アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖ピオ十世会総長ダヴィデ・パリャラーニ神父の聖ピオ十世会創立50周年にあたっての書簡(2020年11月1日付)の続きをご紹介いたします。
聖ピオ十世会は、何と戦うのでしょうか?聖ピオ十世会創立の最初の時から、私たちは教会の敵と戦っています。
教会の敵とは何でしょうか?それは、カトリック教会の司祭職を別のものに変えようとする圧力だったり、カトリック教会の聖伝のミサを廃止させようとする勢力だったり、カトリック教会の聖伝の信仰を妥協させてプロテスタント化させようとする近代主義のイデオロギーだったりします。
しかもカトリック教会の内部でさえ、司教でさえ、ローマにおいてさえも、カトリック教会の聖伝と断絶した新しい教会を作り上げようとする動きがあります。
国家からイエズス・キリストを追い出し、イエズス・キリストの王位を奪った勢力は、今度は、家庭を崩壊させ家庭からイエズス・キリストを追放し、個人の霊魂からもイエズス・キリストを駆逐させようとしています。
それのみならず、カトリック教会からもイエズス・キリストの王位を簒奪し、キリストを単なる選挙で選ばれた大統領であるかのように好きなら選べばよいし、好きでないなら他でもかまわない(エキュメニズム、信教の自由)とされ、ミサにおいてもカトリック司祭は単なる「司会」「座長」にすぎなくなっています。
聖ピオ十世会は、カトリック教会の一部として、これらのイデオロギーに対して信仰を宣言してきました。
聖ピオ十世会総長ダヴィデ・パリャラーニ神父は、50年もの間の戦闘(しかも時にはカトリック教会の内部の高位聖職者たちから受ける聖伝との断絶を要求する圧力に対する抵抗)を続けると、ともすると疲れから、そろそろ「平和の時代」が来ても良いのではないか?こんな戦闘をいつまで続けるのだろうか?という厭戦感を持ってしまう危険があることを警告しています。
或いは全世界で活動を展開している聖ピオ十世会は、50年の間にその主張の正統性がますます多くの方々に認識されてきています。最初はベトレヘムの馬小屋のようなところでミサを捧げ司祭が枕するところもなかったけれども、今では、世界中で立派な大きな教会が次々と建設されて、安定したものとなっています。ともすると、私たちは最初に持っていた清貧の精神、犠牲の精神を、見失ってしまう危険があることをも警告しています。
私たちの戦いは、単なるラテン語やその他の美しい典礼(もちろんそれは極めて大切な要素だけれども!)だけのためではない、私たちが聖伝のミサを守り続けているのは、かっこいいからとかノスタルジアなど感傷的な理由ではなく、救霊のためだ!と訴えています。
私たちの戦いは、単なる神学的な論考や考察や分析だけではなく(もちろん深い正確な正統神学の知識は極めて重要です!)、頭でっかちの理論上の神学知識ではなく、その知識をもとにしたイエズス・キリストとの愛の生活であり、そのイエズス・キリストの聖心の愛を伝えることである、と訴えています。
聖ピオ十世会の会員たちが行っている「戦闘」とは、自分の霊魂においてイエズス・キリストが王として統治するように生きること、ミサ聖祭を生きることです。
では続きをお読みください。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
Que se passe-t-il en revanche, lorsque cesse ce combat pour la vie spirituelle ? | その反対に、霊的生命のためのこの戦いを止めてしまうなら何が起こるでしょうか? |
4. L’homme moderne abandonné à lui-même et sans repères | 4. 自分に身をゆだね基準を失った現代人 |
Pour répondre à cette question, il suffit de porter notre regard sur l’homme moderne. Nous sommes frappés par le manque d’unité qui caractérise sa vie : cet homme ne sait plus qui il est, d’où il vient, ni où il va ; il n’a plus de repères, il est désaxé, écartelé, divisé en lui-même. Si la foi n’est pas totalement évacuée de sa vie, elle n’en est qu’une partie ; elle n’est plus sa vie. L’homme moderne veut absolument bénéficier d’une sphère libre, indépendante. Il veut pouvoir jouir d’un espace dans lequel il n’ait de comptes à rendre à personne, pas même à Dieu. | この問いに答えるためには、現代人を見さえすれば充分です。私たちは現代人の人生を特徴づける、統一性のなさに驚きます。自分が何者なのか、どこから来てどこへ行くのか知らない現代人。彼にはもう基準がありません。方向を見失い、自己の中で引き裂かれています。信仰を完全には失っていないとしても、それは彼にとって大した位置を占めておらず、信仰はもはや人生に関係ありません。現代人は自由な独立した世界を絶対的に享受しようとします。誰にも、天主に対してさえも責任を持たない空間を楽しむことを欲しています。 |
Ainsi, par exemple, voit-on la science moderne prétendre pouvoir s’affirmer sans que la foi ne la juge, poussant l’audace jusqu’à juger elle-même la foi. Ainsi voit-on l’éducation et la morale modernes s’affranchir de tout principe, rechercher librement la fin qu’elles veulent, et aboutir finalement à la dysharmonie la plus chaotique. Ainsi voit-on encore la politique laïciste bannir absolument de toute vie sociale la foi et le surnaturel. | ですから、例を挙げましょう。現代科学は信仰による判断を待つことなく、自己主張が可能だと主張し、しかも科学は信仰さえも判断することができるとさえ言いのけています。現代の教育と道徳は、すべての原理をかなぐり捨てて、自分の望む目的を自由に追求し、最も混乱した不調和に到達しているのを私たちは見ています。宗教を持たない政治は、市民生活から信仰と超自然を完膚なきまでに締め出しています。 |
Notre-Seigneur est peut-être encore une partie de la vie de l’homme moderne… il n’est plus sa vie. | 私たちの主はもしかしたらかろうじて現代人の生活の一部かもしれませんが、もはやその生命ではない。 |
Ces germes d’apostasie, par lesquels Notre-Seigneur se trouve concrètement évacué de la vie des hommes, cette absence de principe menant à la déconstruction et au chaos, inévitablement, rendent absolument impossible toute vie spirituelle unifiée, simple, centrée sur Jésus-Christ. C’est l’affranchissement insolent et provocateur de la royauté du Sauveur. C’est le refus méprisant de ses exigences royales sur les individus et sur les sociétés. Notre-Seigneur est peut-être encore une partie de la vie de l’homme moderne… Il n’est plus sa vie, il n’a plus d’influence totale sur cet homme, il n’est plus le principe de toute son activité… L’union pleine de cet homme avec Jésus-Christ devient donc impossible. | この背教の種によって私たちの主は現代人の生活から具体的に排除されていますが、この原理の不在は、不可避的に崩壊と無秩序へと導きます。そして全き霊的生命を、イエズス・キリストを中心とした統一した単純なものとすることを絶対的に不可能にします。これは救い主キリストの統治からの図々しい挑発的な解放です。個人と社会に対するキリストの王としての要求を軽蔑的に拒否することです。私たちの主はもしかしたらかろうじて現代人の生活の一部かもしれませんが、もはやその生命ではありません。主はもはやこの人間の上に完全な影響力を持たず、人間の全ての活動の原理ではありません……この人間とイエズス・キリストとの完璧な一致は、従って不可能になります。 |