2016年5月7日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話11
「あわれみの御母の御業(臨終において私たちの模範:私たちを天国に連れて行く)」
同時通訳:小野田圭志神父
死に於いての、言い換えると臨終の時に於ける、マリア様の御助けの時以外にも、別の助けもあります。
母親は子供たちに良い模範を示そうと思っています。マリア様は私たちがどのような状況に於いても、どんな時でも、マリア様の模範に従う事ができるモデルで模範でありたいと思っています。
ナザレトでの貧しい生活に於いて、最も謙遜なやり方によって、私たちの日常生活の模範、鏡となる事を望みました。マリア様の御生涯に色んな段階に於いて、どれほどマリア様が御謙遜の鏡、模範となっていたかを私たちは既に黙想しました。
マリア様は私たちの死における臨終の模範、鏡ともなろうとしています。
もちろんマリア様には罪の汚れがありませんでしたから、死の腐敗とか死という罰はありませんでした。しかし教父たちの共通の意見によれば、「マリア様は2つの理由によって死を受け入れた」との事です。
「第2の新しいエヴァとして新しい第2のアダムの真似をし、それとますます似通った者となろうとした」というのが第1の理由です。マリア様がイエズス様と全生涯に於いて一致していたように、「死に於いても一致していたい」という理由です。
第2に、「私たちの霊的な母として、私たちに模範を示したい」という理由です。もしも良き母が、自分の子供たちがその死のもがきを、苦しんでいるというのを見ながら、自分はそれを受けるのを避けて通ろうとするのでしょうか。マリア様は私たちの死の模範とならなければなりません。何故かというと、私たちは死についてよく知らない事がたくさんあるからです。
皆さん考えて下さい。皆さんにとって「死」とは何でしょうか?
死とは全ての終りです。全てがこれで終わってしまうという事です。全てを失ってしまう事です。あたかも泥棒がやって来て、命を奪ってしまうかのようです。
マリア様にとってはその反対でした。マリア様から私たちは、「死とは何か」別の事を学びます。
マリア様にとって「死」とは、最も美しい、最高の愛のいけにえの礼拝です。何故かというと、死の瞬間皆さんは、皆さんのお持ちの全てのものを天主様にまた戻し返さなければならないからです。たとえそれを望まなくても、それは返されます。でもただ「戻したくない!」と、それを望まないならば、それはつまり地獄の事です。でも「戻すけれども、天主様に戻し返すけれども、しかしやっぱりなぁ…う~ん…」となれば、それは煉獄です。しかしもしも死が、最高の信仰の告白であれば、行為であれば、天主は、全能の天主は皆さんに報われるでしょう。
例えば、「私は、主よ、御身は全能であり、私は全て御身の啓示した事を信じ奉る。私の霊魂を御身の御手に委ね奉る。」その時に死は、私たちの希望の最高の表現となります。
「主よ、私は御身の約束に信頼し奉る。」またこの死というのは、愛の表現となり得ます。また謙遜の極限にもなります。何故ならば、その時私たちは無に帰るからです。
しかしそれと同時に死は、私を全て天主で満たす事ができる、天主への帰還、天に帰る事となります。
マリア様にとって死の神秘というのは、時から永遠への移行、或いは準備から自分の家に帰ってくる帰郷の帰宅の、帰省の事です。マリア様はこの私たちの死の瞬間に、ご自分の御心にあるその燃えるような轟々という愛を、私たちに与えようとしています。
教父たちによると、マリア様が死んだという事については色々な意見があります。しかしつまりこういう事です、「マリア様は弱さの為に、私たちの肉体的な精神的な弱さの為の死というのは無かったのですけれども、しかしこの霊魂が燃えるばかりの愛に包まれていたので、その肉体は最早その愛に燃える霊魂をこの肉体に留めておく事ができない。それが死だったのです。」そこでマリア様の死には別の名前が与えられました。「死」ではなくて、「休み、眠り」という事です、“Domitio”。マリア様がその眠りにつかれた時に、マリア様の肉体にある突然の特別の変化が起こって、天に上げられました。
良き母は、自分の子供たちが周りに居る事を望みます。ですからマリア様は、私たちの死の瞬間にいらっしゃる事を望みます。ですからその瞬間に、私たちが自分自身の全ての自己奉献を更新するならば、マリア様はすぐに私たちを天国に連れて行かれるでしょう。
イエズス様がマリア様をどの瞬間、どの時に、私たちに母として与えて下さったでしょうか?
イエズス様が亡くなるその瞬間です。これは、「マリア様がいつも私たちの母ですけれども、特に私たちの死の時に、私たちの母」という事のしるしではないでしょうか。私たちにとってこれは何と偉大な慰めでしょうか。私たちがもう今息を絶えて死のうとする時に、イエズス様は、「汝の母を見よ」と言って下さるのですから。
マリア様は「天の門」ですので、これはただ言葉だけの空しいものではありません。本当の天の門ですから、マリア様はすぐに私たちの霊魂を天国へと導いて下さいます。多くの霊的な指導者たちは師匠たちはこう口を揃えて言います、「もしも私たちがマリア様にいつも生涯奉献しているならば、マリア様がまず第1にその霊魂に、死のうとする霊魂にご自身を表す。」時には、マリア様は死の前から既にご自身を表します。例えばこれについてはジャシンタがそうでした。コルベ神父様もそうでした。
多くの司祭たちがこういう事を目撃しています。つまり、ある熱心な信者さんたちが亡くなる時に、その死の時のその死の苦しみに於いて悶えているのですけれども、その死の前にはとても安らかになって、こう平和になって、目は誰かを美しいものを見ているかのようにこう見ていながら、そしてその後に亡くなるという事です。
例えば、幼きイエズスの聖テレジアの素晴らしい例があります。聖女テレジアの最後の死は、マリア様の為の死でした。その詩の中で聖テレジアは、死が来たらマリア様に「自分に微笑んで下さい」と願っています、「来て下さい、お母様。もう夕方です。もう一度来て私に微笑んで下さい。」
まだ幼きイエズスの聖テレジアが子供だった頃、もう治らないと言われた病気から、マリア様の勝利の聖母の御像がニッコリと笑ったその瞬間癒された、その微笑みの事を、最初の微笑みの事を言っています。
ですから皆さん、何千回も何万回も、この一番大切な時の事についてマリア様にお願いして下さい、「今も臨終の時も、我らの為に祈り給え。」
質問です。ではマリア様は今どこにいますか?今何をしていますか?
マリア様は天国にこう座って、まわりをぐるぐる見ているのではありません。
はい、マリア様は天国に居ます。天使と聖人の元后です。でもマリア様の憐れみの御目は皆さんに、皆さんの事をじっと見つめています。信じて下さい。今、そしていつも、マリア様の憐れみの目は、皆さんの心をずっと見つめていらっしゃるという事です。
何でそんな事をするのでしょうか?何故なら、マリア様は皆さんが幸せである事を望んでいるからです。マリア様は皆さんが聖なる者であって、完徳を得る事を望んでおられるからです。マリア様は1つの事しか望んでいません。マリア様が今いらっしゃる永遠の幸せに、一緒に楽しむ事です。
天国とは一体何でしょうか?私たちはその正確な事をよく分かっていません。天主をその目の前に見て、至福直観です。この世の美しい大自然のその美を見て、私たちは本当に感嘆してもう息も詰まるほどです。中には聖人たちが、天使が現れて天使の美しい姿を見た時に、「あまりにも美しいので息が止まりそうで、もう呼吸が困難なほどの美しさだ」という事を書いています。この永遠の永遠のこの昔からの最高の光の内の、ほんのちょっとのその光が、今のこの光と例える事ができます。
先程も申しましたように、天国に於いてのみ、天主様は完壁に憐れみ深くある事ができます。50年間の間、そしてこの近代主義のメンタリティーによって冒されている教会では、天国についてほぼ話しを聞いた事がありません。ですから、「天国とは何か」「天国とはどういう所だろうか」とよく黙想して下さい。
ルルドの聖ベルナデッタがマリア様をご覧になった時に、何と言ったか知っていますか?「マリア様を1分間でもそうやって見る事ができたならば、この世の全ての喜びとか、楽しみとか、もう快楽とか、全くゴミの一欠片のように何でもない」と。
でもマリア様は単なる被造物です。でも天国というのは1分間ではなくて、永遠の、永遠の、もう終わりのない果てしのないものであって、マリア様を創った創造主の美をこう見る事です。聖書に書かれている事は本当です、「天主を愛する者の為に準備されたものは、目は見た事がなく、耳は聞いた事がなく、頭の中で考えた事がないものが準備されている」と。
コルベ神父様はこう言います、「天国に於いても、マリア様は憐れみの母である」と。もしもマリア様が憐れみの母、天国に於いても憐れみの母だという事は、「天国に於いても、マリア様を通して全ての天国の喜びを与えて下さる」という事です。ですから聖母の連祷にも、「我らの喜びの源」とありますけれども、永遠の喜びの源でもあるのです。
私たちの喜びというのは、「終わりなく果てしなく、天主を愛する事ができる」という事です。マリア様は私たちの目の涙を全て拭き取って、私たちがもう決して悲しむ事がないようにして下さいます。もう死も、もう苦しみも、悲しみも、もう困難も、何もありません。まだ私たちには想像ができません。聖書にある最後の黙示録を読んで黙想なさって下さい。これは確実です、この確実な事は、「最後に、私の汚れなき御心は凱旋するでしょう」と。
もしも聖人たちが描写しているこの天国の事について、少しでもこの目の前に置く事が出来るならば、この世のどのような困難、苦しみなどに恐れる事はなくなってしまいます。
私は最後のポイントを今から申し上げます。ではマリア様はどうやって、一体どのような方法で、ご自分の憐れみを私たちに示すのでしょうか?マリア様はこの私たちを泥の中から救い出してきれいにして下さって、そしてこの私たちをきれいな宝物でいっぱいにして下さる。それは分かります、でもどうやってやるのでしょうか?
まずそれをこの理解して、それを信じなければならない事は、「マリア様は私たち全てを、愛する子供として考えている」という事です。この真理を皆さんはまだ十分信じていません。マリア様が、「どのような状況であれ、自分の子供である」と考えているという事です。
聖ジェルトルードはマリア様からこういう話しを聞きました、「あなたは、ジェルトルードよ、イエズスを私の唯一の子供だと呼んではいけません。むしろ私の初子、最初の子供だと言わなければなりません。何故なら、私はイエズスを私の胎内に最初に宿しました。そしてイエズスの後に、また正確に言えばイエズスを通して、全ての人々をあなた方全てを宿したのです。それはイエズスの兄弟として、私の子供として。」
これが今朝、私たちが読んだ聖福音の深い意味です、「汝の母、ここにあり。」「汝の子、ここにあり。」
マリア様はですから御子の方に向かってこうお願いします、マリア様はこう言います、「我が子よ、ご覧下さい。あなたのいけにえと共に、私もいけにえとなります。私は時の終わりまで祈り続けます。私はこの全ての霊魂を勝ち取って、この全世界をあなたの為に捧げる為に働き尽くします。」
マリア様はご自分のいけにえと苦しみを通して、この使徒職を達成します。マリア様はイエズス様を苦しみ無く胎内から生みました。しかしマリア様はその他の全ての子供たちを、その生みの苦しみに於いて生み出します。
「お母様、愛するマリア様。お母様、私の救霊が御身にとってどれほどの痛みと苦しみの値を払わした事でしょうか。私たちは忘れがちですけれども、私たちの為にマリア様はどれほど苦しんだ事でしょうか。」
マリア様が私たちの前に立って、天主様の特別の恵みを与えようとしているのに、私たちはマリア様をピシャン!と叩くのです。マリア様を足蹴にして、「出て行け!」と言うのです。そしてマリア様にもうゴミとか泥とか汚いものを投げかけるのです。
でも本当に素晴らしいのは本当にもうびっくりするのは、マリア様は私たちから顔を背けずに、ずっと愛の目で私たちを眺めておられるのです。そして私を愛し続けるのです。でもこれ私がそうする度に、マリア様に悪さをする度に、マリア様は傷付いて悲しむのです。
そこで無原罪の聖母の騎士会に話を戻します。ではマリア様はどうやってこの憐れみの業をするでしょうか?
時々はご自身で私たちの元にやって来られます。例えばご出現とか。でも全世界にもお現れになるわけではありません。1人とか、数名のマリア様をご覧になる事ができる霊魂に。秋田では例えばシスター笹川にお現れになって、そのメッセージを私たちに伝えるようにと言いました。
でも憐れみの川の流れはこんな調子に流れます。十字架の足元でマリア様はイエズス様の無限の宝物をご自分に受け取りました。今この全てのお恵みを自分の子供たちに全てに与えようと思っています。でもマリア様は、画家が素晴らしい芸術作品を描く時にやるようなやり方でそれを配ります。つまり道具を使って描きます。
これは天主様の定めた重要な法則であって、原則です。天主様は道具を使って普通は働くという事です。イエズス様は世の終わりまで贖いのいけにえを実行しますけれども、必ず司祭という道具を通ってのみ、これを実行します。マリア様も芸術家のようです。私たちの素晴らしい美しい霊魂を描き出す事ができます。でもマリア様にはブラシとか、或いは筆とか、或いは鉛筆が必要です。でももしもそのような道具が無ければ、どのような芸術家で最高の芸術家であっても、何も描き出す事ができないのです。マリア様は、「霊魂を救いたい、たくさん救いたい」と思っています。愛する子供たちの霊魂の善をそれほどまでに願っています。
人間の子らは全て、マリア様の愛する子供です。マリア様のその御手には必要な全ての回心の恵みと聖化の恵みがあります。全ての人のです。昨日会ったあの女の子と、それから今日朝食を作って下さった料理をして下さる方、全ての方々のです。オバマ大統領とかプーチン大統領の為に準備されていると同じように。
でもその為にはマリア様は何が必要でしょうか?なぜ回心する人はそんなに少ないのでしょうか?
何故かというと、誰もマリア様の無限の宝を受けようとしないからです。何故なら、マリア様は道具が必要だからです。大海の海原のような無限のお恵みは、運河を通ってやって来ます。この運河というのは、マリア様の子供たちの事です。そこでファチマのマリア様は子供たちにこう言いました、「祈り、犠牲を捧げなさい。多くの霊魂が地獄に行っています。何故かというと、彼らの為に誰も、祈り、犠牲をする人がいないからです。」
「霊魂を救う為に、マリア様が聖化とそして回心のお恵みを注ぎ込む為には、祈りと犠牲が必要だ」という事が分かります。これはもう人々が忘れ去ってしまっている、教会の教えでもあります。ピオ十二世は教会に関する回勅に於いて、この事をはっきりと宣言しています、「これは恐るべき神秘である。天主は、その神秘体のメンバーの肢体の一部が、その信徒の神秘体の祈りと犠牲の寛大さにかかっているという事を望む」と。
マリア様を私たちは見ないのですけれども、マリア様は道具が無いという事が見て取れるのです。これだけは確かです。皆さんの受けた回心の恵みは、イエズス様の聖心からマリア様を通って、マリア様だけを通って皆さんの所に来ました。そしてマリア様から皆さんまで届く為に、マリア様のお恵みが届く為に、マリア様は道具を使いました。
もしかしたらその道具が何であったか、この地上で知る事ができるかもしれませんが、ほとんどの場合それは天国でようやく明らかにされるでしょう。その回心の道具の一人がここにいるそうです。でもこのこれは信仰の真理であって、「マリア様がお恵みを与える為には、道具が必要である」という事はこれは信仰の真理です。
「おぉ天主様、御身は御身の贖いの業をほぼ破壊する危険を冒しています。主よ、御身は人となって贖いの素晴らしい業を、十字架の上に亡くなる事によってそして無限の功徳を積まれました。どうぞ御身が自ら配って下さい。他の道具に与えないで下さい。このような哀れな人々には与えないで下さい。もちろん御母マリア様には与えて下さい、マリア様は素晴らしいのですから。」
「マリア様、お願いです。そのマリア様ご自分で皆さんに配って下さい。どうぞ小野田神父などに与えないで下さい、その全ての宝がもう駄目になってしまいます。そのマリア様の貴重な賜物がせっかくのお恵みが、小野田神父の手にあるともう垂れて垂れて無くなってしまいます。」これが天主様の冒している危険です。このせっかくの賜物を台無しにするという危険です。今この世でこれが起こっているのを見ています。何故かというと、多くの霊魂は道を間違って歩いているからです。そして皆さん心の中で仰るかもしれません、「主よ、御身は間違っています。このような事は間違ったやり方です。こんな事はやるべきでありませんでした。」するとイエズス様はニッコリと笑って、「もしも、私のやろうとしている事を知っていたら。」
ここで若い男が青年がやってきます。この男についてはもう既に長崎で話しました。本当にもうろくでもない青年です。いつも喧嘩早くて、もうちょっとの事でイライラッとして短気で、田舎からやって来た教育もあまり受けてないような、それで普通の誰もが持っているような弱点を持っている男の子でした。
でもこの子は、たとえ自分は弱くても、マリア様にすっかり身を捧げています。マリア様と共に成長します。すると信じられない事が起こります。この子は47歳で死にます。この47歳で死んだ、本当に田舎から来た喧嘩早い短気な男の子ですが、マリア様と一緒に居た為に、つまりこのマキシミリアノ・コルベは、100万おそらく1億以上の地獄に落ちるべき霊魂を救う事ができました。
女の子がいます。いつもダンスをして、この村の別の女の子たちと一緒にダンスで踊ってばかりいる子です。ある時突然、マリア様にとっても魅力を感じました。そしてこの子は地獄のビジョンを見ます。そして今皆さんが聞いたマリア様の言葉を聞きます。そしてこの子は10歳で亡くなります。この小さな子供はたくさんたくさんのお祈りを唱える事ができたわけではありません。「永遠の滅びから霊魂を救って下さい」という祈りと犠牲をたくさん捧げていました。この女の子は聖人になりました。これはジャシンタです。そしてそのフランシスコ、その兄弟お兄さんフランシスコもです。
このジャシンタちゃんの死についてリスボンの枢機卿が何と仰ったか知っていますか?「この幼きジャシンタは、その短い生涯の間に、彼女の犠牲を通して、全世界の宣教師を全て合わせたよりも更に多くの霊魂を救った。」
ですから、「天主様が、私たちがどれほど弱々しくて、壊れやすくてもう、という事をよく知っている」という事を確信して下さい。
でもこの私たちにこの特別のお恵みを委ねたという事は、天主が私たちをどれほど愛しているかという事の証拠でもあります。私たちがその永遠の贈り物、永遠の価値をもつ永遠の贈り物に対して、ちょっとでも応えた事が、どれほど天主様の聖心に適って、それを感謝するか、という事の証拠です。私たちの特権でもあります。
私たちが地上でする事は全く意味の無いような事です。私たちの平凡な毎日の生活、朝起きて、そしてまた服を着て、また寝る。おもしろいですね。そして少しお仕事をして、四つの壁に囲まれたお部屋の中で小さな仕事をする。毎日毎日の何千もの意味の無いような事。
まだ小さな時は、男の子だったら、「あぁ、将来は大統領、首相になりたい」とか。或いは「野球の選手になりたい」とか、そして女の子だったら「あぁ、私は世界で一番きれいな女性になって、多くの人が『あぁ』私を見ると皆振り返るような女の人になりたい。」でも男の子は大きくなると、「あぁ、やっぱり首相にはなれないし、野球の選手にもなれないな」という事が分かります。ただ小さな事務所で、ちょっとした事務の仕事をするだけ、と。
女性は、「あまり美についてはあまり成功しなかったな」という事が理解するかもしれません。そして平凡な生活で人々はますます平凡なっていきます。そこで、「自分の人生で一番大切なのは、食べる事、それから飲む事、それから寝る事。」そしてその皆さんの目はちょうど牛の目のように似てきます。これがこの地上の生活をしている普通の人の生活です。
突然天からの光がやって来ます、「そうではない。この地上のほんの小さな事でも、ものすごい価値を持つ事ができるのだ。」イエズス様は仰いました、「愛の為にこの水を一杯でさえも与えるならば、その天では報いを失わない」と。平凡な小さなバカバカしいような事でも、愛を込めてなされた時にそれは偉大なものであって、永遠のものであって、価値を持つものとなります。皆さん運河となるチャンスがあります。聖マキシミリアノ・コルベは、聖人になった後に運河となったのではありません。聞かん子で聞かん坊で、もういたずら坊主であった時から既に、この運河となろうとしました。その時から「ますますマリア様をお喜ばせしよう、お喜ばせしよう」と思っていました。
今すぐに私たちは始めなければなりません、今。
何故ならこれは天主の憐れみの事だからです。天主の憐れみはマリア様の所にやって来ます。そしてマリア様は天主様の道具だからです。そして皆さんの霊魂の為に、回心の為に、或いは皆さんの霊魂の為に祈り、犠牲をする者があります。
皆さんの為に小野田神父はフィリピンから日本に2回やって来ます。もしもできるなら自転車でもやって来る事でしょう。このもしも何か私たちが恵みを受ける事ができるとしたら、それは道具のおかげです。
射祷が一体何でしょうか?ほとんどもう何でもないようです。マリア様は皆さんを道具として、マリア様と他の霊魂たちを繋ぐ橋として、お恵みを渡す橋として使いたいと思っています。このどの霊魂にお恵みの橋を架けるのか、というのは私たちは知りません。
昨日会った子を知っていますか?彼女の名前を知っていますか?知りません。でももしかしたら永遠がこの出会いにかかっているかもしれません。この私たちのバスのすぐ隣に座っていた、イボンヌさんがこの不思議のメダイを与えた、この子は涙を流して泣き始めた。日本人はこう自分の感情を抑える事を知っているので、もちろん涙をこらえて流さない事もできたはずです。これら全てはマリア様がなさった事です。このあの子を慰めようと一生懸命やっていたあの司祭は一体どこのどいつでしょうか?それは女性の方と一緒にこうあの子を慰めようとしていたのは、本当にマリア様の小さなホウキにしかすぎません。本当ならばホウキではなくて、マリア様が上手く描く事ができるような素晴らしい筆でなければなりませんでした。しかし本当なら筆だったらもっと良かったのですけれども、マリア様が使ったのは汚い大きなホウキでした。
皆さん、きれいな絵をホウキで描いて下さい。でもマリア様は素晴らしい絵をホウキで描きます。マリア様はこの2つのホウキを使って、その霊魂にきれいな絵を描きます。その女の子は日本にいる全ての霊魂のシンボルです、象徴です。そして全世界の霊魂たちの象徴です。私たちは人間の言葉で慰めようとしました。この子は一体それが何か分からなかったのですけれども、このメダイを与えて慰めようとしました。そのような人間の慰め、人間のこの道具を使ってマリア様は、大海のお恵みの激流をスーッとこの霊魂に与えます。たとえ私たちがこの子のように目に見えていなくても、マリア様はいつもこの霊魂を救おうとして、私たちを道具として使ってお恵みを与えます。
昨日皆さんは何をしましたか?この子に。皆さんがこの子に与えたのは、皆マリア様から既に受け取ったものです。天主様は皆さんに憐れみ深くあったので、皆さんの心を憐れみでもう満して下さいました。だからこの受けた憐れみを他の霊魂にも与えようと望んでいるのです。それが無原罪の聖母の騎士です。これがマリア様の汚れなき御心の御手の内の道具なのです。
マリア様は全ての救霊のお恵みを持って、私たちの方にお願いに来ます、「私の子よ、私はあなたが必要です。私が霊魂を救うのを助けて下さい。私が霊魂に美しい絵を描く事ができるように、私の道具となって下さい。私が霊魂たちに特別の偉大な回心と聖化のお恵みを通し流す事ができる、その運河となって下さい。」
「あぁマリア様、私はそれに相応しくありません、私は罪人ですし。私はどれほどマリア様を裏切った事でしょうか。これは私の役目ではないと思います。神父様たちが仰った偉大な聖人たちと私は、もう比較にもなりません。」
マリア様は言います、「心配しないで下さい。もしもたった1日1回だけこうすれば、 1日1回この射祷を唱えるだけで良いのですよ。私の道具となりたくありませんか?この射祷を1日1回ですよ。そうするとこの世界でどこかの霊魂を救う事ができるのです。」
1日に1回射祷を唱えるのが一体何でしょうか?これを唱えるのにどれくらい時間がかかりますか?3秒です。信じられない事です。マリア様は皆さんが聖徳の頂点に立つまで待っていられません。或いはこう初歩の段階からますます進歩しているなどと待ってはいられません。マリア様はもう霊魂の救いの為に待っていません。道具を選んでいるのではないのです。もうガラクタのようなものであっても、マリア様はそれを使って救霊を望んでいるのです。
聖マキシミリアノ・コルベはマリア様からその事を深く理解するお恵みを受けました。そしてマリア様の声を代弁する者となって、「子供たちよ、来なさい。私はお前たちを必要としています」と言いました。
ただ望むだけで良いのです。この「望む」という事は奉献の祈りで表明されます。この奉献の祈りを明日唱えて、そして自分の望む時にいつも唱えて下さい。この奉献の祈りで最も大切なのは、「マリア様、御身の道具となりたい」です。そうするとマリア様はとても嬉しいのです。そうするだけで、マリア様は多くのお恵みを与えて下さいます。
法則があります。もしも誰か他の人に何かしてあげるという事は、自分の為にそれはする事の2倍の価値があるという事です。
では何で私は一体その為に「無原罪の聖母の騎士会」というこの「騎士会」に、「会」に入らなければならないのでしょうか?何故かというと、私たちは互いにこう動機付け合って、励まし合わなければならないからです。誰かが皆さんの所に行って、「こんにちは。もしもーし、あの騎士である事を忘れない下さいね。あなた騎士ですよ」と言う誰かがいないといけません。この「入会する」という事は、皆さんがこれは必要だからです。ですからこの入会の申込書をした人には、その自分が聖母の騎士会に入会したという事を忘れないように、一番近代的な手段を使って、Eメールとか、What’s Upとかそういうのを使って、「あなた騎士ですよ」という事のメールが或いはメッセージが届きます。そしてそのメッセージには、「マリア様がどれほど素晴らしいか」そして「マリア様はどれほど素晴らしいお恵みを私たちに下さっているか、忘れないでね」という事を思い出させてくれます。
でもこれに入ったらどんな義務があるのでしょうか?ありません。コルベ神父様はこの創立者は、「マリア様の不思議のメダイを付けて下さい。そして昨日イボンヌさんがやったように、この不思議のメダイを配って下さい。ラティスボンさんの友達がラティスボンさんに与えてラティスボンが回心した事があったように、配って下さい。そして他の多くの例があったように、配って下さい。」「原罪なく宿り給いし聖マリアよ、」という祈りがあります。もしも、もしもできるならば1日1回それを唱えて下さい。もちろんそれを忘れても罪ではありません。これで騎士です。小さな騎士ですけれども、でも騎士です。小さくても騎士である限り、多くの恵みを受けている事になります。
ではマリア様は皆さんから何を求めていて、皆さんどのようになる事ができるか、という事は、最後の講話でお話し致します。