Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【再掲】第二バチカン公会議は、教会をどのように自己定義したのか?【1】この世に対して

2020年09月22日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちは第二バチカン公会議で、カトリック聖伝と比べてどのような点が新しくなったか、どのような点で見方と変わってしまったかを考察してきました。
 既に、
(1)第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったかのか? 
また、
(2)第二バチカン公会議は、天主と人間との関係についてどのように新しく考えるようになったかのか? 
について考察しました。

 それでは、第二バチカン公会議により生まれた新しい人間から生まれ出た教会について、つまり、新しい人間と天主との関係を取りなす第二バチカン公会議の教会について、考察を進めていきましょう。

 現代の人類は、自分が発見した事がらと自分の力に感動し自己陶酔しており、崇高な人間こそが全ての中心であると確信します。そこで第二バチカン公会議は自己の使命として、人間の崇高な召命にふさわしい兄弟的一致と博愛と世界統一と、よりよい世界の建設を挙げています。


『現代世界憲章』3(人間に対する奉仕)
 したがって公会議は、・・・聖霊に導かれる教会が、その創立者から授けられた救いの力を人類のために提供することは、神の民が属している人類全家族に対する連帯感と尊敬と愛とを最も雄弁に証明することになると考える。実際、人間のペルソナをこそ救うべきであり(Hominis enim persona salvanda est)・・・人間こそ、われわれの全叙述の中心点である。
 それゆえ、この公会議は人間の崇高な召命を宣言し、・・・人間のこの召命に相応するすべての人の兄弟的一致を確立するために、教会の誠意に満ちた協力を人類にささげる

『現代世界憲章』26(共通善の促進)
 これと同時に、人間のすぐれた尊厳についての自覚も増している。人間はあらゆる物にまさるものであり、その権利と義務は普遍的で、侵すことのできないものだからである。

『現代世界憲章』55(文化を作り出す人間)
 世界の統一と、真理および正義の中によりよき世界を建設すべきわれわれの使命とを考えるならば、それはいっそう明きらかである。こうして、われわれは新しいヒューマニズムの証人であり、・・・

『現代世界憲章』78(平和の本質)
 したがって、すべてのキリスト者は愛の中に真理を実行しながら(エフェソ4:15)、平和を求め、また打ちたてるために、平和を心から愛する人々と協力するよう強く求められている。

『現代世界憲章』92(すべての人との対話)
 教会は福音の知らせによって全世界を照らし、またあらゆる国、民族、文化に属するすべての人を一つの霊の中へ集めるという使命の力によって、誠実な対話を可能にし、強化する兄弟愛のしるしとなる。・・・
 このような話し合いの望みは、・・・われわれの側からは何びとをも除外しない。
 父なる神はすべての人の起源であり目的であり、われわれはすべて兄弟となるよう召されている。したがって、またこの同一の人間的・神的召命によって召されているわれわれは、暴力と欺瞞なしに、真の世界平和建設のために協力できるし、また協力しなければならない

『教会憲章』 1(序文)
 教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である。

『教会憲章』 9 
  神は、救いの作者であり、一致と平和の源であるイエズスを信じ仰ぐ人々を一つの集団に招き集めて、教会を設立した。それは、教会が、すべての人と個々の人にとって、救いをもたらす一致の見える秘跡となるためである。



 そこで、
(3)第二バチカン公会議は、教会についてどのように新しく考えて自己定義したのか? どのように新しいヒューマニズムを促進するために教会は自分をどのように変えたのか? 第二バチカン公会議の教会は、この世に対して、他の宗教に対して、教会内部構造についてどのように変わったのか?
 という点を考察してみます。

【教会とこの世との関係】

 聖伝によれば、天主であり、王の王であるキリストは、二つの職務を制定した。一つは使徒の司祭的な職務であり、民と人々とを天主へと直接に結びつける。もう一つは政治的職務であり人民を善徳へと秩序付ける。

 教会統治権も、政治的統治権も、全ての権能はキリストからくる。キリストはそれを教皇、あるいは君主にそれぞれの権能を委ねる。この二つの構造と統治権とは互いに独立している。

 しかし、この二つの裁治権あるいは職務の目的・究極目的は、相互に関係を持つ。政治の目的である市民の徳のある生活は、彼らの永遠の救霊のためにのみある。後者は教会の目的である。従って、目的に関しては、政治は、教会に直接的に本質的に(たんに偶然的だけではなく)従属する。


 使徒達は、来世の救霊とこの地上での平和の達成のために、この世界の政治的諸国が必要としていたことを説教した。古代プラトンは、統治するにふさわしい徳を持った聖人君主たる哲人をどこに見つけることができるか悲しく疑問に思った。私たちの主イエズス・キリストは、教会の権力と政治の権力とを区別し、「聖人君主たる哲人」たる教会の司教たちが、政治的には自由でありながら、政治に携わる人々を正しく導くことを委ねた。

 ボニファチオ八世は、1302年大勅書「ウナム・サンクタム(Unam Sanctam)」で、カトリック教会の聖伝の教えを述べた。

「世俗の権威は霊的権威の下に置かれるべきである。何故なら、使徒聖パウロ曰く「天主に拠らない権能はない、あるものは全て天主によって秩序付けられたものである(ローマ13:1)。・・・
 従って、地上の権力が道を外れるとすると、霊的権力によって裁かれるであろう。しかし、霊的小人が道を外れるとその長上によって裁かれる、もしも霊的最高の権力については天主によってのみ裁かれ、人間によっては裁かれることができないだろう。・・・
 従って、誰であれ、天主によってこのように秩序付けられたこの権威に逆らうものは、秩序付ける天主に逆らうものである。さもなければマニ教徒らのように、善と悪との二つの原理(原初)があるとでっち上げるものであるが、これは私たちは偽りであり異端であると判断する。何故なら、モーゼの証言に拠れば、原初(複数)ではなく、原初(単数)において、天主は天と地とを造り給うた(創世1:1)からである。
 更に、私たちは、全ての人間的被造物がローマ教皇に従うことは、救いのために全く必要であると宣言し、断言し、定義し、発表する。」

 ピオ十一世は、1926年、回勅「クワス・プリマス」で、キリストの王としての権利を再確認した。

「贖い主の主権は全ての人々に及ぶのです。レオ13世のお言葉によれば「キリストの支配権はカトリック信者ばかりでなく、異端によって脇道に逸れたもの、或いは離教によって愛の絆を切って離れた派のものであっても、正しい洗礼によって清められ、法の上から見てやはり教会に属している人々にまで及びます。しかしそれのみならず、その支配権はキリスト信者以外の全ての人々をも包括するものでありますから、全人類がイエズス・キリストの権力のものに」あるのです(回勅「アンヌム・サクルム」1899年5月25日)。
 この点では個人も家庭もまた国家も何の相違もありません。なぜなら人間は社会を構成しても、個人の場合と同じようにキリストの主権のもとに服しているからです。
 従ってキリストは個人の救霊の泉であると同時に社会の救いの源でもあります。「救いは主以外のものによっては得られません。全世界に私達が救われる名はこれ以外には人間に与えられませんでした」(使徒行録4:12)。
 キリストはまた国民一人一人や国家全体の繁栄と真の幸福をもたらす御者です。「国家と国民は別々に幸福になるのではありません。何故かと言えば国家とは多数の人々が一緒に生きていく集まりだからです」(聖アウグスチヌスのマケドニアへの書簡)。
 従って、国の為政者は自分の権威を保ち、国の繁栄を望むなら、自分がキリストの支配に対して公に尊敬と従順を表すのみでなく、国民にもそれをおろそかにさせてはなりません。
 教皇位について私は法的権威の失墜と権威に対する尊敬が一般的に欠けてきたことについて話しましたが、それは今でも変わらぬ事実です。
天主とイエズス・キリストが法と国家から除外され、権威が天主からではなく、人間に由来するように考えられてきたため、ついに権威の基礎そのものが取り去られることになりました。これは支配権と服従の義務の本質を無視したからです。その結果当然人間社会全体がぐらつくことになりました。なぜなら、その社会はもはや堅固な基礎も保護も持っていないからです」(回勅ウビ・アルカノ)。・・・
 キリストの主権に誉れを帰するならば人々はキリストによって完全な社会として創設された教会が、本来持つ権利をどうしても思い出さずに入られないのです。放棄してはならないこの権利によって、キリストの王国に属する天主から託された人々を支配し永遠の幸福へ教え導く使命を果たすために、教会は国家権力から完全な自由と独立を要求します。教会はこの使命のためにいかなる他の権力にも服してはならないのです。・・・
 毎年くり返されるこの祝日は、個人と同様に、政府も為政者もキリストに対して公の誉れと服従を示さねばならないことを全ての国々に思い出させるでしょう。そして人々は最後の審判のことを思い、公の生活から締め出され軽蔑され無視されたキリストが、どれほど厳しくその不正を責めるかということも考えるに相違ありません。・・・
 その上信者は、これらの真理を黙想することによって、真のキリスト教的理想に向かって歩む大きな力と勇気とを受けるでしょう。というのは私たちの能力は主の支配から除外されているものは一つもないからです。そのことは次の三つの理由によってはっきり分かるでしょう。私達の主キリストには、(1)天と地の全ての権能が授けられ、そして(2)その高価な御血によって贖われた全人類は、新たにキリストの権威のもとに置かれ、また(3)その権能は全人類を含んでいるのですから、私達がキリストの王権から逃れてならないのは明らかでしょう。」


 聖伝によれば、平和の君であり王の王であるキリストの代理者、すなわち教皇だけが諸国の平和のための仲立人たり得る。教会あるいは教皇は、平和のために聖なる権力をつかって諸国の君主に介入することができる。


【新しい「福音」の理解】

 1963年5月23日、ヨハネ二十三世は死の直前に自分の考えをこう語った。
「今日、かつて無かったほどに、そして過去数世紀にもなかったほどに、私たちは人間としての人間に、たんにカトリックとしての人間ではなく人間としての人間に奉仕するように呼ばれている。カトリック教会の権利だけではなく特に人間のペルソナの権利をどこででも擁護するように召されている。・・・変わるのは福音ではなく、私たちこそが福音をよりよく理解し始めたのだ。」(quoted by Msgr Capovilla, Giovanni XXIII, Quindici letture, Roma, 1970.)

 ヨハネ二十三世が1962年10月11日に開催した第二バチカン公会議は、社会秩序の基礎として天主の似姿としての人間のペルソナの超越性を置いた。

 あらゆる社会制度の起源、主体、目的は人間のペルソナであり、また人間のペルソナでなければならない(principium, subiectum et finis omnium institutorum socialium est et esse debet humana persona)【『現代世界憲章』25】、また、イデオロギー、道徳、宗教の選択にかかわらず【『現代世界憲章』29,73】、人間としての人間のペルソナの権利は神聖にして犯すべからず侵すことができない【『現代世界憲章』26】。

 政治的社会の共通善は本質的にこのペルソナの不可侵の権利、特に信教の自由を保障することにある。これは、ラッツィンガー枢機卿【現ベネディクト十六世教皇】によれば、二世紀の間のリベラルな文化が、教会の外に生まれたにもかかわらず福音と結合されて作り出された、宗教的・経済的・政治的理論である。

 第二バチカン公会議は、この人間のペルソナを全ての土台とする個人主義の上に、全人類の一致を追求しようとした。しかし、その土台があまりにも壊れやすいので、教会はこの人類統一という天主にまで届く高い塔の建設に手を貸そうとした。少なくとも、教会は、全人類の一致のしるしとしてまたモデルとしてこの世により明らかに示そうとした。

『教会憲章』 1(序文) キリストは諸民族の光であるから、聖霊において参集したこの聖なる教会会議は、すべての被造物に福音を告げることによって(マルコ 16·15参照)、教会の面上に輝くキリストの光をもってすべての人を照すことを切に望む。教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具であるから、これまでの公会議の教えを守りつつ、自分の本性と普遍的使命とを、その信者と全世界とに、より明らかに示そうとする。現代の状況は教会のこの義務をいっそう緊急なものにしている。それは社会・技術・文化の種々のきずなによって今日、より強く結ばれているすべての人々が、キリストにおける完全な一致をも実現すべきだからである。





世にあふれる多くの迷信に気を付けてください。天国の婚宴に与るためには唯一の天主以外を信じないでください!

2020年09月21日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年9月20日、聖霊降臨後第16主日に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介いたします。

チャンネル登録をなさいますと、新しくアップされた動画の通知が届くので便利です。チャンネル登録は、ここ「SSPX JAPAN 聖ピオ十世会日本」をご覧ください。

 


【再掲】 使徒福音史家聖マテオのミサ 「天主からの召出しを喜び、天主に捧げられた者のために殉教した」

2020年09月21日 | お説教・霊的講話
2018年9月21日(金)使徒福音史家聖マテオのミサ
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2018年9月21日、福音史家聖マテオのミサをしております。…

“Non enim veni vocare justos, sed peccatores.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


シスター、愛する兄弟の皆さん、今日は聖マテオの祝日において、

⑴聖マテオの生涯を少し垣間見て、

⑵聖マテオの生涯から、私たちが何を学ぶ事ができるかを黙想致しましょう。

⑶そして最後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴聖マテオはユダヤ人でした。本名は「マテオ」、しかしあだ名は、皆からは「レビ」と呼ばれていました。

ユダヤ人にもかかわらず、ローマの手先となって、異教の国々のローマ皇帝の為に、税金をユダヤ人から取り立てていた、つまりある意味では、ユダヤ人にとっては少し汚点のある職業をしていました。その税吏所に、ローマの下で働いていたその所に、イエズス様がやって来る。

イエズス様はその前からも色々な奇跡をして、御自分がメシアである、という事を示していました。マテオもその話を聞いていたに違いありません。その自分の所にやって来て、イエズス様はこう仰るのです、「私に従え。」“Sequere me.”

するとマテオはその場をすぐ立って、呼ばれたら立って、自分の仕事をそのまま置いて、そこにずっと座っていれば、お金も儲かっていたでしょうし、豊かな簡単な生活もできたに違いありません。ローマの特権階級の公務員でした、エリートコースでした、大学も出ていました、お金の計算もよくできました。しかしこれを捨てて、イエズス様に従いました。

マテオは、イエズス様とそしてその弟子と一緒に食卓に着いた時に、ファリザイ人たちからイエズス様が非難されるのを聞きます。彼らはイエズス様を、「彼は、何だ。罪人と一緒に食事をしている。彼の友達は皆、野蛮な奴だ。」

イエズス様は、「私は義人ではなく、罪人を呼ぶ為に来た。罪人を義人にする為に、召し出す為に、呼び出す為に来た」とお話しになります。

マテオはその事を非常に感銘深く覚えていて、最初の福音をヘブライ語で書きます。イエズス様は、イエズス様が憐れみ深い御方である事。罪人の、罪の最も低いどん底にいたような自分をも、使徒として呼んで下さった、栄光ある使徒として呼んで下さった。そのまさに、卑しいと思われる仕事をしたその所にやって来て、呼んで下さった、「私に従え。」

その憐れみと、その御恵みに感動していました。そして「ぜひ、ユダヤ人たちにイエズス様を知ってもらいたい。真のメシアという事を知ってもらいたい」と、最初のイエズス様の福音を書きました。

マテオは、そのユダヤ人たちに宣教するだけでは物足りず、満足せず、エチオピアにも行きました。伝えられたところによると、エチオピアに行って奇跡をも行ないました。エチオピアの王の娘が死んだ時に、死んでしまったその若いお姫様を、マテオはよみがえらせます。そしてエチオピアの王の友達になり、そしてエチオピアで宣教をします。

ところが、そのよみがえらせたお姫様のお父さんの王が亡くなった時に、ヒルタクス(Hirtacus)が、王の位に着きます。そしてその女王として、あるキリスト教の信者を、しかも王族の高貴な娘と結婚したい、とします。ところがこの娘も高貴な、イフィジェニア(Iphigenia)という名前でしたが、彼女はカトリックであったのみならず、聖マテオの指導に従って、童貞としてイエズス様に身を捧げていました。そこでイフィジニアは王となったヒルタックスに、「私はイエズス様に身を捧げているので、あなたと結婚はできない」と答えました。そしてその「マテオ様も、私の事を支持して下さっている」と言うと、ヒルタクスはこの女性をお姫様にもらいたくて、非常にその自分の熱情に燃えていたので、邪魔者であったマテオを殺害してしまいました。そして聖マテオは、信仰への憎しみに燃えた王によって、殉教を遂げます。

最初聖マテオの体は、エチオピアからサレルモという所に運ばれて、壮大に埋葬されました。


⑵聖マテオの人生は、私たちに何を教えてくれるのでしょうか?

「イエズス様は、私たちを憐れんで下さって、私たちがどのような罪人であったとしても、どのような惨めな者であったとしても、私たちを呼んで下さる」という事です。

しかしイエズス様がこのように私たちを呼んで下さった時には、聖マテオのように、すぐにその罪の、あるいはイエズス様と反対するようなものを全て捨てて、イエズス様に従わなければなりません。

また「イエズス様のその憐れみの深さ」というものを私たちは是非、マテオのように、近い者たちにできれば伝えたいと思います。

⑶聖マテオは、肉体において王のお姫様をよみがえらせた奇跡を行ないました。霊的なよみがえりはもっと簡単にできるはずです。聖マテオの御取り次ぎによって、ぜひ私たちの知り合いが、あるいは罪に死んでいる多くの霊魂たちがよみがえりますように、信仰に立ち返りますように、霊的に生き返りますように、お祈り致しましょう。

最後に、聖マテオは、天主様に捧げられた霊魂の為に命を捨てました。ある、天主に童貞を捧げようとしたお姫様の為に、命を捧げました。おそらく聖マテオは、多くの修道女の、あるいは修道者の、天主に捧げられた霊魂を守る、特別な取り次ぎをして下さるに違いありません。マテオも本当に、もうユダヤ人から見れば、どうでも良いというような身分だったかもしれませんが、使徒として呼ばれました。ですから、「天主から呼ばれる」という事がどれほど素晴らしい事か、という事をよく理解していました。

聖マテオがぜひ、私たちの為に取り次ぎをして、多くの日本の霊魂たちを召し出しの為に取り次いで下さいますように、日本から多くの、あるいは世界から多くの霊魂たちが、イエズス様に捧げられるように、そしてその声をよく聞くように、マテオのように、すぐに「はい」と答える事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。






聖伝のミサ(ラテン語ミサ トリエント・ミサ)の報告 Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka, SSPX Japan

2020年09月20日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

多くの兄弟姉妹の方々寛大なご協力で、天主様のお恵みにより、今日の主日も東京と大阪で聖伝のミサを行うことができました。天主に感謝いたします!

東京では82名、大阪では27名でした。日本では計109名でした。天主様に感謝いたします。

大阪では侍者たちが、すごかったです!

頂いた報告をご紹介いたします。

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計82人でした。

09:00のミサ
男: 18人(内、子供1人)
女: 22人(内、子供2人)
計: 40人(内、子供3人)

11:00のミサ
男: 17人(内、子供3人)
女: 17人(内、子供4人)
計: 34人(内、子供7人)

12:30のミサ
男: 8人(内、子供0人)
女: 9人(内、子供1人)
計: 17人(内、子供1人)

3回のミサの合計(ダブルカウントの9人を除く)
男: 39人(内、子供4人)
女: 43人(内、子供7人)
計: 82人(内、子供11人)







2020年9月20日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for September 20, 2020

2020年09月20日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

最新情報は次のカレンダーをクリック
年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

今週末:2020年9月18日(金)19日(土)20 日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 9月18日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 9月19日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 9月20日(日) 17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

9月21日(月)  10:30 ミサ聖祭

【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図

9月20日(日)主日ミサが三回捧げられます。

午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。二階の告解の部屋に司祭は待機しております。

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of September 20th, 2020.

Mass times in Tokyo:
09:00 - Sung mass Facebook live
11:00 - Low mass
12:30 - Low mass
It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses.
Mass location:
"Holy Japanese Martyrs' Mass Center"
Akebonocho Jido-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo


Mass schedule in OSAKA:

Fri, September 18: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, September 19: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, September 20: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Mon, September 21: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30 am.







【再掲】ラ・サレットの山上における聖母マリアの御出現(1846年9月19日)

2020年09月19日 | カトリックとは
ラ・サレットの山上における聖母マリアの御出現(1846年9月19日)

メラニー・カルヴァの手記より

フランス語原文からの翻訳
訳者:トマス小野田圭志

 私はマクシメンを呼んで小高い丘に登りました。私はそこから牝牛たちがおとなしく寝ているのが見えると、再びそこを降りましたが、マクシメンも登って来るところでした。その時、私は突然、太陽よりもまぶしく輝く美しい光を見ました。私は「マクシメン、あそこに見える?ああ、びっくり!」という言葉を言うことしかできませんでした。同時に私は手に持っていた棒を落してしまいました。その時に何かしら心地よいものが私の心の中を通り過ぎ、私は引きつけられているように感じていました。私は愛でいっぱいの大きな畏敬を感じ、心は私より早く駆け出したいほどでした。

 私は、しっかりとこの不動の光を凝視していました。その光は開いたかのようになり、私はもっとずっと輝かしい、動く別の光に気付きました。この光の中には、頭を両手にうずめて、腰を下ろされているたいそうお美しい貴婦人がおられました。この美しい貴婦人はお立ちになられ、私たちをご覧になりながら普通に腕をお組みになると、私たちに次のようにおっしゃいました。

 「私の子供たち、いらっしゃい。こわがらないで。私はあなた方に、大いなる知らせを告げるためにここにいるのです。」

 この甘美でやさしいお言葉で、私はこのお方の所まで飛んで行きました。心はこの方に永遠にくっついて離れたくないと望むほどでした。美しい貴婦人のすぐおそばまで行って、御前の右寄りに立つと、このお方はお話を始められ、同時にその美しい御目から涙も流れ始めました。

 「もし、私の民が従おうとしないなら、私は御子の手がなさるがままにせざるを得なくなります。その手はもう私が支えることができないほど、ずっしりと重いのです。」

 「私はあなた方のためにずっと苦しんでいます!御子があなた方をお見捨てにならないようにと私が望む限り、私は絶えずそう祈らなくてはなりません。ところがあなた方と言えば、そんな事におかまいなしです。あなた方がこれから祈っても、行動しても、私があなた方のために負った苦しみを決して償えないでしょう。」

 「私はあなた方に、六日間の労働の日を与え、七日目は私に取って置いたのに、誰も私にそれを承知したがりません。それが御子の腕をこんなにも重くしているのです。荷馬車を御する人々〔注:当時は主に農夫たち〕は、御子の御名を途中に置かなければ話すことができません〔注:天主の御名をみだりに用いること〕。これが御子の腕をこんなにも重くしている二つの事なのです。」

 「もし収穫物が腐るなら、それはひとえにあなた方が原因です。」

 「私は昨年、あなた方にジャガイモでそれを示しましたが、あなた方はそれを気にも留めませんでした。それどころか、ジャガイモが腐っているのがわかるとあなた方は口汚くののしり、しかも御子の御名を用いていました。ジャガイモは腐り続けるでしょう。御降誕祭には、もう何も残っていないでしょう。」

 ここで私は、ジャガイモ(pommes de terre)という言葉を解釈しようと努めていました。私はそれがリンゴ(pommes)を意味すると理解していたように思いました。美しい、善いこの貴婦人は、私の思いを見抜いて、このように繰り返されました。

 「私の子供たち、あなた方は私の言う事がわかっていませんね?同じ事を言い直しましょう。」

 〔注:メラニーもマクシメンもフランス語がわからなかったので、聖母は農村方言で同じ事を言い直されて、話をお続けになった。〕

 「もし収穫物が腐るなら、それはひとえにあなた方が原因です。私は昨年、あなた方にジャガイモでそれを示しましたが、あなた方はそれを気にも留めませんでした。それどころか、ジャガイモが腐っているのがわかると、あなた方は口汚くののしり、しかも御子の御名を用いていました。ジャガイモは腐り続けるでしょう。そして御降誕祭には、もう何も残っていないでしょう。」

 「あなた方に小麦があるなら、蒔いてはいけません。あなた方が蒔くものは、全部動物が食べてしまうでしょう。芽が出るものも麦を打つ時に全部ちりになってしまうでしょう。大いなる飢饉がやって来ます。その飢饉がやって来る前に、七歳以下の子供たちは震えにかかり、腕の中に抱かれたまま死んでいくでしょう。他の人々は、飢えによって償いを果すことになるでしょう。木の実は悪くなり、ブドウは腐るでしょう。」

 ここで、私がうっとりと見ていたこの美しい貴婦人は、一言も仰せにならないまま少し間をおかれました。しかし、私にはこのお方が愛らしいお唇を上品に動かして話し続けておられるように見受けられました。その時に、マクシメンが自分の秘密を受けていたのです。次に、私の方に向き直って聖母は私に話され、フランス語である秘密を教えられました。その秘密の全部は以下の通りです。

 「メラニー、私が今あなたに告げようとしている事は必ずしも秘密にしておかなくてもよいことになるでしょう。あなたは、それを1858年に出版してもよいことになります。」

 「御子の代理者である司祭たちは、自分たちの悪い生活のため、又(ミサの) 聖なる玄義を執行する時の無礼と不敬虔のため、金銭や、名誉や、楽しみへの愛のため、司祭たちは、不潔さの汚水だめのようになってしまいました。そうです、司祭たちは復讐を呼び下しており、その罰は彼らの頭上に迫っています。司祭及び天主に奉献された人々は災いなこと!彼らは不忠実と悪い生活とによって、御子を再び十字架に釘づけにしているからです。天主に奉献されている人々の罪は天に届き、復讐を呼び下しているのです。ご覧なさい、その復讐はもう戸口まで来ています。人類のためにあわれみと赦しを願い求める人々がもはや見当らず、寛大な霊魂たちがもはやいなくなり、世界のために永遠の御父に対して傷のない犠牲を献げるのにふさわしい人がもう一人もいなくなってしまったからです。」

 「天主はかつてない方法で〔人類を〕打ち給うでしょう。」

 「地上に住んでいる人々は災いなこと!天主は御怒りの激しさをつのらせ給うでしょう。それで、多くの害悪が重なり、誰一人それから逃れられないでしょう。」

 「天主の民の指導者である長上たちは祈りと悔俊とをなおざりにし、こうして悪魔は彼らの知性を曇らせてしまいました。彼らは、いにしえの悪魔が彼らを滅ぼすためにその尻尾によってひきずり落そうとする『迷える星』となってしまいました。天主はあらゆる社会、あらゆる家庭の中で支配につく人々の間に分裂を引き起こすことを、いにしえの蛇に許し給うでしょう。人々は肉体的苦しみと道徳的苦しみを耐え忍ぶことになるでしょう。天主は、人間をその思いのままに任せ給い、三十五年以上にもわたって相次いで起こる天罰を送り給うでしょう。」

 「社会は最も恐ろしい天罰・重大極まりない出来事に直面しようとしています。人々は鉄の杖によって支配され、天主の御怒りのカリス(杯)を飲む覚悟をしなければなりません。」

 「願わくは、御子の代理者、教皇ピオ九世が1859年以後にはもうローマから出ないように。けれども、教皇は堅固で寛大であるように。彼は信仰と愛との武器で戦うように。私は教皇と共にあるでしょう。」

 「願わくは、教皇がナポレオンを信用しないように。ナポレオンは二心を抱いているからです。彼が同時に教皇と皇帝になろうとするなら、すぐさま天主は彼から手を退かれるでしょう。ナポレオンは、剣をもって強引に民に自分を高めさせようとしましたが、常に上昇しようと望みながらもまさにその同じ剣の上に墜落するかの鷲なのです。」

 「イタリアは、主の主であるお方のくびきを振り落とそうとした野心の故に罰せられるでしょう。又戦争に巻き込まれもするでしょう。いたる所で血が流され、教会は閉鎖されるか、汚されるかになるでしょう。司祭や修道者たちは捕縛され彼らは死に追いやられ、しかも非書な死に追いやられるでしょう。信仰を捨てる者も出るでしょう。真の宗教から離れてゆく司祭や修道者たちの数はおびただしいものとなるでしょう。その人々の中には司教さえもいるでしょう。」

 「教皇は奇跡を行う者たちを警戒するように。大気中と地上では最も驚くべき不思議な事が起きる時がやって来たからです。」

 「1864 年に、ルチフェルは数多くの悪魔共を引き連れて、地獄から解き放たれるでしょう。彼らは、天主に奉献されている人々においてでさえ、信仰を少しずつなくしていくでしょう。この人々は、特別な恩寵がない限り、悪しき天使の精神を受け入れてしまうようになり、このようにして悪魔共によって盲目にされるでしょう。信仰を全く失ってしまう修道院もあり、多くの霊魂たちを破滅させるでしょう。」

 「地上は悪い本であふれるでしょう。闇の霊はいたる所で、天主への奉仕に関わるすべての事柄に、全世界的なゆるみを引き起こすでしょう。これら闇の霊は自然に対して大変大きな力を持つでしょう。これらの霊に奉仕する教会も出てくるでしょう。これらの悪しき霊により、或る人々は一つの場所から他の場所に運ばれるでしょう。司祭たちでさえも、福音の善き精神、即ち謙遜と愛徳と天主の光栄の熱望との精神に導かれなかったために、そのように動かされるでしょう。」

 「死者と義人が蘇生させられるでしょう。(〔以下メラニーの注記〕つまり、人間たちをよりよく誘惑するために、それらの死者はかつて地上で生きていた義人の霊魂の姿をとるでしょう。このいわゆる「蘇った死者たち」は、その姿をした悪魔に他ならないのですが、真のキリストなるイエズスの福音に反する別の福音を説教するでしょう。彼らは天国の存在、地獄行きの霊魂の存在さえも否定するでしょう。これらすべての霊魂は肉体と結合しているように見えるでしょう。)真の信仰が消えてしまい、偽りの光が世を照らすために、いたる所で、異常で不思議な事が起きるでしょう。富の上に富を貯め込み、自分たちの権威を守って、思い上がりで支配することにしか心を用いなかった教会の君主ら〔枢機卿や司教たち〕は災いなこと!

 「御子の代理者(教皇)は非常に苦しまなくてはならないでしょう。しばらくの間、教会は大迫害に渡されるからです。これは暗黒の時となり、教会はぞっとするような危機を迎えるでしょう。」

 「天主の聖なる信仰は忘れられ、各人は自分自身に頼って行動し、同胞の上に立とうとするでしょう。世俗及び教会の権力が廃止され、すべての秩序とすべての正義が踏みにじられるでしょう。人殺し、憎しみ、ねたみ、うそと不一致しか見受けられなくなり、そこには愛国心も家族への愛もないでしょう。」

 「教皇は大変に苦しむでしょう。私は彼の犠牲を受け取るために終りまで彼と共にあるでしょう。」

 「悪人たちは、彼の命をたびたび狙うでしょうが、彼の日々を縮めることはできないでしょう。しかし彼も、彼の後継者も、天主の教会の勝利を生きて見ることはないでしょう。」

 「世俗の統治者たちは全員、ある同一の計画を抱くでしょう。それは、唯物論、無神論、交霊術などあらゆる種類の悪徳に道を譲るために、宗教の全根本を廃止し、消滅させるというものです。」

 「1865年には、聖なる地で忌わしい事が見受けられるでしょう。修道院の中では、教会の花(修道者たち)は腐り、悪魔はその心の王のように振舞うでしょう。修道院の頭である人たちは、自分たちが受け入れねばならない人々(入会志願者たち)に警戒するように。混乱、官能的快楽を愛する心が、全地上に広まったので、悪魔は罪に溺れた人を修道会に導き入れるために、あらゆる悪賢い手段を用いるからです。」

 「フランス、イタリア、スペイン、イギリスは、戦争状態になるでしょう。血は街路を流れ、フランス人はフランス人に、イタリア人はイタリア人に戦いを挑むでしょう。続いて全面戦争となり、それは恐るべきものとなるでしょう。しばらく天主は、もはやフランスをもイタリアをも顧みられないでしょう。イエズス・キリストの福音がもはや認められていないからです。悪人たちはそのすべての悪意を発揮して、人々は家庭においてでさえ、互いに殺し合い、殺戮し合うでしょう。」

 「(天主の)電撃的な剣の最初の一打ちで、山々と自然全体が激しい恐怖で震えるでしょう。人々の混乱と罪とが、天の円天井を貫き通してしまうからです。パリは燃え、マルセイユは飲み込まれてしまうでしょう。幾つかの都市は、地震によってゆさぶられ、飲み込まれてしまうでしょう。人々はすべてが失われたと思うでしょう。どこを見ても人殺し、どこででも戦争の騒ぎと冒漬が聞かれるでしょう。義人は大いに苦しむでしょう。彼らの祈り、彼らの悔俊、彼らの涙は天にまで届き、すべての天主の民は赦しとあわれみを乞い、私の助けと取りなしを願うでしょう。その時、イエズス・キリストは、御正義の業によって、義人たちへの大いなるあわれみの業によって、天使たちに命じて、御自分のすべての敵を死にいたらせるでしょう。突然、イエズス・キリストの教会を迫害する者と罪に溺れた人々全員は滅び、地上は砂漠のようになるでしょう。その時平和になり、天主と人々との間に和解が成るでしょう。イエズス・キリストは仕えられ、崇められ、光栄をお受けになり、いたる所で愛徳の花が咲きみだれるでしょう。新しい王たちは聖なる教会の右腕となり、教会は強く、謙遜に、敬虔に、貧しく、熱心になり、イエズス・キリストの御徳に倣うものとなるでしょう。福音はどこでも宣べ伝えられ、人々は信仰において大いなる進歩を遂げるでしょう。それは、イエズス・キリストの働き手の間に一致ができ、人々は天主への畏敬の内に生きるようになるからです。」

 「人々の間のこの平和は長くはないでしょう、豊かな収穫の二十五年間によって、彼らは人間の罪が、地上に起こるすべての苦しみの原因であることを忘れてしまうでしょう。」

 「反キリストの先駆者が、国々の軍隊を使って、真のキリスト、唯一の世の救い主に対して闘うでしょう。彼は多くの血を流させ、自分が神としてみなされるために、天主への礼拝を根絶しようと望むでしょう。」

 「地上はあらゆる種類の災害で打たれるでしょう。(それは広範に及ぶペストや飢餓に加えての事です。)最終戦争の時までいろいろな戦争があり、最終戦争は反キリストの十人の王によって遂行されるでしょう。この王たちは皆同じ一つの計画を持ち、彼らだけで世界を統治するでしょう。この事が起きる前に、世界には一種の偽りの平和が訪れ、人々は気晴らしの事しか考えず、悪人はいろいろな罪にふけるでしょう。しかし、聖なる教会の子ら、信仰の子ら、真に私に倣う人々は、天主を愛する心と、私にとって最も貴重な徳の内に成長するでしょう。聖霊に導かれた謙遜な霊魂は幸いなるかな!彼らの年月が満ちるまで私は彼らの側にあって闘いましょう。」

 「自然は人類に復讐を求めており、罪に汚された地土に起きるべき事を待ちながら、恐れに震え上がっています。」

 「地よ、震えおののきなさい。そして、あなた方、イエズス・キリストに仕えていると誓いながら、心の中では自分自身を崇めている者たちよ、震えおののきなさい。聖なる地が堕落しているために、天主は、あなた方を敵に渡そうとしておられるからです。多くの修道院はもはや天主の家ではなく、アスモデウス〔注:トビアの書3:8参照〕とその手先共の牧場です。」

 「反キリストが、淫猥の師たるいにしえの蛇と交流あるヘブライの修道女、偽りの処女から(d 'une religieuse hebraique d'une fauses vierge)生まれるのは、この時期の事です。反キリストは、父が司...(ev... )で、生まれる時に冒漬を吐き、歯が生えているでしょう。一言で言えば、この子は悪魔の化身で、恐ろしい叫び声を上げ、不思議な事を行い、淫猥によってしか養われないでしょう。その子には兄弟たちがいて、彼らは反キリストのように悪魔の化身ではなくとも、悪の子となるでしょう。十二歳の時、彼らは勇敢な勝利をおさめるので、周囲から注目されるようになり、そうしてすぐに、地獄の軍団に助けられて、各々軍隊の頭となるでしょう。」

 「四季は変化し、地は悪い産物しか生み出さず、天体は規則正しい運動を失い、月は赤味を帯びた弱々しい光しか反射しなくなるでしょう。火と水とは地球上でけいれんのような動きをし、山や街を飲み込む恐るべき地震も起きるでしょう。」

 「ローマは信仰を失い、反キリストの座となるでしょう。」

 「空中の悪魔共は反キリストと共に、地上と空中で大いなる不思議を行い、人々はますます堕落していくでしょう。天主は、御自分の忠実なしもべらと善意の人々に心を掛け給うでしょう。福音はいたる所で説教され、すべての民、すべての国民は真理の知識を持つでしょう。」

 「私はこの地上に緊急の呼びかけを送っています。私は天で生きかつしろしめし給う天主の真の弟子たちに呼びかけます。私は、人となり給いしキリスト、人類の唯一かつ真の救い主に真に倣う人々に呼びかけます。私の子供たち、私への真の信心を持つ人々、私が御子へと彼らを導けるように自らを私に委ねた人々、私がいわば両腕に抱いて運んでいる人々、私の精神において生きた人々に呼びかけます。そして最後に、最後の時代の使徒たちに、世をさげすみ、自分自身をさげすみ、清貧に謙遜に、軽蔑と沈黙の内に、祈りと苦業の内に、愛徳と天主との一致の内に、苦しみの内に、世に知られずに生きてきた、『イエズス・キリストの忠実な弟子たち』に呼びかけます。今や彼らが出て地上を照らしに来る時なのです。さあ、私の愛する子らとして自分たちを示しなさい。あなた方の信仰が、この不幸な時代にあなた方を照らす光でありさえすれば、私はあなた方と共に、あなた方の内にいます。あなた方が、熱心によってイエズス・キリストの光栄と誉れとに飢え渇く人になりますように。光の子らよ、戦いなさい、あなた方がたとえ少数でしかなくとも。何故ならごらんなさい、すべての時の時、すべての終りの終りだからです。」

 「教会は影が薄れ、世界は茫然と驚くぱかりでしょう。しかしそこヘエノクとエリアが天主の霊に満たされて現われ、天主の力によって説教するでしょう。こうして善意の人は天主を信じ、多くの霊魂が慰められるでしょう。彼らは聖霊の力によって大きく進歩し、反キリストの悪魔的誤謬を断罪するでしょう。」

 「地上に住んでいる人々は災いなこと!血まみれの戦争と飢饉、ペストと伝染病が起こり、動物が恐ろしく雨あられと降るでしょう。都市をゆり動すほどの雷鳴、国々を飲み込んでしまう地震も起きるでしょう。空中では声がし、人々は壁に自分の頭を打ちつけ、死を呼び求めるでしょうが、他方では死は人々にとって拷問となるでしょう。血はいたる所で流されるでしょう。もし天主が艱難の時を短くされないなら、一体誰が打ち勝てるものでしょうか。義人の血と涙と祈りとを通して天主はなだめられ給うでしょう。エノクとエリアは殺され、異教のローマは消え失せ、天からの火が降って三つの大都市を焼き尽くすでしょう。全宇宙は恐怖に打たれ、多くの人々は、自分たちのただ中に生き給う真のキリストを礼拝しなかったために誘惑されるがままとなるでしょう。その時がやって来ました。太陽は暗くなってきました。ただ信仰だけが生き延びるでしょう。」

 「時は今です。奈落は開いています。見なさい、暗黒の王の王を。彼こそ、救世主と自称して自らの手下共を引き連れた獣です。彼は高慢にも天にまで達しようとして空中をかけ昇るでしょうが、大天使聖ミカエルの息一つで窒息してしまい墜落するでしょう。そして地上は三日間、絶えず天変地異にあり続けて、ついには火に満ちた腹わたを開くでしょう。獣は、その手下共を引き連れて地獄の永久の深淵へと、永遠に投げ込まれるでしょう。その時、火と水とは地上を清め、人類の為したすべての高慢の業を焼き尽くし、すべては新たになるでしょう。天主は仕えられ、光栄を受け給うでしょう。」

 次に聖母は、やはりフランス語で、私に「新しい修道会の会則」を教授なさいました。私にこの新しい修道会の会則を教授なさった後で、聖母は同じ仕方で〔注:農村方言で〕お話を続けられました。

 「もし彼らが改心すれば、石や岩が小麦に変わり、ジャガイモは地上にぱらまかれたように掘り出されるでしょう。」

 「私の子供たち、お祈りはちゃんとしていますか?」

 私たちは二人共、口を揃えて答えました。「いいえ、マダム。あんまりしていません。」

 「ああ! 私の子供たち、朝に夕によくお祈りをしなくてはなりませんよ。あまりうまくお祈りできない時には、天にまします一回、めでたし一回を唱えなさい。時間があってよくお祈りできる時には、それをもっとたくさん唱えなさい。」

 「少し年をとった女の人たちが幾人かミサに行くだけで、他の人たちは夏中、日曜日にも働いています。冬になると何をしてよいかわからなくなって、宗教を馬鹿にするだけのためにミサに行くのです。四旬節になると、彼らは犬のように肉屋に行くのです。」

 「私の子供たち、小麦が腐っているのを見かけませんでしたか?」

 私たちは二人とも答えて言いました。「ああ、いいえ、マダム。」

 聖母はマクシメンに向って語られました。

 「でも、私の子よ、あなたはル・コワンの辺りであなたのお父様と一緒にそういう小麦を一度見たはずですよ。畑の人があなたのお父様に『私の小麦がどんなに腐ってしまったか見に来て下さい。』と言ったので、あなた方は行きました。あなたのお父様が手に二三本の穂を取ってこすると、穂はちりになってしまいました。帰り道に、コールから半時間も離れていない所に着くと、お父様はあなたに一かけらのパンを渡してこうおっしゃったでしょう『お前、今年はパンをもらって食べなさい。小麦がこんなに腐ると来年は食べられる人がいるかどうかもお父さんにはわからんからな。』」

 マクシメンは答えました。「マダム、それ全く本当です。僕忘れていました。」

 至聖なる聖母は、お話をフランス語で締めくくられました。

 「さあ、私の子供たち! あなた方はこれを私のすべての民に伝えるのです。」

 たいそうお美しい貴婦人が小川を渡って二歩ほど歩くと、その方の後に続く私たち(後に続いたのは、このお方の輝きと、それにもまして私をうっとりとさせ心を溶かすように思われたご親切のために、このお方に引きつけられたからです)の方に振り向かれないでもう一度言われました。

 「さあ、私の子供たち! あなた方はこれを私のすべての民に伝えるのです。」

 それから貴婦人は、私が、牝牛たちがどこに居るかを見ようとして登った所まで歩き続けられました。御足は草の先端に触れるか触れないかで、草も曲がりませんでした。小高い所に着くと、美しい貴婦人は立ち止まり、私はすぐにこの方の前に出てもっとよく見ようとし、どの道を通ろうとされるかを察しようと努めました。私はこれを自分のためにしていましたので、自分が仕えているご主人様方や牝牛の事など忘れていました。私はずっと無条件に私の貴婦人様に惚れ込んでしまっていました。そうです、もう決して、決してこの方から離れたくありませんでした。下心もなく、これから生きていく間ずっとお仕えしたいという気持ちで後について参りました。私は貴婦人様と一緒にいると、天国ごっこの事など忘れてしまったように思いました。私はすべてにおいてこの方によくお仕えすることしか頭にありませんでしたので、この方が私にするようにお命じになる事なら全部私にもできるだろうと思いました。というのも、このお方は大変な力を持っていらっしゃるように見えたからです。貴婦人は私を引きつけるやさしい親切な目で私をご覧になり、私は両目を閉じてこのお方の両腕に飛び込みたくなりました。でも時間がなくてそれができませんでした。貴婦人は知らない間に地上からほぼ一メートルかそこらの高さまで上昇されました。そのまま空中におられながら、ほんの一瞬、私の美しい貴婦人は天をご覧になり、次いで地を右に左にご覧になられました。

 それからこのお方は、私を御自分の内部に引きつけたと思われたほどの、甘美な愛すべき、善い目で、私をご覧になりました。私の心はこのお方の心に向って開かれているように思われました。私の心はとろけてしまい、甘美さで心がふくらんでいた時、私の善き貴婦人のお美しい姿は少しずつ消えていきました。動く光が聖母の周りで増加してゆき、というよりは凝集してゆき、私がこれ以上長く聖母を見つづけるのを妨げているように思いました。そうして光はお体の部分を包み、お体は私の目から消えてしまいました。言い換えると、私の貴婦人のお体は溶けて光に変わってしまったようでした。そのようにして、球形をした光はゆっくり落ち着いて右の方へ昇っていきました。

 聖母が上昇されるにつれて、光の量が滅っていったのかどうか、或いは距離のせいで、聖母が上昇されるにつれて光がどんどん少なくなっていくように見えたのかどうかを、私は言うことができません。ただ言えるのは、いつまでも遠のいていって量が少なくなっていったその光が、ついには消えてしまった後でさえも私が頭を上げたまま、両目を光の所にしっかりと据えていたという事です。私が目を天空からそらして、辺りを見回すと、マクシメンが私を見ているのに気付いたので、彼に言いました。

 「マーちゃん、あれはきっと、私のお父さんの天主様か、聖母か、別の大聖女だったにちがいないわね。」

 するとマクシメンは空に手を伸ばして言いました。「ああ、本当に知りたいなあ!」

 聖母はとても背が高く、よく均整がとれておられました。一息で吹き動かされそうなほど軽そうに見えましたが、微動だにせず落ち着いておられました。お顔つきは威厳があって堂々としておられましたが、この地上のお偉い人のように堂々としておられたのではありません。畏敬の念を起こさせると同時に、聖母の威厳は愛の混じり入った崇敬の念を起こさせ、聖母は私を御自分の方へ引き寄せられました。御まなざしはやさしく、貫き透すようで、御目は私の目と話しているかのようでした。しかしその会話は、心を奪うこの美しさに向っての、深い生き生きとした愛の気持ちからのものでした。聖母は私を御自分に引き寄せ、御自分を与えたいと望んでおられるように感じました。けれどもそれは愛の表現であって、肉の言葉でもアルファベットの文字でも表すことができないものでした。聖母は白銀色の服をお召しで、とても輝いておられました。その服は物質的なものが全くなく、キラキラと移ろいきらめく光と光栄とで織りなされていました。この地上にはたとえるべき表現も比較できるものもありません。聖母は全く美しくあられ、全くの愛で形造られていました。聖母を目のあたりにすると、私は聖母に溶け込んでしまうのを待ちこがれるのでした。お飾りにも、御自分にも、たとえるべくもない女王の威厳、壮麗さ、雄大さが表われていました。聖母は童貞として、美しく、白く汚れなく、結晶のようで、輝いておられ、天的で、新鮮で、新しくあられました。「愛」という言葉が銀色の全く清らかなお口元から漏れているようでした。聖母は私に善き母、親切と愛らしさ、私たちへの愛と、同情とあわれみに満ちみている母として、お現われ下さったのです。

 御頭にかぶっておられるバラの花冠は、それについて想像することさえできないほど美しく、輝くものでした。そのバラの花は様々の彩りで、地上のものではなく、花冠は冠の形をして聖母の御頭を取り囲む花々の集まりでした。バラの花はそれぞれ変わり、というよりも取り替えられ、それぞれのバラの花の中心からは、うっとりとさせる光、バラの花をはっとさせるような美しいものにする光が一条ずつ出ていました。バラの花冠から金の枝のようなものと、光輝くものと混ざった多くの別の小さな花々のようなものが伸びていました。それは、全体としてとても美しい王冠の形をした髪飾りをなしていて、それだけでさえも地上の太陽よりも輝いていました。聖母はとても美しい十字架を首にかけておられました。この十字架は金箔張りに見えました。私が「金箔張り」と言いましたのは、ただの金の板ではないと言いたかったからです。私は何度もいろいろな具合の金箔張りのものを見てきましたが、私の目には、事実ただの金の板よりも金箔張りの方がずっと美しく見えたからです。この全く光輝く美しい十字架の上にはキリストが、十字架上に腕を広げておられるわれらの主が、おられました。

 十字架の両端の近くには、一方に金づち、他方に釘抜きがありました。キリストは自然な膚色をされていましたが、華々しく輝いておられました。全身から発せられる光は、私をかれの内に溶け込ませたいという望みで、私の心を引き裂く、まばゆく光る沢山の槍のように感じられました。時々、キリストは死んでいるかのように見えました。御頭を前にもたげ、御体はたわんでおられ、聖主を十字架につけていた釘が聖主を支えていなかったとしたら、今にも落ちてしまいそうな位でした。私は聖主にしみじみと同情を覚え、全世界に、知られていない聖主の愛を繰り返し告げたい、そして死すべき霊魂に天主に対する最も実感のこもった愛と、生き生きとした感謝の念を染み込ませたい、と思いました。天主は、今あり、かつてあり、又常にあられる方であるために、私たちを一切必要とされないのです。それなのに、ああ、人間に対する理解しつくせぬ愛! 天主は人となり結い、死を、そうです、死を望まれました。それは、私たちの霊魂と記憶とに、聖主が私たちに対して抱いておられる愛の愚かさをよく刻み込むためでした。ああ、私は私たちの善き救い主が私たちに対して抱いておられる愛を、そうです、その愛を繰り返し宣べるには、あまりにも不幸であまりにも表現力が貧しいとわかっています。私は何と不幸でしょうか。しかし、他方で、私たちが表現できない事でもよく感じることができるなんて、私たちは何と幸せでしょうか。父ある時は、キリストは生きておられるかのようで、御頭はまっすぐと伸び、目は開かれ、御自身の意志によって十字架上にましますようでした。又時々、聖主は話しておられるようで、私たちのため、私たちへの愛のため、私たちを御自分の愛に引き寄せるために、十字架上におられることや、聖主が私たちにいつでも新たな愛を抱いておられることや、始めの時からの愛と三十三歳の時の愛が、いつもこん日の愛であり、又将来にわたって常に変わらぬ愛であることを示したいと望まれているようでした。

 聖母は私に話されている間は、殆んど始終泣かれており、涙は一つ一つゆっくり流れ、おひざもとに落ち、光の火花のように消えてゆきました。涙は光輝き、愛に満ち溢れていました。私は聖母をお慰めし、もうお泣きにならないようにさせてあげたいと思いましたが、聖母には人々に忘れられた御自分の愛をよく示すために、涙を見せる必要がおありのようでした。私はこの身を聖母の両腕に投げ出して、こう申し上げたく思いました。「私のやさしいお母様、泣かないで! 私が地上のすべての人の代わりにお母様をお愛ししたいの。」

 しかし、聖母は私に「私を知らない人はこれほど多くいるのですよ。」と言われているように思われました。私は、一方では〔聖母の〕大きな愛、愛されたいという大いなるお望み、他方では〔人々の〕ひどい冷淡、ひどい無関心を見て、生と死のはざまにいました。ああ、お母様、全く美しい、全く愛すべきお母様、私の愛、私の心の心よ!..... 私たちのやさしい母の涙により、威厳ある風格、女王、主人としての風格は少しも損なわれず、かえって聖母は一段とお美しくなられ、より愛くるしく、より美しく、より力強く、より愛にあふれ、より慈母らしく、より慕わしく思われるようになりました。私は、私の心に同情と愛を引き起こしていたこの御涙を飲み込んでいたかもしれません。一人の母親が、しかもこのような母親が泣いているのを、彼女を慰めるべき手段も、その悲しみを喜びに変えるべき方法も、思い当るあらゆる手立ても取らずに見ているなんて、考え得るでしょうか?ああ、極めて善いお母様! 御身は、天主がもたらし得るすべての特権で形作られ、あたかも天主の能力を使い尽くされたかのようです。御身は善いお方です、その上天主の善良さによって善いお方でいらっしゃいます。天主は、御身を天と地との傑作としてお創りになることで、御身において大きくなられました。聖母は黄色の前掛けをお召しでした。何ですって、黄色?聖母は幾つか太陽が集まったものよりもずっと輝いている前掛けをしておられました。〔注:フランス語では普通太陽は「黄色」であって、「赤」ではない。〕それは物質的な布地ではなく、光栄、しかもキラリキラリとするこの光栄と、慕わしい美しさとの合成物でした。聖母における一切の事柄のために、私は、イエズスのこの世の死すべき生命のすべての状態において、イエズスを礼拝し、愛するべく力強く動かされ、あたかもそうするべくすべり込まされたようでした。

 聖母は二つの鎖をつけておられ、一方は他方より少しだけ大きく、狭い方の鎖には私が先ほど述べた十字架が掛かっていました。この二つの鎖は(「鎖」という名で呼ぶしかないので)、様々に変容するまたたく大閃光の、光栄の光線のようでした。お履物は(「履物」と言うより他はないので)、白で、ただし銀色のような白で光っていました。その回りにはバラの花があり、バラの花は目も暗むばかりの美しさで、それぞれの花の中心から大変美しい、目を楽しませる光の炎が発していました。お履物の上には金の締め金(しめがね)がありましたが、地上の金ではなく、むしろ天国の金でできていました。聖母を見奉ることは、もうそれだけで完全な天国でした。地上の事は忘れてしまっていたので、聖母には御自分の内に人を満足させるためのすべてがあったのです。

 聖母は二つの光に囲まれておられました。一つ目の光は、聖母のずっと近くにあるもので、私たちの所まで達していて、大変美しくキラキラした閃光で輝いていました。二つ目の光は、この美しい貴婦人の回りに広がっていて、私たちもその中にいました。この光は動かない(つまりキラキラしない)のですが、地上を照らす私たちの貧しい太陽よりも輝いていました。これらの光は少しも目を痛くしたり、疲れさせたりしませんでした。このすべての光、このすべての輝きの他に、更に光ないしは光線のかたまりか束が、聖母の御体や衣装のいたる所から出ていました。聖母のお声は甘美で、心を満喫させ、恍惚とさせ、心地よくしてくれました。それは人を満たし、すべての障害を取り除き、平穏にし、なごやかにさせるものでした。私は、永遠にこの美しいお声を飲み込みたいと望んでいたように思います。私の心は、聖母の内に溶解しきってしまうために、踊り或いは聖母を出迎えに行きたいようでした。

 私たちのやさしい母である聖母の両目は、人間の言葉では言い表せません。聖母の目について語るには、セラフイム(熾天使)が必要でしょう、いいえ、もっと必要で、天主脚自身のお言葉が必要でしょう。そのすべての能力の傑作であられる汚れなき童貞を形作られたこの天主御自身のお言葉が。

 威厳あるマリア様の御目は、光輝くもの(les brillants )、ダイヤモンドや最も珍しい宝石の数万倍も数億倍も美しく、二つの太陽のように輝いていました。甘美そのものの甘美であり、鏡のように澄んでいました。この両目の中に、天国が見えていました。御目は人を聖母に引きつけるものでした。聖母は御自分に引き寄せて御自分を与えたいと望んでおられるようでした。私は聖母を見れば見るほどますますよく見たくなりました。聖母をよく見れば見るほど、私はますます聖母をお愛しし、しかも全力を込めて愛し奉るようになっていました。

 その汚れなく美しいお方の御目は、天主への門のようで、そこから霊魂を陶酔させることのできるすべてが見えていました。私の目が天主の御母の御目と合う時、私は自分の内に幸いな愛の革命を、御母を愛し自分を愛で溶かすことを宣言する革命を覚えました。

 私たちは見つめ合いながら、目はお互いに目の流儀で話し合っていました。私は聖母の両目のまん中に接吻したかったほど、聖母をお愛ししていました。聖母の御目に私の心は感激しており、引きつけられ、聖母の心と溶け合っているようでした。それは、私の全存在の内に、甘美な震えを生じさせました。私は、聖母を少しでも不快にさせるようなわずかな動作さえしてしまうのを怖れていました。童貞の内にていとも清き童貞の御目を一目見ただけで、至福な者の天国にいるのに充分だったでしょう。それだけで、この死すべき生の歩みの中で起こるすべての出来事の中から、いと高き天主の御旨の充満に霊魂を入らせるのに充分だったでしょう。それだけで、霊魂に絶えざる賛美と感謝と、償いと贖罪の業を行わせるのに充分だったでしょう。この一目見ることだけで、霊魂は天主に集中し、又生ける死者のようになり、極めてまじめに見えるものでさえ、地上の事は子供の気晴らしのようにしか思えなくなり、天主の事と、天主の光栄となる事しか話されるのを聴きたくないようになるのです。

 罪こそ、聖母が地上で見いだす唯一の悪です。聖母は天主がお支えにならなければ苦しみの余り死んでしまわれるでしょう。

 アーメン。

1878年11月21日 カルテラ・マーレにて
イエズスのいけにえ、十字架のマリア










2020年9月27日からの一週間の予定

2020年09月18日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

こんにちは!

東京では、9月27日主日の最後のミサ(12時半のミサ)の後で、赤ちゃんの洗礼式を行う予定です。その為に、聖物の祝別は行うことができません。その前の主日か、その後の主日にお願いいたします。

大阪では、9月28日から10月3日まで、司祭黙想会を行います。
本来ならば、フィリピンで行う予定でしたが、それができなくなり、代替手段として、大阪の聖堂で行う予定です。
これに伴い、9月29日から10月2日まで毎日、午後5時00分頃からロザリオ、午後6時00分からミサがあります。ミサの後には終課があります。これにはどなたでも参加出来ます。

宜しくお願いいたします。







【再掲】「無防備都市」の人々

2020年09月18日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

以前、「無防備都市」という言葉が流行ったことがありました。その時に書いたものです。

       ○ ○ ○

 歴史上もっとも民主主義的だと言われたワイマール憲法のもとで、ヒトラーのナチス政権が成立しました。

 ナチス政権のもとで「すべての人間の安全は失われました。いつ何どきでも、‥人々は家から追い出され‥罪もないのにそして自己弁護の機会さえ与えられず人々は死を宣告されました」(ゲルトルード・フォン・ルフォール)。

 ヒトラーのナチス政権は国民の「望ましくない」人々を抹殺していったのです。ナチスは罪なき国民を望ましくない国民であると判断し消去する権利があると思っていました。

 ナチスと言われた国家社会主義政権が一度成立してしまうと、テロによる無実の国民の消去が始まったのです。無防備の国民は、誰からも守られませんでした。身体障害者、ナチスに反対するカトリック司祭、などなど。

 無防備都市宣告をしているような罪なき胎児は、これから日本で誰からも守られず、邪魔者として消去されようとしています。

 軍隊に反対しているピース・ボートの人々でさえ、海上自衛隊に防備を依頼し、軍艦によって海賊の手から守られました。

 しかし、胎児は誰からも守られなくなります。

 九条の会とか言う団体も、罪なき胎児に対するテロと戦争については共謀の沈黙を守っているだけです。

 私たちは、私たちの愛する祖国である日本において、アウシュビッツの悲劇を再生し続けるのでしょうか?! 罪なき愛する兄弟姉妹である日本国民が、母親の胎内から拉致され虐殺され、私たちは無関心でいて良いのでしょうか?! カトリック教会はこの虐殺に沈黙していて良いのでしょうか?!

 私たちは日本がナチスのような国になってしまうのを黙って見ているだけで良いのでしょうか?

主よ、我らを憐れみ給え!

天主の御母聖マリアよ、我らのために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)






2020年9月20日は、聖霊降臨後第十六主日(二級祝日 典礼色:緑)です。聖伝のミサのラテン語と日本語・中文・韓国語の対訳のテキストをご紹介いたします

2020年09月17日 | ミサ聖祭

2020年9月20日は、聖霊降臨後第十六主日(二級祝日 典礼色:緑)です。聖伝のミサのラテン語と日本語・中文・韓国語の対訳のテキストをご紹介いたします

【ミサ聖祭】本日の主日より、<書簡>は、監禁中の聖パウロの書簡より抜粋される。パウロの、そして、われらすべての苦しみは、やがて永遠の光栄に代わるべきものである。肉の人は、墓の方へと近づくが、霊の人は、キリストの霊によって、信・望・愛において成長するであろう。

救赎我们的奥迹,便是一种爱的奥迹,也便是天主对犯罪与抗命的人所显示祂爱的奥迹。天主为顾自己的光荣,宁愿宽宥及拯救世人(书信)。天主圣子谦卑自下,竟不惜委身于为人服务,并甘心受难而死,以拯救世人及能传给他们祂自己的固有神生。然而人们该承认自己的可怜状况,同时,该幡然悔改自己的罪愆,而效法主的慈爱。天主唾弃妄自尊大与自私自利的人。至于我们方面,该常常提醒我们,领会做基督徒的主要意义,便是效法基督的仁爱(福音):不汲汲的谋得虚荣,却献身本着孝爱显扬天主,并为我们的兄弟服务,以及时时准备着援助在急难中的一切近人。

Dominica Decima sexta post Pentecosten 聖霊降臨後第十六主日 降临后第十六主日 성신 강림 후 제 십육 주일
II Classis 二級祝日 复式【绿】  (2급) 초록색
Ant. ad Introitum. Ps. 85, 3 et 5. 入祭文 詩篇, 85ノ3,5 进台咏(咏85:3,5) 초입경(성영85:3, 5)
Miserére mihi, Dómine, quóniam ad te clamávi tota die : quia tu, Dómine, suávis ac mitis es, et copiósus in misericórdia ómnibus invocántibus te. 主よ、私をあわれみ給え。終日私は、主に向かって叫んだ。主よ、御身は甘美で柔和であり、御身を呼び求める者ら全てに、あわれみにおいて富んでおられる。 吾主啊!求祢怜恤我:因我终日向祢哀号。吾主啊!因为祢是美善和易于宽恕人的,对呼求祢的人,祢怀有丰渥的慈祥。 주여 나 또한 종일 네게 부르짖었으니 나를 긍련히 여기소서.
Ps. ibid., 1. 詩篇85ノ1 咏85:1 (성영85.1)
Inclína, Dómine, aurem tuam mihi, et exáudi me : quóniam inops, et pauper sum ego. 主よ、御耳を傾けて、私の祈りを聞き給え。私はみじめで貧しい。 上主啊!求祢侧耳俯听我祷,因为我是困苦贫寒的。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。 光荣归于父……。 영광이 부와 자와 ...
Miserére mihi, Dómine, quóniam ad te clamávi tota die : quia tu, Dómine, suávis ac mitis es, et copiósus in misericórdia ómnibus invocántibus te. 主よ、私をあわれみ給え。終日私は、主に向かって叫んだ。主よ、御身は甘美で柔和であり、御身を呼び求める者ら全てに、あわれみにおいて富んでおられる。 吾主啊!求祢怜恤我:因我终日向祢哀号。吾主啊!因为祢是美善和易于宽恕人的,对呼求祢的人,祢怀有丰渥的慈祥。
Oratio. 集祷文 集祷经 축문
Tua nos, quǽsumus, Dómine, grátia semper et prævéniat et sequátur : ac bonis opéribus iúgiter præstet esse inténtos. Per Dóminum. 主よ、願わくは、御身の聖寵を、われらに常に先んじさせ、続かせ給え。また善き業を常に意図するを与え給え。天主として、(…)。 主,祈望祢的圣宠,常作我们的先导,并作我们的伴随,使我们能时常专心为善。因我们主……。
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Ephésios. 使徒聖パウロのエフェゾ人への書簡の朗読。 书信 서간경
Ephes. 3, 13-21. エフェゾ  3ノ13-21 (弗3:13-21) Ephes. 3, 13-21.
Fratres : Obsecro vos, ne deficiátis in tribulatiónibus meis pro vobis : quæ est glória vestra. Huius rei grátia flecto génua mea ad Patrem Dómini nostri Iesu Christi, ex quo omnis patérnitas in cælis et in terra nominátur, ut det vobis secúndum divítias glóriæ suæ, virtúte corroborári per Spíritum eius in interiórem hóminem, Christum habitáre per fidem in córdibus vestris : in caritáte radicáti et fundáti, ut póssitis comprehéndere cum ómnibus sanctis, quæ sit latitúdo et longitúdo et sublímitas et profúndum : scire etiam supereminéntem sciéntiæ caritátem Christi, ut impleámini in omnem plenitúdinem Dei. Ei autem, qui potens est ómnia fácere superabundánter, quam pétimus aut intellégimus, secúndum virtútem, quæ operátur in nobis : ipsi glória in Ecclésia et in Christo Iesu, in omnes generatiónes sǽculi sæculórum. Amen. 兄弟たちよ、私があなたたちのために忍ぶ艱難について、落胆しないでほしい。それはあなたたちの光栄だからである。このことのために私は、主イエズス・キリストの御父のみまえに跪く。御父から、天と地とのすべての父性が名づけらえる。かれが、その光栄の富にしたがって、その霊によって、あなたたちの内の人を力強く固め、また、愛に根ざし、愛に基をおくあなたたちの心に、信仰によってキリストが住まわれるようにと願う。あなたたちは、すべての聖徒とともに、かの奥義の広さと長さと高さと深さとを理解する力を受けるであろう。あなたたちは計り知れないキリストの愛を知り、満ち満ちる天主によって満たされるであろう。私たちの内におこなわれる力によって、私たちのすべての願いと考えを遥かに越えてどんなことでもできるお方に、教会とキリスト・イエズスによって世々代々光栄があるように。アメン。 弟兄们:我求你们,不要因为我为了你们遭受苦难的缘故,心灰意懒;我遭受的这些苦难,为你们也有荣耀。为了这个原因,我在我们主耶稣基督的大父前屈膝。天上地下的一切父权,都是由祂而得名的。我求祂藉着祂光荣的富藏,赏赐你们赖着祂的圣神完全地坚强起来,使你们的内心成长发展。愿基督藉着信德,居住在你们心中。愿你们在爱德中生根植基,和诸位圣徒一起明瞭基督的爱如何长、如何阔、如何高、如何深,得以明悉基督的爱远远超过人所能意想的限度,而这样你们充满了天主完满无缺的美好。天主按着祂的能力在我们身上工作,能完成无限地超越我们所求或所想的一切;愿祂在教会内,在基督耶稣内,享受荣耀,经过万代直到世世无尽。阿们。 형제들아 : 이러므로 나는 너희를 위하여 당하는 나의 모든 환난으로 인하여 너희 의기(意氣)가 저상(沮喪)되지 아니키를 구하노라. 이 환난이야말로 너희의 영광이니라.  나 이를 위하여 우리 주 예수 그리스도의 성부 대전에 무릎을 꿇고⼀  하늘과 땅에 있는 아버지를 가진 온갖 단체는 이 다 성부로 말미암아 일컬음(=존재와 특성)을 받느니라⼀ 간청하노라.  이는 너희로 하여금 저의 영광의 부(富)를 따라 저의 성신으로 말미암아 내적(內的) 인간에 있어서 비상히 견고하게 되어,  그리스도 신앙으로 인하여 너희 마음 안에 거처하시며, 너희는 그 사랑에 뿌리를 박고 확호한 기초를 두기 위함이니라.  이에 너희는 모든 성도들로 더불어 능히 구원에 대한 천주의 계획과 그리스도의 신비에 대한 넓이와 길이와 높이와 깊이가 얼마나 되는가를 깨닫고,  모든 인식을 초월하시는 그리스도의 우리에게 대한 총애를 옳게 인식할 수 있으리라. 이로써 너희는 천주의 온갖 충만하심으로써 충만하여질 것이니라.  원컨대 우리 안에 활동하시는 당신 능력을 인하여, 우리가 구하거나 깨닫는 것을 초월하여, 보다 더 풍부하게 능히 만사를 행하시는 저(=천주)에게,  교회와 또한 그리스도 예수 안에 영영세에 세세 대대(世世代代)로 영광이 있어지이다. 아멘.
Graduale. Ps. 101, 16-17. 昇階誦 詩篇 101ノ16-17 台阶咏(咏101:16-17) 층계경(성영101: 16-17)
Timébunt gentes nomen tuum, Dómine, et omnes reges terræ glóriam tuam. 主よ、民々は主の御名をおそれ、地上の王は主の光栄をおそれるだろう。 上主啊!万国要敬畏祢的名,世上的列王,都要敬畏祢的荣耀。
V/. Quóniam ædificávit Dóminus Sion, et vidébitur in maiestáte sua. V/.なぜなら主は、シオンを建て、御稜威のうちに見られ給うからである。 因上主再建了熙雍,且要现出自己的威严。
Allelúia, allelúia. V/.Ps. 97, 1. アレルヤ、アレルヤ。V/. 詩篇 97ノ1 阿肋路亚。阿肋路亚! 알렐루야 알렐루야.(성영97:1) 
Cantáte Dómino cánticum novum : quia mirabília fecit Dóminus. Allelúia. 主に新しい歌を歌え、主は不思議を行い給うた、アレルヤ。 (咏97:1)你们要向上主高唱新歌,因为上主曾行过奇事。阿肋路亚。
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Lucam. ルカによる聖福音の続誦。 福音 복음
Luc. 14, 1-11. ルカ 14ノ1-11 (路14:1-11) (성루까14: 1-11)
In illo témpore : Cum intráret Iesus in domum cuiúsdam príncipis pharisæórum sábbato manducáre panem, et ipsi observábant eum. Et ecce, homo quidam hydrópicus erat ante illum. Et respóndens Iesus dixit ad legisperítos et pharisǽos, dicens : Si licet sábbato curáre ? At illi tacuérunt. Ipse vero apprehénsum sanávit eum ac dimísit. Et respóndens ad illos, dixit : Cuius vestrum ásinus aut bos in púteum cadet, et non contínuo éxtrahet illum die sábbati ? Et non póterant ad hæc respóndere illi. Dicebat autem et ad invitátos parábolam, inténdens, quómodo primos accúbitus elígerent, dicens ad illos : Cum invitátus fúeris ad núptias, non discúmbas in primo loco, ne forte honorátior te sit invitátus ab illo, et véniens is, qui te et illum vocávit, dicat tibi : Da huic locum : et tunc incípias cum rubóre novíssimum locum tenére. Sed cum vocátus fúeris, vade, recúmbe in novíssimo loco : ut, cum vénerit, qui te invitávit, dicat tibi : Amíce, ascénde supérius. Tunc erit tibi glória coram simul discumbéntibus : quia omnis, qui se exáltat, humiliábitur : et qui se humíliat, exaltábitur. そのとき、ある安息日のこと、食事するために、著名なファリザイ人の一人の家にお入りになったイエズスを、ファリザイ人たちがうかがっていた。すると、み前に、水腫にかかった人がいたので、イエズスが、律法学士とファリザイ人とに、「安息日に人を治すことは、許されているか、どうか?」とお尋ねになったが、彼らは答えなかった。そしてイエズスは、その病人の手をとって、治してお帰しになった。それから彼らに、「自分の子か牛かが井戸に落ちたとき、安息日だからといってすぐそれを引き上げないものが、あなたたちの中にあるのか」と仰せられたので、かれらは何も返答ができなかった。招待された人たちが上席を選ぶのを見たイエズスは、たとえをひいて、「結婚式に招待されるとき、あなたは上席についてはいけない。あなたより貴い人が招かれてきたら、あなたとその人とを招いた人がきて、『この方に席を譲ってください」と、あなたに言うだろう。そうすると、あなたは恥じて末席につくことになる。むしろ、招待された時には、末席につきに行け。そうすると、招いた人がきて、『友よ、どうぞもっと上に進んでください』という。そうすればあなたは、列席者の前で面目をほどこす。すべて自ら高ぶる人は下げられ、自らへり下る人は上げられる」と仰せられた。 那时候,有一天适逢安息日,耶稣到一个法利塞人首领的家里去吃饭,他们就窥伺祂。恰巧在祂面前有一个患臌胀的人。耶稣就对法学士和法利塞人说:“安息日许不许治病?”他们却默不作声。于是耶稣握了病人的手,治愈了他,打发他去。随对他们说:“你们中如有驴子或牛安息日掉在井里,有不立刻拉牠上来的吗?”这话他们却答不出。耶稣看见请来的客人怎么都拣选首座,就给他们讲一个比喻说:“有人请你去吃喜酒,不要占下首席,恐怕比你更尊贵的客人也被请来,而那位请你又请他的,要来向你说:‘请你让座给这个人吧’,那你只得去坐末位了,好不羞愧;不如受了邀请去坐末位,好请你的人走来对你说:‘朋友!请上座吧’,那时你在同席的人前就有光荣了。因为,凡高举自己的必被抑下;凡抑下自己的必被高举。” 유시에 마침 파공날에 예수 바리서이 으뜸의 집에 음식 잡수러 들어가실새 저들이 예수를 살펴 엿보더라.  문득 고창 든 자 한 사람이 예수 앞에 있거늘  예수 교법학사와 바리서이들더러 말씀하여 이르시되「파공날에 병을 고쳐 주는 것이 가하냐」하신대  저들이 잠잠하거늘 예수 그 병자를 붙드사 낫게 하여 보내시고  저들에게 말씀하여 이르시되「너희중에 누 나귀나 혹 소가 우물에 빠지면 파공날에라도 즉시 꺼내지 아니하겠나냐」하시니, 이 말을 능히 예수께 대답치 못하더라.  손들이 각각 상좌를 가림을 보시고 비유로써 저들에게 이르시되 「너 혼인 잔치에 청함을 받거든 상좌에 앉지 말라. 두리건대 너보다 더 존귀한자 주인에게 청함을 받았으면  너와 및 저를 청한 주인이 나아와 네게 이르되『이 사람에게 자리를 사양하라』하면 그때에 너 비로서 부끄러이 말좌를 잡으리니  오직 너 청함을 받거든 가서 말좌에 앉으라. 곧 너를 청한 자 나아와 네게 이르되『벗은 상좌로 오르시오』하면 그때에 한가지로 상 받고 앉은 자들 앞에 네게 영광이 있으리니  대저 스스로 높이는 자는 낮아지고 스스로 낮추는 자는 높아짐이니라」하시더라.
Credo 信経 信经 신경외움
Ant. ad Offertorium. Ps. 39, 14 et 15. 奉献文 詩篇 39ノ14,15 奉献咏(咏39:14-15) 제헌경(성영39: 14-15)
Dómine, in auxílium meum réspice : confundántur et revereántur, qui quærunt ánimam meam, ut áuferant eam : Dómine, in auxílium meum réspice. 主よ、私を助けんと見給え、私の霊魂を取り除こうと狙う者は、うろたえはずかしめられんことを。主よ、私を助けんと見給え。 上主,求祢垂顾我,来援助我!愿那图谋杀害我性命的,一同蒙受惭愧和耻辱。上主啊!求祢垂顾我,来援助我!
Secreta. 密誦 密祷经 묵념축문
Munda nos, quǽsumus, Dómine, sacrifícii præséntis efféctu : et pérfice miserátus in nobis ; ut eius mereámur esse partícipes. Per Dóminum nostrum. 主よ、願わくは、捧げられたいけにえの効果によって、われらを浄め給え。憐んでわれらにおいて[浄めを]完成し給え。そは我らがその[=いけにえの]参与者となるに値するがためなり。天主として、(…)。 主,求祢以此圣祭的功效洗净我们,并在我们内施展祢的仁慈工作,使我们配得上参与这个圣祭。因我们主……。
Præfatio de sanctissima Trinitate  序誦 三位一体と主日との序誦 天主圣三的颂谢引 성삼감사경
Vere dignum et iustum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere : Dómine, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus : Qui cum Unigénito Fílio tuo et Spíritu Sancto unus es Deus, unus es Dóminus : non in uníus singularitáte persónæ, sed in uníus Trinitáte substántiæ. Quod enim de tua glória, revelánte te, crédimus, hoc de Fílio tuo, hoc de Spíritu Sancto, sine discretióne sentímus. Ut, in confessióne veræ sempiternǽque Deitátis, et in persónis propríetas, et in esséntia únitas, et in maiestáte adorétur æquálitas. Quam laudant Angeli atque Archángeli, Chérubim quoque ac Séraphim, qui non cessant clamáre cotídie, una voce dicéntes : Sanctus… 主よ、聖なる父よ、全能永遠の天主よ、われらが御身に、いつもどこにても感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいこと、義務と救いである。御身は、御独り子と聖霊と共に、唯一の天主、唯一の主にて在す。すなわち、御身は、一の位格の単一にて在すのではなく、唯一の実体(substantia)の三位にて在す。御身の御光栄について、御身が啓示するがゆえに、われらが信じ奉ることを、聖子について、聖霊について、差別なく、われらは信じ奉る。真の永遠の天主の本性を告白するにおいて、位格における固有性が礼拝され、本質(essentia)における唯一性と、御稜威における等しさも礼拝されるためである。これを、天使らと大天使らは、智天使も熾天使も、讃美し、絶え間なく声を上げ、日々声をあわせてこう言う。聖なるかな、… 主,圣父,全能永生的天主!我们时时处处颂谢祢,实是正义而必须的,属于我们天职的,也属我们得救的。祢与祢的独子及圣神,只是一个天主,只是一个主;不是因为位是单独一个,却是因为三位同具一个性体。的确,我们所怎样依照祢的启示,相信祢享的光荣,我们无区别地也同样确认祢的圣子,也同样确认圣神共享这个光荣。因此,我们在明认圣三真实而永在的天主性上,同时论位,我们敬拜圣三的各一,论体,我们敬拜圣三的无二,论尊荣,我们敬拜圣三的均等。这圣三的尊荣,是天神们和总领天神们,普知天神们和炽爱天神们,所虔诚歌颂的;他们日复一日,永不停止同声高呼说:圣、圣、圣…… 주여, 성부여, 전능하시고 영원하신 천주여, 우리가 어디서나 항상 주께 감사하는 것이 참으로 당연하고 옳으며, 지당하고 구령에 유익하나이다. 주는 외아들과 성신과 더불어 오직 한분의 천주시요, 오직 한분의 주이시되, 한 위가 아니시고, 한 체로서 세 위시니이다. 주의 계시로 우리가 주의 영광에 대하여 믿는 바를, 성자와 성신에 대하여서도 조금도 다름이 없이 믿나이다. 그리하여 우리는 참되시고 영원하신 천주성을 찬미함에 있어, 위로서는 각 품이시요, 체로서는 하나이시요, 지존하시기는 같으심을 찬송하나이다. 천신들과 대천신들 및 케루빔과 세라핌이 이를 찬양하며, 날마다 간단없이 제창하나이다. 거룩하시다, 거룩하시다, 만군의 천주이신 주는 거룩하시나이다. 하늘과 땅에 주의 영광이 가득하나이다. 천상에 좌정하신이여 호산나, 주의 이름으로 오시는 이는 찬미받아지이다. 천상에 좌정하신이여 호산나.
Ant. ad Communionem. Ps. 70, 16-17 et 18. 聖体拝領誦 詩篇  70ノ16,17,18 领主咏(咏70:16-17,18) 영성체경
Dómine, memorábor iustítiæ tuæ solíus : Deus, docuísti me a iuventúte mea : et usque in senéctam et sénium, Deus, ne derelínquas me. 主よ、私は御身の正義のみを記憶するだろう。天主よ、御身は、私の若い時から私に教え給うた。老い高齢となるまで、天主よ、私を見捨て給うな。 上主啊!我要传述,惟有祢是公义的。天主啊!自我年幼时祢就教训我;天主啊!求祢莫要摈弃我,直至年老的时期。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈 领后经 영성체후축문
Purífica, quǽsumus, Dómine, mentes nostras benígnus, et rénova cæléstibus sacraméntis : ut consequénter et córporum præsens páriter et futúrum capiámus auxílium. Per Dóminum. 主よ、願わくは、天の秘蹟によって、優しく、われらの精神を浄め新たにし給え。それに続いて、今も、そして等しく将来も、われらが身体の助けも得るためなり。天主として、(…)。

主,求祢慈惠地以此天上的圣事、把我们的灵魂洗净与刷新,好使我们的肉身也得承受今生和来世的恩佑。因我们主……。

 


愛する兄弟の皆さま、もしも私たちが主の御旨を果たそうと、御国を追求するならば、他の事は一切主が与えて下さいます。そして聖霊の実りを私たちが受ける事でしょう。

2020年09月17日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年9月6日、聖霊降臨後第14主日に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介いたします。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は聖霊降臨後第14主日で、福音の中ではイエズス様が、「まず、天主の国とその義を求めよ。その他のものは溢れるばかり加えられる」と言っていました。

ですから、「他の事は心配するな。まず主の御旨を果たす事、主を愛する事、主の御望みを果たす事に一生懸命になれば、その他の事は主が考えて下さる。信頼せよ」と言っています。

ですから、「私たちは、主に信頼する方が、人間に信頼するよりももっと良い事だ」という事です。

ですから、私たちも、この主の聖心に従って、「主の御望みが何か」という事のみを考えて、追求するように致しましょう。「カトリックの信仰を守る上で一番大切なものは一体何か、何が必要なのか、そして私は何をしなければならないのか」という事を考えましょう。

「教会に最も忠実である、本当の意味で従順である事。本当の意味で教皇様を、教皇制度に従う事、その教皇様の教えに従う事。本当の意味で聖伝を守っていく事、聖伝に従う事、忠実である事。本当の意味で私たちの最も大切な務めでる天主を讃美して、愛して、そして霊魂を救う、救霊を追求する、という私たちに与えられこの務めを果たす事」これを追求していきましょう。

つい最近、ヴィガノ大司教は、元アメリカの教皇大使で、昔は国務省の中でナンバー2で、非常にこう立派な仕事をされていた方が、9月1日付けで、カトリック・ファミリー・ニュースというところで、新しい手紙を発表されました。それを見ると、本当に主の御旨を果たす為に、主の御国を追求する為に、一生懸命やっているという姿を感じる事ができます。

このヴィガノ大司教の言っている事の中には、こんな事があります、「もしも私たちが主を愛する為に、そして御聖体を恭しく聖体拝領できなかったり、あるいは冒瀆的に拝領させられなければならなかったり、あるいは御説教が異端的であったりとか、救霊の話よりも何か別の話を、霊魂を救うというよりも地球を救うとか、他の話をしている、あるいはその他、真の真理イエズス・キリスト以外に救いがないというよりは、『あぁ、どこの宗教でも同じだ』等というような事を聞かされる時には、そういう所は出て、聖伝のミサ、つまりカトリックの本当のミサを捧げている司祭の所に行って、そしてカトリックの昔ながらの教えを、御説教を聞く方が1000倍も勝って良い事である」と励ましています。そして「他の事はあまり心配するな」と言っています。

大司教様は司祭たちに対しても、「もうカトリックの昔ながらのミサをするように。そしてカトリックの昔ながらの御説教をするように。そしてもしもそれの為に教区から追放された、あるいは嫌がらせをされた、いじめにあった、というなら、それは心配するな。主に信頼せよ」と励ましています。

「私たちが今必要なのは、『剛毅』という徳であって、これはギリシャ語では“ἀνδρεία”と言って、『男らしい』という意味で、非常に男らしい態度で行かなければならない。『あぁ、もしかしたら何かお仕置きを受けるんじゃないか、意地悪をされるんじゃないか』という事を心配しなくていい」と言っています。

どうぞ愛する兄弟の皆さん、もしも私たちが主の御旨を果たすならば、主の御旨を果たそうと、御国を追求する、それだけを考えているならば、他の事は一切主が与えて下さいます。そして聖霊の実りを私たちが受ける事でしょう。

聖霊の実りは、聖パウロが12個挙げています。

「愛徳」“caritas”、そして「喜び」 “gaudium”、また「平和」“pax”。

これは、天主が私たちを愛して下さったが故に、私たちの心に生じる喜びと、そして平和です。

そして悪に対しても、私たちは「忍耐」 “patientia” とか、あるいは「堅忍」 “longanimitas”、悪に対抗する力も与えられます、聖霊の実りとして。

そして隣人に対しては、心の中で「親切」 “bonitas”が起こり、それから態度に対しても「優しい態度」“begninitas”ができます。

またもしも、隣人から何か悪い事を受けたとしても、「柔和」“mansuetudo”に、また隣人を裏切る事なく、そのたとえ悪があっても、その善意を「信じる」“fides”、という事ができます。

また聖霊の実りとして、天主の御旨を果たそうと、天主の御国のみを追求するなら、私たちの態度、外見にも「慎み」“modestia”が現れますし、そして食べ物についても「節制」 “continentia”、そしてあるいはまた他の所でも「貞潔」“castitas”が与えられる。

これは、「肉の働き」と聖パウロが今日書簡の中で列挙した、色々な悪と対抗に反対するものです。

そして私たちが天主の御旨を果たせば果たすほど、それの実りを受けて――これは12個はまだ全てではないのですけれども――、そのもっと多くの実りを私たちが受けて、主からの多くの祝福を受けて、本当に私たちは喜びに満たされるはずです。

ですから私たちも、主の聖心に倣って、御言葉に従って、主の御国をまず第一に追求する事にしましょう。何も恐れずに、聖伝のカトリックのミサに与って下さい。何も恐れずに、主の聖伝の昔ながらのカトリックの御説教を聞くようになさって下さい、読むようになさって下さい。

そして霊魂を救うようにして下さい。永遠の命に入る為に、霊魂をまず救うように、全力を尽くして下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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十字架の元に佇むマリア様、十字架に付けられたイエズス様を黙想致しましょう。

2020年09月17日 | お説教・霊的講話
苦しみの玄義 第5玄義黙想
2020年9月5日(初土)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父

『苦しみの玄義 第5玄義:この一連を捧げて、主が十字架に釘付けにせられ、死し給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、救霊の恵みを乞い願わん。』

御聖体の内に真に在しまし給うイエズス様の聖心の御前で、初土の信心を行ないましょう。マリア様に対して犯される、汚れなき御心に対して犯される罪を償う為に、ロザリオの15の玄義の1つを黙想致しましょう。

特に9月の初土曜日ですから、9月にはイエズス様の十字架の称讃、聖母の七つの御悲しみの祝日をふまえて、苦しみの玄義の第5、「主が十字架に付けられ給う、そして私たちの為に死し給う」玄義を黙想致しましょう。

つい最近アメリカでは、左翼の暴徒によって、色々な歴史的な像が壊されたのみならず、それは時として、教会でマリア様やイエズス様の御像さえも破壊され、壊されたり、乱暴な扱いを色々な所で受けました。教会は火を付けられて放火されたり、フランスでも同様です。

フランスでは、イスラム教のマホメットを少しでも悪く言うだけで大きな騒ぎがありますが、しかしその反面、教会では天主の御母の御像や、私たちの為に人となられたイエズス様の御像が壊されたり、侮辱を受けたりしています。それに対して何もなされていません。

この十字架の元に佇むマリア様、十字架に付けられたイエズス様を黙想致しましょう。

十字架の上に付けられるイエズスの聖心、人類に大きく開かれようとするイエズス様の聖心、そこから御血と御水を流して、私たちを浄めようとする聖心。

御恵みを、無限の功徳を、イエズス様と共に、イエズス様を御捧げしながら、十字架の元で立ち留まりながら、イエズス様の聖心と共に、無限の功徳を勝ち得て、共償者となられた聖母マリア。

二人の御心は、天主聖父の御旨を果たそうという愛から、人類を救いたい、天国に導きたい、罪の赦しを得たい、永遠の地獄の火から守りたい、幸せを、本当の幸せを与えたい、その為に、どのような苦しみも厭わない、愛の炎で燃えておられました。

イエズス様の聖心とマリア様の御心は、私たちの心も「真似するように」と招いておられます。その招きに応じる事ができるように、たくさんの御恵みを与え続けておられます。多くの霊魂を救う事ができるように、悲しみから救う事ができるように、苦しみから救い出す事ができるように、私たちを使おうと、私たちに呼びかけておられます。

イエズス様とマリア様と共に、この世の贖いと救いの為に、共に力を尽くし、遂には共に永遠の勝利を分かち合う事を望まれておられます。私たちは御聖体の前で招かれました。

イエズス様とマリア様の無限の功徳によって、罪人の回心を乞い願いましょう。

罪を犯そうとしていた人が、天主の御旨よりも、天主の掟よりも、自分の望みを果たしたいと思っていた人々が、それを放棄して、天主の為に十字架を捧げる事ができますように、天主の御旨に従う為に、十字架のいけにえを捧げる事ができる勇気を持つ事ができますように。

イエズス様の十字架の元には、本当の幸せと、安らぎと、良心の喜びがあります。

それを離れたところでは、たとえ自分の思い通りにやっていても、自分の欲望を果てしなく満たそうとしていたとしても、虚しさと、孤独と、不幸と、悲しみがいつも付きまといます。

御聖体の内に真に在し給うイエズス様の聖心、御身を愛する為に、日々の祈りと十字架を御捧げする事ができるように、助けて下さい。




身の周りで見かけた花たち お茶の木、サルスベリ、イタドリ、ランタナ、クサギ

2020年09月16日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

天主様がお創りになった花たちです。周りで見かけました。

お茶の木の花

サルスベリ






イタドリ




ランタナ



クサギ




聖体降福式にてイエズスの至聖なる聖心が、日本に住む全ての人々を憐れんで、特別の御恵みを下さるように乞い求めましょう。

2020年09月16日 | お説教・霊的講話
2020年9月4日(初金)御聖体降福式にて

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父

御聖体の内に真に在し給うイエズス様の聖心の御前で、礼拝と、感謝と、讃美、罪の償いをお捧げ致しましょう。

イエズスの至聖なる聖心が、日本に住む全ての人々を憐れんで、特別の御恵みを下さるように乞い求めましょう。

聖ピオ十世会の司祭、多くの司祭が輩出して、常駐しますように。教会、修道院、学校などが与えられますように。

多くの霊魂が、聖伝のカトリック信仰と、洗礼の御恵みを受けて、聖伝のミサに与り、恵みを受けて、聖なる家庭、多くの良い子供たちに恵まれた良い家庭を築き、公教会の発展の為に、霊魂の救いの為に、祈りと犠牲を多く捧げる事ができますように。

先日洗礼を受けたバルトロメオ、それから今度来週洗礼を受けようとする子供の為にも、そして結婚しようとするカップルたちの為にも、ミサにこれから与ろうとする多くの方々の為にも、お祈り致しましょう。

病で苦しむ人々の為にも、日本のカトリック教会と、教皇様、司教様、司祭、聖職者たちの為にお祈り致しましょう。特に聖ピオ十世会の司祭、司教様たちの為にお祈り致しましょう。

日本の将来の首相や、アメリカの大統領の為にもお祈り致しましょう。




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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