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秋田巡礼-霊的講話【8】-2016年5月6日シュテーリン神父様「あわれみの御母」

2017年05月01日 | お説教・霊的講話
2016年5月6日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話8
「あわれみの御母」

同時通訳:小野田圭志神父


皆さんに憐れみの御母についてお話しする前に、16年前に一体何が起こったかという事を話したいと思います。

私はガボンで宣教師でした。私の同僚が、女の子たちの為の運動を創立しました。ガボンではファチマの聖母に対する非常に深い信心があります。教会はこのファチマの聖母の、マリア様の汚れなき御心への信心を教えています。私の同僚はファチマの信心会を通して、コルベ神父様について発見しました。「1917年にコルベ神父様が創立した無原罪の聖母の騎士会は、非常に私たちにとって大切だ」という事が分かりました。これはマリア様に対する信心だけでなく、私たちが必要としている戦いの精神を教えてくれるからです。特に若い人たちは青年は、「私たちには敵があって、この敵と戦わなければならない。もしもその敵と戦わなければ負けてしまう」という事が理解できていないからです。

このガボンの女の子たちの為の運動は信心会は、まず聖母の汚れなき御心に対する信心を深め、そして更にコルベ神父様の霊性に従って、異教主義、或いは不道徳、或いは不潔などに対して戦っていかなければならない、ということを目的に創立されました。

女の子たちは本当に私たちの驚く事には、それに従って、それを実践してきました。私の同僚はしばらくすると別の所に任命されて、私がその責任者になりました。このグループには300名の女の子たちがいました。この300名の会員からたくさんの召命が出ました。私はそのものすごいお恵みの目撃証人です。

1人の女の子は、脳のマラリアで、もう死ぬしかありませんでした。よく倒れてしまって気を失ってしまって、意識を失ってしまって、もう動く事もできずに、いつもベッドで寝ていました。私がガボンで会った女の子の内で、最も知性的で頭の良い女の子でした、その子はドイツ語さえも話せました。

この子は洗礼を受けていませんでした。異教徒の家庭に生まれて、そのお父さんは魔術師でした。そしてこの子がミッションに来てミサに与ると、その女の子を鞭で叩きました、「行ってはいけない。」

この子の試練は、そのようなお父さんを憎まないという事でした。まだ洗礼を受けてなかったにもかかわらず、周りのお友達や、その友達の女の子たちを皆このミサにミッションに連れて行きました。洗礼を受けるとすぐにカテキスタになって、公教要理を教え始めました。

その子は公教要理をあまりにも上手く雄弁にこう語りかけるので、それを聞いていた異教の未信者さんたちを非常にこう興味深く、「あぁ、そうか、そうか」と納得させていました。私がガボンから別の所に任命された時に亡くなりました、20歳でした。彼女はおそらく1000人以上の人々をカトリック信仰に導きました。

彼女の力はどこから来たのでしょうか?インマクラータ、無原罪のマリア様です。この子は無原罪の聖母の騎士を生きていました。

もう1人の女の子がいます。この子はミッションの所から8キロ離れた所に住んでいたのですけれども、毎日ミサに与りに来ました。その子は1時間歩いてタクシーを拾って、それからタクシーに乗って学校に来てミサに与って、その後でそのミッションに付いている学校、付属の学校に行きました。そのお爺さんはガボンの法務省の大臣でした。この法務省の大臣も魔術師でした。その大臣のお爺さんがこの子に、その「異教の魔術を習うように」と言いました。そのお爺さんがその子に聞いた時の周りに、10人以上それを目撃した人が聞いた人がいます、これは本当の話しです。

「私は、イエズス様とマリア様のものです。だからそうしません。」

するとこの元大臣のお爺さんはピストルを胸に付けて、「するのかしないのか。もししないなら、お前死ぬぞ。」

するとその子はお爺さんの顔を見て答えます、「私は死んだ方がましです。」

15歳の子が「私は死んだ方がましです」と答えました。今、彼女は聖ピオ十世会のシスター会のシスターとなっています。

このような話がたくさんあるのですけれども、もしも1つ1つ話したら、夜中までかかってしまいます。

そうしてそのガボンからポーランドに任命を受けたのです。実はポーランドというのはコルベ神父様の祖国で、無原罪の聖母の騎士のまさにその中心地でした。コルベ神父様が書いたポーランド語で、その原語で、その文章を、コルベ神父様が書いた物をその直に読むと、読めば読むほど、「これこそが本当に今必要なものだ」と感じます。

日本の長崎にも聖母の騎士会はあって、それは今でも続いています。でも残念ながらコルベ神父様の理想を変えてしまいました。

コルベ神父様はこの会員たちに、「インマクラータにお祈りして、カトリック信仰を持っていない人が信仰に導かれるように」と「回心の為に祈れ」と言いました。

コルベ神父様は皆に会員たちに言って、「悪と戦い、悪魔と戦い、罪と戦い、そしてそれに対する戦闘を挑む事」を望みました。

しかし現在では、この無原罪の聖母の騎士会は、「世界の平和」とか「人類の一致」とか、或いは「一人一人が幸せに生きよう」という事だけになってしまっています。

1999年に、黙想会の終わりに3名の方が来て、「神父様、聖伝の昔のままの聖母の騎士をやりたいのですけれども、何かして下さい」と言ってきました。そこで聖ピオ十世会の総長様であるフェレー司教様に言って、「聖マキシミリアノ・コルベが作ったそのままの、創立したままのその精神で、聖伝のままの無原罪の聖母の騎士会をまた復興させても良いか」と聞きました。すると「ポーランドだけ」という限定付きで、フェレー司教様は許可を下さいました。

そこでその創立の為に、マリア様の聖母聖月、5月の初土曜日、つまり5月6日、2000年の5月6日を選び、それが今日です、最初の入会式が今日行われました。聖伝に基づく無原罪の聖母の騎士会が今日、16年前にこうやって始まりました。明日、またそれについてもっとたくさん話をする事ができればと思っています。

では「憐れみの母」についての黙想を続けましょう。

天主の憐れみを受ける唯一の条件、これが「謙遜である」という事を黙想しました。天主の憐れみというのは、「本当にもう無であり、何でもない被造物に愛する注意を向ける」これが天主の憐れみです。「この憐れな、もうどうしようもない罪の私たちに、自分の憐れみを示して、その彼らをその罪の汚らしい泥の中から引き出して、きれいな光で満たして下さる」これが天主様の憐れみです。

また憐れみというのは、天主の最も偉大な属性であるという事を見ました。でもそれだけではありません。その他にも色々な属性があります。従って天主の憐れみというのは、その他の属性といつも連携させて黙想しなければなりません。例えば「全能と憐れみ」「全知と憐れみ」などです。

この世に私たちの主が来られた時には、その憐れみを最高度に表そうとして来られました。何故なら、「憐れみ」というのは「天主の聖心のそれ自体」であるからです。全ての光と、美と、善の宝のその宝庫であるからです。天主の憐れみとはつまり、「イエズス様の聖心」です。この聖心は閉じられているのではなくて開かれていて、私たちの惨めさや憐れさに開かれています。この聖心は十字架の上で苦しみ、死にます。お持ちになっているもの全てを与え、与え、与え、与え、与え尽くす事を望んでいます。

イエズス様の聖心というのは、ただ単にこの壁に書かれた絵ではありません。この聖心の御影は私たちの家に、イエズス様の愛するこの現存があるという事を思い出させてくれます。

皆さんの胸に、心臓がドキ、ドキ、ドキと動いていると同じように、今この部屋で、この御聖櫃の前で、イエズス様の聖心もドク、ドク、ドクと動いています。今ここで、皆さんの心に今、直接、直に、イエズス様の聖心からの憐れみが今流れています。

イエズス様の憐れみにはまた別の属性があります。使徒信教にあるように、「生ける者と死せる者の裁き主」です。裁き主は善人に報いを、悪人に罰を与えなければなりません。ところで憐れみというものは、罰を排除するものです。天主はその純粋に、ただただその存在に於いて、そのある者に於いて、純粋にただ憐れみだけを与えようとしています。そこで天主様は、憐れみだけ、純粋な憐れみ、憐れみそのもの、という存在を創造する事を考えました。その存在の最初から終わりまで、ただ有るものは憐れみ、そのようなものを。

聖ベルナルドによると、「この方は、裁く事もなく、罰を与える事もない。」たとえ悪いものを受けたとしても、侮辱を受けたとしても、ただ単に良いものを与え、与え、与え、与え、与え尽くして、そしてその目も当てられない惨めな子供に愛を注ぎ尽くす、そのような憐れみそれ自体を考えました、作りました。

この方は、この存在は、その子供から非常に悪い取り扱いを受けて、本当にもう悪さばかりさせられて、もう悲しい思いだけをされるのですけれども、決して「もういい加減にして欲しい、もう怒った、もう堪忍できない」と言う事が決してない方です。この方こそ、聖母マリア様です。聖ベルナルドはマリア様の事を、「“Misericordia pura”純粋な憐れみそのもの」と言いました。

大聖アルベルトという大聖人がいますが、この分厚い本を書いて、“Mariale”という「マリア学」という分厚い本を書きました。

聖トマス・アクィナスのお師匠様ですけれども、マリア様の事を深く研究した大聖アルベルトは、「マリア様の称号はこれにまとめられる、つまり、『憐れみの御母』であって『憐れみの元后』である」と言っています。

私たちが、「元后憐れみの御母…」と言う時に歌う時に、それはただ単にきれいな歌ではありません。これはこの言葉は、マリア様の最も深い存在の中核、その本質に行き当たるのです。

マリア様はイエズス・キリスト様の御母です。イエズス様の聖心は天主の憐れみの、地上における天主の憐れみです。マリア様は、この天主の憐れみそれ自体の母となるのです。天主イエズス・キリスト様は、その自分の持てる全ての憐れみを全くひっくるめて集めて、マリア様に全て与え尽くして、「マリア様、これはあなたのものです」と言うのです。

大聖アルベルトによると、「『憐れみの元后』という称号は、『憐れみの母』というよりも更に大事だ」と言います。

天主はマリア様が元后、女王であるという事を望みました。元后、女王いうのは権力を持っているという事です。女王というのは権威があるという事です。

マリア様には天主の全ての憐れみの御業が委ねられています。天主の憐れみの御業が皆さんの霊魂に、この世の中に現れるか現れないかは、マリア様にかかっています。天主の憐れみというのは、この天主の被っている王冠の最も美しい宝石です。そしてこの御自分の王冠のこう宝石を取って、マリア様に差し上げました。最もこの王冠の中で一番輝ける、一番美しい、最も大切な部分を全て、マリア様に差し上げたのです。これが、「天主はマリアに、憐れみの次元を全て委ねた」という事です。

一体何故でしょうか?何故天主は、その最も美しいものをこの憐れなこの被造物に与える、という謙遜を見せたのでしょうか?何故か分かりますか?

何故ならば、天主は私たちの霊魂を、「いかなる犠牲を払っても、いかなる値を払っても救いたい」と思っているからです。私たちは天主からあまりにも遠く離れていて、私たちの心はあまりにも天主の事に関心を持たなくて、全く冷淡で、全くこう冷たく氷のように冷えているので、「何とかして私たちの心を触りたい、こう心に辿り着きたい」と思っているからです。もしも天主様が御自分の姿を多くの人に現したら、多くの人は天主の御稜威に恐れおののいて、遠くに隠れてしまうかもしれません。その天主の正義、或いは裁き主という事に恐れおののくかもしれません。その天主に直接行くのを恐れるかもしれません。「私たちはあまりにも悪くて、あまりにも汚らしくて、あまりにも罪人なので、天主に直接行く事ができない」と言う人がたくさんいます。

これは本当です、信仰の真理です。もしも私たちが大罪の状態であるならば、このまま地獄に行ってしまう、これは真理です、本当の話しです。

私たちを励ます為に、この憐れなもう悲惨な私たちの前に、或る方が現われました。そしてこの憐れみ深い眼で私たちをご覧になっています。きっとお悲しみになっているかもしれませんけれども、いつも微笑んでおられます。たとえ私がその方を叩きのめしたとしても、決して私たちの元を離れずに、優しく眼差しを注いで下さる方です。その方はいつも私の胸のドアを優しくノックして下さいます。

私はそれに対して開きもしません。そして時々ドアを開けると、「また来たか!帰れ!」と言って外に出してしまいます。でもマリア様は変わりません。決して諦めません。私が生きている限り、いつも同じ憐れみを下さいます。限りのない際限のない憐れみです。マリア様は私たちを救い、私たちを幸せにし、私たちに命を与える事しか望んでいません。

では具体的にどうやったらそれがうまくいくのでしょうか?マリア様の事を今から黙想しましょう。マリア様の最も奥深くにある中核、核心は何でしょうか?「無原罪の御方よ、御身よ。御身は一体どなたですか?」

マリア様の心の奥深くには天主の愛が燃えて、それがマリア様を轟々と燃え立たせています。この天主の轟々と燃える愛は、マリア様の汚れなき御心によって現れています。この汚れなき御心は永遠に永遠に、天主の彼女に対するマリア様に対する憐れみを、いつも礼拝しています。この御心には自分の事は1つもありません。自分の事は、たったこのゴミの欠片のような小さなものもありません。たった1つのほんのちょっとしたこの自分の利益とか、或いは躊躇いとかもありません。

マリア様は従って聖寵に満ち充ちた御方で、全ての聖寵をその充満に於いて受ける事ができたのです。マリア様の御心には、御子イエズス様に対する愛で燃え立っているのです。

ではこの御子に対する愛とは何でしょうか?

御子を御胎内に宿し、そして十字架の上で亡くなるのを見るその時まで、愛というのは、全てをその愛する方と分かち合うという事です。

愛というのは、決して愛する人をそのまま打ち捨てる事がありません。信じられないその偉大な愛において、マリア様はいつも御子と共にいる事を望んでいます。イエズス様はマリア様を受け入れます。大聖アルベルトはマリア様の事を、「キリストの伴侶」と言います。最も謙遜なキリストの伴侶です。この模範はこのモデルは、夫婦が互いに愛し合っているという事です。

マリア様はご自分の心を全てイエズス様に捧げて、イエズス様は御自分の聖心を全てマリア様に捧げます。だから、「マリア様の汚れなき御心とイエズス様の至聖なる聖心のその2つの聖心は、分かち難く離れない」という信心があります。

ではこの聖心はどこで一番固く結び付くでしょうか?カルワリオです。ここに於いて私たちは、新しいアダムと新しいエヴァを、この2つの聖心が合体した時にここで、全ての救いの恵みが湧き出るのです。新しいアダムの従順、最初から最後に十字架に至るまでの従順。そして十字架の御下では、新しいエヴァの忠実さが終わりまであります。

この2つの聖心の最高のいけにえは、天主御父の聖心をも開きます。天主の聖心、開かれた聖心から憐れみの激流が、イエズス様の聖心を通して、そしてマリア様の御心を通して、全ての人々に、全ての被造物に流れ込むのです。

イエズス様の聖心と共にマリア様の御心こそ、天主の憐れみの源泉です。イエズス様の十字架の御下で、マリア様は全ての憐れみを、赦しの憐れみの恵みを自分で受けます。全ての人々の回心と聖化の恵みを受けるのです。マリア様の御心はもう満ち溢れんばかりに恵みに満たされています。その後にマリア様は私たちの方に向いて、無限の憐れみの御恵みを、その子供である私たちに下さるのです。それが永遠に至るまでのマリア様のお仕事です。イエズス様が十字架の上で亡くなったその瞬間から始まりました。

マリア様はイエズス様によって、私たちの母となるように任命をけます。人類の全歴史に於いて、全ての良い意思を持つ善意の人々に対して、全永遠に至るまでそれが働きます。

では憐れみの御母が具体的に一体何をなさるか、よく見てみましょう。憐れみの御母、憐れみの元后であるマリア様は、全ての憐れみを全く全て全て、私たちの為に、そしてご自分の為に受け取りました。マリア様はそしてルルドで、或いはファチマで、或いはラサレットで、或いは秋田でお現れになります。或いはその他の他の所で現れて、お恵みを与えます。マリア様は周りをご覧になって、その全ての子供たちをご覧になります。

でもその状況はどうでしょうか?マリア様は、例外なく全ての人が、恐ろしいもう悲惨な状況を見ます。誰もマリア様に関心を持ちません。他の人々は色んな事に関心を持って、色んな事に熱中して、色んな事をしていますけれども、ただ1つ、マリア様からお恵みを受ける事だけは無関心です。

想像して下さい。皆さんは或る時に任命状を受け取ります。その任命状には、「ある莫大な王国の王様、或いは女王様となる」という任命状でした。そしてその王として、或いは女王として、その王国に行くのですけれども、どこを見ても廃墟です。廃墟だけです。汚らしい汚物だけです。破壊されたものだけです。ちょうど原爆がドカンと色んな所で炸裂して、有るのは真平らにされた廃墟と死体だけです、ゴロゴロと転がっている死体だらけです。マリア様がお仕事を始める、任命された仕事を始めようとすると、その時に周りに見たのはこの状態でした。

他の横に座っている人の事は考えないで下さい、まずご自分の事を考えて下さい。「私」がまずそうでした。私の霊魂は罪によって全く崩壊されて、破壊されていて、汚らしく、汚れて、そして死体でゴロゴロしていて、もう壊れ尽くして、もう回復の余地のないほど真平らとなった霊魂でした。

憐れみの御母はそこで一生懸命働き始めました。憐れみの御母は私たちの霊魂一人一人に働きかけて、その憐れみを受ける妨害になる、邪魔になる障害物を全て取り除けて、天主の憐れみを受ける事ができるように一生懸命きれいにして下さいました。マリア様はどれほどすぐに、今すぐに天主の全ての美しさと全ての恵みをバッと一気に与えたいのですけれども、その霊魂はそれを受ける事ができません、壊れているので。

例えば、もう最高級の高い何千万円もする一本のワインを持って、そこでそれを受ける為に汚らしいワイングラスを持って、その中には腐ったもうトマトとか、腐敗した卵とか、汚らしいものだけでいっぱいのワイングラスです。その中にその最高級のワインを入れろというのですか?マリア様はまず私たちのワイングラスをきれいにする為に、この腐った卵とか腐ったキュウリとかを全部出します。

ではこの障害物は何でしょうか?2つあります。「罪」、「誤謬」。
罪と誤謬、その2つです。

罪人は、「私はもう駄目だ。でもこの罪は好きだ。」「私は臭い。でもこの臭さが好きだ。面白いから。」「お金もあるし、健康だし、臭くても何でも良いよ。マリア様はいらない。」これが罪です。

私たちはこの罪を犯しています。マリア様はこう考えています、「あぁ、何というかわいそうな惨めな子よ。お前は本当にめくらだ。おまえを苦しめて、お前を破壊し尽くしてしまうものにそれに閉じ込もって、それに気が付いていない。これらはお前を永遠の火に、燃え尽くす火に導くのだ。でもそれには全然関心を持っていない。」秋田のマリア様の涙はこれです。

また別の罪人は、この罪から何とかして脱出しようと思っているかもしれません、「はいマリア様、この罪から、もうこれをやめなければならないと知っています。はい、これは悪いのです、よく知っています。でも、今ではなくて後で。」でも、この後ではもう遅すぎるかもしれません。

では誤謬について考えます。誤謬とは何でしょうか?誤謬をそのまま信じている人は天主様の心を知りません。自分の事も知りません。天主がどなたであるか、また自分が誰であるかという事について誤解している人です。

宗教とは何でしょうか?宗教というのは、天主と私との間を繋げる「連結」です。天主、また私が何か、という事について間違った見解を持っていれば、このそれを繋ぐリンクも間違っています、そしてこれは間違った宗教です。

真の天主を知らない事は恐ろしい事です。カトリック宣教師の最初の仕事は、人々が真の天主の事を知る事です。

真の天主は仏陀ではありません。現代のユダヤ教のヤーウェではありません。イスラムのアッラーではありません。何故ならこれは、間違った天主の概念だからです。真の天主というのは、フリーメーソン的なこの全宇宙の建築者ではありません。このようなもしかしたら宗教には、天主に関する本当の特徴の一部があるかもしれません。例えばこの主張しているこの神々は、「この天地の創造主である」とか「生ける人と死せる人とを裁く者」とか。

でも見て下さい、皆さんお札があったとします。でもこの本物のお札が、これは本物か偽物が、どうやって調べますか?

皆さんに、私がこのプラスチックで出来たお札を見せた時に、「これがお金だ!」と言ったら、「ちょっとおかしいんじゃないですか?」と言われます。もしも偽札を作るとしたら、その本物のお札にできるだけ近く似たように作ります。

では、飲む事のできる飲用水と、毒の混じった水との違いはどこでしょうか?それはこうではありません、つまり100パーセント飲む事のできる飲用水と、100パーセントの毒ではありません。たとえこの中に、飲用水の中に一滴でも毒の猛毒を入れれば、これが飲む事のできない毒になります。この一滴でも毒があれば、飲んで下さい、死んでしまいます。

「あぁ神父様、でも99パーセント純粋な飲用水ですよ、たった一滴の毒じゃないですか。」

「じゃあ私がこれを飲んだ時に、99パーセント健康になりますね。」(それは嘘です!死んでしまします。)この様にたとえ思っても、そのような毒の入ったものは飲まないで下さい。

天主に関する間違った概念は、本当の天主に対する態度を間違えさせてしまいます。真の天主は、御自分から、自分がどなたであるか、という事を啓示して下さった天主です。真の天主というのは、私が「こうである」と自分で考え付いたものではありません。

また別の問題は同じような問題は、私たちが「自分が何であるか」という事を知らない事です。多くの宗教は、「人間に自由意志がある」という事を認めません。多くの霊魂は私たちの霊魂は、永遠の命を持っている、永遠の為に創られた、永久に死なないという事を教えていません。

この天主について誤っている、また人間に対しても誤っていれば、この天主と人間とを結びつけるものも誤っています、ですから宗教も誤っています。

マキシミリアノ・コルベ神父様はですから涙を流して、「どれほど多くの人々が、私たちを愛している天の聖父を知らないでいるのか」と嘆いていました。「彼らはこの最高のお母さんがいらっしゃるという事を知らない」という事で嘆いていました。

マリア様はこの闇の中に、暗い中に落ちている人を光に導きたいと思っています。これがマリア様の仕事の最初です。ここでマリア様が憐れみの御母という事が分かります、見えてきます。マリア様はその素晴らしい光の輝きで、闇に包まれている霊魂を照らし出します。罪の鎖にがっちりと繋がれている霊魂を、マリア様は信じられないやり方で解放します。

人間的に言えば、このような霊魂は救われるチャンスは全くありません。憐れみの御母は、日本にいる1億2300万人の人々をご覧になっています。また中国にいる10億人の人々、インドにいる10億人の人々をご覧になって、「あぁ我が子らよ、私の子供よ」と思っています。

マリア様の本当にもう目を見張るような模範です。

ある大陸は全く誤謬と異教の暗闇の中に深く沈んでいました。その彼らの持っていた宗教は子供を、自分の子供を殺す、人身御供にする宗教でした。1484年、そこにいわゆる自称司祭と言われている人々は、1日で2万3000人の子供たちを殺しました。

どうやって?

子供を石の上に乗せます。ナイフを持って、生きているその心臓を取り出して、そしてこの生きている心臓を石の蛇の顔をした偶像の口の中に入れます。この蛇の偶像は、そこの宗教によれば最高神でした。これはメキシコのアステカの宗教でした。

アメリカ大陸の発見の後にカトリック司祭がやって来ましたが、誰も回心しませんでした。多くの宣教師たちが続々とやって来て、メキシコで一生懸命働いて、教会を建てて、宣教するのですけれども、誰も回心しません。今日皆さんが目の前で見ている様な美しい祭壇を作って、そしてイエズス・キリスト様、真の天主がやって来て、そのイエズス・キリスト様の真のいけにえが捧げられていても、人々は遠くに離れていました。

何故遠くに離れたかというのは、その理由には色々ありました。たとえば征服者の悪い模範とか、或いは異教の宗教、元々地元にあった宗教の司祭たちが彼らに影響力を与えた、などの理由です。

12月9日、1531年12月9日の日にそれが突然変わります。多くの宣教師たちがようやく回心させたほぼ50名ぐらいの内の1人が、ある日教会にミサに与りに行く時に、声を聞きます。皆さん、この天主の御母がこの彼に言った、その優しい言葉を読んで下さい。このグァダルーペのマリア様がこのホアン・ディエゴに言った言葉1つ1つは、憐れみで満ちています。

まずマリア様は、ご自分を「真の天主の母だ」と言います。そして「自分はどのような犠牲を払っても、どのような値を払っても、霊魂たちを救いたい」と言っています。そしてアステカの言葉のそれに固有の表現を使って、このマリア様は全ての霊魂と全ての人々を、自分の胸のこの中にこう囲んでいるほど世話をしている、と表現しています。

でもこの人々はどのような人々でしょうか?昨日まで偽りの神に、自分の子供を生贄として捧げてきた人々です。現代の今日でも、まだこの目で見て、その感嘆する事の、驚く事のできる、賛美する事のできる素晴らしい奇跡を行いました。マリア様の本当のお姿を見せました。ホアン・ディエゴのこのマントに。グァダルーペのマリア様です。

そして1年で全メキシコは回心します。この太陽が上がってそしてこの日が沈むよりも早く、人々の心は回心して、マリア様に惹き付けられていったのです。20年の後には、全アメリカ大陸がカトリックになりました。この全大陸に行くまでもなく、マリア様は一人一人の霊魂に語りかけています、働きかけています。

今から話す話は、ユダヤ教のラビの息子の話です。この子にはこの息子には1つの天敵があります、「これだけは絶対破壊し尽くそう」という、それは「カトリック教会」でした。何故かというと、自分のお兄さんはカトリック教会に盗まれたからです、何故かというと、この自分のお兄さんはカトリック教会の司祭になったからです。

アルフォンソ・ラティスボンはカトリック教会を憎しみました。そしてヨーロッパに巡礼に行きます。ローマに行って友達に会います。友達は不思議のメダイをあげるのです。ラティスボンはもちろんその不思議のメダイなど信じていなかったのですけれども、友達を喜ばせる為にこのメダイを受け取ったのですけれども、そのローマから離れるその日、教会の中に行くのです。その教会の中で、マリア様の姿を見ます。マリア様の姿を見たその瞬間、ラティスボンは回心しました。イエズス・キリストのもう最悪の敵が、最も忠実な使徒になりました。

もう1人の話もさせて下さい。この人の事をよく知っています。この人をよくよく知っています。この方を見ると、憐れみの御母はどれほどの事をこの人にしたかがよく分かります。マリア様だけが、この人の心を変える事ができて、光を与える事ができます。そしてこの人にマリア様だけが、平和を与える事ができます。そしてマリア様だけが、この人を秋田に連れて行く事ができます。それは皆さんです。

マリア様だけが、この方を回心させて秋田のマリア様に連れて行く事ができるのですけれども、この方とは皆さんの事です。皆さんは実は、マリア様の憐れみによって光を得て、回心して、浄められ、聖化して、今ここに、この話を聞いているお恵みを受けました。全てマリア様の憐れみの結果です。

御復活祭からカトリック教会は特別な季節になりました。復活節です。Tempus Paschale.

2017年05月01日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!


愛する兄弟姉妹の皆様、

 5月1日、勤労者聖ヨゼフの祝日です。聖母の月が始まりました。5月は、シュテーリン神父様が日本に来られます。5月3日から5日までは秋田巡礼です。

 5月の初金と初土に大阪で、5月7日(主日)は東京です。
今回は、ドイツで最初に聖ピオ十世会の修道士となったクラウス修士(Br. Klaus)も来日される予定です。

 5月は、都合により、聖伝のミサはこの一回だけになってしまいました。(予定されていた5月21日は、フェレー司教様のマニラ訪問のためにフィリピンにいなければならなくなりました。)愛する兄弟姉妹の皆様の多くが聖伝のミサにお越しになることをお待ちしております。

 ところで、御復活祭からカトリック教会は特別な季節になりました。復活節です。Tempus Paschale. 復活祭から聖霊降臨後の土曜日(三位一体の主日の直前の土曜日)までの特別の期間を「復活節」と呼びます。

 カトリック教会は、大祝日には、七日プラス一日の、八日間(オクターヴ)付きで祝います。例えば、聖霊降臨や御降誕祭がそうです。復活祭もそうです。しかし復活祭の場合、大祝日中の大祝日なので七日プラス一日、復活祭のオクターヴ(第八日目)が終わるその日から数えて、さらに、七日掛ける七プラス一日(7x7+1)の五〇日の間、更に祝います。五〇は旧約聖書によると大きな喜びを象徴する数です。

 御復活祭が始まる前の季節はバビロン捕囚の七十年に例えられ、七旬節があります。七旬節の間、私たちはアレルヤを歌うことが出来ません。逐謫・流刑にあったようです。

 復活節にはアレルヤが追加されます。絶え間ないアレルヤの歌は、天国にいるかのようです。あたかもユダヤの民がバビロンから、乳と蜜の流れる約束の地に戻ってきたかのようです。御復活直後のイエズスも、弟子達の前で蜜を食べます。復活の主日の直後の主日には聖ペトロの書簡の言葉が響きます。「新たに生まれたみどりごのように、それによって救いに成長するために、まじりのない霊的な乳をのぞめ。」

 復活節の間(聖霊降臨の主日とその八日間を除いて)ミサ聖祭では司祭は喜びの白の祭服を着ます。復活の栄光の白、幼子のような汚れのない白、乳よりも白い輝きです。

 イエズス・キリストは、ご自分の血によってみどりごである私たちを養って下さいます。十字架の上での死によって、ご自分の羊の群れに命をお与えになります。御復活によって、道を迷って失われた羊である私たちに赦しと慰めと導きを与えます。聖ペトロはその書簡で言います。「あなたたちは、羊のように迷っていたが、今はあなたたちの霊魂の牧者と番人とのもとに帰ったのである。」私たちは全て、イエズス・キリストの元に群れをなさねばなりません。

 イエズス・キリストの生まれる二〇〇〇年前、異教の中から天主はアブラハムを選び、アブラハムから偉大な民を作り上げました。この民は、天主によって聖化され、天主のために聖別されました。

 ユダヤ民族が偉大なのは、アブラハムに由来するからではなく、この民からイエズス・キリストが生まれるべきであったからです。ユダヤの民は、祝された天主の御一人子なるイエズス・キリスト、約束された贖い主の故に特別なのです。

 天主はこの民を特別に愛し、保護し、この民から人類の贖い主と、贖い主の御母、使徒たちが生み出されました。ユダヤの民は、キリストにおいて、人類のために偉大な善を運びもたらしたのです。なんと祝された民でしょうか!

 しかし、残念なことに、ユダヤの民は書かれた律法と預言に不忠実でした。残念なことに、ユダヤの民は、救いの実体であるキリストよりは、印と陰にこだわっていました。イエズス・キリストを信じず、イエズス・キリストを拒否してしまいました。

 キリストは霊的に全世界を自分の元に集めようとしました。しかし、残念なことに、ユダヤ教は全世界の政治的な支配を求めていました。ユダヤ教は、霊的な救い主の代わりに、政治的なこの世的な救い主を求めます。

 イエズス・キリストは、全世界の民族を霊的に統治することを臨んでいます。イエズス・キリストは、霊的な救い主です。そこで、この復活節 Tempus Paschale の間、イエズス・キリストの昇天があります。私たちの祖国は天国にあることを教えるために。イエズス・キリストの統治が霊的であると教えるために。イエズス・キリストは、ご自分の霊、聖霊を私たちに送ります。聖霊によって教会を統治するように。新しい霊的なイスラエルであるカトリック教会の霊的な指導の下に、諸国が合い互いに助け合うように、望まれます。

さて、お便りを頂きましたので、ご紹介させて下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんにちは! お久しぶりです🙂 もう少しで 秋田巡礼ですね!

 昨夜 マテオによる聖福音の日本語の朗読を拝聴いたしてました、ありがとうございます。この朗読ファイルは、「天主様」で統一されていて、バルバロ訳の聖書も開いて時々聖書にも目を通しながら聴きました。貴重です。神父様のお声 若いです。時折ワンちゃん🐕の鳴き声が聞こえました、最後の28章になりましたら 「待て!おあずけ!」となりましたゆえ、神父様に御礼とお願いのメールを差し上げております。28章の件 どうぞよろしくお願い致します。また 神父様の聖書の朗読を 他のもお願い申し上げます。

 少し前のことですが、「イエズス・キリストが死なれた日は」(4月13日)にては、その説明を読みすぐに、神父様の説明と照らし合わせて 聖書の四つの福音書を開いてじっくりと読んでみました。過ぎ越しの食事をとる日が 共観福音書とヨハネ福音書において、ずれがあるというところです。そう言われてみると本当にそうです、自分が何も考えずに聖書を読んでいることをあらためて知らされています。これまで自分はそのような違いにも気づかないで聖週間を過ごしてきたのだなとわかりました。十二人の弟子たちや一般民衆と、上流階級・司祭階級・衆議所などというような人たちでは、過ぎ越しを異なる日に行っていたということを とてもくわしくご説明いただいて、・・まだ私は十分には理解できていないように思いますが・・感謝申し上げます。聖ヨハネは神殿に魚を卸していて、司祭職の人達の習慣にもよく精通していたのだという説明が思い出されました。また、用意日という言葉が福音書の中にあることも、すっかり見逃して読み過ごしていることにも気づきました。(用意日のことを バルバロ訳以外の聖書では、準備の日と訳していました。)イエズス・キリストが死なれた日は、ユダヤ人にとって 天主の子羊を裂く時、過ぎ越しの食事の時であった。そして イエズス様におかれましては 同時にその日 すべてを成し遂げられ、御父からのみ旨をすべて終えられた(安息日)だったのかなと 想像しました。聖書を読むということは、とても奥深いことであると感じさせられました。いつもご指導ありがとうございます。今年の四旬節は おかげさまで 聖書に親しむようになれたことも、とても嬉しく思っております。(ヨハネ福音書の公教要理の宿題もご報告したいともっていましたが・・・後ほどに。)

神父様の4月8日のお説教を読ませていただいて、悲しみ苦しみと喜びのコントラストをずっと思っていました。民衆からの栄光と司祭長からの冒涜というコントラスト、聖金曜日と復活の主日のコントラスト、十字架と復活というコントラスト、というお話がレフレインのように響いてきていました。

 枝の主日でも、その民衆がホザンナと歌って喜び歓迎したこととイエズス様の悲しみの両方が歌われましたが、その意味はこのお説教の中で話されていることと同じかもしれないと思いました。地上的な物事しか見えない時は、悲しみ苦しみ辱めの面だけ浮かび上がりますが、聖寵をいただいて天上のことまで見やる視野をいただけるなら、そこ(悲しみや苦しみ)に喜びや永遠の幸福が透けて見えるようになるということかなと 感じました。

ファチマで 三人の子供たちは天国からいらした光り輝く聖母マリア様を見たと同時に地獄の光景も見させられた、とあります。光と影、そして永遠とこの世。美しい典礼、グレゴリア聖歌や素晴らしい彫刻や絵画、それらは、天主様の栄光を讃えるために作られたと感じることがあります。(先日 美容院で渡された雑誌の中にミケランジェロのピエタの写真があり、ミケランジェロのマリア様の理解の仕方がなんて素晴らしいんだろう感動してしまいました)。わたしがカトリック教会の扉を叩いたのも、永遠という言葉がきっかけになっていたことを思い出します。人間の心の奥底には、永遠への憧れが息づいているのでしょう。天国からいらっしゃったマリア様の美しさと地獄の恐ろしさの対比の中で、ファチマの子供たちは永遠を思い信仰を生きたのですね。

そして4月16日のお説教では、力強い励ましをいただきました。イエズス様が復活されたことを受け入れることを選ぶ人は少ないかもしれません。特にこの日本では! イエズス様が復活されてマリア様が天の元后であることを信じる人・知る人はほんのわずかで、家族がカトリック信者でない人は孤独に信仰生活を送ってます。復活祭の主日のお説教をUPしていただいて、お説教を読んで 復活の喜びをようやく味わいました。ありがとうございます。一人でも多くの人に その喜びが伝えられますように 祈ります。

四旬節の前の準備の期間から、四旬節を良く過ごせるようにと大小斎や犠牲と祈りをよくできるようにと、そして 受難節のなかでの喜びと苦しみ悲しみのコントラストを強く意識させていただきました。大小斎も 四季の斎日や決められている日以外にも家族の協力もあり、たくさんお捧げできましたことを感謝しています。おかげさまで わたしは今年 復活の喜びの意味をよりよく黙想できたように思います。神父様ご指導ありがとうございます。

 今朝 復活節の主日の朝に わたしは マリア様の“イエズス様の復活”を待つ愛のことを黙想していました。イエズス様が最初に復活のお姿で現れてくださったのは 御母マリア様であったとのことを お説教でも触れてくださいました。受胎告知によって喜びだけでなく天主様への愛と人々の救いのために苦しむことを受け入れた聖マリア様の汚れなき御心は、聖土曜日に十字架上で苦しみと悲しみの中で罪に打ち勝ち死と地獄に勝って復活されたイエズス・キリストを待ち望む喜びに満たされていたことを 思いめぐらしました。マリア様は、喜びの中で実は苦しみをも受け入れられたということとコントラストするかように、深い悲しみ苦しみの中でも希望を失うことなく喜びを待ち望まれていたということを、今年ははっきりと理解できたように思います。(ロザリオでもこうしたことを思いめぐらしながら祈れて感謝です。2015年6月28日のブログ Ecce ancilla Domini Fiat! 大好きです。)勝利された主イエズス・キリストと いつもともに歩めますように。汚れなき御心のマリアに助けられ、いつも喜びに満たされていますように。

長々と乱文を書き連ねてしまいまして 失礼をお許しください。
秋田巡礼に一人でも多くの方が参加されますよう 私も微力ながらお祈りします。秋田のマリア様の警告は とても現実的です。胸が痛みます。
秋田の聖母 我らを憐れみ給まえ!

聖マリアの汚れなき御心のうちに!アレルヤ!

【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ブログにマテオ様による聖福音の日本語の朗読録音ファイルをご紹介して下さってありがとうございます!

既にCDにして食事の時や、車の運転時などにずっと聞かせて頂いているのですが、この音源のおかげで福音書に接する機会がとても増えて、内容もよく知ることが出来て、とても嬉しく思っております!是非、さらにご紹介して頂けると、新約聖書に接する機会が皆さん増えられてとても良いのではないかなぁと思います!小野田神父様の朗読もとても聞きやすいです(o^^o)♪

デオ・グラチアス!アレルヤ!



秋田巡礼-説教-2016年5月7日「汝の母を見よ。ここにお前の母がいる。ここに憐れみの母がいる。ここに聖なる喜びの母がいる。希望の母がいる」

2017年05月01日 | お説教・霊的講話
2016年5月7日 秋田巡礼 聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教


“Ecce mater tua.”
「汝の母を見よ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる神父様、そして巡礼者の皆さん、今日イエズス様は十字架の上で私たちに向かって、「汝の母を見よ。ここにお前の母がいる。ここに憐れみの母がいる。ここに聖なる喜びの母がいる。希望の母がいる」と言うのを聞きました。

このミサの中のテキストを見ると、みなマリア様の事を「良き母」と言っています。ですから今日は私たちは、この母に目を注ぐ為に、この巡礼を続ける為にも、もう一度どこからどこへと目を向けなければならないかを黙想する事を提案します。

1つはどこから目を、第2にはどこに目を向けなければならないか。

では第1の点は、どこから私たちは目を背かなければならないか。これは私の今回の巡礼のこの時にまた考えた事です。

「この世のいくら楽しみや悲しみ、それらが私たちを誘惑し、或いは悲しめ苦しめたとしても、あっという間に終わってしまう儚いものだ」という事です。ちょうどそれは永遠の目から見れば、長崎或いは広島に原爆が落ちて、あっという間に無くなってしまった、その瞬間に無くなってしまっているかのようです。「永遠から見れば、この私たちの生きているこの生涯というのは、私たちの人類の全歴史というのも、あっという間にパッと光が輝いたものが無くなってしまうような、儚いものだ」という事です。

私の大学の先生に哲学の先生でしたが、アリストテレスの専門家がいて、とても頭が良くて、私はその先生の講義を聞くのが非常に楽しみで好きでした。この先生は広島の出身で、夏、大学生のお休みの時に、東大の法学部の学生で、広島に出身の広島に帰ると、その日ある時、家で勉強していると、目の前がアッと全て紫になった。一瞬にです。その直後に、家の前が何も無くなっていたというのを見て、「一体何が何か分からなかった」と言います。

後に、「実は原爆が落ちた」という事を聞いて、そういうものすごい兵器が出来た、それでそれによって一瞬のうちに無くなってしまった、街が、今までの街が無くなってしまったのを見て、「あぁ、人生というのはこうだ」と悟ったそうです。その後に、「この世というのはあっという間に終わる」という事を、私が思うにはマリア様から息吹を受けて、そしてカトリック信者になりました。そして哲学の勉強をしたいと思ったそうです。

私たちはこのような、この世のあっという間に終わってしまう儚い空しいものから目を逸らして、もっと永遠の、もっと本物のものに目を向けなければなりません。

第2のポイントは、では一体どなたに、です。イエズス様の永遠の宣言の通り、マリア様の方に目を向けなければなりません。憐れみのマリア様に。イエズス様がその方に全ての御恵みを、憐れみの御恵みを与えたそのマリア様に行かなければなりません。私たちの御母に、憐れみの母に行かなければなりません。ちょうど今日の入祭誦でこう言っています、「私たちは憐れみの、恵みの玉座に近付こう。それは、私たちが時に応じた憐れみを受ける為だ」と。まさにイエズス様の言葉のエコーです、こだまです。


マリア様に委ねることについて2つ、私の体験を言うのを許して下さい。

1つは今年の、フォルティン神父様と私でマニラに学校があります。その学校で、ある時父兄がやって来ました、「ちょっと文句がある」と。ところでそこの丁度その詳しい状況を聞こうと思って、私はそこにいた女の先生、幼稚園の先生に、その時はどうだったのか聞きました。

実はこの先生はこの父兄の子供の担当ではなかったのですけれども、その先生は子供からも父兄からもとても人気があるのです。文句を言いに来た父兄も、この先生の言うことはもっともだ、その通りだ、と納得していました。

学校には色んな先生がいます。例えばもう何年も教育の経験があって、そして立派な資格も持っている、でもあまり人気のない先生もいます。この私が質問した先生は、高校卒業して、すぐに聖ピオ十世会のシスターになりたいと思って志願して行ったのですが、結局は健康上の理由でシスターにはなれませんでした。そこで聖ピオ十世会のマニラの学校で教えたのですけれども、特に勉強したというわけではないのです。

父兄が帰った後で、私はその先生に、どうやって子供たちと接しているのですか、と尋ねてみました。彼女の話すには、「あぁ、私はよく知らないのだけれども、でもいつも子供に話す時には、マリア様にお願いするのです、『マリア様、私を助けて下さい。この子を助けて下さい。マリア様が仰って下さい、マリア様がいつもやって下さい』」と。

すると子供が、どんなに聞かない子供でも、はい、はい、はいと聞いて、先生の言う事をよく聞いて、とても良くなるとのことです。子供はこの先生の事が大好きで、父兄も大好きですが、先生は「自分はいつも、マリア様のようにやっているだけだ」と私に言うのです。いつもマリア様と一緒に、マリア様に祈りつつ行動する人は、例え有名な大学を出ていなかったとしても、それ以上の素晴らしい仕事をするということです。


今日この秋田に来る時に、実はアメリカから来る予定の人がいました。でも私たちはその人が来ないという事を知りませんでした。彼のために長崎から秋田まで行く飛行機の切符ももう買ってあって、もうそれは全て先払いしてあり、もうキャンセルはできませんでした。また今回はたくさんの方がフィリピンから来て下さって、外国から来て下さって、それで実はその締め切りにある方々は間に合わなかったので、数名の私たちの巡礼者の方々は一緒に、日本の方々は一緒にこう飛行機に来る事ができなくて、別々にならければならなかったのです。

ところが、私たちはその事を頼みもお願いもしなかったのですけれども、マリア様は長崎に、突然、夜中に暴風雨を現わしました。警報が鳴ったので夜中に私たちは叩き起こされましたけれども、しかしそのおかげで、本当ならキャンセルできなかったものがキャンセルできるようになり、お金が戻って来ました。そして本当なら一緒に行く事がバラバラになる予定が、一緒に秋田に行く事ができました。

「マリア様は本当に私たちの心を、私たちの為、私たちの事を計らって下さる母だなぁ」という事を実感しました。マリア様は私たちが最も必要としていた事をよくご存知で、計らって下さったのです。台風さえも起こして、飛行機を混乱させてまでも、私たちの為に計らって下さいました。


では皆さん、今日どのような決心を立てたら良いでしょうか?

この世の儚いものではなくて、マリア様の方を見つめて、いつもマリア様と共に行動する、そしてマリア様の恵みの憐れみの玉座にいつも近寄っている、その全て、その元に、そしてマリア様が、「こうしなさい、こうやりなさい。私はあなたの母ですから。あなたの母ですよ」というのよく聞いて、マリア様の良き道具となるという事です。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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