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【拡散願います】ヴィガノ大司教「私たちが無条件で支持すべきだとされているのは聖伝ではなく、その聖伝に矛盾しその聖伝を汚した唯一のイベントなのです」

2020年09月04日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ヴィガノ大司教は、「教会の真の聖伝を守ること」とは何か?という問いについて、1985年にラッツィンガー枢機卿が発言した言葉を考察します。

ラッツィンガー枢機卿はこう答えています。「私たちは教会の今日に忠実であり続けなければならないのであって、教会の昨日や明日にではありません。…教会の今日とは、第二バチカン公会議の諸文書です。」

ヴィガノ大司教はこう指摘します。「公会議の名によって、「古い宗教」の教義的、道徳的、典礼的、霊的、規律的な体系が破壊され、二千年に及ぶ無謬の教導職への忠実は捨てられたが、しかし、「教会の今日」の新奇性を守るための無条件の服従と弁護が「教会の真の聖伝を守ること」とされている、第二バチカン公会議のほうが、過去からの「信仰の遺産」よりも重要になってしまっている」と。

「さらに、これは「連続性の解釈学」とも矛盾している、何故ならもし昨日の教会が存在しないなら「連続性」とは意味を失うからだ」と。

では、ヴィガノ大司教の手紙の日本語訳をお読みください。これをいつものように素晴らしく訳してくださった大阪と東京の両の信徒会長に感謝申し上げます。

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ヴィガノ大司教「第二バチカン公会議とバロン司教のウェブサイト『Word on Fire』について」マイケル・J・マット(The Remnant編集者)

イタリア語

(マイケル・J・マットによるまえがき)
2020年8月

大司教様、

おそらく、あなたはこの件を興味深く思われることでしょう。ご存知のように、ロバート・バロン司教は米国で最悪の司教でないのは確かです。私は過去に彼のいくつかの講演から恩恵を受けてきましたので、彼の誠実さに疑問を投げかけたくはありません。しかし、彼が最近投稿した第二バチカン公会議についての捉え方には、ここで詳細に述べているように、多くのレベルで問題があると感じています。

このイニシアティブが開始されたことが、この同じテーマに関するあなた自身の最近の手紙の数々と何らかの関係があったかどうか私にはわかりません。しかしこのイニシアティブは、第二バチカン公会議の悲惨で、また拘束力に欠ける様々な新奇性に対する伝統的なカトリックの抵抗に対して、(それを中傷するとは言えないまでも)、それを不適切なものとさせようとする見え透いた試みのように、私には見えるのです。

バロン司教と「Word on Fire」【米ロサンゼルス大司教区の補佐司教である同司教を支援するメディア使徒職やそのウェブサイトのこと】のチームが行う主張に対するあなたの反応を私はぜひ知りたいと思います。もしそれを読者の皆さんにもご紹介することをお望みでしたら、喜んで公開させていただきます。あなたに天主の祝福がありますように、マリア様があなたを守られますように。

王たるキリストにおいて
マイケル・J・マット

【ヴィガノ大司教の返答】

親愛なるマイケル、

「Word on Fire」が公表した「公会議に関するカテキズム(catechism on the Council)」を見ましたので、ご要望にお応えして、簡潔な考察をお送りします。

よくある質問(FAQ)の詳細には触れません。なぜならこのFAQは、道具の使い方やコールセンターの管理方法についての説明書のような用途のために、よりふさわしいようなものに思えるからです。その代わり、私はベネディクト十六世による序文に焦点を当ててみたいと思います。

「今日、教会のまことの伝統を守ることは、公会議を守ることを意味します。・・・私たちは教会の今日に忠実であり続けなければならないのであって、教会の昨日や明日にではありません。そして、この教会の今日とは、第二バチカン公会議の諸文書であって、それらの文書を切り刻むような留保も、歪曲するような恣意性もあってはなりません」。

“To defend the true tradition of the Church today means to defend the Council. . . . We must remain faithful to the today of the Church, not the yesterday or tomorrow. And this today of the Church is the documents of Vatican II, without reservations that amputate them and without arbitrariness that distorts them.”

教皇【ベネディクト十六世】は、確実なこととして、「今日、教会のまことの伝統を守ることは、公会議を守ることを意味します」と述べ、そして「私たちは教会の今日に忠実であり続けなければならない」と述べています。 この二つの命題は、互いに補完し合うものですが、聖伝の中にはそれを支持するものは何もありません。それは、教会の今が、いつも教会の過去と切っても切れない関係で繋がっているからです。

殉教者たちが「昨日」証ししたことを、
私たちは「今日」守り、私たちの子どもたちは
「明日」告白するのです。 ―ヴィガノ大司教

教会は三つの次元から構成されています。一つは天国の「凱旋の教会」、一つは地上の「戦闘の教会」、もう一つは煉獄の「苦しみの教会」です。同じ教会のこれら三つの次元は密接に結びついており、凱旋の教会の次元と煉獄の教会の次元は、「超歴史的」あるいは「超時間的」な形而上学的現実の中に存在しており、一方、戦闘の教会だけは時間の経過によって与えられた偶発的なものである「今日」を持っていることが明らかですが、教会の本質、使命、そしてとりわけあらゆる教理を変えられるものは何も存在しないのです。したがって、「昨日」が取り返しのつかない過去のものであり、「明日」がまだ起こっていないことであるというような、「今日」だけから成る教会などというものは存在しません。キリストが「昨日」教えられたことを、私たちは「今日」繰り返し、キリストの代理者たちは「明日」告白します。殉教者たちが「昨日」証ししたことを、私たちは「今日」守り、私たちの子どもたちは「明日」告白するのです。

また、「私たちは教会の今日に忠実であり続けなければならないのであって、教会の昨日や明日にではありません」というもう一つの命題も提示されています。重要なことは、この命題が第二バチカン公会議の支持者たちによって採用されたことであって、まさにその目的は、「過去」を消し去り、当時の「今日」の公会議革命を肯定し、そして今私たちが直面している「明日」の危機を準備するためだったのです。そして、ラッツィンガーの言葉を使って言い換えるならば、まさしくそのような公会議を望んでいた革新主義者たちは、教会の途切れることのない教導職をまさに「切り刻むような留保」と、それをまさに「歪曲するような恣意性」によって、その命題を実行したのです。

私たちが無条件で支持すべきだとされているのは
聖伝ではなく、その聖伝に矛盾し、
その聖伝を汚した唯一のイベント
なのです。 ―ヴィガノ大司教

革新主義者たちが、「昨日」第二バチカン公会議において聖伝に反して実行したことが、「今日」彼らに当てはまらない理由が私には分かりません。公会議の名によって、司牧的であるという名目で(彼らの言うところの)「古い宗教」の教義的、道徳的、典礼的、霊的、規律的な体系を破壊することを躊躇しなかったこれらの革新主義者たちが、今日、自分たちの無謀な新奇性を守るために恥ずかしげもなく要求するのは、彼ら自身が二千年に及ぶ無謬の教導職には適用することを望まなかったまさに無条件の服従と弁護なのです。そして私たちが無条件で支持すべきだとされるのは聖伝ではなく、その聖伝に矛盾し、その聖伝を汚した唯一のイベントなのです。純粋に論理的な観点からだけから見ても、このような推論にはたいして信頼性がなく、「公会議の教会」の自己参照性を再確認することに限定されており、公会議以前の教皇たちの途切れることのない教えとは断絶しているように思えます。

さらに、このベネディクト十六世からの引用はまた、公会議を教会の過去との断絶としてではなく、まさに教会の過去との連続性の中で受け入れられるべきだとする【同教皇の】「連続性の解釈学」とも矛盾しているように私には思えます。しかし、もし昨日の教会が存在しないとすれば、公会議解釈の想定されている「連続性」とは、いったい何を指していることになるのでしょうか。これはまたひとつの哲学的な語呂合わせのようなものであって、残念ながらそれが定式化された時から失敗の兆しを見せていたのですが、今日では最高の玉座【教皇】から否定されているのです。

もし昨日の教会が存在しないとすれば、
公会議解釈の想定されている「連続性」とは、いったい何を
指していることになるのでしょうか。 ―ヴィガノ大司教

私たちは、第二バチカン公会議の熱心党の者たちが「公会議のカテキズム」ごときを作成するところまで「彼らの公会議」の擁護に献身していることを、「驚き」をもって見ます。もし彼らが、まさに「公会議の刷新」の名によって教会の不変の教理が否定されたり沈黙させられたりしたときに、それと同じような献身をもって、労を惜しむことなくその教理を再確認していたならば、今日みられるような信仰についての無知は広がらず、混乱も少なくなっていたことでしょう。しかし残念なことに、【彼らにとっては】第二バチカン公会議を擁護することが、永続する「信仰の遺産(depositum fidei)」を擁護することよりも重要なことなのです。

+カルロ・マリア・ヴィガノ
2020年8月14日
童貞聖マリアの被昇天の前日





「助産婦の手記」41章  自発的に取運ばれるものは良い結果になる

2020年09月04日 | プロライフ
「助産婦の手記」

41章

一部屋だけが、彼らに割り当てられた。その部屋に今、父と母が、二人の子供と祖母と一諸に住んでいる。この夫婦は、若い快活な人たちであって、彼らはアルサスで、中くらいの大きさの農場を手に入れていたが、これを妬(ねた)む人々のいまわしい策略によって、そこから追い払われ、そして改めてこの村に定住するために、いま国家から賠償を与えられるのを待っていたのである。その間、夫婦は、農業の手伝いをした。そこで彼らは、生活上の困難は全くなかった。彼らは、百姓仕事には慣れているから、それは過度の労働とならない。しかし、部屋の狭いことは、特に日中が短くなればなるほど、ますます強く彼らの重荷となった。夏には、それでも、時々互いに夫たり妻たることが可能であった。その頃は、お祖母さんは、子供を連れて漿果(しょうか)【ベリーなどの果実類】や茸(きのこ)を採りに、一日中、森の中へ行ったし、また子供を連れて、知人のもとへ数泊の訪問に出かけたことも、三度あった。今は、しかし、初冬の湿気と寒冷のため、そういう所に行くには道は遠すぎた。よくお祖母さんは、森の中に行きたいと頑張った。しかし、父親のディーツが、年寄りを独りで行かせないことは、明らかであった。

晩秋から初冬へかけての長い、暗い、そして寒い毎日を、その部屋の狭さに、彼らは圧迫された。昼も夜も、一緒にいなければならないということは、堪えられぬ重荷のように、みんなの気持ちの上にのしかかった。彼らは不満足となり、意地悪くなり、そしてとがった言葉や、近寄りにくい態度をとって、互いに傷つけ合い、もはや互いに理解することができず、離ればなれの生活をしはじめた。そして誰もが、一体自分のどこが悪いのか、そして、ほかの者は、なぜそんなに変わって来たのかが判らなかったのである。

彼らに、もっと広い部屋を与えてやることは、たやすく出来たであろうが、誰も、義務もないのに、そうしてやろうと考えるものは、なかった。誰も、ここで燃えくすぶっている困難を、ふり向いて見ようとはしなかった。嘆かわしいことである。お役所から強いられた救済策によっては、真のキリスト的愛の最後の一片も踏みにじられる。進んで救済しようという意思は、すべて麻痺させられる。人々は、役所の命令を行っただけで、人間の人間に対する救助の一切の義務から免かれたものと感じるのである。また、幾分か社会政策的差別をつけられた租税にしても、これを納めることによって、公共に対する自分の負担は、それだけで果されたという感じを起させ、養うのである。いかにして、私たちは、この難点を克服すべきであろうか? 国家が、こう言うのは正しい。「事は迅速に取扱わねばならない。民間人が救助しようとしても、それは遙かに不十分であり、しかも事態は、彼等の良心がゆり動かされ、心の準備がととのえられるまで、待っているわけには行かない。」と。――確かに、その通りである。しかし、それにも拘らず、官僚的な処置は、すべて禍いである。私は、ある人たちが、その宿泊人に対して、自発的に、より広い一室を譲ってやったところ、部屋の取りかえが終ったとたんに、その部屋を役所から再び押収されたことを知っている。

このような例が一地方に、一つだけでも起るというと、救助しようという心構えは、ことごとく打ちくだかれてしまうのである。ところが悲しいことに、私たち人間というものは、良心に対するこのような冷却剤を非常に喜ぶのである。――

私は、家主の若い百姓夫婦にいろいろ説いた揚句、ディーツの家族のために、もっと大きな住み場所を提供する必要のあることを、彼らに認めさすことに成功した。私は、見そこなってはいなかった。その百姓は、何年も長い間、戦争に行って、困難をよく理解していたからである。なお私は、私が、『お得意を飲み廻ること』を目的としているんだという、悪意のない、からかいは、甘んじて我慢した。それも、その百姓の奥さんが、私たちのところへやって来て、春のお産の予定を書き留めさせた時には、ますます喜んで我慢したのであった。

しかし、とにかく自発的に取運ばれるものは、概して良い結果になるものである。その夫婦は、これまで家事の目的のために使用していた隣りの一部屋を明け渡しただけではない。彼らは、さらに、大きな飼料用の台所の一部分を、簡単な壁で仕切った。そこには、食卓、棚、かまどが、一個ずつあったので、一かどの住宅用の台所が出来上った。

この喜びたるや、恐らく、同じ様に絶望的に見える困難の下におかれたことのある人でなければ、理解できないであろう。はじめてディーツ奧さんは、お菓子を焼き、子供たちは喜んでお祖母さんの廻りを踊りまわった。かようにして、今まで慰めのなかった十一月の日々も、きょう、はじめて喜ばしくその一日の終りに近づいて行った。
『お母さん、とうとう僕たちは、また本当に一緒になれたね!』
『あなた、お父さん! そうですわ、とうとう、やっと……』
『お母さん、再会のお祝いをしようじゃないか。僕は、きょうはじめて帰宅したような気がするんだよ。お母さん、お前は僕がいないのが淋しかったかね? 正直に本当のことを言っておくれ。お前は、僕がいなくてもよかったかね、僕が恋しかったかね?』
『そうですとも、あなた、ほんとに心から。昼も夜も、私の心は、あなたを求め、そして私の心臓は、あなたを呼んでいたんです。あなたには、それが聞えませんでしたか?』
『僕は、たびたびお前の声を聞いたよ、お母さん。お前は、たびたび苦しい時に、僕を、支えてくれた。お前の忠実さと思慕(おもい)とが、僕を堕落から守ってくれたんだ。戦場では、誘惑と悪德が、どんなに身近に迫っているかということを、お前、想像できるかね? 死というものが、すぐそばに立っている場合には、どんなに下品な享楽に、誰でも誘われやすいものだということを?』
『わかりますわ、あなた。』
『そして、今はもう僕たちは、お互いに遠慮気兼ねは、いらないんだ。』
『そうです。お父さん。でも今は、困難はいよいよ本格的で、もっと切迫していますわ。私たちは、自分自身のお家がなくて、借りたベッドがあるだけですもの……』
『それでも、お母さん……』
『もし赤ちゃんが生れたら、どこに寝かそうというのでしょう?』
『ああ、それは僕たちの間に寝かせばいいよ。春が近づくと直ぐ、僕たち二人は、稼ぐんだ。もうわずか二三週間だけだ。そして、いつか、もっとよくなるに相違ないよ……』
『ああ、あなた、それまでは……』
『それは何でもないよ、僕たちにとっては、五人でも六人でも、また七人でも大丈夫だ、お母さん。僕たちは、どんなにわずかしか、人間は物いりがしないか、ということを学んだのだっけ……』
『そう、私たち、あなたと私とは、でも子供たちは……』
『僕の子供たちは、まだ飢えてはいないよ、お母さん。さあ。気を小さく持たず、恐れないで。天主様は、まだ生きていらっしゃるんだ。天主様は、全く思いも寄らず、とうとう、あの好奇的な子供たちの眼を恐れることなしに、僕たち二人だけになることが出来るようにして下さったんだ。』
『確かに、あなた!』――

一方、二階では、若い百姓は、妻に言った。『テレーゼ、お前、あの下の部屋を貸してやったことを悲しんでいるかね? しかし、そのことは、大へん急に起ったことだし、また多くのことが、とにかく以前よりは、もっと便利になるね。』
『そう、確かにそれは、ほんとです。それに、あの人たちは、正しい方でもありますから、私たちの子供のためになることでしょう。』と彼女は、喜ばしげに答えた。『私は、ほかの人たちが正しくないことをしているとき、私たちまでが、困っている人を救い出してあげることを考えないという、ただそれだけのために、同情のない人たちと同罪にはどうしてもなりたくないのです……』




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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