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2019年7月3日(初水)「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想しましょう。

2019年07月03日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2019年7月3日(初水)「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想しましょう。

聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。

御身のこの苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。

御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。

御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。

御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。

この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。

御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。

御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

 


「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのか?兄弟的矯正 fraternal correction と本当の従順について

2019年07月03日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

巡礼者の小道さんの「 「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのだろう?ーーデイブ・アームストロング師とテーラー・マーシャル師の論争を概観して」という記事を拝見して、
先日「「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのか?「教皇の不可謬の特権」についてどう考えるべきか?」という記事を書きました。

巡礼者の小道さんは、この乖離の問題を「有限性と弱さを抱えつつもやはり私の良心は、自分の眼に「黒」に映っているものを「白」と言うことはできない。」という論考で、現実に目をつぶることはできない、とその悩みを打ち明けています。

つまり、

信仰に反すること・信仰が禁止することを信じてはならない・行ってはならないと客観的に訴えている自分の良心の声を否定して、信仰に反すること・信仰が禁止することを「良いことだ」と教会の権威に従属させることが、天主の主権に従順であることなのか?

従順のために「黒」を「白」だと言う時、「個」としての私は、天主の御前で無罪なのか?責任は問われないのか?

あるいは「これは黒だ」と言うことが出来るのか?

==引用開始==

「これは『黒』だ」と叫んでやまない私の良心の声はどうなるのだろう。良心の声を、教導権や教区の教会権威の声の下に従属させることが即、教会を通して働く神の主権に恭順であるということなのだろうか。

「黒」は犯罪であり、隠蔽罪であり、組織的闇である。神が教会の教導権を通し主権的に働かれるという理念ゆえに、そして教区権威への恭順ゆえに、私が、この「黒」を「白」だと宣言するとき、「個」としての私は、正義なる神の前にはたして無罪なのだろうか、それとも有罪なのだろうか。恭順ゆえに、強いて自分自身を情報鎖国状態、霊的「北朝鮮」状態に置くことは、正義なる神の前に称賛されるべき行為なのだろうか、それとも糾弾されるべき誤った行為なのだろうか。

仮に「黒」が「黒」であった場合、上への恭順心からそれを「白」であると捉えようとした私の過ちの咎及び責任は、自分個人に帰されるのであろうか。それとも、それは組織の中の権威側の責任とされ、私は一切の倫理責任から解放されるのだろうか。

==引用終わり==

この問題の解決のために、先日「「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのか?「教皇の不可謬の特権」についてどう考えるべきか?」という記事では、ジョン・サルザとロバート・シスコウ共著の『教皇は本物か偽物か?』を推薦しました。

TRUE OR FALSE POPE?
Refuting Sedevacantism and Other Modern Errors
By John Salza and Robert Siscoe



まず、ひとつ区別しなければならないことは、何についてか?ということです。
何が自分の眼に「黒」に映っているものなのか?
何を「白」と言うことはできないのか?
ということです。

私たちが問題としている対象は、隣人の隠れた過失・隣人の行った行為の意図などのことではありません。
隣人が寝坊したのは、もしかしたら、私たちの知らない重大な理由があったかもしれません。お母さんが寝ずに子供の看病をして、朝起きられなかったのかもしれません。

そうではなく、
私たちがここでいう「黒」とは「信仰に反すること」「信仰が禁止すること」であり、
客観的に判断できることです。

私たちが問題としているのは、明らかに客観的に「信仰に反すること・信仰が禁止すること」を「良いことだ」とすることができるのか?ということです。

聖パウロは聖ペトロに、愛徳の一つである「兄弟的矯正 correctio fraterna」を行いました。

ケファがアンティオキアに来たとき、私は面と向かってかれに反対した。かれに非難するところがあったからである。というのは、かれはある人々がヤコボのほうから来るまでは、異邦人といっしょに食事していたのに、その人たちが来ると、退いて、割礼を受けた人々をはばかって異邦人を避けたからである。他のユダヤ人もかれにならって、いつわりの態度をとり、バルナバもそのいつわりにさそわれたほどであった。しかし私は、かれらが福音の真理にしたがって正しく歩んでいないのを見て、皆の前でケファにいった。「あなたはユダヤ人であるのに、ユダヤ人のようにせず、異邦人のように生活している。それなら、どうして異邦人にユダヤ人のようにせよと強いるのか」と。」
(ガラツィア2章)

もしも教皇様に、愛徳に押されて、尊敬を込めて、真理を語ったなら、「一致の敵」となるのでしょうか?真理を語ると「非国民」「非信徒」となるのでしょうか?

もしも私たちが、愛徳の故に、客観的な理由を説明しながら、毒を「毒だ」というと、敵になるのでしょうか?

「私があなたたちに真理を話したから、敵になったのか?」(ガラツィア4:16)

もちろん、私たちは、隣人の罪について判断したり宣伝したりする義務も権利もありません。

しかし、隣人が、或いは、長上が私たちに罪を犯すことを求めて来た場合、「信仰に反すること」「信仰が禁止すること」が求められてきたとき、私たちは従わなければならないのか、ということです。

親が子供に「銀行に強盗に行って稼いでこい」と言ったら、はい、といって素直にその通りをしなければならないのか?ということです。親がやれと行ったからやっただけだ、自分には責任がない、ということは言えるのか?です。

もしかしたら、11歳の子供であれば、親に指示されて悪事を手伝うことになったとしても、刑事上の責任は負わされないかもしれません。しかし、大人が、成人が、指示されたからと言って悪事を行うことができるのでしょうか?

いえ、私たちは、自分の行った行為の責任を問われます。「従順」のために悪事を行うことは本物の従順ではありません。聖トマス・アクィナスは「信仰に関わることである時、長上たちに対して兄弟的矯正を行使することが出来る」と教えています。

兄弟的矯正 fraternal correction について、本当の従順について、ルフェーブル大司教は、こう言っています。

「読者の皆さんはこんなことを言う誘惑に駆られているかもしれません。"では私たちにいったい何が出来るというのか? 私たちにこれをしろ、あれをしろ、というのは司教様なのだ。ほら、この公文書は(司教様公認の)要理委員会が、または別の公式委員会が発表したものだ。(公式の司教様の権威に抵抗しろというのか?)" では、信仰を失う以外に何も残っていないと言うのでしょうか? そのような対応をする権利はありません。聖パウロは私たちにこう警告しました。「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。」(ガラチア1:8)これが真の従順の秘訣です。」

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

追記:
このことに関して、歴史家であるロベルト・デ・マテイ教授は『教会史における教皇制度に対する愛と教皇に対する抵抗』Love for the Papacy and Filial Resistance to the Pope in the History of the Church, By Roberto de Matteiという本を出版しています。

Love for the Papacy and Filial Resistance to the Pope in the History of the Church
著者 Roberto De Mattei
寄与者 Raymond Leo Cardinal Burke
出版社 Angelico Press, 2019
ISBN 162138456X, 9781621384564
ページ数 232 ページ

2019年6月1日(初土)天の元后であると同時に、私たちを愛する無限の憐れみの母

2019年07月03日 | お説教・霊的講話
2019年6月1日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年6月1日、童貞聖アンジェラ・メリチアの祝日ですが、初土曜日ですので、マリア様の汚れなき御心のミサを捧げています。

特にこの御ミサは、5月3日に亡くなられたAさんの霊魂、そして全ての煉獄の霊魂の為に捧げています。煉獄の霊魂の永遠の安息をお祈り致しましょう。

今日このミサの感謝の祈りの後には、いつもの通り初土の信心として、御聖体降福式を行ないます。特に一緒に15分間、マリア様と共にロザリオの玄義の一つを黙想致しましょう。

特に今日は、昨日私たちが祝った、マリア様が天と地の元后であるという玄義を、ロザリオの栄えの玄義の最後の玄義を黙想する事を提案します。

またあるいはお望みであれば、栄えの玄義の第2、今週の木曜日、イエズス様の御昇天の祝日でしたので、その御昇天の玄義もあるいは黙想なさって下さい。

そして食事の後で、聖歌の練習もある予定です。どうぞ少なくとも、御聖体降福式、あるいはこの黙想に是非参加なさって下さい。

今日の御聖体拝領も、マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為になさって下さい。



「憐れみの玉座の元に、我らは信頼して近付こう。」

聖父と聖子と聖霊との御名よりて、アーメン。


愛する兄弟の皆さん、今日はマリア様の初土です。一緒に初土の信心を致しましょう。

マリア様の汚れなき御心の祝日のミサの最初には、司祭が入堂すると共に、聖歌隊はこう歌います、「憐れみの玉座に、私たちは信頼を持って近付こう。」

「憐れみの玉座」、マリア様の汚れなき御心の事です。なぜか?なぜ玉座?王の座る場所か?

なぜかというと、マリア様が天の女王であるから。

この事は古代から、旧約時代から、旧約聖書に書かれていました。雅歌という旧約聖書の中には、「さぁ、私の愛する者よ。私の所に来なさい。私はお前に王冠を授けよう。戴冠をさせよう。さぁいらっしゃい」と言われています。

教父たちは、「既にこれは、天主ヤーウェが、マリア様の霊魂に戴冠する事」を読んでいました。

ピオ十二世教皇様が特に、マリア様の、元后であるマリア様の祝日を制定しました。1954年10月11日の事でした。この10月11日というのは、「マリア様が天主の御母である」という事の大祝日です。そしてこの日に、特にこの日を選んで、「マリア様は天地の元后である。女王である。マリア様よりも偉い方は、イエズス様天主様を除いて、他にはいない。全ての天使、諸聖人、諸々の全被造物は、マリア様の玉座の下に服している。マリア様は、天の王イエズス様の元后、女王である」と。そしてその祝日を制定しました。

そしてその回勅を出した時に説明しています。これは古代から、教父たちが、聖人たちが、例えば聖エフレム、ニッサの聖グレゴリオなどから始まって、色々な諸聖人たちが、マリア様についてどのように仰っているのか、諸聖人からの讃美の連祷を引用して、「マリア様は聖人によって、『女王』と言われている、『主』と呼ばれている、『全宇宙の元后』と呼ばれている、等々」と引用して、「だから、マリア様のこの『元后』というのを、祝日を記念するのは、これは昔からの事であって、新しい事では全くない。私たちは旧約の時代から今に至るまで、マリア様をいつも元后だと信じ、そして敬ってきていた。」

そしてその後で説明をします、なぜマリア様がそれほど高い地位にいるのか?

理由が二つあります。是非知って下さい。

「なぜかというと、マリア様はその御受胎の瞬間から(というのは、マリア様がそのお母様の聖アンナ様のお腹に宿ったその瞬間から)、その一瞬も、罪に汚れた時が無く、ほんのちょっとたりとも、悪魔の支配下に置かれた事が無く、罪の汚れも無く宿られ、そしてその最初の瞬間から受けた御恵み、聖寵、成聖の恩寵というものは(これはピオ十二世教皇様がピオ九世教皇様を引用するのですけれども)、全ての聖人たちをはるかに超える御恵みを受けていたから。全ての聖人たちをはるかに超える御恵みを、その最初の瞬間に受けていたので、マリア様はその最初の瞬間から、極めて高い地位を受けておられた、愛を受けておられた。なぜかというと、私たちのその高貴さというのは、私たちがどれほど天主、聖であり、聖であり、聖である天主様と一致しているかにかかっているから。」

考えてもみて下さい。もしも金が純金であれば純金であるほど、汚れが無ければ無いほど、金がたくさんあればあるほど、それは貴重なものとなります。高貴なものとなります。

もしも霊魂に、天主様との一致が密接であれば密接であるほど、天主以外のものが無ければ無いほど、汚れ無き天主と一致すれば一致するほど、その量が多ければ多いほど、高貴なものとなります。

聖トマス・アクィナスの言葉を引用して、ピオ十二世教皇様は説明します、「善の源である天主様と緊密に一致していたので、マリア様はその最初の瞬間から、極めて高貴だった。天主の御母となる準備ができていた。天の元后となる準備ができていた。」

その天主の御恵みを受けるその心構えというのは、この一言にかかっていました、「我になれかし。我は主の婢女なり。しもべなり、奴隷である。私は全く無き者である。主の御旨のままになさって下さい。」自分を全く無にしたが故に、全く下の者としたが故に、天主の全てを受ける事ができました。

傲慢な者に、天主の御恵みが入る余地はありません。聖書にも書かれています、「天主は傲慢な者に抵抗する。」傲慢な人には、自分の事を天主よりも偉いと考える人には、天主の御恵みが染み通る余地がないからです。天主がイエズス様が、天主様が与えたくても与える事ができないでいます。

マリア様はその反対でした。謙遜の極致に立っていました。「全て主の御旨のままに。」すぽりと御恵みを受ける事ができました。全く一致しました。純金の、純粋の御恵みを受けました。

これが第1の秘密です。「最初の瞬間から、罪の汚れを知らなかった。」


そればかりではありません。第2の秘密は、マリア様が罪の汚れを知らないばかりか、「イエズス様と贖いの御業に協力したから」です。

私たちはともすると、辛い事があると、嫌な事があると、「えぇ!何でこんな、私は一体何か悪い事したのか!」「何でこんな事が起こるのか!」文句不平をブツブツ言うかもしれません。

マリア様は、罪の汚れが無かったにもかかわらず、一切無かったにもかかわらず、その影さえも無かったにもかかわらず、全く清らかな霊魂だったにもかかわらず、信じられないほどの苦しみを受けました。恐ろしい苦しみを受けました。想像をはるかに超える苦しみと、屈辱と、そして苦悩を受けました。私たちの想像を超えるほどのものでした。私たちを贖う為に、イエズス様と一致して、それを御捧げしました。

そのマリア様は今でも、更に人類の苦しみを、救う為に、その汚れ無き御心は屈辱を、侮辱を受けています。

マリア様はそのイエズス様との十字架に一致していたが故に、更にその聖寵は大きくなりました。イエズス様と一致して愛の行動を、愛を捧げたが故に、捧げれば捧げるほど、それは更に功徳を積む事となりました。

ですからイエズス様とマリア様は、二人で、人類の贖いを達成しました。アダムはたった一人で罪を犯したのではありません。エヴァの協力があったからこそ、原罪を犯しました。イエズス様もたった一人で罪を贖ったのでありません。イエズス様は、マリア様と共に、二人で、人類の罪を贖う事を御望みになりました。

ですから、イエズス様が勝ち取った全ての御恵みと贖いの功徳、祝福、満ち溢れるほどの祝福と喜び、天国の栄光というのは、これはイエズス様と更にマリア様との共同のものなのです。

マリア様はですから、天の元后、最高の地位に上げられました。なぜかというと、イエズス様、王であるイエズス様と共に、天国の栄光の功徳を勝ち取ったからです。人類の、贖われた人類の母となったからです。

ピオ十二世教皇様は言います、「私たちの母マリア様は、天の元后であると同時に、私たちを愛する無限の憐れみの母である。私たちの天に在すお母様である。私たちを慈しみ、憐れんで、私たちに救いの手を差し伸べる優しい母である。しかも極めて高い地位におられる母である。」

考えてもみて下さい。皇后陛下、あるいは地位の高い王様の女王様が、私たちの最も親しい人だったら、どれほど王様に私たちの事を簡単に言う事ができるでしょうか。マリア様はそれをはるかに超えた方です。なぜかというと、最高の地位にいる私たちの母親であるからです。本物のお母様であるからです。

ですからピオ十二世は、この5月の聖母の月に、マリア様の王冠、花の王冠をマリア様の為に御捧げしようと思われました。その回勅によれば、「この祝日には、全人類をマリア様の汚れなき御心に奉献する祈りを更新するように、唱えるように」と命令も出されています。

今日は私たちは御聖体降福式の時に一緒に、1日遅れですけれども、これを御捧げ致しましょう。マリア様の汚れなき御心に、私たちと、この御聖堂と、聖ピオ十世会と、日本を、御捧げ致しましょう。マリア様のその憐れみの玉座に、信頼を持って近付きましょう、讃美致しましょう。マリア様は私たちはどれほど愛する母であり、どれほど力のある憐れみの女王であるか。“Salve Regina Mater misericordiae.” 「元后憐れみ深き御母。」

今日のこの御ミサを、初土に、「マリア様が私たちの女王、元后である」という事を深く思いつつ、このミサを御捧げ致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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