司教の最初の反応です。

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本日、マカリック事件に関する聖座の公式報告書が発表されました。その功績を述べる前に、私にはその内容を分析するための時間が必要になります。

しかし、この米国人元枢機卿の不祥事を隠ぺいした責任のある人々は誰かということについての超現実的なごまかしの操作に注目しないわけにはいきませんし、同時に、マカリックの行為に関する告発の重大さに直面した聖座が不作為だったのを私が実際に繰り返し糾弾してきたのに、私にも同じような隠ぺいの告発がなされているのを見て、憤りを感じずにはいられません。

偏見のない公平なコメンテーターであれば、この報告書が公表されたタイミングが、極めて疑わしいことに気づくでしょうし、さらに、私の信用を失墜させようとしていることにも気づくでしょう。並ぶものがないほどひどい腐敗と不道徳のネットワークに光を当てて明らかにした人物(ヴィガノ大司教のこと)の正当性を否定することに多くの利益を持つ人々が、不従順と怠慢であるとして私を非難しているのです。

この機会に見られる厚かましくも詐欺的な性格は、今の時点で、「ヴィガノ報告書」を思わせぶりに事実を再構築したものであるかのように取り扱い、もう一度ごまかした現実を見せて、読む人が不快な驚きをもつことがないようにしているようです。しかし、これ[この文書]には、正義と真実を愛するということ以前に、[そもそも最小限の]知的な正直さが必要だったでしょう。

この話に登場する多くの人物とは異なり、私には、私が行った糾弾と真実が矛盾するのを恐れる理由はありませんし、恐喝される覚えもまったくありません。世論の注意をそらすことだけを目的に根拠のない非難を始めようとする者は誰であれ、私に対して行われた作戦が何の効果もないことを知って苦々しい驚きを覚えることでしょう。それどころか、それは、あまりにも長い間沈黙し、否認し、よそを向いていた人々、今日責任を問われなければならない人々の腐敗と不誠実さのさらなる証明となることでしょう。バチカンの虚構は続いています。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2020年11月10日

 

‘The Vatican fiction continues’: Abp. Viganò issues first response to McCarrick report

Unlike many characters involved in this story, I do not have any reaso...

LifeSiteNews

 

 


聖パウロ「私たちはどうやって注意深く歩んでいるか、人生を歩んでいるかをよく見てみよう。愚か者ではなく、知恵ある者として時を贖え。」

2020年11月11日 | お説教・霊的講話
2020年10月18日(主日)聖霊降臨後第20主日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄妹姉妹の皆さん、

今日、聖パウロは言います、「私たちはどうやって注意深く歩んでいるか、人生を歩んでいるかをよく見てみよう。愚か者ではなく、知恵ある者として、時を良く使え。時を贖え。そして天主の御旨が何であるかを、よく理解せよ」と、私たちに願っています。

「天主の御旨」とは何でしょうか?「時を良く使う」とはどういう事でしょうか?

それは、「私たちが、この今ある、与えられた時を、天国の為に有効に使う」という事です。

天主の御旨は、「私たちが聖なる者になる。聖人になる。大聖人になる」という事です。

そしてつまり私たちは、「天の永遠の宴会に、婚姻の、聖子と人間の本性の結合したこの婚姻の宴会に、私たちも諸聖人と共に連なって、そして永遠に天主を讃美して、感謝する」という、これこそが天主の御旨です。

その為には一体、どうしたら良いでしょうか?

私たちは「イエズス・キリスト」に行かなければなりません。ちょうど今日の福音の王官のように。

彼は王に仕えるものでしたけれども、私たちも、王の王であるイエズス・キリストに仕える者として、王の元に、イエズス・キリストの元に行かなければなりません。イエズス・キリストしか、私たちが天に行く道がないからです。

「私を通らなければ、誰も聖父の元に行く事はできない。」
「私は門である。命である。道である。復活である。真理である。」

ですから私たちは、イエズス・キリスト様の元に行ってお願いします、「主よ、私の霊魂が今、死なんばかりとしています。どうか助けて下さい。」

イエズス様は仰います、「行け、聖徳に進め。そうすればお前の霊魂は生きる。天国に生きる。愛に生きる。」

そして私たちは天の、天国の諸聖人と共に、永遠の命を受ける事でしょう。

来週の主日は、王たるキリストの大祝日、私たちはこの王の元に、王に仕える為に、私たちの忠誠を誓いに行きましょう。

そして再来週は諸聖人の大祝日、諸聖人と共に、私たちが聖なる者となるように、その御取次ぎを乞い願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




「カトリック教会がいつも捧げているハロウィン」と「世俗的なハロウィン」という2つのハロウィン

2020年11月11日 | お説教・霊的講話
2020年10月18日(主日)聖霊降臨後第20主日

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄妹姉妹の皆さん、今日は「ハロウィン」について、ちょっとお話をしたいと思っています。

実は、「カトリック教会がいつも捧げているハロウィン」と、そして今現代、「世俗的なハロウィン」という、2つのハロウィンがあるので、皆さんどうぞ注意なさって下さい。意味も、やっている事も、全く違います。

「ハロウィン」というのは、元々ケルト地方の言葉で、“All Hallows' Eve”、諸聖人の祝日の前日に、諸聖人の祝日をよく祝う為に、私たちがカトリック信者が準備した、その日です。

伝統的には、この10月31日には大小斎を守る日です。つまり私たちは、断食をして、お祈りをして、諸聖人のお祝いをする準備をする日なのです。

そして11月1日、諸聖人の大祝日には教会に行って、諸聖人が、教会でもう私たちが知る事ができない、そして数多くある何千何万何百万もの、天にいる大聖人たちを、私たちがひとまとめにして祝って、「私たちも遂に、この天国の栄光に行きたい。そしてその為に取次ぎを祈る」という特別の日なのです。

ところが、現代のハロウィンというのは、ちょうどカーニバルが、「四旬節のその前日に、これから肉が食べられないから、ちょっと肉を今日は食べよう」とか、あるいはそれが何か今のカー二バルは全く別のものになっていってるとか、
あるいは聖バレンタインの日とか、
あるいは現代ではイエズス・キリストがいらっしゃらないクリスマスとか、商業化したそのような、元々カトリックの祝日だったのが、そうではなくなってしまったものがたくさんあります。そしてカトリックでなくなってしまって、祝われているものがたくさんあります。

ハロウィンも同じです。悪魔や、デモンや、お化けが出てくるというのが、私たちが祝うべきハロウィンではありません。

何でもやっていい、何でもおかしな事をしていい、という仮装行列の時でもありません。

私たちは、諸聖人の大祝日を祝う日として、カトリックとして、この日を守る事に致しましょう。

ところで、最高の祝い方は何かというと、それは「ミサに与る事」です。11月1日は主日で、特に私たちはミサがあります。

しかも11月1日には、今年の11月1日は、聖ピオ十世会が教会法に従って公式に、正式に創立されて50周年の大祝日で、50周年を祝う時です。

ですから諸聖人にも感謝して、諸聖人の御取り次ぎによって、私たちが昔からの、この諸聖人たちがそれによって天国に行く事ができた、この信仰を守り続ける事ができるように、取次ぎを願って、そして遂には天国に行く事が私たちもできますように、お祈りしましょう。

11月1日主日、東京では9時と11時と12時半からミサがあります。大阪では午後6時です。

是非これによって、本当のハロウィン、そして諸聖人の大祝日を一緒に祝う事に致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。






--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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