アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ヴィガノ大司教は、「教会の真の聖伝を守ること」とは何か?という問いについて、1985年にラッツィンガー枢機卿が発言した言葉を考察します。
ラッツィンガー枢機卿はこう答えています。「私たちは教会の今日に忠実であり続けなければならないのであって、教会の昨日や明日にではありません。…教会の今日とは、第二バチカン公会議の諸文書です。」
ヴィガノ大司教はこう指摘します。「公会議の名によって、「古い宗教」の教義的、道徳的、典礼的、霊的、規律的な体系が破壊され、二千年に及ぶ無謬の教導職への忠実は捨てられたが、しかし、「教会の今日」の新奇性を守るための無条件の服従と弁護が「教会の真の聖伝を守ること」とされている、第二バチカン公会議のほうが、過去からの「信仰の遺産」よりも重要になってしまっている」と。
「さらに、これは「連続性の解釈学」とも矛盾している、何故ならもし昨日の教会が存在しないなら「連続性」とは意味を失うからだ」と。
では、ヴィガノ大司教の手紙の日本語訳をお読みください。これをいつものように素晴らしく訳してくださった大阪と東京の両の信徒会長に感謝申し上げます。
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ヴィガノ大司教「第二バチカン公会議とバロン司教のウェブサイト『Word on Fire』について」マイケル・J・マット(The Remnant編集者)
(マイケル・J・マットによるまえがき)
2020年8月
大司教様、
おそらく、あなたはこの件を興味深く思われることでしょう。ご存知のように、ロバート・バロン司教は米国で最悪の司教でないのは確かです。私は過去に彼のいくつかの講演から恩恵を受けてきましたので、彼の誠実さに疑問を投げかけたくはありません。しかし、彼が最近投稿した第二バチカン公会議についての捉え方には、ここで詳細に述べているように、多くのレベルで問題があると感じています。
このイニシアティブが開始されたことが、この同じテーマに関するあなた自身の最近の手紙の数々と何らかの関係があったかどうか私にはわかりません。しかしこのイニシアティブは、第二バチカン公会議の悲惨で、また拘束力に欠ける様々な新奇性に対する伝統的なカトリックの抵抗に対して、(それを中傷するとは言えないまでも)、それを不適切なものとさせようとする見え透いた試みのように、私には見えるのです。
バロン司教と「Word on Fire」【米ロサンゼルス大司教区の補佐司教である同司教を支援するメディア使徒職やそのウェブサイトのこと】のチームが行う主張に対するあなたの反応を私はぜひ知りたいと思います。もしそれを読者の皆さんにもご紹介することをお望みでしたら、喜んで公開させていただきます。あなたに天主の祝福がありますように、マリア様があなたを守られますように。
王たるキリストにおいて
マイケル・J・マット
【ヴィガノ大司教の返答】
親愛なるマイケル、
「Word on Fire」が公表した「公会議に関するカテキズム(catechism on the Council)」を見ましたので、ご要望にお応えして、簡潔な考察をお送りします。
よくある質問(FAQ)の詳細には触れません。なぜならこのFAQは、道具の使い方やコールセンターの管理方法についての説明書のような用途のために、よりふさわしいようなものに思えるからです。その代わり、私はベネディクト十六世による序文に焦点を当ててみたいと思います。
「今日、教会のまことの伝統を守ることは、公会議を守ることを意味します。・・・私たちは教会の今日に忠実であり続けなければならないのであって、教会の昨日や明日にではありません。そして、この教会の今日とは、第二バチカン公会議の諸文書であって、それらの文書を切り刻むような留保も、歪曲するような恣意性もあってはなりません」。
“To defend the true tradition of the Church today means to defend the Council. . . . We must remain faithful to the today of the Church, not the yesterday or tomorrow. And this today of the Church is the documents of Vatican II, without reservations that amputate them and without arbitrariness that distorts them.”
教皇【ベネディクト十六世】は、確実なこととして、「今日、教会のまことの伝統を守ることは、公会議を守ることを意味します」と述べ、そして「私たちは教会の今日に忠実であり続けなければならない」と述べています。 この二つの命題は、互いに補完し合うものですが、聖伝の中にはそれを支持するものは何もありません。それは、教会の今が、いつも教会の過去と切っても切れない関係で繋がっているからです。
殉教者たちが「昨日」証ししたことを、
私たちは「今日」守り、私たちの子どもたちは
「明日」告白するのです。 ―ヴィガノ大司教
教会は三つの次元から構成されています。一つは天国の「凱旋の教会」、一つは地上の「戦闘の教会」、もう一つは煉獄の「苦しみの教会」です。同じ教会のこれら三つの次元は密接に結びついており、凱旋の教会の次元と煉獄の教会の次元は、「超歴史的」あるいは「超時間的」な形而上学的現実の中に存在しており、一方、戦闘の教会だけは時間の経過によって与えられた偶発的なものである「今日」を持っていることが明らかですが、教会の本質、使命、そしてとりわけあらゆる教理を変えられるものは何も存在しないのです。したがって、「昨日」が取り返しのつかない過去のものであり、「明日」がまだ起こっていないことであるというような、「今日」だけから成る教会などというものは存在しません。キリストが「昨日」教えられたことを、私たちは「今日」繰り返し、キリストの代理者たちは「明日」告白します。殉教者たちが「昨日」証ししたことを、私たちは「今日」守り、私たちの子どもたちは「明日」告白するのです。
また、「私たちは教会の今日に忠実であり続けなければならないのであって、教会の昨日や明日にではありません」というもう一つの命題も提示されています。重要なことは、この命題が第二バチカン公会議の支持者たちによって採用されたことであって、まさにその目的は、「過去」を消し去り、当時の「今日」の公会議革命を肯定し、そして今私たちが直面している「明日」の危機を準備するためだったのです。そして、ラッツィンガーの言葉を使って言い換えるならば、まさしくそのような公会議を望んでいた革新主義者たちは、教会の途切れることのない教導職をまさに「切り刻むような留保」と、それをまさに「歪曲するような恣意性」によって、その命題を実行したのです。
私たちが無条件で支持すべきだとされているのは
聖伝ではなく、その聖伝に矛盾し、
その聖伝を汚した唯一のイベント
なのです。 ―ヴィガノ大司教
革新主義者たちが、「昨日」第二バチカン公会議において聖伝に反して実行したことが、「今日」彼らに当てはまらない理由が私には分かりません。公会議の名によって、司牧的であるという名目で(彼らの言うところの)「古い宗教」の教義的、道徳的、典礼的、霊的、規律的な体系を破壊することを躊躇しなかったこれらの革新主義者たちが、今日、自分たちの無謀な新奇性を守るために恥ずかしげもなく要求するのは、彼ら自身が二千年に及ぶ無謬の教導職には適用することを望まなかったまさに無条件の服従と弁護なのです。そして私たちが無条件で支持すべきだとされるのは聖伝ではなく、その聖伝に矛盾し、その聖伝を汚した唯一のイベントなのです。純粋に論理的な観点からだけから見ても、このような推論にはたいして信頼性がなく、「公会議の教会」の自己参照性を再確認することに限定されており、公会議以前の教皇たちの途切れることのない教えとは断絶しているように思えます。
さらに、このベネディクト十六世からの引用はまた、公会議を教会の過去との断絶としてではなく、まさに教会の過去との連続性の中で受け入れられるべきだとする【同教皇の】「連続性の解釈学」とも矛盾しているように私には思えます。しかし、もし昨日の教会が存在しないとすれば、公会議解釈の想定されている「連続性」とは、いったい何を指していることになるのでしょうか。これはまたひとつの哲学的な語呂合わせのようなものであって、残念ながらそれが定式化された時から失敗の兆しを見せていたのですが、今日では最高の玉座【教皇】から否定されているのです。
もし昨日の教会が存在しないとすれば、
公会議解釈の想定されている「連続性」とは、いったい何を
指していることになるのでしょうか。 ―ヴィガノ大司教
私たちは、第二バチカン公会議の熱心党の者たちが「公会議のカテキズム」ごときを作成するところまで「彼らの公会議」の擁護に献身していることを、「驚き」をもって見ます。もし彼らが、まさに「公会議の刷新」の名によって教会の不変の教理が否定されたり沈黙させられたりしたときに、それと同じような献身をもって、労を惜しむことなくその教理を再確認していたならば、今日みられるような信仰についての無知は広がらず、混乱も少なくなっていたことでしょう。しかし残念なことに、【彼らにとっては】第二バチカン公会議を擁護することが、永続する「信仰の遺産(depositum fidei)」を擁護することよりも重要なことなのです。
+カルロ・マリア・ヴィガノ
2020年8月14日
童貞聖マリアの被昇天の前日