Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ礼拝し希望し御身を愛します!御身を信ぜぬ人々礼拝せず希望せず愛さぬ人々のために赦しを求めます(天使の祈)

【再掲】ラ・サレットの山上における聖母マリアの御出現(1846年9月19日)

2020年09月19日 | カトリックとは
ラ・サレットの山上における聖母マリアの御出現(1846年9月19日)

メラニー・カルヴァの手記より

フランス語原文からの翻訳
訳者:トマス小野田圭志

 私はマクシメンを呼んで小高い丘に登りました。私はそこから牝牛たちがおとなしく寝ているのが見えると、再びそこを降りましたが、マクシメンも登って来るところでした。その時、私は突然、太陽よりもまぶしく輝く美しい光を見ました。私は「マクシメン、あそこに見える?ああ、びっくり!」という言葉を言うことしかできませんでした。同時に私は手に持っていた棒を落してしまいました。その時に何かしら心地よいものが私の心の中を通り過ぎ、私は引きつけられているように感じていました。私は愛でいっぱいの大きな畏敬を感じ、心は私より早く駆け出したいほどでした。

 私は、しっかりとこの不動の光を凝視していました。その光は開いたかのようになり、私はもっとずっと輝かしい、動く別の光に気付きました。この光の中には、頭を両手にうずめて、腰を下ろされているたいそうお美しい貴婦人がおられました。この美しい貴婦人はお立ちになられ、私たちをご覧になりながら普通に腕をお組みになると、私たちに次のようにおっしゃいました。

 「私の子供たち、いらっしゃい。こわがらないで。私はあなた方に、大いなる知らせを告げるためにここにいるのです。」

 この甘美でやさしいお言葉で、私はこのお方の所まで飛んで行きました。心はこの方に永遠にくっついて離れたくないと望むほどでした。美しい貴婦人のすぐおそばまで行って、御前の右寄りに立つと、このお方はお話を始められ、同時にその美しい御目から涙も流れ始めました。

 「もし、私の民が従おうとしないなら、私は御子の手がなさるがままにせざるを得なくなります。その手はもう私が支えることができないほど、ずっしりと重いのです。」

 「私はあなた方のためにずっと苦しんでいます!御子があなた方をお見捨てにならないようにと私が望む限り、私は絶えずそう祈らなくてはなりません。ところがあなた方と言えば、そんな事におかまいなしです。あなた方がこれから祈っても、行動しても、私があなた方のために負った苦しみを決して償えないでしょう。」

 「私はあなた方に、六日間の労働の日を与え、七日目は私に取って置いたのに、誰も私にそれを承知したがりません。それが御子の腕をこんなにも重くしているのです。荷馬車を御する人々〔注:当時は主に農夫たち〕は、御子の御名を途中に置かなければ話すことができません〔注:天主の御名をみだりに用いること〕。これが御子の腕をこんなにも重くしている二つの事なのです。」

 「もし収穫物が腐るなら、それはひとえにあなた方が原因です。」

 「私は昨年、あなた方にジャガイモでそれを示しましたが、あなた方はそれを気にも留めませんでした。それどころか、ジャガイモが腐っているのがわかるとあなた方は口汚くののしり、しかも御子の御名を用いていました。ジャガイモは腐り続けるでしょう。御降誕祭には、もう何も残っていないでしょう。」

 ここで私は、ジャガイモ(pommes de terre)という言葉を解釈しようと努めていました。私はそれがリンゴ(pommes)を意味すると理解していたように思いました。美しい、善いこの貴婦人は、私の思いを見抜いて、このように繰り返されました。

 「私の子供たち、あなた方は私の言う事がわかっていませんね?同じ事を言い直しましょう。」

 〔注:メラニーもマクシメンもフランス語がわからなかったので、聖母は農村方言で同じ事を言い直されて、話をお続けになった。〕

 「もし収穫物が腐るなら、それはひとえにあなた方が原因です。私は昨年、あなた方にジャガイモでそれを示しましたが、あなた方はそれを気にも留めませんでした。それどころか、ジャガイモが腐っているのがわかると、あなた方は口汚くののしり、しかも御子の御名を用いていました。ジャガイモは腐り続けるでしょう。そして御降誕祭には、もう何も残っていないでしょう。」

 「あなた方に小麦があるなら、蒔いてはいけません。あなた方が蒔くものは、全部動物が食べてしまうでしょう。芽が出るものも麦を打つ時に全部ちりになってしまうでしょう。大いなる飢饉がやって来ます。その飢饉がやって来る前に、七歳以下の子供たちは震えにかかり、腕の中に抱かれたまま死んでいくでしょう。他の人々は、飢えによって償いを果すことになるでしょう。木の実は悪くなり、ブドウは腐るでしょう。」

 ここで、私がうっとりと見ていたこの美しい貴婦人は、一言も仰せにならないまま少し間をおかれました。しかし、私にはこのお方が愛らしいお唇を上品に動かして話し続けておられるように見受けられました。その時に、マクシメンが自分の秘密を受けていたのです。次に、私の方に向き直って聖母は私に話され、フランス語である秘密を教えられました。その秘密の全部は以下の通りです。

 「メラニー、私が今あなたに告げようとしている事は必ずしも秘密にしておかなくてもよいことになるでしょう。あなたは、それを1858年に出版してもよいことになります。」

 「御子の代理者である司祭たちは、自分たちの悪い生活のため、又(ミサの) 聖なる玄義を執行する時の無礼と不敬虔のため、金銭や、名誉や、楽しみへの愛のため、司祭たちは、不潔さの汚水だめのようになってしまいました。そうです、司祭たちは復讐を呼び下しており、その罰は彼らの頭上に迫っています。司祭及び天主に奉献された人々は災いなこと!彼らは不忠実と悪い生活とによって、御子を再び十字架に釘づけにしているからです。天主に奉献されている人々の罪は天に届き、復讐を呼び下しているのです。ご覧なさい、その復讐はもう戸口まで来ています。人類のためにあわれみと赦しを願い求める人々がもはや見当らず、寛大な霊魂たちがもはやいなくなり、世界のために永遠の御父に対して傷のない犠牲を献げるのにふさわしい人がもう一人もいなくなってしまったからです。」

 「天主はかつてない方法で〔人類を〕打ち給うでしょう。」

 「地上に住んでいる人々は災いなこと!天主は御怒りの激しさをつのらせ給うでしょう。それで、多くの害悪が重なり、誰一人それから逃れられないでしょう。」

 「天主の民の指導者である長上たちは祈りと悔俊とをなおざりにし、こうして悪魔は彼らの知性を曇らせてしまいました。彼らは、いにしえの悪魔が彼らを滅ぼすためにその尻尾によってひきずり落そうとする『迷える星』となってしまいました。天主はあらゆる社会、あらゆる家庭の中で支配につく人々の間に分裂を引き起こすことを、いにしえの蛇に許し給うでしょう。人々は肉体的苦しみと道徳的苦しみを耐え忍ぶことになるでしょう。天主は、人間をその思いのままに任せ給い、三十五年以上にもわたって相次いで起こる天罰を送り給うでしょう。」

 「社会は最も恐ろしい天罰・重大極まりない出来事に直面しようとしています。人々は鉄の杖によって支配され、天主の御怒りのカリス(杯)を飲む覚悟をしなければなりません。」

 「願わくは、御子の代理者、教皇ピオ九世が1859年以後にはもうローマから出ないように。けれども、教皇は堅固で寛大であるように。彼は信仰と愛との武器で戦うように。私は教皇と共にあるでしょう。」

 「願わくは、教皇がナポレオンを信用しないように。ナポレオンは二心を抱いているからです。彼が同時に教皇と皇帝になろうとするなら、すぐさま天主は彼から手を退かれるでしょう。ナポレオンは、剣をもって強引に民に自分を高めさせようとしましたが、常に上昇しようと望みながらもまさにその同じ剣の上に墜落するかの鷲なのです。」

 「イタリアは、主の主であるお方のくびきを振り落とそうとした野心の故に罰せられるでしょう。又戦争に巻き込まれもするでしょう。いたる所で血が流され、教会は閉鎖されるか、汚されるかになるでしょう。司祭や修道者たちは捕縛され彼らは死に追いやられ、しかも非書な死に追いやられるでしょう。信仰を捨てる者も出るでしょう。真の宗教から離れてゆく司祭や修道者たちの数はおびただしいものとなるでしょう。その人々の中には司教さえもいるでしょう。」

 「教皇は奇跡を行う者たちを警戒するように。大気中と地上では最も驚くべき不思議な事が起きる時がやって来たからです。」

 「1864 年に、ルチフェルは数多くの悪魔共を引き連れて、地獄から解き放たれるでしょう。彼らは、天主に奉献されている人々においてでさえ、信仰を少しずつなくしていくでしょう。この人々は、特別な恩寵がない限り、悪しき天使の精神を受け入れてしまうようになり、このようにして悪魔共によって盲目にされるでしょう。信仰を全く失ってしまう修道院もあり、多くの霊魂たちを破滅させるでしょう。」

 「地上は悪い本であふれるでしょう。闇の霊はいたる所で、天主への奉仕に関わるすべての事柄に、全世界的なゆるみを引き起こすでしょう。これら闇の霊は自然に対して大変大きな力を持つでしょう。これらの霊に奉仕する教会も出てくるでしょう。これらの悪しき霊により、或る人々は一つの場所から他の場所に運ばれるでしょう。司祭たちでさえも、福音の善き精神、即ち謙遜と愛徳と天主の光栄の熱望との精神に導かれなかったために、そのように動かされるでしょう。」

 「死者と義人が蘇生させられるでしょう。(〔以下メラニーの注記〕つまり、人間たちをよりよく誘惑するために、それらの死者はかつて地上で生きていた義人の霊魂の姿をとるでしょう。このいわゆる「蘇った死者たち」は、その姿をした悪魔に他ならないのですが、真のキリストなるイエズスの福音に反する別の福音を説教するでしょう。彼らは天国の存在、地獄行きの霊魂の存在さえも否定するでしょう。これらすべての霊魂は肉体と結合しているように見えるでしょう。)真の信仰が消えてしまい、偽りの光が世を照らすために、いたる所で、異常で不思議な事が起きるでしょう。富の上に富を貯め込み、自分たちの権威を守って、思い上がりで支配することにしか心を用いなかった教会の君主ら〔枢機卿や司教たち〕は災いなこと!

 「御子の代理者(教皇)は非常に苦しまなくてはならないでしょう。しばらくの間、教会は大迫害に渡されるからです。これは暗黒の時となり、教会はぞっとするような危機を迎えるでしょう。」

 「天主の聖なる信仰は忘れられ、各人は自分自身に頼って行動し、同胞の上に立とうとするでしょう。世俗及び教会の権力が廃止され、すべての秩序とすべての正義が踏みにじられるでしょう。人殺し、憎しみ、ねたみ、うそと不一致しか見受けられなくなり、そこには愛国心も家族への愛もないでしょう。」

 「教皇は大変に苦しむでしょう。私は彼の犠牲を受け取るために終りまで彼と共にあるでしょう。」

 「悪人たちは、彼の命をたびたび狙うでしょうが、彼の日々を縮めることはできないでしょう。しかし彼も、彼の後継者も、天主の教会の勝利を生きて見ることはないでしょう。」

 「世俗の統治者たちは全員、ある同一の計画を抱くでしょう。それは、唯物論、無神論、交霊術などあらゆる種類の悪徳に道を譲るために、宗教の全根本を廃止し、消滅させるというものです。」

 「1865年には、聖なる地で忌わしい事が見受けられるでしょう。修道院の中では、教会の花(修道者たち)は腐り、悪魔はその心の王のように振舞うでしょう。修道院の頭である人たちは、自分たちが受け入れねばならない人々(入会志願者たち)に警戒するように。混乱、官能的快楽を愛する心が、全地上に広まったので、悪魔は罪に溺れた人を修道会に導き入れるために、あらゆる悪賢い手段を用いるからです。」

 「フランス、イタリア、スペイン、イギリスは、戦争状態になるでしょう。血は街路を流れ、フランス人はフランス人に、イタリア人はイタリア人に戦いを挑むでしょう。続いて全面戦争となり、それは恐るべきものとなるでしょう。しばらく天主は、もはやフランスをもイタリアをも顧みられないでしょう。イエズス・キリストの福音がもはや認められていないからです。悪人たちはそのすべての悪意を発揮して、人々は家庭においてでさえ、互いに殺し合い、殺戮し合うでしょう。」

 「(天主の)電撃的な剣の最初の一打ちで、山々と自然全体が激しい恐怖で震えるでしょう。人々の混乱と罪とが、天の円天井を貫き通してしまうからです。パリは燃え、マルセイユは飲み込まれてしまうでしょう。幾つかの都市は、地震によってゆさぶられ、飲み込まれてしまうでしょう。人々はすべてが失われたと思うでしょう。どこを見ても人殺し、どこででも戦争の騒ぎと冒漬が聞かれるでしょう。義人は大いに苦しむでしょう。彼らの祈り、彼らの悔俊、彼らの涙は天にまで届き、すべての天主の民は赦しとあわれみを乞い、私の助けと取りなしを願うでしょう。その時、イエズス・キリストは、御正義の業によって、義人たちへの大いなるあわれみの業によって、天使たちに命じて、御自分のすべての敵を死にいたらせるでしょう。突然、イエズス・キリストの教会を迫害する者と罪に溺れた人々全員は滅び、地上は砂漠のようになるでしょう。その時平和になり、天主と人々との間に和解が成るでしょう。イエズス・キリストは仕えられ、崇められ、光栄をお受けになり、いたる所で愛徳の花が咲きみだれるでしょう。新しい王たちは聖なる教会の右腕となり、教会は強く、謙遜に、敬虔に、貧しく、熱心になり、イエズス・キリストの御徳に倣うものとなるでしょう。福音はどこでも宣べ伝えられ、人々は信仰において大いなる進歩を遂げるでしょう。それは、イエズス・キリストの働き手の間に一致ができ、人々は天主への畏敬の内に生きるようになるからです。」

 「人々の間のこの平和は長くはないでしょう、豊かな収穫の二十五年間によって、彼らは人間の罪が、地上に起こるすべての苦しみの原因であることを忘れてしまうでしょう。」

 「反キリストの先駆者が、国々の軍隊を使って、真のキリスト、唯一の世の救い主に対して闘うでしょう。彼は多くの血を流させ、自分が神としてみなされるために、天主への礼拝を根絶しようと望むでしょう。」

 「地上はあらゆる種類の災害で打たれるでしょう。(それは広範に及ぶペストや飢餓に加えての事です。)最終戦争の時までいろいろな戦争があり、最終戦争は反キリストの十人の王によって遂行されるでしょう。この王たちは皆同じ一つの計画を持ち、彼らだけで世界を統治するでしょう。この事が起きる前に、世界には一種の偽りの平和が訪れ、人々は気晴らしの事しか考えず、悪人はいろいろな罪にふけるでしょう。しかし、聖なる教会の子ら、信仰の子ら、真に私に倣う人々は、天主を愛する心と、私にとって最も貴重な徳の内に成長するでしょう。聖霊に導かれた謙遜な霊魂は幸いなるかな!彼らの年月が満ちるまで私は彼らの側にあって闘いましょう。」

 「自然は人類に復讐を求めており、罪に汚された地土に起きるべき事を待ちながら、恐れに震え上がっています。」

 「地よ、震えおののきなさい。そして、あなた方、イエズス・キリストに仕えていると誓いながら、心の中では自分自身を崇めている者たちよ、震えおののきなさい。聖なる地が堕落しているために、天主は、あなた方を敵に渡そうとしておられるからです。多くの修道院はもはや天主の家ではなく、アズモデ〔注:トピアの書3:8参照〕とその手先共の牧場です。」

 「反キリストが、淫猥の師たるいにしえの蛇と交流あるヘブライの修道女、偽りの処女から(d 'une religieuse hebraique d'une fauses vierge)生まれるのは、この時期の事です。反キリストは、父が司...(ev... )で、生まれる時に冒漬を吐き、歯が生えているでしょう。一言で言えば、この子は悪魔の化身で、恐ろしい叫び声を上げ、不思議な事を行い、淫猥によってしか養われないでしょう。その子には兄弟たちがいて、彼らは反キリストのように悪魔の化身ではなくとも、悪の子となるでしょう。十二歳の時、彼らは勇敢な勝利をおさめるので、周囲から注目されるようになり、そうしてすぐに、地獄の軍団に助けられて、各々軍隊の頭となるでしょう。」

 「四季は変化し、地は悪い産物しか生み出さず、天体は規則正しい運動を失い、月は赤味を帯びた弱々しい光しか反射しなくなるでしょう。火と水とは地球上でけいれんのような動きをし、山や街を飲み込む恐るべき地震も起きるでしょう。」

 「ローマは信仰を失い、反キリストの座となるでしょう。」

 「空中の悪魔共は反キリストと共に、地上と空中で大いなる不思議を行い、人々はますます堕落していくでしょう。天主は、御自分の忠実なしもべらと善意の人々に心を掛け給うでしょう。福音はいたる所で説教され、すべての民、すべての国民は真理の知識を持つでしょう。」

 「私はこの地上に緊急の呼びかけを送っています。私は天で生きかつしろしめし給う天主の真の弟子たちに呼びかけます。私は、人となり給いしキリスト、人類の唯一かつ真の救い主に真に倣う人々に呼びかけます。私の子供たち、私への真の信心を持つ人々、私が御子へと彼らを導けるように自らを私に委ねた人々、私がいわば両腕に抱いて運んでいる人々、私の精神において生きた人々に呼びかけます。そして最後に、最後の時代の使徒たちに、世をさげすみ、自分自身をさげすみ、清貧に謙遜に、軽蔑と沈黙の内に、祈りと苦業の内に、愛徳と天主との一致の内に、苦しみの内に、世に知られずに生きてきた、『イエズス・キリストの忠実な弟子たち』に呼びかけます。今や彼らが出て地上を照らしに来る時なのです。さあ、私の愛する子らとして自分たちを示しなさい。あなた方の信仰が、この不幸な時代にあなた方を照らす光でありさえすれば、私はあなた方と共に、あなた方の内にいます。あなた方が、熱心によってイエズス・キリストの光栄と誉れとに飢え渇く人になりますように。光の子らよ、戦いなさい、あなた方がたとえ少数でしかなくとも。何故ならごらんなさい、すべての時の時、すべての終りの終りだからです。」

 「教会は影が薄れ、世界は茫然と驚くぱかりでしょう。しかしそこヘエノクとエリアが天主の霊に満たされて現われ、天主の力によって説教するでしょう。こうして善意の人は天主を信じ、多くの霊魂が慰められるでしょう。彼らは聖霊の力によって大きく進歩し、反キリストの悪魔的誤謬を断罪するでしょう。」

 「地上に住んでいる人々は災いなこと!血まみれの戦争と飢饉、ペストと伝染病が起こり、動物が恐ろしく雨あられと降るでしょう。都市をゆり動すほどの雷鳴、国々を飲み込んでしまう地震も起きるでしょう。空中では声がし、人々は壁に自分の頭を打ちつけ、死を呼び求めるでしょうが、他方では死は人々にとって拷問となるでしょう。血はいたる所で流されるでしょう。もし天主が艱難の時を短くされないなら、一体誰が打ち勝てるものでしょうか。義人の血と涙と祈りとを通して天主はなだめられ給うでしょう。エノクとエリアは殺され、異教のローマは消え失せ、天からの火が降って三つの大都市を焼き尽くすでしょう。全宇宙は恐怖に打たれ、多くの人々は、自分たちのただ中に生き給う真のキリストを礼拝しなかったために誘惑されるがままとなるでしょう。その時がやって来ました。太陽は暗くなってきました。ただ信仰だけが生き延びるでしょう。」

 「時は今です。奈落は開いています。見なさい、暗黒の王の王を。彼こそ、救世主と自称して自らの手下共を引き連れた獣です。彼は高慢にも天にまで達しようとして空中をかけ昇るでしょうが、大天使聖ミカエルの息一つで窒息してしまい墜落するでしょう。そして地上は三日間、絶えず天変地異にあり続けて、ついには火に満ちた腹わたを開くでしょう。獣は、その手下共を引き連れて地獄の永久の深淵へと、永遠に投げ込まれるでしょう。その時、火と水とは地上を清め、人類の為したすべての高慢の業を焼き尽くし、すべては新たになるでしょう。天主は仕えられ、光栄を受け給うでしょう。」

 次に聖母は、やはりフランス語で、私に「新しい修道会の会則」を教授なさいました。私にこの新しい修道会の会則を教授なさった後で、聖母は同じ仕方で〔注:農村方言で〕お話を続けられました。

 「もし彼らが改心すれば、石や岩が小麦に変わり、ジャガイモは地上にぱらまかれたように掘り出されるでしょう。」

 「私の子供たち、お祈りはちゃんとしていますか?」

 私たちは二人共、口を揃えて答えました。「いいえ、マダム。あんまりしていません。」

 「ああ! 私の子供たち、朝に夕によくお祈りをしなくてはなりませんよ。あまりうまくお祈りできない時には、天にまします一回、めでたし一回を唱えなさい。時間があってよくお祈りできる時には、それをもっとたくさん唱えなさい。」

 「少し年をとった女の人たちが幾人かミサに行くだけで、他の人たちは夏中、日曜日にも働いています。冬になると何をしてよいかわからなくなって、宗教を馬鹿にするだけのためにミサに行くのです。四旬節になると、彼らは犬のように肉屋に行くのです。」

 「私の子供たち、小麦が腐っているのを見かけませんでしたか?」

 私たちは二人とも答えて言いました。「ああ、いいえ、マダム。」

 聖母はマクシメンに向って語られました。

 「でも、私の子よ、あなたはル・コワンの辺りであなたのお父様と一緒にそういう小麦を一度見たはずですよ。畑の人があなたのお父様に『私の小麦がどんなに腐ってしまったか見に来て下さい。』と言ったので、あなた方は行きました。あなたのお父様が手に二三本の穂を取ってこすると、穂はちりになってしまいました。帰り道に、コールから半時間も離れていない所に着くと、お父様はあなたに一かけらのパンを渡してこうおっしゃったでしょう『お前、今年はパンをもらって食べなさい。小麦がこんなに腐ると来年は食べられる人がいるかどうかもお父さんにはわからんからな。』」

 マクシメンは答えました。「マダム、それ全く本当です。僕忘れていました。」

 至聖なる聖母は、お話をフランス語で締めくくられました。

 「さあ、私の子供たち! あなた方はこれを私のすべての民に伝えるのです。」

 たいそうお美しい貴婦人が小川を渡って二歩ほど歩くと、その方の後に続く私たち(後に続いたのは、このお方の輝きと、それにもまして私をうっとりとさせ心を溶かすように思われたご親切のために、このお方に引きつけられたからです)の方に振り向かれないでもう一度言われました。

 「さあ、私の子供たち! あなた方はこれを私のすべての民に伝えるのです。」

 それから貴婦人は、私が、牝牛たちがどこに居るかを見ようとして登った所まで歩き続けられました。御足は草の先端に触れるか触れないかで、草も曲がりませんでした。小高い所に着くと、美しい貴婦人は立ち止まり、私はすぐにこの方の前に出てもっとよく見ようとし、どの道を通ろうとされるかを察しようと努めました。私はこれを自分のためにしていましたので、自分が仕えているご主人様方や牝牛の事など忘れていました。私はずっと無条件に私の貴婦人様に惚れ込んでしまっていました。そうです、もう決して、決してこの方から離れたくありませんでした。下心もなく、これから生きていく間ずっとお仕えしたいという気持ちで後について参りました。私は貴婦人様と一緒にいると、天国ごっこの事など忘れてしまったように思いました。私はすべてにおいてこの方によくお仕えすることしか頭にありませんでしたので、この方が私にするようにお命じになる事なら全部私にもできるだろうと思いました。というのも、このお方は大変な力を持っていらっしゃるように見えたからです。貴婦人は私を引きつけるやさしい親切な目で私をご覧になり、私は両目を閉じてこのお方の両腕に飛び込みたくなりました。でも時間がなくてそれができませんでした。貴婦人は知らない間に地上からほぼ一メートルかそこらの高さまで上昇されました。そのまま空中におられながら、ほんの一瞬、私の美しい貴婦人は天をご覧になり、次いで地を右に左にご覧になられました。

 それからこのお方は、私を御自分の内部に引きつけたと思われたほどの、甘美な愛すべき、善い目で、私をご覧になりました。私の心はこのお方の心に向って開かれているように思われました。私の心はとろけてしまい、甘美さで心がふくらんでいた時、私の善き貴婦人のお美しい姿は少しずつ消えていきました。動く光が聖母の周りで増加してゆき、というよりは凝集してゆき、私がこれ以上長く聖母を見つづけるのを妨げているように思いました。そうして光はお体の部分を包み、お体は私の目から消えてしまいました。言い換えると、私の貴婦人のお体は溶けて光に変わってしまったようでした。そのようにして、球形をした光はゆっくり落ち着いて右の方へ昇っていきました。

 聖母が上昇されるにつれて、光の量が滅っていったのかどうか、或いは距離のせいで、聖母が上昇されるにつれて光がどんどん少なくなっていくように見えたのかどうかを、私は言うことができません。ただ言えるのは、いつまでも遠のいていって量が少なくなっていったその光が、ついには消えてしまった後でさえも私が頭を上げたまま、両目を光の所にしっかりと据えていたという事です。私が目を天空からそらして、辺りを見回すと、マクシメンが私を見ているのに気付いたので、彼に言いました。

 「マーちゃん、あれはきっと、私のお父さんの天主様か、聖母か、別の大聖女だったにちがいないわね。」

 するとマクシメンは空に手を伸ばして言いました。「ああ、本当に知りたいなあ!」

 聖母はとても背が高く、よく均整がとれておられました。一息で吹き動かされそうなほど軽そうに見えましたが、微動だにせず落ち着いておられました。お顔つきは威厳があって堂々としておられましたが、この地上のお偉い人のように堂々としておられたのではありません。畏敬の念を起こさせると同時に、聖母の威厳は愛の混じり入った崇敬の念を起こさせ、聖母は私を御自分の方へ引き寄せられました。御まなざしはやさしく、貫き透すようで、御目は私の目と話しているかのようでした。しかしその会話は、心を奪うこの美しさに向っての、深い生き生きとした愛の気持ちからのものでした。聖母は私を御自分に引き寄せ、御自分を与えたいと望んでおられるように感じました。けれどもそれは愛の表現であって、肉の言葉でもアルファベットの文字でも表すことができないものでした。聖母は白銀色の服をお召しで、とても輝いておられました。その服は物質的なものが全くなく、キラキラと移ろいきらめく光と光栄とで織りなされていました。この地上にはたとえるべき表現も比較できるものもありません。聖母は全く美しくあられ、全くの愛で形造られていました。聖母を目のあたりにすると、私は聖母に溶け込んでしまうのを待ちこがれるのでした。お飾りにも、御自分にも、たとえるべくもない女王の威厳、壮麗さ、雄大さが表われていました。聖母は童貞として、美しく、白く汚れなく、結晶のようで、輝いておられ、天的で、新鮮で、新しくあられました。「愛」という言葉が銀色の全く清らかなお口元から漏れているようでした。聖母は私に善き母、親切と愛らしさ、私たちへの愛と、同情とあわれみに満ちみている母として、お現われ下さったのです。

 御頭にかぶっておられるバラの花冠は、それについて想像することさえできないほど美しく、輝くものでした。そのバラの花は様々の彩りで、地上のものではなく、花冠は冠の形をして聖母の御頭を取り囲む花々の集まりでした。バラの花はそれぞれ変わり、というよりも取り替えられ、それぞれのバラの花の中心からは、うっとりとさせる光、バラの花をはっとさせるような美しいものにする光が一条ずつ出ていました。バラの花冠から金の枝のようなものと、光輝くものと混ざった多くの別の小さな花々のようなものが伸びていました。それは、全体としてとても美しい王冠の形をした髪飾りをなしていて、それだけでさえも地上の太陽よりも輝いていました。聖母はとても美しい十字架を首にかけておられました。この十字架は金箔張りに見えました。私が「金箔張り」と言いましたのは、ただの金の板ではないと言いたかったからです。私は何度もいろいろな具合の金箔張りのものを見てきましたが、私の目には、事実ただの金の板よりも金箔張りの方がずっと美しく見えたからです。この全く光輝く美しい十字架の上にはキリストが、十字架上に腕を広げておられるわれらの主が、おられました。

 十字架の両端の近くには、一方に金づち、他方に釘抜きがありました。キリストは自然な膚色をされていましたが、華々しく輝いておられました。全身から発せられる光は、私をかれの内に溶け込ませたいという望みで、私の心を引き裂く、まばゆく光る沢山の槍のように感じられました。時々、キリストは死んでいるかのように見えました。御頭を前にもたげ、御体はたわんでおられ、聖主を十字架につけていた釘が聖主を支えていなかったとしたら、今にも落ちてしまいそうな位でした。私は聖主にしみじみと同情を覚え、全世界に、知られていない聖主の愛を繰り返し告げたい、そして死すべき霊魂に天主に対する最も実感のこもった愛と、生き生きとした感謝の念を染み込ませたい、と思いました。天主は、今あり、かつてあり、又常にあられる方であるために、私たちを一切必要とされないのです。それなのに、ああ、人間に対する理解しつくせぬ愛! 天主は人となり結い、死を、そうです、死を望まれました。それは、私たちの霊魂と記憶とに、聖主が私たちに対して抱いておられる愛の愚かさをよく刻み込むためでした。ああ、私は私たちの善き救い主が私たちに対して抱いておられる愛を、そうです、その愛を繰り返し宣べるには、あまりにも不幸であまりにも表現力が貧しいとわかっています。私は何と不幸でしょうか。しかし、他方で、私たちが表現できない事でもよく感じることができるなんて、私たちは何と幸せでしょうか。父ある時は、キリストは生きておられるかのようで、御頭はまっすぐと伸び、目は開かれ、御自身の意志によって十字架上にましますようでした。又時々、聖主は話しておられるようで、私たちのため、私たちへの愛のため、私たちを御自分の愛に引き寄せるために、十字架上におられることや、聖主が私たちにいつでも新たな愛を抱いておられることや、始めの時からの愛と三十三歳の時の愛が、いつもこん日の愛であり、又将来にわたって常に変わらぬ愛であることを示したいと望まれているようでした。

 聖母は私に話されている間は、殆んど始終泣かれており、涙は一つ一つゆっくり流れ、おひざもとに落ち、光の火花のように消えてゆきました。涙は光輝き、愛に満ち溢れていました。私は聖母をお慰めし、もうお泣きにならないようにさせてあげたいと思いましたが、聖母には人々に忘れられた御自分の愛をよく示すために、涙を見せる必要がおありのようでした。私はこの身を聖母の両腕に投げ出して、こう申し上げたく思いました。「私のやさしいお母様、泣かないで! 私が地上のすべての人の代わりにお母様をお愛ししたいの。」

 しかし、聖母は私に「私を知らない人はこれほど多くいるのですよ。」と言われているように思われました。私は、一方では〔聖母の〕大きな愛、愛されたいという大いなるお望み、他方では〔人々の〕ひどい冷淡、ひどい無関心を見て、生と死のはざまにいました。ああ、お母様、全く美しい、全く愛すべきお母様、私の愛、私の心の心よ!..... 私たちのやさしい母の涙により、威厳ある風格、女王、主人としての風格は少しも損なわれず、かえって聖母は一段とお美しくなられ、より愛くるしく、より美しく、より力強く、より愛にあふれ、より慈母らしく、より慕わしく思われるようになりました。私は、私の心に同情と愛を引き起こしていたこの御涙を飲み込んでいたかもしれません。一人の母親が、しかもこのような母親が泣いているのを、彼女を慰めるべき手段も、その悲しみを喜びに変えるべき方法も、思い当るあらゆる手立ても取らずに見ているなんて、考え得るでしょうか?ああ、極めて善いお母様! 御身は、天主がもたらし得るすべての特権で形作られ、あたかも天主の能力を使い尽くされたかのようです。御身は善いお方です、その上天主の善良さによって善いお方でいらっしゃいます。天主は、御身を天と地との傑作としてお創りになることで、御身において大きくなられました。聖母は黄色の前掛けをお召しでした。何ですって、黄色?聖母は幾つか太陽が集まったものよりもずっと輝いている前掛けをしておられました。〔注:フランス語では普通太陽は「黄色」であって、「赤」ではない。〕それは物質的な布地ではなく、光栄、しかもキラリキラリとするこの光栄と、慕わしい美しさとの合成物でした。聖母における一切の事柄のために、私は、イエズスのこの世の死すべき生命のすべての状態において、イエズスを礼拝し、愛するべく力強く動かされ、あたかもそうするべくすべり込まされたようでした。

 聖母は二つの鎖をつけておられ、一方は他方より少しだけ大きく、狭い方の鎖には私が先ほど述べた十字架が掛かっていました。この二つの鎖は(「鎖」という名で呼ぶしかないので)、様々に変容するまたたく大閃光の、光栄の光線のようでした。お履物は(「履物」と言うより他はないので)、白で、ただし銀色のような白で光っていました。その回りにはバラの花があり、バラの花は目も暗むばかりの美しさで、それぞれの花の中心から大変美しい、目を楽しませる光の炎が発していました。お履物の上には金の締め金(しめがね)がありましたが、地上の金ではなく、むしろ天国の金でできていました。聖母を見奉ることは、もうそれだけで完全な天国でした。地上の事は忘れてしまっていたので、聖母には御自分の内に人を満足させるためのすべてがあったのです。

 聖母は二つの光に囲まれておられました。一つ目の光は、聖母のずっと近くにあるもので、私たちの所まで達していて、大変美しくキラキラした閃光で輝いていました。二つ目の光は、この美しい貴婦人の回りに広がっていて、私たちもその中にいました。この光は動かない(つまりキラキラしない)のですが、地上を照らす私たちの貧しい太陽よりも輝いていました。これらの光は少しも目を痛くしたり、疲れさせたりしませんでした。このすべての光、このすべての輝きの他に、更に光ないしは光線のかたまりか束が、聖母の御体や衣装のいたる所から出ていました。聖母のお声は甘美で、心を満喫させ、恍惚とさせ、心地よくしてくれました。それは人を満たし、すべての障害を取り除き、平穏にし、なごやかにさせるものでした。私は、永遠にこの美しいお声を飲み込みたいと望んでいたように思います。私の心は、聖母の内に溶解しきってしまうために、踊り或いは聖母を出迎えに行きたいようでした。

 私たちのやさしい母である聖母の両目は、人間の言葉では言い表せません。聖母の目について語るには、セラフイム(熾天使)が必要でしょう、いいえ、もっと必要で、天主脚自身のお言葉が必要でしょう。そのすべての能力の傑作であられる汚れなき童貞を形作られたこの天主御自身のお言葉が。

 威厳あるマリア様の御目は、光輝くもの(les brillants )、ダイヤモンドや最も珍しい宝石の数万倍も数億倍も美しく、二つの太陽のように輝いていました。甘美そのものの甘美であり、鏡のように澄んでいました。この両目の中に、天国が見えていました。御目は人を聖母に引きつけるものでした。聖母は御自分に引き寄せて御自分を与えたいと望んでおられるようでした。私は聖母を見れば見るほどますますよく見たくなりました。聖母をよく見れば見るほど、私はますます聖母をお愛しし、しかも全力を込めて愛し奉るようになっていました。

 その汚れなく美しいお方の御目は、天主への門のようで、そこから霊魂を陶酔させることのできるすべてが見えていました。私の目が天主の御母の御目と合う時、私は自分の内に幸いな愛の革命を、御母を愛し自分を愛で溶かすことを宣言する革命を覚えました。

 私たちは見つめ合いながら、目はお互いに目の流儀で話し合っていました。私は聖母の両目のまん中に接吻したかったほど、聖母をお愛ししていました。聖母の御目に私の心は感激しており、引きつけられ、聖母の心と溶け合っているようでした。それは、私の全存在の内に、甘美な震えを生じさせました。私は、聖母を少しでも不快にさせるようなわずかな動作さえしてしまうのを怖れていました。童貞の内にていとも清き童貞の御目を一目見ただけで、至福な者の天国にいるのに充分だったでしょう。それだけで、この死すべき生の歩みの中で起こるすべての出来事の中から、いと高き天主の御旨の充満に霊魂を入らせるのに充分だったでしょう。それだけで、霊魂に絶えざる賛美と感謝と、償いと贖罪の業を行わせるのに充分だったでしょう。この一目見ることだけで、霊魂は天主に集中し、又生ける死者のようになり、極めてまじめに見えるものでさえ、地上の事は子供の気晴らしのようにしか思えなくなり、天主の事と、天主の光栄となる事しか話されるのを聴きたくないようになるのです。

 罪こそ、聖母が地上で見いだす唯一の悪です。聖母は天主がお支えにならなければ苦しみの余り死んでしまわれるでしょう。

 アーメン。

1878年11月21日 カルテラ・マーレにて
イエズスのいけにえ、十字架のマリア










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