Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2018年 8月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


8月
聖母の被昇天を祝いましょう。
意向:聖母の汚れなき御心の凱旋のため
実践すべき徳:心の柔和と謙遜
守護の聖人:聖母の汚れ無き御心

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2018年 8月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

    8月3日(初金)聖霊降臨後の平日(4級)
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月4日(初土)証聖者聖ドミニコ(3級祝日)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月11日(土)~15(水) 聖母小黙想会 (毎日午後) 
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月17日(金) 証聖者聖ヒヤチント(3級祝日)白
            午後4時半 ロザリオ及び告解 
            午後5時 ミサ聖祭 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月18日(土)聖母の土曜日(4級)白
            午前8時 ミサ聖祭
            午前10時 ロザリオ及び告解
            デ・ガラレタ司教様による堅振式
            午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月22日(水)聖マリアの汚れ無き御心(日本では1級祝日)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月23日(木)証聖者聖フィリッポ・ベニチオ(3級)白
            午前7時 ミサ聖祭

    8月31日(金)証聖者聖ライムンド・ノンナート(3級祝日)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
    8月5日(主) 聖霊降臨後第11主日(2級)緑 
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月6日(月) 私たちの主イエズス・キリストの御変容(2級祝日)白
            午前7時 ミサ聖祭

    8月19日(主)聖霊降臨後第13主日(2級)緑  
            午前8時 ミサ聖祭
            午前10時  ロザリオ及び告解
            デ・ガラレタ司教様による堅振式
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

    8月20日(月) 教会博士大修院長聖ベルナルド(3級祝日)白
            午前7時  ミサ聖祭
            午前7時45分  ミサ聖祭

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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秋田巡礼-シュテーリン神父様御説教-2016年5月8日「この巡礼の最後に、私たちがすべきこと」

2017年05月17日 | お説教・霊的講話
2016年5月8日 秋田巡礼 御昇天後の主日
シュテーリン神父様御説教

同時通訳:小野田圭志神父


聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。

親愛なる巡礼者の皆さん、私たちのマリア様はこの巡礼をこの最後の日を、特別の日として選びました。もちろん今日は昇天の後の主日であります。

今日実はポーランドでは、ポーランドの守護の偉大なる聖人聖スタニスラオを祝っています。色々な場所では今日は、「全ての聖寵の仲介者であるマリア様」の祝日です。

「マリア様は全ての天主様の聖寵を御手に委ねられていて、そしてその委ねられた聖寵を全ての人々に分配する、その特別の役割を担っている」という、その真理を今日祝うのです。実はこの事は、巡礼の間いつも話していた、その最も基礎のお話しなのです。

この巡礼に於いて、「あぁ、そういうきれいな話しを聞いたなぁ。あぁ、きれいなお話しだけだったなぁ」と言ってそれで家に帰ってはなりません。

聖マキシミリアノ・コルベ神父様は、「行動は反応を引き起こす」と言っていました。もしも誰かがこうやって話しかけたら、それに対応する答えが必要とされます。マリア様はご自分の道具を使って、今回の巡礼の間皆さんに多くを語りかけて下さいました。

皆さんの価値の無いそして不肖な道具は、皆さんの前の司祭たちです。そして更にもっともっと価値のある道具たちは、日本の多くの殉教者たちでした。或いは原子爆弾で被曝されて亡くなった、多くのカトリック信者たちです。また特に聖マキシミリアノ・コルベ神父様です。多くの事を聞きました。皆さんはこの話しをよくお聞きになっていたので、今では心がそのそれに感動して、そして浄められたと思います。

マリア様の涙も皆さんの罪をきれいに浄めて下さいます。秋田の聖母マリア様は皆さんに、新しい慰め、新しい希望、新しい光を下さいます。皆さんマリア様の言葉をお聞きになったのですから、答えは今日、今、出さなければなりません。

マリア様は子供たちに、ファチマで子供たちに現れた時には、こう最初に聞かれました、「あなたたちはこうする事を望みますか?」と。「あなたたちは私の後に従うのを望みますか?私があなたたちの母であるという事を受け入れる事を望みますか?私が女王であるという事を受け入れる事を望みますか?」子供たちは1秒たりとも逡巡する事はありませんでした、「はい、望みます」と。

今私たちがしなければならない事がそれです。これを「聖別」「奉献」と言います。

皆さんの中にはもう去年、或いは過去、マリア様に「はい」と言って奉献をした方々もいます。今日はその奉献を更新して下さい。皆さんはこう言う事ができるかもしれません、「あぁ、マリア様、お母様。私は今年はあまり良い騎士ではありませんでした。でも今回御身は私に、とても特別な仕方で御身の憐れみを示して下さいました。今日は今までかつてなかったような特別の熱心なやり方で、『はい、望みます』と言います。」

今日申込書を書かれた10名の方々は、初めて今日聖母の騎士として入会します。

どうぞ今日初めて、マリア様に「はい、望みます」と仰って下さい。教会はこの奉献のこの日に、皆さんにその入会者には全贖宥を与えます。この全贖宥というのは特別の御恵みです。

昨日申し上げた通り、マリア様は目に涙を溜めて、ほろほろと涙を流しながら、「お願いですから私の頼みを聞いて下さい、叶えて下さい」と頼んでいます。

「子供よ、自分の事を憐れんで下さい。あなたは今砂漠の中で、今何も食べずにもう飢えの為に死のうとしています。さぁ何か飲んで下さい、そうしないと死んでしまいます。でもこの生きる水が流れ出るのはたった1つの泉しかありません。それは私の汚れなき御心です。来て飲みなさい。私の御心に来てそこから飲みなさい。そしてあなたの心に私の心から水を汲んで下さい。そしてその汲んだ水を他の人にも与えなさい。」

ですから皆さんこう言って下さい、「マリア様、私を御身の汚れなき御心の、汚れなき御手における道具として使って下さい。」

この「道具として下さい」というお願いは、マリア様の御心をとても喜ばせます。聖コルベ神父様はこのマリア様に対する奉献をこう書かれましたが、その内容は非常に優れたものです。この聖別の言葉1つ1つを私たちが言う時、その1つの1つの言葉をマリア様は聞いてとても喜ばれます。

お母様というのは母親というのは、子供がお母さんの所にやって来て、「お母さん、お母さんは私の事を本当に愛して下さっているんですね」と言うと、とても嬉しがります。コルベ神父様はそれと同じ事をマリア様に言わせます。マリア様は私たちの事をそれほどまで極めてすごくたくさん愛しておられて、そのマリア様がどれほど愛しておられるかという事を私たちは理解し尽くす事はできません。

それでもその理解する事ができないにもかかわらず、私たちがマリア様に、「あぁマリア様、御身は私たちの事をこんなにも愛して下さっているのですね」という事を言うと、マリア様は天国から大きな微笑みを以て私たちに喜びを見せて下さいます。

「マリア様、御身は私の母だと知っています。御身が私の事を愛して下さっていると昔から知っています。御身が私にとって、私の祖国にとって、教会にとって、とても大切な方だという事を知っています。でも御身が私の事をそれほどまでに愛しておられたという事は気が付きませんでした。ですからこの信じられないほどの大きな愛に、私は愛を以て応えようと思います。でも御身は私がどれほど弱いかを知っています。私はこの生涯、ずっと死ぬまで、ゼロのままです。でももうその事を恐れません。私がもしも弱さの為に倒れてしまったとしても、だからといって自分を怒りません。私が弱ければ弱いほど、マリア様に信頼します。私が倒れれば倒れるほど、私はマリア様の身元に走り駆けます。マリア様が私にお願いした通り、少なくとも1日に1回、できればもっとたくさんマリア様の道具として何かお役に立つ事を致します。マリア様が私に下さったそれほどの憐れみを、私の友に友人たちに、そして私の祖国に配りたいのです。」

親愛なる信者の皆さん、この巡礼の最後において、私たちの心は喜びに満ち溢れて、そして命に満ち溢れて、光に満ち溢れるべきです。

気を付けて下さい、私たちが元のその場所に戻ると家に戻ると、その周りは暗闇です。私たちは無関心と憎しみに満ちた世の中に戻って行きます。悪魔に支配されているこの世にまた戻って行きます。また私たちが孤独や一人ぼっちだという事を感じるこの世の中に入って行きます。

でももう一人ぼっちではありません。何故かというと、皆さんは希望を見い出したからです。私の道を見い出したからです。私は今はしっかりした地盤の上に立っています。私はどこに行くかを知っていますし、何をするかも知っています。たとえ私が弱くて倒れてしまっても、また起き上がって行きます。ちょうど戦いにおける戦場における兵士のように。

これが騎士です。無原罪の聖母の騎士です。マリア様は私にとって全てです。マリア様に於いて私はイエズス様を見つけます。マリア様に於いてなら、たくさん良く祈る事ができます。マリア様と共なら、どんな厳しい試練も通り抜ける事ができます。火の中も。マリア様と一緒ならば、決して倒れません。マリア様と一緒なら、全ての力を受けます。マリア様は、この私の道を導く天の星です。私の避難所、天に導く道です。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
コメント

秋田巡礼-霊的講話【12】-2016年5月7日シュテーリン神父様「あわれみの御母の御業(憐れみの道具の謙遜)」

2017年05月16日 | お説教・霊的講話
2016年5月7日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話12
「あわれみの御母の御業(憐れみの道具の謙遜)」

同時通訳:小野田圭志神父


マリア様の憐れみの激流の大河は霊魂たちに流れ込むのですけれども、それは道具を通して伝わります。マリア様の無限の光とお恵みの激流は、私たちが小さな射祷をマリア様の道具としてする時に、その射祷を通して流れます。

ここで特に、「憐れみ」と「謙遜」の2つの関連を見ます。

では一体、聖マキシミリアノ・コルベや幼きイエズスの聖テレジア、或いは小さなジャシンタちゃんが何でそれほどの効果を、それほどの活躍をしたのでしょうか?このような霊魂たちは特別の才能に恵まれていたわけではありません。この霊魂たちは私たちの生活と同じような、本当にもう謙遜な生活をしていました。彼らの霊魂を他の霊魂たちと区別したものは、そして彼らが効果的で有効なお恵みの運河となる事ができたのは、彼らの深い「謙遜」でした。

こうして連鎖反応を見ます。全てのお恵みがイエズス様から来ます。イエズス様の天主様の無限のお恵み、その愛とその宝を、無である私たちに与えるのです。そしてこのお恵みを全て受け取るのは、「自分が全く無であり、無であり、無であり、何でもない」という事をよく知っていたその霊魂です。自分を無とした、空っぽにした霊魂です。

この霊魂がマリア様で、憐れみの御母となる霊魂でした。最初は天主様だけが持っていたそのお恵みを、次にはマリア様がそれを全て受け取ります。マリア様はこの持っている宝物を、そのご自分の子供たち全てに与えたいと思っています。マリア様に自分を開いて、「それを受けたい」受ける準備ができればできるほど、それを受ける事ができます。その為には私たちの「無」である事を認識しなければなりません。私たち自身ではなく、マリア様の方に目を向けなければなりません。

その時、天主の憐れみが私たちの中に来ます。でも皆さんでは止まってしまいません。マリア様がイエズス様の御力によってそのお恵みを全てマリア様に与えて、そのお恵みを全て私たちに与えようとする時、マリア様は私たちを招いて「あぁ、子よ、これを受けて、そして他の人々にも伝えなさい」と言います。このこれが無原罪の聖母の騎士の役割です。しばらく前に皆さんが受けた回心の恵みを、他の方にも伝えるという役割です。簡単です。

ある時、トマス小野田君は東大でマリア様がいきなり突然、回心と聖化の恵みを与えてくれました。トマス小野田君は、「はい、受け入れます。」そしてその彼は受けたお恵みを他の人にも与えようとします。その時に素晴らしい大ママがいらっしゃいました。大ママは大きなお恵みを受けました。そしてそのお恵みは子供たちに与えられました。子供たちは孫に。

その連鎖反応が分かりますか?皆さんはこの連鎖反応の中間にいます。最初の原因はイエズス様です。第2の道具はマリア様です。それからこの鎖がずっと繋がって皆さんの所にやって来ました。皆さんからまた続かなければなりません。もしもこのお恵みがあれば、この全世界が別の見方から見る事ができます。

最初にこう言いました、「おぉ天主よ、全ての御業は憐れみと真理である」と。留まる事なく休む事なく中断する事なく、イエズス様の聖心から光と、愛と、そして憐れみが流れ出るのです。この滝のような流れは、1つの心にそれが流れ着きます。それが汚れなきマリア様の御心です。そのマリア様の御心が全世界に流れ出ます。ちょうど川のように、ちょうど川が止まる事がないように、流れ出るのです。

その流れがある日、皆さんの所に到着しました。でも皆さんの門は扉は閉ざされていました。ですからその中には入らずに横を通って行きます。でも、それでも水は流れに流れ、また流れて来ます。そして水はちょっと穴が開いているのが分かりました。そのちょっとした隙間からじわじわと中にスーッと入って来ます。そういうわけで、マリア様は小さな「牛」のような人に回心の恵みを与えました。或いは小さなトマス君。

世の終わりに最後の審判の時に、イエズス様の聖心から来る大きな津波のような大激流がこの霊魂に、もう回心しようと色々な所から入り込んでいるのを理解できるでしょう。

皆さんはローマ・カトリック信徒です。皆さんは聖なるローマ・カトリック教会の一員です。特に堅振の秘跡によって皆さんは、キリストの兵士となりました。洗礼を受けた時に皆さんは、天主様の全ての宝を受ける権利を受けました。堅振を受けた時にイエズス・キリスト様から、「他の霊魂たちも助ける」という特別の任務を受けました。

一人ひとり全てのカトリック信者は、「イエズス・キリストの御国の発展の為に働く」という義務を負っています。皆さんはこの世界を聖化して、回心させて聖化させるという義務の一部を負っています。もしもこれをしていないなら、死んだ体の一部です。たとえ全く死にきっていなかったとしても、怠惰な一部です。

王国に勤める王の軍隊の兵士の義務とは何でしょうか?その兵士がもしも王の軍隊の勝利の為に何も関心も持たないとしたら、どういう兵士でしょうか? エキュメニズムの現代の恐ろしさ、そのおどろおどろしさを見て下さい。

イエズス様はこの地上に、御自分の御国を立てる為に来ました。永遠の地獄から霊魂を救う為に来ました。無限の憐れみの洪水を、この霊魂たちに与える為に来ました。「唯一の天主、三位一体が在す」という1つの真理を教える為に来ました。そしてこの救いの為に必要な全ての真理を教える為に来ました。使徒たちを通して、公式の正式の厳格な命令を与えました、「全世界に行って、私の教えた事を教えよ。そして三位一体の名によって洗礼を授けよ。そして天主の憐れみを授けよ」と。

2000年間の間、聖なる宣教者たち、司祭たち、或いは修道者たちは、或いは家族の家長、或いは母親がその言葉を聞いて、その多くの霊魂をその救いの道へと導きました。

長崎でそれを見ました。イエズス様の憐れみが日本に到達したというしるしです。そしてその福音がなされてその最初の世代に、100万人もの何十万人もの何百万人もの霊魂が殉教して、それが最初の実りです。「真の信仰と天主の憐れみを否定するよりは、むしろ死んだほうがマシだ」と。

現代は、「あなたはプロテスタントですか?おぉ、問題ありません。」「イスラムですか?あぁ、モハメッドは良い奴でした。」「仏教ですか?仏陀はちょっと太ってたけど、でも良い顔をしています。」

一体何でしょうか?

私はアジアで働いていますけれども、マキシミリアノ・コルベは多くの霊魂たちが、出来るだけ多くの霊魂が回心するように、カトリックに来るように一生懸命働いたけれども、今では、「何でもOK、 OK、OKだ」と言っています。一体何でしょうか?

50年の間、イエズス様の命令に従って、罪の暗闇、偽りの暗闇に居る人々を光の中に戻そうと一生懸命働く宣教師たちは、罰を受けています。そしてそのような司祭たちが小さな修道院で黙想会を開く事さえも禁止されています、「あの人たちは聖伝を守っている!」と。

イエズス様もマリア様も、「霊魂を救いたい、霊魂を救う為に助けて欲しい」と言っているにもかかわらず、この世の人たちは全ての色んなその他雑多の事に関心を持っているのですけれども、「霊魂を救って、イエズス様とマリア様の言う事の通りにする」という事だけは無関心です。50年間の間、「カトリック教会の最も大切な使命という事は何か」という事をカトリック教会の人々が何か知っていないのです。

フィリピンは、これはピオ十二世が言われたのですけれども、「ロザリオの王国だ。正しいカトリックの王国だ」と言われました。でもフィリピン、そのフィリピンでさえも今見る限り、プロテスタントとか、エホバの証人とか、モルモン教とかそういうようなセクトがたくさん今、働いています。

マリア様は泣いています。でも皆は、「OK、OK、」と言っています。ですから私たちは、マリア様やイエズス様の事を真剣に考えなければなりません。

また、マリア様の道具となって、マリア様の望みに従うという別の偉大な動機があります。この動機というのは、「天主様の命令」です。天主の掟によれば、「全てを尽くして、全ての霊魂を尽くし、天主を愛し、自分の如く隣人を愛せ」です。

イエズス様はこの点を強調します、「私はあなたたちに新しい掟を与える。私がお前たちを愛したように、お前たちは互いに愛し合え。」

ではイエズス様は私たちをどのように愛されたでしょうか?イエズス様は私たちのポケットをお金で満たすだけで愛したのですか?イエズス様はちょうど京都の人々がやっているように、この地上で面白おかしく過ごすという事だけをやったのですか?

愛徳、隣人への愛というのは、この隣人にキスをして、それで何か面白おかしい時を過ごす事ではありません。もしも皆さんが愛する母で、子供の事を本当に愛しているのならば、本当に子供の善を考えているのなら、子供の為に何を求めますか?それは、子供が本当に幸せである事を望みます、子供が幸せである事を望みます。もしも子供が幸せでなければ、お母さんも幸せではありません。

どの国でも、例えば新年とか何かの時には、「幸運を祈ります」とか「良い事がありますように」と祈ります。ポーランド語では「wszystkiego najlepszego」と言います。もしも誰かに、「全ての最高の善を祈ります」という事はどういう事でしょうか?

もしも幸せで喜びを求めるとしたら、永遠に、本当に幸せでありたいと思います。私には94歳の母がいます。でもその母の事を愛するのをやめる事はできません。ですからもしも誰かがですね 「3年と2ヶ月と24日愛します」とは言いません。愛というのはその限度を知りません。

ですからもし本当に良い事をベストを祈るならば、私たちは何かこの終わってしまうようなベストとか最高の良い事を祈るというのは有り得ません。しかしこの地上では全ての事に終わりがあります。これがイエズス様が仰った命令です、「私が愛したように、互いに愛し合え。」

イエズス様は私たちがその、かの幸せを得る為に全てをしました。もちろん私たちはイエズス様がなさったような十字架の死に至るまでの最高のいけにえを、犠牲を捧げる事はできません。しかしイエズス様がこう公式に、「私は新しい掟をお前たちに与える」と命令したなら、私たちはこの掟を守らなければなりません。これは私たちが永遠に、いつも、いつも、いつも幸せである為であって、地獄に落ちない為の掟です。このこれこそが隣人愛の本質です。

その他の事は、たとえば食べ物をあげるとか、宿を与えるとか、或いは教育するとか、或いはその他全ての事は、この「救霊」という最高の善に関わりがある限りにおいてのみ、価値があります。

では質問します。皆さんはこの意味において、本当に隣人を愛した事がありますか?イエズス様が愛したように、隣人を愛した事がありますか?これを言うのは本当に嫌ですけれども、しかし本当の事を言います。ほとんどのこの地上の人々に関して、私は全くそれについて無関心でした。

私たちの主イエズス・キリストは彼らの為に、十字架の上で亡くなりました。明日皆さんが飛行場で、或いは駅で見る全ての人、こう歩いている全ての人々の為にイエズス様は亡くなりました。マリア様はこの人々のお母さんで、その人々を救う事ができる全ての宝を自分の手に持っています。

では、私は?私にとってそのような人は全く関係がありません。存在しているとも思いません。ただ1、2、3人と数えるしかありません。或いは邪魔者でしかないかもしれません。ちょうどうるさい蚊のように。或いは怪物のように。もしも隣人愛のこの新しい掟を守らなければ、私たちは天国に行く事ができません。ではどうしたら良いのでしょうか?

ではもう1つ質問します。では何故天主様は皆さんに私たちに、この掟を与えたのでしょうか?なぜ皆さんはこの才能とか、この技術とか、この知識を、或いはこの事のお恵みを頂いたのでしょうか?

多くの人々はほとんどの人々は、そのように受けた才能を自分の快楽の為に、自分の利益の為だけに使っています。お金持ちになったり、良い地位に就いたり、それを利用してますます有名になったりする為だけです。多くの人々は自分の為だけにお金を稼ぎます。虚栄、それから傲慢、そしてちょっとした面白おかしい快楽。この為にだけに天主様は彼らに才能を与えたのでしょうか?

私たちはしばしばそれを天主様から受けたとさえも思いませんが、しかし実は全ては天主様は特別の意味があって、ある目的の為に与えたのです。

もちろん私たちが受けた才能は、私たちが生き延びる為に、生きる為に必要なものを得る為の収入の為にも与えられました。もしもお父さんで、一生懸命働いたその給料を全部小野田神父に与えないで下さい、そうしたら家族は食べていけません。天主様が私たちに才能を与えたのは、もっと高い目的の為です。それは私たちが、しばらくした後には腐ってしまうような実りではなくて果実ではなくて、永久に価値のある果実を実りをもたらす為です。

では私たちの人生で、本当に価値があって、非常にその永遠の価値があるのは何でしょうか?自分の面白おかしい事の為だけにやった事ではありません。映画を面白おかしく何時間も何時間も見たとしても、その後で何が残るでしょうか?何も残りません。もちろん時々、一生懸命働いた後には時々は、レクリエーションとか休みが必要です。リラックスをしなければなりません。はい、その時には笑ったり楽しんだりするという事が一番の良いレクリエーションです。

もちろんその為に健全な笑いを与える映画を見る事もできます。でもこのYouTubeのたくさんのビデオとかそういう動画は、私たちの為すべき一番の大切な時間を奪ってしまいます。天主様が私たちの為に、隣人の霊魂の救いの為に下さった時間を、それを盗んでしまう事になります。日々、何週間も、何ヶ月もの間、私たちはそれによって、天主の為にも隣人の霊魂の為にも何もする事ができない事があります。

私たちは恐れなければなりません、「私は自分の才能を乱用して、天主様から頂いた時間を盗んでしまった。私は天主の為に、或いは隣人の救いの為に時間を使うという事以外の全ての事をしていますが、これだけはしていません。」

では、「永久に続く価値のあるもの」というのは、人生において何でしょうか?

「私の永遠の救いと、隣人の永遠の救いの為にした事」だけが、永遠の価値を持っています。

私たちの周りにいる隣人たちの霊魂の永遠の救い、という事を考えた事がありますか?このホテルで働いて下さっている方々の霊魂の救いについてお祈りしましたか?ヨーロッパからポーランドからアジアに来る時に旅行した時に多くの人々を見ましたが、コルベ神父様の中にはただ1つ、「どうやったらこの霊魂をマリア様の方に連れて行く事ができるか」という事だけを考えていました。

少なくともこの隣人やこの家族のメンバーについては、愛しているといえるかもしれません。でも多くの場合、両親が子供たちにやっているいわゆるカギ括弧付きの「愛」というのは、彼らが欲しいと言うお菓子を与えたり、彼らが欲しいと言っているおもちゃを買ったりという事ですが、それは本当の愛ではありません。

私にその事がよく起こりました。私はよく飛行機に乗ります。時々マリア様は、「この空港にいる多くの人々の為にお祈りしなさい」と言ってくれます。このような良い考えが起こると本当に嬉しいです。

でもある時にはもう本当に疲れて、年を取った牛のようにボーっとして飛行場で何もせずにいます、グターッと。そしてその時に私の隣にいる人が大きな声でグーゴーと言うと、「何だこの人、うるさいなぁ」と思うだけです。

もしも人の事を「何だあの人は、傲慢な人だ」と思ったり、そしてこの何か本を読もうとすると、このいきなりアナウンスメントがあって「今から気流の悪い所を通過しますので、どうぞ安全ベルトをお締め下さい」と色んな言葉で翻訳もあって、その間うるさくてお祈りも本を読む事もできない。そしてその周りの人の、「うるさいなぁ」とか「邪魔だなぁ」という事だけを考えて、その霊魂の救霊については全く考えない時があります。

でもこれは最大の愛の掟で、これは天主様から、イエズス様から命じられた掟なのです。もしもこれを無視したらこれをしなかったら、聖人になる事はできません。もしもこれを実践しなければ、私は地獄に行ってしまいます。そこでこのような弱い私は、助けを求めなければなりません。何故ならこれを、何年も何年も同じ失敗を繰り返して、何も変わる事がないからです。

そこで無原罪の聖母の騎士会を発見しました。それでマリア様が私の所にやって来て、「隣人を愛する事がどうやったらできるか」という事を教えてくれました。マリア様は私に「信仰」と、そしてその「信仰の美しさ」、また「マリア様の美しさ」を、色々な事を教えてくれました、理解させてくれました。マリア様は私が「マリア様の道具になるように」と招いてくれました、それは私の隣人の救霊の為に。

もしも私が努力するなら、少しずつ隣人を見る目が、見方が変わってきます。ますますマリア様が見るような観点で見る事ができるようになります。マリア様は、「他の人たちを救いたいのだけれども、しかし滅びの道を今行きつつある霊魂」として映っているのが分かります。この彼らがやっているその相応しくない態度の為に、怒ったり、腹を立てたり、イライラしたりする代わりに、「あぁ、彼らの為にお祈りしよう」という風になります。

少しずつこの私の周りの世界が変わってきます。私が今戦場に居るという事が理解できます。私が軍隊に属しているという事が理解できます。実はこの軍隊は小さくて弱々しい軍隊だという事が。ところでその敵側には敵陣にはものすごい軍隊が居て、この小さなマリア様の軍隊をもう押し潰してしまおうとしているのが分かります。でも「この霊魂を獲得したい」と思います。

これが、無原罪の聖母の騎士がどうやって働くか、という事を示しています。マリア様が皆さんに望んでいるのは、運河となる事です。マリア様と霊魂を繋ぐ運河となる事です。ちょっとした努力をするなら、それだけでマリア様は特別のたくさんのお恵みをこの霊魂に働きかける事ができます。

では働き始めましょう。隣人を愛し始めましょう。皆さん銃をとって下さい、そして敵の敵陣の方に向かって下さい、「撃ち始め!」そしてこのお祈りの弾丸がババーッ!と敵を撃ちつけます、「イエズス・マリア、御身を愛し奉る。霊魂を救い給え。」これは贖宥が付いている祈りです。もちろんヨゼフを付ける事もできます。でももうちょっと短ければもっと弾丸が飛ぶでしょう。もしもマリア様に、「あぁマリア様、この人は髪が長くて、鼻が高くて、口がこうで、髭が生えていて、背がこうで」と色々描写して、「この霊魂を救って下さい」と言うと、ちょっと描写が多すぎます。

マリア様と霊魂の間の橋をかけなければなりません。どこでも、どのような状況でもです。台所でおいしい料理を作りながらでもできます。
「イエズス様、愛しています。」
「マリア様、霊魂を救って下さい。」
「御身は地の塩です。」
もしも皆さんがお仕事中であれば、或いは仕事から帰宅する時、或いは出勤の時に。

例えば運転しています。ブー!赤信号。「遅刻してしまう!何でこんな赤信号が長いんだ!何でこんな、遅刻!遅刻!」

運転しているといきなり誰かが脇から割り込んで来て、ブゥーン!「何だこのバカヤロー!」

ほんの15分運転する間に、ある人は30回も怒ります。そして怒って運転手はいろんな事をします。

でも運転して、赤信号で後ろでブー!ブー!ブー!ブー!と鳴っても、「イエズス・マリア、御身を愛し奉る。霊魂を救い給え。」そうすれば平和が心にいつも留まっています。でも怒れば怒るほど、皆さん年を取って病気になります。

もしも夜、不眠で寝る事ができないという時に、「あぁ、眠りたいのに眠れない!」と怒るかもしれません。

でも眠れないならこれを使って、「イエズス・マリア、御身を愛し奉る。霊魂を救い給え」とずっと唱える事ができるじゃないですか。100回言って下さい、夜の間に。100名の霊魂を救う事ができます。そしてまたその間に休む事ができます。100回いく前にもう眠りこけているかもしれません。何故かというと、本当は小さくないのですけれども、本当にこういう小さな事で私たちの人生を変える事ができるからです。

マキシミリアノ・コルベはですからこのような人々の「会」を作って「軍隊」として、いつも自分たちが軍隊に属している事を覚えているように、団体を組織しました。
ですから、「おい、あなた、お前兵士だぞ。兵士だ、頑張れ!」と励ましました。

この方々が明日、騎士になります。でもこのここで何をするでしょうか?このこれからどうやってするか、という具体的な例を与えたのです。

なぜ小野田神父はさっきお知らせを終わる事ができなかったのですか?
何故なら「黙想会に来なければいけません」と言いたかったからです。

或いは私は皆さんにこのニュースレターをEメールで送っていますけれども、何の目的なのでしょうか?私はその他に仕事がないので面白半分だけでそれをやっていると思いますか?目的があります。それは皆さんに、「皆さんがマリア様の騎士であって、道具であって、マリア様は皆さんの行動に、祈りに、それに期待している、それに全てが懸かっている」という事を思い出させる為です。それが皆さんの生活を変えます。

そうするとマリア様の目でこの世を見る事になります。今までやった事がない事を今から始めて、そして皆さんますます憐れみ深くなるでしょう。

何故ならば皆さんは、無限の天主の、無限の憐れみの道具となるからです。この道具によって霊魂たちは変わります。

「1つの霊魂を、永遠に救う」という事を考えて下さい。コルベ神父様はわざわざはるばる日本にやってきて、こう手紙を書いています、「もし日本に来て、たった1人でも日本の霊魂を救う事ができたら、それだけでもわざわざ日本に来た価値がある」と。第二次世界大戦の後のカトリック信者の3分の1は、コルベ神父様の影響下で回心しました。この長崎の小さなミッションセンターの家からの影響です。このコルベ神父様のブラザー、修道士たちは何をやったのでしょうか?私たちがやっている事と同じです。ただ、「マリア様が皆さんを待っていますよ」という事を言うだけでした。

もしも日本の方がカトリック信者になったら、「聖母の騎士になりませんか?」と招いたのです。これが私たちの使命です。

隣人愛の事を考えて下さい。私の為だけのいわば秘跡の機械、自動販売機で満足しないで下さい。多くのカトリック信者は、「カトリック信仰生活というのは、秘跡の自動販売機だ」と考えています、「他の霊魂が地獄に行こうが、それは彼らの問題だ。俺には自分のその秘跡を受けているから大丈夫だ。」でも、もしも隣人の事に気をかけないならば、たとえ自分だけが秘跡を受けていたとしても、その秘跡を受けたにもかかわらず、霊魂を失ってしまうかもしれません。

では皆さんは何をしなければならないでしょうか?

まず、「道具になりたい」と望まなければなりません。これは意志の問題です。

多くの人々は皆さんの内の多くはもうそう仰いました、そう発言しました。そしてある人々は明日そう言うでしょう、「おぉインマクラータよ、無原罪の聖母よ、我が母よ、我が元后よ。御身を通して、天主の全ての憐れみは私の元に来ました。私はあなたのものです。私の小さな手を取って下さい。御身なしに私は救霊ができません。更に御身がお望みなのですから、御身の御手における良き道具として下さい。私を使って下さい。御身に約束された事を思い出して下さい、『サタンの頭を踏み砕く。全世界の異端を打ち砕く。』最もひどい人々を回心に導いて下さい。すなわちユダヤ人、それからフリーメーソンなど。」

この奉献の祈りはいつでもどこでも唱える事ができます。頻繁に唱えて下さい。何故なら、「あぁ、これらはもう約束した事だから」と思い出すからです。この意思がまず第1に必要です。

もしも皆さんの中で、「修道会に入りたい」という女性の若い方がいらっしゃるかもしれません。そうしたら、「あぁ、もしかしたら行きたいかな~…」と思って、「行く!」という意思を持たなければ、行く事は絶対できません。

第2は、「隣人を、マリア様の目を通して見る」という事です。

「マリア様、私は御身の敵でした。御身の御子を殺してしまいました。でもイエズス様は私を愛して下さいました。御身は私を愛して下さいました。私が敵であったにもかかわらず。私の所から顔を背けませんでした。私の霊魂に染み通る事ができるまで、ずっと憐れみの水を注ぎ続けて下さいました。私の功徳、私の才能ではなく、御身の憐れみによって、ただ御身の憐れみによってのみ、私は今の私であります。少し前私がそうであったように、彼らは今そうです。罪人で、異端者で、異教徒です。御身は私の回心の為にあれほどまでに忍耐強く、それほどまでに優しかったのです。どうぞその同じ忍耐を彼らの為に使って下さい。御身は私の愛する母ですから、友の友は私の友です。ですから御身がなさっているように、私も彼らを愛したいと思います。御身が愛している人々を、私も愛したいと思います。御身が回心させたいと思っている人々を、私も回心させたいと思います。」

すると皆さんは彼らの為に何をしますか?その時にどれほどの価値が射祷にあるという事を分かりますか?

私がいつも言う例をもう1回挙げます。皆さんはお医者さんで、皆さんのおかげで人類の命を寿命を20年間引き延ばす薬を発見しました。皆さんは祖国の英雄です。皆さんの薬を「欲しい」と言って行列を作って買う人はもう終わりがありません。20年間も更に長生きできる薬を発見した、そんな物はかつて無かったのですから。

でも、「永遠の命の為に働く」という事が、どれほどの価値があるか分かりますか?もしもそれがなければ、ある人は恐ろしい地獄の火に焼かれて、恐ろしい拷問を受けながら、永久に終わりなく、いつまでも、いつまでも、いつまでも地獄の火に苦しまなければならない。そこを救う事ができる、その価値が分かりますか?

皆さんがほんのちょっとしたお祈りをこの霊魂の為になさると、それがマリア様と霊魂が繋がる橋となって、そのお祈りのおかげでこの霊魂の最後の最後の瞬間に、マリア様が回心のお恵みを与えるのです。その人生の最後の瞬間、最後の最後に、回心の痛悔の念を起こす事ができて、回心のお恵みを受ける事ができます。そのおかげで地獄の火を免れる事ができます。そして長い煉獄の後には、終わる事のない幸せが待っています。

もしも天国で、その方のお祈りのおかげで私が永遠に救われた、という方が天国でお目にかかるとしたら、その方に感謝して、永遠にその方に感謝して、感謝して、感謝し尽くす事でしょう。永遠にその人を自分よりも愛する事でしょう。皆さんのお祈りで、10人、或いは100人、或いは1000人、或いは1万人、或いは100万人の霊魂が救われたとしたら、この霊魂たちは最後の審判の時に立ち上がって、その皆さんの所に本当に感謝して拍手喝采をする事でしょう。

この地上で、永遠の救霊の為にしたというほど、永遠の感謝に値する行為はありません。この全ては、「イエズス・マリア、御身を愛し奉る。霊魂を救い給え。」このたった1つの射祷にかかっているのです。全ては憐れみです。

でも祈るだけでは十分ではありません。マリア様は子供たちを救いたいのですけれども、マリア様がその子供たちを救ったその最大の手段は、ご自分の「苦しみ」でした。イエズス様も、その苦しみを通して霊魂たちを救ったからです。もしもイエズス様とマリア様の使徒職が苦しむ事によってなされたのならば、イエズス様とマリア様の使徒も、騎士も、しもべも、やはり苦しみを避けて通る事はできません。でも苦しみというのは皆さんがいつも持っているものです。別にそれを作り上げる必要はありません。

最初の苦しみは、朝起きる時から始まります。朝起きる時のこの体の疲れとか、或いは病気、或いは毎日の屈辱や試練、或いは恐れ、1日の間に苦しまなければならない機会がたくさんあります。反乱を起こしたりとか、「何だ、この野郎!」と憤ったり、短気を起こしたり、或いは絶望したり、もう憂鬱になったりする代わりに、「こういう機会は、私の愛を示す最大の機会となる。」

皆さんは台所でおいしい料理を作っていますが、頭痛がします。
「あぁ、頭が痛い。頭痛が頭痛が…」
「うるさいなぁ!頭が痛いんだから!」
「頭が痛いから料理もできないし、もうこの世で一番惨めな者は私だ!頭が痛い、何もできない、もうだめだ!」
皆さんがこうやってサーカスをしている間に頭痛が消えてなくなると思いますか?いや、そのまま頭痛は残ります。ですから翌日も頭痛のまま朝起きる事になります。

でも、もしも騎士としたならば、「あぁ、頭痛がする。あぁ、でもイエズス様は茨の冠を被せられた。私の為にそう苦しまれた。頭痛がするけれども、イエズス様と一緒だ。御身に捧げます。捧げます。ですからこの頭痛がしたので嬉しいのです。お捧げする事ができるのです。イエズス様の苦しみとマリア様の苦しみの事を考える事ができるので、痛んで嬉しいのです。イエズス、この頭痛を捧げます、愛しています。イエズス様、大好きです。」
そしたら旦那さんがやって来て、「おぉ妻よ、お前今日は元気か!?」昔は、「うるさいなぁ!黙っていてよ、頭痛がするんだから!」と言っていたのに、でも、“あぁ、私の夫は今日は仕事があって、きっと仕事でたくさん仕事が色んな苦しい事があるだろう。”「大丈夫よ。」

たとえ皆さんが、「あぁ、頭痛がある!」と言って皆に知らせてもう涙を流したとしても、やっぱり頭痛はそのままあります。ですから、「大丈夫だ。何故ならば、この頭痛があっても心は大丈夫だから。」

もしも1つの祈りで霊魂を1つ救う事ができるなら、この苦しみをイエズス様に捧げる事によって、100の霊魂を救う事ができるでしょう。マリア様は、「祈り、犠牲を捧げなさい」と仰いました。聖コルベ神父様はいつも、「祈りと犠牲が、霊魂を救う為の非常に偉大な武器であって、勝利の武器である」と言います。

でも皆さんは霊魂の救いの為に隣人の為に、もっと自分の才能を使いたいと思っています。もしも自分の人生を霊魂の救いの為に使う事ができるというなら、その為に色んな事を考え付きます。「霊魂の為に特別な事をやりたい。」
例えばチラシを、「マリア様のチラシを皆に配りたい」とか。
或いは「不思議なメダイを皆に配る」とか。
或いは「知っている人にマリア様の事を話す」とか。
例えばクリスマスケーキをプレゼントする代わりに、「クリスマスケーキだけでなくて、マリア様の本も一緒にケーキと与える、一緒に付ける」とか。

もしも皆さんの中にお金がお持ちならば、皆さん知っていますか、聖伝の教会がどうやって建ったか。これは奇特な方々が、お金を持っている方が、聖ピオ十聖会に寄付して、それが建っているのです。

ですからそのマリア様の為に、何か利用する事ができます。ジェネラル・サントス・シティという町がフィリピンのミンダナオにありますが、そこには聖ピオ十世会の小さなチャペルがあって、60人ぐらいしか入る事ができませんでした。

無原罪の聖母の騎士が、ちょっとお金のある人が寄付をしました。フランスとドイツからです、寄付が来ました。今では800名が入る大きな教会が建てられました。今ではたくさんの霊魂が来る事ができます。今では霊性のセンターになっています。

皆さんがそれぞれの才能が与えられています。その才能を使って下さい、マリア様の為に使って下さい。マリア様にちょっとでも小指の先でも差し出せば、マリア様はそれを全て取って下さいます。

こうやって皆さんはこの巡礼で、「マリア様が憐れみの御母である」という事を黙想しました。今この最後のこのお話をしたのは、マリア様が「憐れみの御母」だというのは、ただ名前だけの美しいタイトル、称号だけに過ぎないというのではないからです。私の心の深くを触る現実であるからです。もしもこの事を真面目に受け取るならば、私の人生は変わります。

では終課を唱えます。
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2017年5月の聖伝のミサの報告(続き):聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2017年05月15日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

2017年5月13日は、ファチマの聖母の御出現百周年です!

アジア管区では、この百周年をこころを込めて祝い、聖母の汚れなき御心に大きな贈り物を捧げようとしています。

聖ピオ十世会フィリピンの司祭常駐二十五周年にもあたる今年、イロイロのサンタ・バルナバにある聖ベルナルド修練院の教会が、聖母の汚れなき御心に奉献され、この5月13日に聖ピオ十世会総長のベルナール・フェレー司教様によって聖別式が行われました。愛する兄弟姉妹の皆様の今までの祈りと経済的なご援助を感謝します。

5月10日には、修練院にアジア管区の司祭たちが集い、司祭研修会が開かれました。

5月11日には、新しく聖別される祭壇に埋め込む殉教者の聖遺物を運んで、また、ファチマの御像とともに、イロイロのハロにある教会から一日掛けて歩いて巡礼が行われました。このファチマの聖母像は、フィリピンを南から北まで私たちが歩いてお連れする巡礼の聖母像です。

ファチマのマリア様が新しい教会に巡礼の信徒の方々250~300名とともに来られたのを見た院長のダニエルス神父様は、目に涙を浮かべておられました。またダニエルス神父様が教会の前で御聖体顕示式を行い、修練院を聖母の汚れなき御心に奉献しているその言葉とその姿を見て、あまりにもの美しさに、皆は目頭を熱くして頬をぬらしていました。

5月12日には、フェレー司教様が、教会の新しい鐘を聖別しました。この鐘には「ニコラオ」という名前が付けられました。歴代の聖ベルナルド修練院長たちも集いました。ワリエ神父様、ガーシュバーガー神父様、パーディー神父様です。また前管区長のクチュール神父様も来られ、オーストラリアの聖十字架神学校の校長であるテーマン神父様も来られました。

新しい「聖母の汚れなき御心教会」は教会正面に、聖母の汚れなき御心の私たちに向けて両手を広げている聖母像があり、その下には、聖ピオ十世会の紋章の二つの聖心があり、「Cor Immaculatum meum, Refugium tuum(私の汚れなき御心は、あなたの避難所)」と文字が大きく刻まれています。

教会の中の祭壇は、トゥイの三位一体のヴィジョンがそのまま祭壇になっています。

教会の前には、二つの泉があり、この教会に関わる国々の旗が飾られています。まず真っ正面にバチカンの旗、福音側の最初にアメリカの旗、書簡側の最初に日本の日の丸も掲げられています。

聖母の汚れなき御心に捧げられた日本のために祈りつつ、ファチマ100周年を過ごしましょう!

ところで、昨年の8月には、聖ピオ十世会日本として初めて、シュテーリン神父様のご指導の下にホテルコスモスクエアに泊まり込みで、8月11日(木)の朝ミサから8月15日(月)の歌ミサと聖体降福式、聖母行列までの「聖母黙想会」を行いました。

今年、2017年のファチマ100周年には、日本では特に「ファチマの聖母」の「小黙想会」を行いたいと思います。

最近、聖ピオ十世会アメリカの依頼でインタビューを行いました。Interview with Fr. Onoda on SSPX in Japan 内容は、今から三十年前にヨーロッパの神学校に入学したときの思い出から、日本での聖ピオ十世会の活動、ファチマの聖母や秋田の聖母についての質問に答えたものです。

このインタビューをごらんになった世界中の方々が日本のためにたくさんお祈りを捧げて下さっていることを知り、嬉しく思います。この祈りに励まされて、ファチマの聖母の御助けによって、この来る8月の聖母小黙想会が実り豊かなものになることを聖母にひたすら祈っています。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

5月7日の御ミサの報告をさせていただきます。
この日の御ミサの式長は、ドイツからおこしくださいましたブラザークラウスがしてくださいました。少しだけ聖ピオ十世会の修道会での御ミサに与っているような気持にさせていただきました。ドイツの神学校で17年、ポーランドで22年働かれているとのこと、えっそんなに生きていらっしゃる方なのかしらと思わず思ってしまいます、その青年のような佇まいに深い静けさが漂う中、トラックで何百万円もの医薬品をポーランドからロシアへと運ばれるなど体を張る大切なお仕事にも従事される姿も思い浮かべまして、祈りから片時も離れることのない聖なる修道者の面持ちに清められる思いがいたしました。ブラザークラウスが、日本に来てくださったことを感謝いたします。日本からこれからこのような素晴らしい修道士の方がたくさん輩出されますようにとお祈りいたします。

シュテーリン神父様の御ミサでは、ファチマについてお話しいただきました。

今回のお説教で特別に印象に残ったことの一つは、「一般の日本人にとっては、御ミサのその偉大な神秘を理解するとか、あるいはファチマのマリア様についてより深く知ってもらうとかなどということのもっと前の段階であり、そこに至るまでの距離がある、彼ら(一般の異教徒の日本人)がカトリック信仰を持つように助けてください」との言葉でした。

カトリック信仰をいただくということは、天主様を知るということであり、たとえばファチマの太陽の奇跡の紹介を通して奇跡それ自体よりも、その太陽の奇跡を通してその署名者-奇跡を起こされた方である天主様を知っていただくことができるように、彼らを助けてくださいとのことでした。
日々の生活の中で、わたしだけカトリック信仰をいただいていても、家族は全く異教徒のままですので、とても心に響きました。

わたし自身もきっと、どなたかの犠牲と祈りによって助けられて、マリア様によって回心の恵みをいただいたのでしょう。いまの私は自分の自由意志を天主様のみ栄のために使うということを教えていただき、そうできるように願うようになりました。しかし普通に日本にいますと、世間の考えや迷信や間違ったカルト的考えにより、その自由意志を自分の満足のためや悪霊に仕えるために使うよう誘導される危険がとても大きいです。たとえ真理を求めようとしても、様々な内的外的障害により、天主様を認識するところまでたどり着くことなく、地上のこの世の命を終えていくことが多いように思われます。御利益宗教、世間体、冠婚葬祭その他諸々の宗教もどきの行事、リベラルな考え方、自己中心主義、様々に変身して誘惑してくるフリーメーソン由来の精神世界のカルチャーやイベント、・・・。こういったものが明らかにカトリック教会の中にも侵入してきているので、自分の霊魂を守るためにどれほどのお恵みが必要であるかと思います。異教徒の方々も、人間には霊魂がありそれを大切に守らなければならない、生きている間にとこしえの命へ入るための恵みと機会をなんとかして掴まなければならないということに、どうか気づかれますようにとあらためて思います。

シュテーリン神父様は、カトリック信仰を持たない日本人が救われるために、私たちの毎日の数限りない射禱がとても効果がある祈りであると説明してくださいました。「イエズス!マリア!御身を愛し奉る!霊魂を救い給え!」のような。そして無原罪の聖母こそが人の心を変えてくださる方であり、救いの道へともどしてくださる方であると教えてくださいました。マリア様に信頼して祈ります。ありがとうございました。

続く午後の霊的講話の中で、シュテーリン神父様は、reparation 償い、と、conversion 回心、という二つが、ファチマでの御出現における大切な要素であるとおっしゃられました。償いは、天主のみ栄に関することであり、、回心は、隣人愛に関することであると。そして、そのことをご自分の汚れなき御心のすべてを尽くしてその神秘をすべて差し出してくださって、私たちの一人一人の霊魂を愛してくださっているということを表してくださった、それがファチマですとおっしゃられました。(これは天主を愛するという第一の掟と隣人を愛するという第二の掟に関係することだとも教えていただきました。)

そしてこの信心を実践する人には、二つの約束をしてくださっているそうです。一つは死の時に天主の前で裁きを受けるときに付き添ってくださるということ。もう一つは、天主様をお喜ばせしたいとの気持ちで何かをする人には天国で受ける喜びをより大きくしてくださるということ。(天主にとって大切で玉座を飾る花としてくださるでしょう)

御出現は百年前のファチマで起きたことであるけれども、今この日本の東京の日本の聖なる殉教者の聖堂でシュテーリン神父様の講和を通して、マリア様がご自分のすべての神秘をあらわにされた私たちの霊的な母ですよとご自身の愛をお伝えくださったと感じられました。棘に刺し貫かれた御心を手に持ち差し出されながら・・・。マリア様のその汚れなき御心の愛によってたくさんの人が救いに導かれますよう、心から天主様をお慰めしたいとの気持ちを持って天主様に償いをお捧げしたいと思います。お恵みを願いました。ファチマについて素晴らしい霊的講話を伺うことができましたことを感謝申し上げます。

シュテーリン神父様と小野田神父様とクラウス修道士様におかれましては、秋田巡礼と大阪と東京のミッションを休みなくしていただきまして、お疲れだったことと思います、本当にありがとうございました。どうかマリア様が豊かな報いをお与えくださいますように。

デオ・グラチアス!



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪での初金、初土の御ミサに与る事ができました。
その上、アジア管区長シュテーリン神父様が大阪を訪問してくださり、御ミサをあげてくださいました。
秋田巡礼の後ということもあり、どっぷりと深く黙想しながら御ミサに与る事ができ、これも神父様方の素晴らしいお説教や講話、的確なご指導、
そして天主様のお恵みだと心から感謝しております。
初土の御ミサのあとには聖母の騎士の代表としてシュテーリン神父が奉献の更新をしてくださり、いっしょに参加できたことに大きな喜びを感じました。

シュテーリン神父様のお話の中で、ファチマの3人の子供達の特徴について詳しくお話 してくださり、私はどれを実行できるかなと考えた結果、
聖母の汚れなき御心に何もかもお捧したいし、天主様イエズス様をお慰めしたいし、可哀想な霊魂たちを救いたいと思うので、全部まとめて聖母マリア様に御取り次ぎを
願い、マリア様と一緒にこの意向をもって日々の生活をお捧げしようと思いました。
そしてシュテーリン神父様が毎日100回「イエズス マリア 御身を愛し奉る 霊魂たちを救い給え」という射祷を唱えなさいというご指導があったので、
毎日、通勤の時や、仕事場で100回目指して一生懸命唱えております。なかなか100回難しいですが、常にイエズス様マリア様の事を考えられて、他の事に気持ちがいかないので、良い一日を過ごすことが できます。
 
聖母の汚れなき御心に毎日を奉献し、聖母の汚れなき御心に対して加えられる罪の償いとして、苦しみや犠牲をお捧げするように努めます。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え



【報告】
5月8日の典礼暦は4級平日でしたので、管区長様と霊父様は共に「すべての聖寵の仲介者なる童貞聖マリア(Beatæ Mariæ Virginis Omnium Gratiarum Mediatricis)」の固有文をお選びになられ、御ミサを捧げて下さいました。
これは「或る地方固有のミサ(Missæ Pro Aliquibus Locis)」ですが、幸いにも「毎日のミサ典書」の〔222〕頁に「恩寵の代願者なる聖マリア」として載っています。

御ミサには11人が与り、その内10人が御聖体を拝領する恵みを賜りました。

初めに霊父様が、この御ミサに「教会への召命を求むる(Ad Vocationes Ecclesiasticas Petendas)」記念祈祷を加えて捧げて下さいました。

次いで管区長様が、この御ミサに「大天使ミカエルの出現(In Apparitione Sancti Michaelis Archangeli)」の記念祈祷を加えて捧げて下さいましたが、御ミサの前に短いお話をして下さいました。以下は、その時のお話を書き起こしてみましたが、不明瞭・不適切だと思える点が有った箇所は、意味を損なわない程度に改変しています。

「今日5月8日、世界中の或る所(Aliquibus Locis)では、イタリアのガルガノ山に於ける「大天使聖ミカエルの出現」の記念があります。これは、聖ミカエルの出現の記念としては、最も古くから行われていもので、非常に崇敬されているものでもあります。
以前は教会に於ける重要な祝日の一つでしたが、現代では特定の地方に限定されています。
他の場所では、今日はマリア様の「すべての聖寵の仲介者」と言うマリア様の称号を祝っています。
聖マリア・グリニョン・ド・モンフォールの教えは、この「すべての聖寵の仲介者」という信仰の真理に基づいた教えです。
聖グリニョン・ド・モンフォールは、このミサを非常に屡々捧げていました。
聖グリニョン・ド・モンフォールが書いた「聖母マリアへの真の信心」と言う本は、特にヨーロッパでは「黄金の本」と呼ばれていますけれど、その本には、このミサから採られたお祈りが沢山出て来ます。
勿論、マリア様が「すべての恵みの仲介者」で在る事は、使徒の時代からの教えです。
この教えを特に詳しく述べられたのは、「クレルボーの聖ベルナルド大修道院長」と「聖ボナヴェントゥラ司教」です。
特に19世紀から20世紀の初めに於いて、マリオロジー(マリア学)の神学者達による深い研究によって、これは確かにカトリック教会のドグマで在ると言う事で、教皇様による教義決定の発表準備が既に出来ていました。
特に、聖コルベ神父様やベルギーのメルシエ枢機卿(Désiré Felicien François Joseph Cardinal Mercier)などは、既に、もう直ぐ教義となるべき教えを促進させようと、非常に努力しておられました。
それから、300名以上の教父たちによって、この事を第2ヴァチカン公会議に於いて公式に力強く訴えた為に、すべての人々は第2ヴァチカン公会議では「すべての聖寵の仲介者」であるマリア様の教義が発表されるであろう、教義宣言があるだろうと期待していました。
この御ミサは、或る特定の地方では5月31日に2級祝日として良く祝われていました。
繰り返し申しますが、普遍教会ではなくて、或る地方の教区では2級祝日として5月31日に祝われていました。
残念ながら、近代主義の侵入によって、この「すべての聖寵の仲介者」である教義の発表はなされないまま、第2ヴァチカン公会議に於けるこの会議は閉会し、5月31日に祝われていたこの祝日は5月8日に移されました。
そして、継続中であった第2ヴァチカン公会議の真最中に、この祝日は廃止されてしまいました。
マリア様の汚れなき御心が凱旋するという事を神学的に申しますと、マリア様が「すべての聖寵の仲介者」であるという事が発表されて定義される事です。
このマリア様の凱旋が行われる時こそ、マリア様が多くの人々の救霊の為、教会の救霊の為に、多くの人々の心を統治して、愛され崇敬されるのが凱旋の日です。
私達が“教会の危機、教会の危機”と絶え間なく議論・論議したりするよりも、マリア様こそが教会の危機の解決策でありますから、私達はマリア様に良く祈らなければなりません。」

以上。



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

思いがけなくお恵みにより秋田巡礼に参加することができ、美しい聖歌を聴きながらたくさんの御ミサに与ることができましたことを天主様に感謝いたしました。

十字架の道行や秋田のマリア様の御前でのロザリオの祈りも感慨深く、御聖体降福式は(聖ピオ十世会の御聖体降福式はほとんど初めてだったので)天主様の御前に跪いて祈りと賛美をお捧げできましたこと、大変幸せな一時間でした。小野田神父様は十字架の道行にては 一留ごとに堅いアスファルトに跪かれて祈りの先導をしてくださり、また御聖体降福式では長時間ご聖体の御前にて跪かれておられました。まことにありがとうございます。

ところで シュテーリン神父様は 第二バチカン公会議において本来は312名の教父たちの望みで「マリア様が恵みの仲介者である」ということを公会議で正式に宣言されるはずだったが、プロテスタントが喜ばないという理由で 宣言されなかったということを話されました。私自身も、かつて 第二バチカン公会議ではマリア憲章なるものが発布されようとして準備されていたが実行されず、教会憲章の最後尾に第8章としてマリア様のことが少し付け加えられるのみとなり、そこにおいてさえ「神と人との仲介者はキリストのみ」と明示された、ということを習ったことがあります。

そうすると 現代の教会で もし第二バチカン公会議に忠実に従う司牧がなされようとするところでは マリア様がすべての恵みの仲介者ですという、聖ベルナルドや聖ボナヴェントラや聖グリニョンドモンフォール師やそういった方々の書かれた美しい本が信仰を持って読まれることが難しくなるのでしょうか。今でさえあの素晴らしいアヴィラの聖テレジアの「霊魂の城」や「完徳の道」を、そのまま読むときにわたしは立ち止まって考えます。なぜなら、聖テレジアはルーテル派の人々のために光を請うていますから。イエズスの聖テレジア、あなたはエキュメニカルな現代のカルメリットをどう思っていますか?と。

ファチマで特にシスタールシアが長じてから マリア様から受けたヴィジョンで、わたしの汚れなき御心が世界を救うでしょう、と話されたのは、わたしたちのことを本当に心配なさってくださるお母様からの声と思いました。トゥイでのヴィジョンは 日本ではほとんど知られていないかのようです。「マリア様がすべての恵みの仲介者です」というイメージを退けなければならない理由があるのでしょうか。(あるとしたら、やはりあれです。)マリア様のご胎内を通ってイエズス様は 私たち人間の住む世界に来られたように、同じくすべての天主様からの恵みはマリア様の汚れなき御心をとおして私たちのもとへ届くのでしょうとの ご講話でお聴きしたことを思い出して、こんなことを考えてしまいました。

ファチマで マリア様が差し出されたそのご心臓には棘が刺さっています。その棘は、わたしどもが天主様に与えている侮辱・冒涜・無関心だといいます。その棘の一本一本を抜いて差し上げたいとおもいます。どうか 聖マリアの汚れなき御心が凱旋し 汚れなき御心の信心がカトリック教会に確立なされますように!

聖マリアの汚れなき御心のうちに! アレルヤ!
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聖母小黙想会にお招きいたします。

2017年05月14日 | ファチマ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

「聖母小黙想会」にお招きいたします。

8月11日(山の日)から8月15日には、5日間連続で大阪にある聖ピオ十世会の聖母の汚れなき御心聖堂で、ファチマの聖母100周年を記念する特別の「小黙想会」を予定しています。

・日帰りで(泊まり込みではなく)、毎日通いで参加できる「小黙想会」です。
・泊まり込みで大沈黙を守る「黙想会」ではなく、緩い黙想会なので、「小黙想会」としました。
・午前10時のロザリオの祈りから始まり、ミサ聖祭を捧げ、簡単な昼食の後にファチマの聖母に関する講話、聖体降福式と聖時間を毎日もうける予定です。
・午後の5時には毎日解散します。


特に、ファチマの聖母は私たちに本当の平和を与えようとしておられます。まず霊魂たちの天主との平和、そして、世界の平和です。
もしも私たちが、本当に平和を希求しているのなら、私たちは聖母の汚れなき御心に向かわなければなりません。これは絶対に必要な条件です。

ファチマの天使:
「恐れないで。私は平和の天使です。私と一緒に祈りなさい。」
天使は地面に跪き、額が地につくまで身を屈めました。そしてこう祈りました。
「我が天主よ、私は信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!
信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、御身を愛さない人々のために、御身に赦しを願います。」

「あなたがたができるすべてのことを犠牲とし、それを天主に背く罪の償いの行いとして、また罪人の回心を嘆願して天主に捧げなさい。
あなたがたはこのようにして自分たちの国に平和をもたらすでしょう。
私はあなたがたの国の守護の天使、ポルトガルの天使です。
特に主があなたがたにお与えになる苦しみを従順に受け入れ、忍びなさい。」

ファチマの聖母:
「世界平和と戦争終結がもたらされるように毎日ロザリオの祈りを唱えなさい。」

「ロザリオの聖母を崇敬するために、世界が平和を得、戦争の終わりを勝ち取るためにロザリオを毎日唱え続けることを望みます。なぜなら、そのお方(彼女)だけがあなたたちを助けることが出来るからです。」

「あなたたちはかわいそうな罪人たちが行く地獄を見ました。彼らを救うために、天主はこの世に私の汚れ無き御心に対する信心を確立するように望んでいます。もし私があなたたちにこれから言うことを人が実行するなら多くの霊魂たちは救われ平和になるでしょう。戦争は終わるでしょう。しかし、もし天主を侮辱することを止めないなら、ピオ11世の統治下で別の更にひどい戦争が起こるでしょう。」

「もし人が私の要求を聞くなら、ロシアは回心し平和がやってくるでしょう。さもなければロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とをもって挑発するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。無くなってしまう国々もあるでしょう。」


多くの愛する兄弟姉妹の皆様がご参加なさることをお待ちしております。お友達や知人にも、この聖母小黙想会について教えて上げて下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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秋田巡礼-霊的講話【11】-2016年5月7日シュテーリン神父様「あわれみの御母の御業(臨終において私たちの模範:私たちを天国に連れて行く)」

2017年05月14日 | お説教・霊的講話
2016年5月7日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話11
「あわれみの御母の御業(臨終において私たちの模範:私たちを天国に連れて行く)」

同時通訳:小野田圭志神父



死に於いての、言い換えると臨終の時に於ける、マリア様の御助けの時以外にも、別の助けもあります。

母親は子供たちに良い模範を示そうと思っています。マリア様は私たちがどのような状況に於いても、どんな時でも、マリア様の模範に従う事ができるモデルで模範でありたいと思っています。

ナザレトでの貧しい生活に於いて、最も謙遜なやり方によって、私たちの日常生活の模範、鏡となる事を望みました。マリア様の御生涯に色んな段階に於いて、どれほどマリア様が御謙遜の鏡、模範となっていたかを私たちは既に黙想しました。
マリア様は私たちの死における臨終の模範、鏡ともなろうとしています。

もちろんマリア様には罪の汚れがありませんでしたから、死の腐敗とか死という罰はありませんでした。しかし教父たちの共通の意見によれば、「マリア様は2つの理由によって死を受け入れた」との事です。

「第2の新しいエヴァとして新しい第2のアダムの真似をし、それとますます似通った者となろうとした」というのが第1の理由です。マリア様がイエズス様と全生涯に於いて一致していたように、「死に於いても一致していたい」という理由です。


第2に、「私たちの霊的な母として、私たちに模範を示したい」という理由です。もしも良き母が、自分の子供たちがその死のもがきを、苦しんでいるというのを見ながら、自分はそれを受けるのを避けて通ろうとするのでしょうか。マリア様は私たちの死の模範とならなければなりません。何故かというと、私たちは死についてよく知らない事がたくさんあるからです。

皆さん考えて下さい。皆さんにとって「死」とは何でしょうか?

死とは全ての終りです。全てがこれで終わってしまうという事です。全てを失ってしまう事です。あたかも泥棒がやって来て、命を奪ってしまうかのようです。

マリア様にとってはその反対でした。マリア様から私たちは、「死とは何か」別の事を学びます。

マリア様にとって「死」とは、最も美しい、最高の愛のいけにえの礼拝です。何故かというと、死の瞬間皆さんは、皆さんのお持ちの全てのものを天主様にまた戻し返さなければならないからです。たとえそれを望まなくても、それは返されます。でもただ「戻したくない!」と、それを望まないならば、それはつまり地獄の事です。でも「戻すけれども、天主様に戻し返すけれども、しかしやっぱりなぁ…う~ん…」となれば、それは煉獄です。しかしもしも死が、最高の信仰の告白であれば、行為であれば、天主は、全能の天主は皆さんに報われるでしょう。

例えば、「私は、主よ、御身は全能であり、私は全て御身の啓示した事を信じ奉る。私の霊魂を御身の御手に委ね奉る。」その時に死は、私たちの希望の最高の表現となります。

「主よ、私は御身の約束に信頼し奉る。」またこの死というのは、愛の表現となり得ます。また謙遜の極限にもなります。何故ならば、その時私たちは無に帰るからです。

しかしそれと同時に死は、私を全て天主で満たす事ができる、天主への帰還、天に帰る事となります。

マリア様にとって死の神秘というのは、時から永遠への移行、或いは準備から自分の家に帰ってくる帰郷の帰宅の、帰省の事です。マリア様はこの私たちの死の瞬間に、ご自分の御心にあるその燃えるような轟々という愛を、私たちに与えようとしています。

教父たちによると、マリア様が死んだという事については色々な意見があります。しかしつまりこういう事です、「マリア様は弱さの為に、私たちの肉体的な精神的な弱さの為の死というのは無かったのですけれども、しかしこの霊魂が燃えるばかりの愛に包まれていたので、その肉体は最早その愛に燃える霊魂をこの肉体に留めておく事ができない。それが死だったのです。」そこでマリア様の死には別の名前が与えられました。「死」ではなくて、「休み、眠り」という事です、“Domitio”。マリア様がその眠りにつかれた時に、マリア様の肉体にある突然の特別の変化が起こって、天に上げられました。

良き母は、自分の子供たちが周りに居る事を望みます。ですからマリア様は、私たちの死の瞬間にいらっしゃる事を望みます。ですからその瞬間に、私たちが自分自身の全ての自己奉献を更新するならば、マリア様はすぐに私たちを天国に連れて行かれるでしょう。

イエズス様がマリア様をどの瞬間、どの時に、私たちに母として与えて下さったでしょうか?

イエズス様が亡くなるその瞬間です。これは、「マリア様がいつも私たちの母ですけれども、特に私たちの死の時に、私たちの母」という事のしるしではないでしょうか。私たちにとってこれは何と偉大な慰めでしょうか。私たちがもう今息を絶えて死のうとする時に、イエズス様は、「汝の母を見よ」と言って下さるのですから。

マリア様は「天の門」ですので、これはただ言葉だけの空しいものではありません。本当の天の門ですから、マリア様はすぐに私たちの霊魂を天国へと導いて下さいます。多くの霊的な指導者たちは師匠たちはこう口を揃えて言います、「もしも私たちがマリア様にいつも生涯奉献しているならば、マリア様がまず第1にその霊魂に、死のうとする霊魂にご自身を表す。」時には、マリア様は死の前から既にご自身を表します。例えばこれについてはジャシンタがそうでした。コルベ神父様もそうでした。

多くの司祭たちがこういう事を目撃しています。つまり、ある熱心な信者さんたちが亡くなる時に、その死の時のその死の苦しみに於いて悶えているのですけれども、その死の前にはとても安らかになって、こう平和になって、目は誰かを美しいものを見ているかのようにこう見ていながら、そしてその後に亡くなるという事です。

例えば、幼きイエズスの聖テレジアの素晴らしい例があります。聖女テレジアの最後の死は、マリア様の為の死でした。その詩の中で聖テレジアは、死が来たらマリア様に「自分に微笑んで下さい」と願っています、「来て下さい、お母様。もう夕方です。もう一度来て私に微笑んで下さい。」

まだ幼きイエズスの聖テレジアが子供だった頃、もう治らないと言われた病気から、マリア様の勝利の聖母の御像がニッコリと笑ったその瞬間癒された、その微笑みの事を、最初の微笑みの事を言っています。

ですから皆さん、何千回も何万回も、この一番大切な時の事についてマリア様にお願いして下さい、「今も臨終の時も、我らの為に祈り給え。」

質問です。ではマリア様は今どこにいますか?今何をしていますか?

マリア様は天国にこう座って、まわりをぐるぐる見ているのではありません。

はい、マリア様は天国に居ます。天使と聖人の元后です。でもマリア様の憐れみの御目は皆さんに、皆さんの事をじっと見つめています。信じて下さい。今、そしていつも、マリア様の憐れみの目は、皆さんの心をずっと見つめていらっしゃるという事です。

何でそんな事をするのでしょうか?何故なら、マリア様は皆さんが幸せである事を望んでいるからです。マリア様は皆さんが聖なる者であって、完徳を得る事を望んでおられるからです。マリア様は1つの事しか望んでいません。マリア様が今いらっしゃる永遠の幸せに、一緒に楽しむ事です。

天国とは一体何でしょうか?私たちはその正確な事をよく分かっていません。天主をその目の前に見て、至福直観です。この世の美しい大自然のその美を見て、私たちは本当に感嘆してもう息も詰まるほどです。中には聖人たちが、天使が現れて天使の美しい姿を見た時に、「あまりにも美しいので息が止まりそうで、もう呼吸が困難なほどの美しさだ」という事を書いています。この永遠の永遠のこの昔からの最高の光の内の、ほんのちょっとのその光が、今のこの光と例える事ができます。

先程も申しましたように、天国に於いてのみ、天主様は完壁に憐れみ深くある事ができます。50年間の間、そしてこの近代主義のメンタリティーによって冒されている教会では、天国についてほぼ話しを聞いた事がありません。ですから、「天国とは何か」「天国とはどういう所だろうか」とよく黙想して下さい。

ルルドの聖ベルナデッタがマリア様をご覧になった時に、何と言ったか知っていますか?「マリア様を1分間でもそうやって見る事ができたならば、この世の全ての喜びとか、楽しみとか、もう快楽とか、全くゴミの一欠片のように何でもない」と。

でもマリア様は単なる被造物です。でも天国というのは1分間ではなくて、永遠の、永遠の、もう終わりのない果てしのないものであって、マリア様を創った創造主の美をこう見る事です。聖書に書かれている事は本当です、「天主を愛する者の為に準備されたものは、目は見た事がなく、耳は聞いた事がなく、頭の中で考えた事がないものが準備されている」と。

コルベ神父様はこう言います、「天国に於いても、マリア様は憐れみの母である」と。もしもマリア様が憐れみの母、天国に於いても憐れみの母だという事は、「天国に於いても、マリア様を通して全ての天国の喜びを与えて下さる」という事です。ですから聖母の連祷にも、「我らの喜びの源」とありますけれども、永遠の喜びの源でもあるのです。

私たちの喜びというのは、「終わりなく果てしなく、天主を愛する事ができる」という事です。マリア様は私たちの目の涙を全て拭き取って、私たちがもう決して悲しむ事がないようにして下さいます。もう死も、もう苦しみも、悲しみも、もう困難も、何もありません。まだ私たちには想像ができません。聖書にある最後の黙示録を読んで黙想なさって下さい。これは確実です、この確実な事は、「最後に、私の汚れなき御心は凱旋するでしょう」と。

もしも聖人たちが描写しているこの天国の事について、少しでもこの目の前に置く事が出来るならば、この世のどのような困難、苦しみなどに恐れる事はなくなってしまいます。

私は最後のポイントを今から申し上げます。ではマリア様はどうやって、一体どのような方法で、ご自分の憐れみを私たちに示すのでしょうか?マリア様はこの私たちを泥の中から救い出してきれいにして下さって、そしてこの私たちをきれいな宝物でいっぱいにして下さる。それは分かります、でもどうやってやるのでしょうか?

まずそれをこの理解して、それを信じなければならない事は、「マリア様は私たち全てを、愛する子供として考えている」という事です。この真理を皆さんはまだ十分信じていません。マリア様が、「どのような状況であれ、自分の子供である」と考えているという事です。

聖ジェルトルードはマリア様からこういう話しを聞きました、「あなたは、ジェルトルードよ、イエズスを私の唯一の子供だと呼んではいけません。むしろ私の初子、最初の子供だと言わなければなりません。何故なら、私はイエズスを私の胎内に最初に宿しました。そしてイエズスの後に、また正確に言えばイエズスを通して、全ての人々をあなた方全てを宿したのです。それはイエズスの兄弟として、私の子供として。」

これが今朝、私たちが読んだ聖福音の深い意味です、「汝の母、ここにあり。」「汝の子、ここにあり。」

マリア様はですから御子の方に向かってこうお願いします、マリア様はこう言います、「我が子よ、ご覧下さい。あなたのいけにえと共に、私もいけにえとなります。私は時の終わりまで祈り続けます。私はこの全ての霊魂を勝ち取って、この全世界をあなたの為に捧げる為に働き尽くします。」

マリア様はご自分のいけにえと苦しみを通して、この使徒職を達成します。マリア様はイエズス様を苦しみ無く胎内から生みました。しかしマリア様はその他の全ての子供たちを、その生みの苦しみに於いて生み出します。

「お母様、愛するマリア様。お母様、私の救霊が御身にとってどれほどの痛みと苦しみの値を払わした事でしょうか。私たちは忘れがちですけれども、私たちの為にマリア様はどれほど苦しんだ事でしょうか。」

マリア様が私たちの前に立って、天主様の特別の恵みを与えようとしているのに、私たちはマリア様をピシャン!と叩くのです。マリア様を足蹴にして、「出て行け!」と言うのです。そしてマリア様にもうゴミとか泥とか汚いものを投げかけるのです。

でも本当に素晴らしいのは本当にもうびっくりするのは、マリア様は私たちから顔を背けずに、ずっと愛の目で私たちを眺めておられるのです。そして私を愛し続けるのです。でもこれ私がそうする度に、マリア様に悪さをする度に、マリア様は傷付いて悲しむのです。

そこで無原罪の聖母の騎士会に話を戻します。ではマリア様はどうやってこの憐れみの業をするでしょうか?

時々はご自身で私たちの元にやって来られます。例えばご出現とか。でも全世界にもお現れになるわけではありません。1人とか、数名のマリア様をご覧になる事ができる霊魂に。秋田では例えばシスター笹川にお現れになって、そのメッセージを私たちに伝えるようにと言いました。

でも憐れみの川の流れはこんな調子に流れます。十字架の足元でマリア様はイエズス様の無限の宝物をご自分に受け取りました。今この全てのお恵みを自分の子供たちに全てに与えようと思っています。でもマリア様は、画家が素晴らしい芸術作品を描く時にやるようなやり方でそれを配ります。つまり道具を使って描きます。

これは天主様の定めた重要な法則であって、原則です。天主様は道具を使って普通は働くという事です。イエズス様は世の終わりまで贖いのいけにえを実行しますけれども、必ず司祭という道具を通ってのみ、これを実行します。マリア様も芸術家のようです。私たちの素晴らしい美しい霊魂を描き出す事ができます。でもマリア様にはブラシとか、或いは筆とか、或いは鉛筆が必要です。でももしもそのような道具が無ければ、どのような芸術家で最高の芸術家であっても、何も描き出す事ができないのです。マリア様は、「霊魂を救いたい、たくさん救いたい」と思っています。愛する子供たちの霊魂の善をそれほどまでに願っています。

人間の子らは全て、マリア様の愛する子供です。マリア様のその御手には必要な全ての回心の恵みと聖化の恵みがあります。全ての人のです。昨日会ったあの女の子と、それから今日朝食を作って下さった料理をして下さる方、全ての方々のです。オバマ大統領とかプーチン大統領の為に準備されていると同じように。

でもその為にはマリア様は何が必要でしょうか?なぜ回心する人はそんなに少ないのでしょうか?

何故かというと、誰もマリア様の無限の宝を受けようとしないからです。何故なら、マリア様は道具が必要だからです。大海の海原のような無限のお恵みは、運河を通ってやって来ます。この運河というのは、マリア様の子供たちの事です。そこでファチマのマリア様は子供たちにこう言いました、「祈り、犠牲を捧げなさい。多くの霊魂が地獄に行っています。何故かというと、彼らの為に誰も、祈り、犠牲をする人がいないからです。」

「霊魂を救う為に、マリア様が聖化とそして回心のお恵みを注ぎ込む為には、祈りと犠牲が必要だ」という事が分かります。これはもう人々が忘れ去ってしまっている、教会の教えでもあります。ピオ十二世は教会に関する回勅に於いて、この事をはっきりと宣言しています、「これは恐るべき神秘である。天主は、その神秘体のメンバーの肢体の一部が、その信徒の神秘体の祈りと犠牲の寛大さにかかっているという事を望む」と。

マリア様を私たちは見ないのですけれども、マリア様は道具が無いという事が見て取れるのです。これだけは確かです。皆さんの受けた回心の恵みは、イエズス様の聖心からマリア様を通って、マリア様だけを通って皆さんの所に来ました。そしてマリア様から皆さんまで届く為に、マリア様のお恵みが届く為に、マリア様は道具を使いました。

もしかしたらその道具が何であったか、この地上で知る事ができるかもしれませんが、ほとんどの場合それは天国でようやく明らかにされるでしょう。その回心の道具の一人がここにいるそうです。でもこのこれは信仰の真理であって、「マリア様がお恵みを与える為には、道具が必要である」という事はこれは信仰の真理です。

「おぉ天主様、御身は御身の贖いの業をほぼ破壊する危険を冒しています。主よ、御身は人となって贖いの素晴らしい業を、十字架の上に亡くなる事によってそして無限の功徳を積まれました。どうぞ御身が自ら配って下さい。他の道具に与えないで下さい。このような哀れな人々には与えないで下さい。もちろん御母マリア様には与えて下さい、マリア様は素晴らしいのですから。」

「マリア様、お願いです。そのマリア様ご自分で皆さんに配って下さい。どうぞ小野田神父などに与えないで下さい、その全ての宝がもう駄目になってしまいます。そのマリア様の貴重な賜物がせっかくのお恵みが、小野田神父の手にあるともう垂れて垂れて無くなってしまいます。」これが天主様の冒している危険です。このせっかくの賜物を台無しにするという危険です。今この世でこれが起こっているのを見ています。何故かというと、多くの霊魂は道を間違って歩いているからです。そして皆さん心の中で仰るかもしれません、「主よ、御身は間違っています。このような事は間違ったやり方です。こんな事はやるべきでありませんでした。」するとイエズス様はニッコリと笑って、「もしも、私のやろうとしている事を知っていたら。」

ここで若い男が青年がやってきます。この男についてはもう既に長崎で話しました。本当にもうろくでもない青年です。いつも喧嘩早くて、もうちょっとの事でイライラッとして短気で、田舎からやって来た教育もあまり受けてないような、それで普通の誰もが持っているような弱点を持っている男の子でした。

でもこの子は、たとえ自分は弱くても、マリア様にすっかり身を捧げています。マリア様と共に成長します。すると信じられない事が起こります。この子は47歳で死にます。この47歳で死んだ、本当に田舎から来た喧嘩早い短気な男の子ですが、マリア様と一緒に居た為に、つまりこのマキシミリアノ・コルベは、100万おそらく1億以上の地獄に落ちるべき霊魂を救う事ができました。

女の子がいます。いつもダンスをして、この村の別の女の子たちと一緒にダンスで踊ってばかりいる子です。ある時突然、マリア様にとっても魅力を感じました。そしてこの子は地獄のビジョンを見ます。そして今皆さんが聞いたマリア様の言葉を聞きます。そしてこの子は10歳で亡くなります。この小さな子供はたくさんたくさんのお祈りを唱える事ができたわけではありません。「永遠の滅びから霊魂を救って下さい」という祈りと犠牲をたくさん捧げていました。この女の子は聖人になりました。これはジャシンタです。そしてそのフランシスコ、その兄弟お兄さんフランシスコもです。

このジャシンタちゃんの死についてリスボンの枢機卿が何と仰ったか知っていますか?「この幼きジャシンタは、その短い生涯の間に、彼女の犠牲を通して、全世界の宣教師を全て合わせたよりも更に多くの霊魂を救った。」

ですから、「天主様が、私たちがどれほど弱々しくて、壊れやすくてもう、という事をよく知っている」という事を確信して下さい。

でもこの私たちにこの特別のお恵みを委ねたという事は、天主が私たちをどれほど愛しているかという事の証拠でもあります。私たちがその永遠の贈り物、永遠の価値をもつ永遠の贈り物に対して、ちょっとでも応えた事が、どれほど天主様の聖心に適って、それを感謝するか、という事の証拠です。私たちの特権でもあります。

私たちが地上でする事は全く意味の無いような事です。私たちの平凡な毎日の生活、朝起きて、そしてまた服を着て、また寝る。おもしろいですね。そして少しお仕事をして、四つの壁に囲まれたお部屋の中で小さな仕事をする。毎日毎日の何千もの意味の無いような事。

まだ小さな時は、男の子だったら、「あぁ、将来は大統領、首相になりたい」とか。或いは「野球の選手になりたい」とか、そして女の子だったら「あぁ、私は世界で一番きれいな女性になって、多くの人が『あぁ』私を見ると皆振り返るような女の人になりたい。」でも男の子は大きくなると、「あぁ、やっぱり首相にはなれないし、野球の選手にもなれないな」という事が分かります。ただ小さな事務所で、ちょっとした事務の仕事をするだけ、と。

女性は、「あまり美についてはあまり成功しなかったな」という事が理解するかもしれません。そして平凡な生活で人々はますます平凡なっていきます。そこで、「自分の人生で一番大切なのは、食べる事、それから飲む事、それから寝る事。」そしてその皆さんの目はちょうど牛の目のように似てきます。これがこの地上の生活をしている普通の人の生活です。

突然天からの光がやって来ます、「そうではない。この地上のほんの小さな事でも、ものすごい価値を持つ事ができるのだ。」イエズス様は仰いました、「愛の為にこの水を一杯でさえも与えるならば、その天では報いを失わない」と。平凡な小さなバカバカしいような事でも、愛を込めてなされた時にそれは偉大なものであって、永遠のものであって、価値を持つものとなります。皆さん運河となるチャンスがあります。聖マキシミリアノ・コルベは、聖人になった後に運河となったのではありません。聞かん子で聞かん坊で、もういたずら坊主であった時から既に、この運河となろうとしました。その時から「ますますマリア様をお喜ばせしよう、お喜ばせしよう」と思っていました。

今すぐに私たちは始めなければなりません、今。

何故ならこれは天主の憐れみの事だからです。天主の憐れみはマリア様の所にやって来ます。そしてマリア様は天主様の道具だからです。そして皆さんの霊魂の為に、回心の為に、或いは皆さんの霊魂の為に祈り、犠牲をする者があります。

皆さんの為に小野田神父はフィリピンから日本に2回やって来ます。もしもできるなら自転車でもやって来る事でしょう。このもしも何か私たちが恵みを受ける事ができるとしたら、それは道具のおかげです。

射祷が一体何でしょうか?ほとんどもう何でもないようです。マリア様は皆さんを道具として、マリア様と他の霊魂たちを繋ぐ橋として、お恵みを渡す橋として使いたいと思っています。このどの霊魂にお恵みの橋を架けるのか、というのは私たちは知りません。

昨日会った子を知っていますか?彼女の名前を知っていますか?知りません。でももしかしたら永遠がこの出会いにかかっているかもしれません。この私たちのバスのすぐ隣に座っていた、イボンヌさんがこの不思議のメダイを与えた、この子は涙を流して泣き始めた。日本人はこう自分の感情を抑える事を知っているので、もちろん涙をこらえて流さない事もできたはずです。これら全てはマリア様がなさった事です。このあの子を慰めようと一生懸命やっていたあの司祭は一体どこのどいつでしょうか?それは女性の方と一緒にこうあの子を慰めようとしていたのは、本当にマリア様の小さなホウキにしかすぎません。本当ならばホウキではなくて、マリア様が上手く描く事ができるような素晴らしい筆でなければなりませんでした。しかし本当なら筆だったらもっと良かったのですけれども、マリア様が使ったのは汚い大きなホウキでした。

皆さん、きれいな絵をホウキで描いて下さい。でもマリア様は素晴らしい絵をホウキで描きます。マリア様はこの2つのホウキを使って、その霊魂にきれいな絵を描きます。その女の子は日本にいる全ての霊魂のシンボルです、象徴です。そして全世界の霊魂たちの象徴です。私たちは人間の言葉で慰めようとしました。この子は一体それが何か分からなかったのですけれども、このメダイを与えて慰めようとしました。そのような人間の慰め、人間のこの道具を使ってマリア様は、大海のお恵みの激流をスーッとこの霊魂に与えます。たとえ私たちがこの子のように目に見えていなくても、マリア様はいつもこの霊魂を救おうとして、私たちを道具として使ってお恵みを与えます。

昨日皆さんは何をしましたか?この子に。皆さんがこの子に与えたのは、皆マリア様から既に受け取ったものです。天主様は皆さんに憐れみ深くあったので、皆さんの心を憐れみでもう満して下さいました。だからこの受けた憐れみを他の霊魂にも与えようと望んでいるのです。それが無原罪の聖母の騎士です。これがマリア様の汚れなき御心の御手の内の道具なのです。

マリア様は全ての救霊のお恵みを持って、私たちの方にお願いに来ます、「私の子よ、私はあなたが必要です。私が霊魂を救うのを助けて下さい。私が霊魂に美しい絵を描く事ができるように、私の道具となって下さい。私が霊魂たちに特別の偉大な回心と聖化のお恵みを通し流す事ができる、その運河となって下さい。」

「あぁマリア様、私はそれに相応しくありません、私は罪人ですし。私はどれほどマリア様を裏切った事でしょうか。これは私の役目ではないと思います。神父様たちが仰った偉大な聖人たちと私は、もう比較にもなりません。」

マリア様は言います、「心配しないで下さい。もしもたった1日1回だけこうすれば、 1日1回この射祷を唱えるだけで良いのですよ。私の道具となりたくありませんか?この射祷を1日1回ですよ。そうするとこの世界でどこかの霊魂を救う事ができるのです。」


1日に1回射祷を唱えるのが一体何でしょうか?これを唱えるのにどれくらい時間がかかりますか?3秒です。信じられない事です。マリア様は皆さんが聖徳の頂点に立つまで待っていられません。或いはこう初歩の段階からますます進歩しているなどと待ってはいられません。マリア様はもう霊魂の救いの為に待っていません。道具を選んでいるのではないのです。もうガラクタのようなものであっても、マリア様はそれを使って救霊を望んでいるのです。

聖マキシミリアノ・コルベはマリア様からその事を深く理解するお恵みを受けました。そしてマリア様の声を代弁する者となって、「子供たちよ、来なさい。私はお前たちを必要としています」と言いました。

ただ望むだけで良いのです。この「望む」という事は奉献の祈りで表明されます。この奉献の祈りを明日唱えて、そして自分の望む時にいつも唱えて下さい。この奉献の祈りで最も大切なのは、「マリア様、御身の道具となりたい」です。そうするとマリア様はとても嬉しいのです。そうするだけで、マリア様は多くのお恵みを与えて下さいます。

法則があります。もしも誰か他の人に何かしてあげるという事は、自分の為にそれはする事の2倍の価値があるという事です。

では何で私は一体その為に「無原罪の聖母の騎士会」というこの「騎士会」に、「会」に入らなければならないのでしょうか?何故かというと、私たちは互いにこう動機付け合って、励まし合わなければならないからです。誰かが皆さんの所に行って、「こんにちは。もしもーし、あの騎士である事を忘れない下さいね。あなた騎士ですよ」と言う誰かがいないといけません。この「入会する」という事は、皆さんがこれは必要だからです。ですからこの入会の申込書をした人には、その自分が聖母の騎士会に入会したという事を忘れないように、一番近代的な手段を使って、Eメールとか、What’s Upとかそういうのを使って、「あなた騎士ですよ」という事のメールが或いはメッセージが届きます。そしてそのメッセージには、「マリア様がどれほど素晴らしいか」そして「マリア様はどれほど素晴らしいお恵みを私たちに下さっているか、忘れないでね」という事を思い出させてくれます。

でもこれに入ったらどんな義務があるのでしょうか?ありません。コルベ神父様はこの創立者は、「マリア様の不思議のメダイを付けて下さい。そして昨日イボンヌさんがやったように、この不思議のメダイを配って下さい。ラティスボンさんの友達がラティスボンさんに与えてラティスボンが回心した事があったように、配って下さい。そして他の多くの例があったように、配って下さい。」「原罪なく宿り給いし聖マリアよ、」という祈りがあります。もしも、もしもできるならば1日1回それを唱えて下さい。もちろんそれを忘れても罪ではありません。これで騎士です。小さな騎士ですけれども、でも騎士です。小さくても騎士である限り、多くの恵みを受けている事になります。

ではマリア様は皆さんから何を求めていて、皆さんどのようになる事ができるか、という事は、最後の講話でお話し致します。
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秋田巡礼-霊的講話【10】-2016年5月7日シュテーリン神父様「あわれみの御母の御業(聖母への祈りと、聖母との一致の望み)」

2017年05月13日 | お説教・霊的講話
2016年5月7日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話10
「あわれみの御母の御業(聖母への祈りと、聖母との一致の望み)」

同時通訳:小野田圭志神父


今朝は非常に難しい任務が任されています、皆さんを眠らせないという、起こしておくという(^^;)。皆さんが聖ペトロの黙想に入ったとしても、それは恐れません。Zzzと始めないで下さい(^^;)。

天主の憐れみの御母はその御心に、私たちの為に与える準備ができている多くの宝を持って待っておられる、という事を黙想しました。

私たちの中に天主様の特別の賜物、光と命の全てのお恵みを注ぐ為に準備が必要で、その前にマリア様は掃除と洗濯の仕事をされます。私たちの目の前には、たとえ私たちがどれほど汚くて、もうどれほどもう絶望的なほど汚れていても、決してがっかり落胆せずに、そのチャーミングに私たちをきれいにして下さる母がいます。この忍耐深いマリア様は私たちをますますきれいにして、ますます戦いの準備をするように準備して下さいます。私は何の恵みを持っていないにもかかわらず、マリア様は全ての恵みを持って、その恵みから私に下さろう下さろうとしておられます。

私がする本当に僅かな些細な事でも、マリア様はそれを、「あぁ、よくやったね!」と評価してくれて、それを大切に思って下さいます。

射祷というのは一体何でしょうか?全く無に等しい祈りです、「マリア様、お母様」と言うのは一体どれほどの価値があるとでも言うのでしょうか、無のように思えます。「イエズス、マリア、ヨゼフ、我御身を愛し奉る。霊魂を救い給え。」これは一体どれほどの価値があるでしょうか。でもマリア様は、たったそれを一言云っただけでもたくさんのお恵みを私たちに与えて、霊魂を回心させ、そして聖人にさせます。「霊的戦い」というのは恐るべきもの、非常に難しいもののように思えますけれども、このようなやり方で非常に簡単になります。

見て下さい、この多くの悪魔の大群が私たちの方にやって来て、こう私たちを押し潰そうとして、ものすごい軍隊を以て来て「ウオォーッ!」とやって来るのを見ると、私はそれを見ると、「あぁ、もうだめだ!もうこれでやられてしまう、助けて欲しい!」となってしまうではないでしょうか。

よくカトリックの信者さんたちはこう自分で勝手に想像して、悪魔たちがこう恐ろしい形相をして立っている所を、「私は悪魔払いだ!あぁ、悪魔払いだ!」と言って戦おうとしているのを想像します。でも悪魔と遊ぶのは大変危険です。

ある人は特別なカギ括弧付きの「霊性」を持っていて、いつも悪魔払いの祈りをしては、またしては、祈りをしては、またしては、という人もいます。このような人たちはどこにでも悪魔の姿を見て、そしてちょっとでも誘惑があると、「あぁ、悪魔が人となってやって来た!」と思い込んでしまいます。これは間違った霊性です。もちろん悪魔は存在しますし、それは恐ろしい霊の敵です。しかし間違っているのは、「私」の力で「私」のやり方で「私」がこの悪魔を打ちのめすのではないのです。

もしもこの悪魔がいつも自分の事を考え、もしも私たちがいつも悪魔の事を考えているとしたら、悪魔はその事を喜ぶでしょう。いつもこの「悪魔と対峙しよう、対峙しよう」と思っていたとしたら、喜ぶでしょう。

このようなカトリックにとっては、悪魔は右に、悪魔は左に、悪魔は前に、悪魔は後ろに、悪魔は上に、悪魔は下に、悪魔は中に、とどこにも見ています。そのような人たちにとってカトリック生活とは、悪魔はあそこ、悪魔は下、悪魔は左、とくるくる回るものです。悪魔はその時喜びます。何故かというと、このような人を打ち負かすのは非常に簡単だからです。本当にそのような人には悪魔は攻撃を仕掛けます。

もしも皆さんが、「自分」の力と「自分」の祈りと「自分」の霊性においてその悪魔と戦ってやろうと思えば、悪魔は「あぁ」、赤子の手をひねるようにコロッと倒してしまいます。

もしもこの危険だけを見ているとしたら、私たちは本当に恐れなければなりません。何故かというと、私たちには原罪の傷を負っているので、一人ではとても誘惑に打ち勝つ事ができないからです。

私たちの子供、青年、青少年は、ポルノに囲まれています。そしていつもどんな時でも「大罪を犯すように」と招待が、招きが、どこでもあります。恐ろしい事です。どこに助けがあるでしょうか?「自分でこれらの全ての悪に戦っていて、俺は巨人のように戦う」のですか?それは無理です。

しかしマリア様は、この悪魔の頭を踏み砕きます。マリア様は、たとえものすごい悪魔の大群が私たちを誘惑して、私たちを罪で飲み込もうとしても、マリア様が一言云えば、それはあっという間に消えてしまいます、「出て行け!」

私たちはたった1つする事があります、これだけで良いのです、「マリア様と一緒にいる事」です。もしも皆さんがこの世俗の、この不潔な、不純の、この罪に交じれた外界に居る時に、或いは大学で勉強する時に、或いはそのような人たちと交わる時に、マリア様と常に居なければなりません。「私の汚れなき御心があなたの避難所となるでしょう。」

「避難所」というのは、「絶対安全な所」であって、「どんな危険も無い」という事です。子供がお母さんに言うように、本当に小さな呼び掛けを、「お母さん」と言うだけで、マリア様はいつでもどこでも、常に、絶えざる御助けを私たちに下さいます、「絶えざる御助けの聖母」です。

昨日私たちは黙想しました、もう、もうこれで罪の中にドロドロと染まってしまって、もうこれで誰も助けてくれないで、もうどうしようもない、というような泥沼な状態でも、マリア様は助けて下さいます。

皆さんは戦いに負けました。悪魔は皆さんの心に深く剣を刺して、もうこの皆さんの命を奪ってしまいました。ちょうど皆さんはもう半死半生で、もう息絶えだえにもうドサリと地面の上に倒れて、もう生きるか死ぬかの所を、ちょうどイエズス様が通りかけ、良きサマリア人として通りかけるかのようです。そのような時には唯一つ、「お母さん!」と呼びかけるだけで大丈夫です。マリア様がワッと走って来て、皆さんを助けて下さいます。

そのマリア様がいらっしゃれば、そのたとえその最後の最後の瞬間でも、「駄目だ!」と悪魔に言う事ができるようになるので、その時に私たちは勝利を得る事ができます。常に私たちを襲って来る攻撃に対して、マリア様の現存だけ、マリア様と一緒にいるという事だけが、いつも常なる勝利を与える事ができます。

マリア様のご謙遜だけが、天主様の憐れみの全てを引き寄せました。そして皆さんのご謙遜がマリア様の憐れみを引き寄せます。皆さんの持っている謙遜というのは、私一人の為です、私だけではどうしても勝てません。「でもマリア様、あなたが一緒にいらっしゃるならば勝てます。マリア様、助けて下さい。」

でもマリア様はもっと下さいます。ただ単に戦いを遂行する力だけではありません。良き母というのは、ただ子供の服が汚れたからきれにするだけではありません。皆さん考えて下さい。皆さんはもう泥のドロドロの汚れた臭い服を着て、もう服には穴だらけでもうボロボロで、そういう姿でマリア様の所にやって来て、「お母さん」と来るのです。するとマリア様はそれをきれいに直してくれて 、きれいに仕上げてくれて、もう良い匂いでいっぱいにしてくれます。

でもそしたら皆さんは何と言いますか?「お母さん、ありがとう。でもお腹減った。」で、マリア様は「何ですって?お前の為に一生懸命洗濯してやったんだよ、何?それで十分じゃないの?まだお腹も減ってるの?何か食べるの?」もちろんお母さんというのは洗うだけではなくて、ご飯も作りますし、養いますし、勉強も教えますし、教育も与えますし、ちゃんと躾る、これが良きお母さんです。

良きお母さんというのは皆さんご存知の通り、「自分の心に持っている全ての良いものを、全て子供に与えたい。」これが良きお母さんです。マリア様は御心にある最も良いもの、つまり信仰と、希望と、永遠の愛を、皆さんに分かち与えたいと思っています。マリア様がちょうど天主様の御前でそうやって行動されているように、そして隣人に対してそうやって対応するように、それと同じ事を私たちがするようにと教育したいと思っています。

マリア様は天主様の御前でどうだったのでしょうか?そして私たちは天主様の前でどうあるべきでしょうか? これは、「天主様が下さった全ての憐れみに感謝して、そしてそれの恩を感じる」という事です。

他者については隣人たち対しては、イエズス様の仰ったように、「憐れみ深くあれ。」それは私たちが憐れみを受ける為であるからです。

ではマリア様に対する完全な奉献というのは何でしょうか?これは聖グリニョン・ド・モンフォールに従ったやり方ですけれども、もう皆さんなさったかもしれませんし、なさるかもしれません。

私たちは天主へと戻らなければなりません。もしもそれが戻らなければ、地獄に行くという事です。天主の元に戻るには、この短い人生しか残ってありません。毎日善徳を実践しなければなりません。毎日全ての心を尽くし、全ての霊魂を尽くし、全ての力を尽くして天主を愛さなければなりません。そして隣人を我が身の如く愛さなければなりません。毎日、私たちは誘惑に対して打ち勝たなければなりません。

しかし地獄への道は広く、誰もが通って、そして誰もが簡単に行く事ができます。しかし天国に行く道は狭く、険しく、そして斜面で上に登らなければなりません、最高の高さまで登らなければなりません。

私の天主への道、戻る道は何と惨めである事でしょうか。どれほどたくさん私たちは天主様を愛した事でしょうか。私は1日時を過ごして、天主の事を考えただろうか?全く忘れてしまったのではないだろうか?そしてお祈りをする時に、天主様と接触してお祈りをする時に、もう退屈で、その天主の事など考えていない。神父様が天主様について御説教すると、いつも時計を見て、「なんだ長いなぁ」と思ってばかりいるのではないでしょうか。

私は洗礼の時に荘厳に天主様に約束して、「悪魔と、悪魔の業と、その栄華を全て捨てる!」と約束したにもかかわらず、悪魔が最初にちょっと誘惑しただけで、コロリと誘惑に負けて罪を犯してしまったではないでしょうか。この世の楽しみ、喜びは何と私たちの心に響いて、これが私たちを誘惑して、天主様の至聖なる宗教の事は退屈に思える事でしょうか。

多くの人はミサが終わる前にもう既に教会の外にいます。しかし映画館で、映画の終わりの前に映画館の外にいる人は一人もいません。大ごちそうの前できれいな食卓では、最後のおいしいデザートが来る前に外に行く人がどこにいますか。それを見ると、私たちはどれほど惨めで、助けを必要としているかが分かります。

これが毎日、いつも、毎瞬間、インマクラータ無原罪のマリア様が私たちに下さるお恵みです。私たちが行くべきゴール、目的地というのはどれほど美しい所かをマリア様はよく知っているのです。この地上での生活は何と馬鹿ばかしくて何と短いものでしょうか、今朝黙想した通り。マリア様はこう仰っています、こう考えています、「あぁ、私の胸にはイエズス・キリストが、そして至聖なる三位一体が、最も大切なものがある。これを是非伝えたい、与えたい。」

マリア様はこの事を私たちに理解してもらいたいと思っています。つまり、「イエズス様の為にした小さな努力、小さな犠牲、小さな仕事は、私たちの永久の永遠のものすごい冠となって、報いとなって与えられる」と「準備しているものである」という事を。

皆さんはいつも一人ぼっちだと思っているので、本当に悲しくて、寂しくて、苦しんでいます。昨日の子供の女の子のようです。でもマリア様は皆さんにこうやって教えています 、「あなたは一人ではないのですよ。あなたの守護の天使はいつも一緒にいるのですよ。守護の聖人もちゃんといますよ。あなたの周りにいつもあなたの事を愛している天使たちと聖人たちがいつもいるのですよ。霊的には私がいつもこのあなたの事をじっと見守っていて、愛の目で見守って、いつも一緒にいますよ。」言い換えると、マリア様は私たちの信仰を、単なる死んだ文字ではなく、生きた、生き生きとした信仰へと導いてくれるのです。

私たちは皆口では心ではこう言います、「Credo in unum Deum…」などと。でも頻繁にこれは単なる理論であって、文字だけであって、口先だけです。このクレドを歌い終わってお祈りを終わって外に行くと、あたかも天主を信じていないかのように、信仰が止まってしまったかのように、存在し終えたかのように生活しているのではないでしょうか。

私はあたかも異教徒のように生活しています。イエズス様は私の胸にいるのですけれども、私はイエズス様をもう全く忘れてしまって、全く打ち捨ててしまって、もうほっぽらかしてしまって、私の隣人たち、救わなければならない霊魂たち、ただその霊魂を、「救わなければならないその隣人」ではなくて、「私の邪魔だ」「何かこのうるさい」と「出て行け」としか考えていないのです。

私たちは病気や苦しみや、困難に囲まれている、その辛い、ダメだ、という事しか見ていません。私たちはそうして押し潰されてしまっています。でももしも私たちに少しでも信仰があれば、「あぁ主よ、これを御身を愛するが為に、この十字架を担います」と言う事ができるようになります。「この痛み、これで霊魂を救う事ができます。あぁ、やった!」と。もしもそうでなければいつも、「あぁ、もう本当嫌だ嫌だ嫌だ!」もう顔もギーッとやって、もう腐ったトマトや腐った卵のように、「もうどうしようもない」という顔をしています。

でもマリア様と共にいればいるほど、私たちにマリア様は生ける信仰を与えてくれます。そうすると私たちの愛が成長する事ができるようになります。私たちは真理を生きる事になりますし、私たちの命の意味を生きる事になります。

ファチマで仰ったように、こういうやり方によってマリア様は私たちを天国まで導いて下さいます。私たちはこうカリスのように口を大きくますます開けて、マリア様からの恵みをたくさん受けるようにすればするほど、マリア様は私たちに洪水を、光と喜びと恵みの洪水を与えて下さいます。

もしも私たちが天主の光の生ける水によって満たされたいと思うならば、マリア様に倣わなければなりません。

まず第1に、マリア様に祈って下さい。

お祈りといっても、長い長い長い長いお祈りというよりは、もっと生ける愛に満ちた、「マリア様、お母様、愛しています。助けて下さい。マリア様、憐れみ給え」という祈りです。

でも今からはそれよりももう一歩進んで下さい。マリア様に倣って下さい、マリア様の真似をして下さい。子供はお母さんの事を色々真似します。お母さんが砂糖と塩を入れてかき混ぜると、子供も砂糖と塩を入れてかき混ぜます。マリア様がなさっている事を見て、そして子供もそれをします。そのお恵みを受ける為にはまず祈らなければなりません。

皆さんには皆さんの祈りのスタイルがあると思います。多くの人々は、長い多くのお祈りをすればするほど良いのだ、というスタイルを持っています。「神父様、昨日はロザリオを27環やりました。」多くの場合、人々はその量に数量に関心を持ちます。そして大きな声でお祈りすればするほど、そして自分をたくさん表現すれば表現するほど良い祈りだと考えています。でもマリア様を真似する祈りが一番だ、という事を考えて下さい。

マリア様の祈りとは、マリア様と天主との関係の祈りでした。聖アウグスティヌスによる祈りの定義は、「祈りというのは、心を上にあげる事」です。祈りというのは口先だけでの事ではありません、態度です。これがマリア様の全生涯における態度でした。ですからイエズス様は、「常に祈れ」と言ったのです。それは口先だけで24時間祈れという事ではありません。マリア様のやり方のお祈りを真似すれば、私たちにも全ての恵みがマリア様に与えられたように与えられます。

でもマリア様のお祈りというのは、私が普通やるようなお祈りではありません。でも私たちはよく、「聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。マリア様、私はあれが必要で、これが欲しくて、あれもやって下さい、あれは絶対にやって下さい、あれも欲しくて、あれは本当に必要です」とお祈りします。マリア様はお祈りする時に、礼拝から始まります。礼拝というのは、天主をその三位一体においてその御稜威において礼拝する事です。天主の前で時を得て、時間を使って、その天主の御稜威を見て、そしてそれを、それに感嘆してそれを賛美する。一言言葉を口を開く前に、まず跪いて霊的に跪いて、その例えば御影などを見て、そのそれをよく眺めて下さい。「その天主様は、天主の御稜威の絶対の王であるにもかかわらず、このような小さな赤子となって私たちの為に、また私の為に人間となって苦しまれた」などという事をよく見て考えて下さい。この時間をとる事ができれば、恵みがたくさん与えられます。

マリア様は何と仰るでしょうか。マリア様は3つの言葉を、有名な言葉を言っただけです。マリア様はいつも、天使に対して答えたのと同じ事をいつも繰り返し繰り返し繰り返し祈っていました。それは3つの言葉で、「見よ、我ここにあり。」「仰せの如く我になれかし。」それから「我が霊魂は主を崇め奉る。」


次にはマリア様は、「天主と1つになりたい、一致したい」という特別の渇きです。

マリア様の御心にあるものは全て皆さんに与えたいと思っています。マリア様は、イエズス様の心と皆さんがいつも一致している事を望んでいます。そして聖心からの多くの恵みを受ける事を望んでいます。イエズス様の聖心は私たちに大きく開かれています。ですからマリア様は、このイエズス様の聖心へと私たちをずっと連れて行って連れて行って、ここまで導きたいのです。そしてイエズス様とは一体何なのか、誰なのか、聖心とは一体何なのかを教えたいと思っています。

ご覧下さい、天主の憐れみを受けたいと思うならば、マリア様と共にいつも一緒にいなければなりません。言うのは簡単です。雑念があまり無い限り、マリア様と一緒にいるのはロザリオの時などは簡単です。第5玄義を唱えながら、「えっと、一体自分は何をやっていたんだろうか」と思う事があるもしれません、雑念の為に。お祈りをする時は簡単かもしれませんが、皆さんの全生活、日常生活においてもマリア様と一緒にいて下さい。例えばお休みの時にも、或いは台所で料理をしている時にも、或いは特にコンピュータースクリーンの前で。特に皆さんの最も大切な道具をおもちゃを手の中に入れている時には、そのマリア様と特に一緒にいて下さい、そのおもちゃは「携帯」と言われています。携帯やスマートフォンはマリア様と共にだけ使って下さい。「What’s up!次のニュース!テキスト、テキスト、テキスト、送信。」例えばスマートフォンや携帯にマリア様の御影などをまずスクリーンに置いて、待ち受けに置いて、「あぁマリア様、マリア様がお望みの事、マリア様が仰りたいという事だけを書かせて下さい」と言って返事をして下さい。これは本当に簡単で単純で、誰でもできる事ですけれども、悪魔はこれができないように全てを尽くしてこれを妨害します。

この私たちの生活の中でマリア様が入る為に、悪魔が出て行かなければならないというのですけれども、悪魔はこうやって出て行こうとするのは望みません。しかしマリア様を必要とする、最も一番大切に必要とする時があります、時間があります。この時の為にいつも皆さんはお祈りしています。この人生において最も大切な時、最も大切な瞬間というのは2つあります。「今」、また「臨終の時」です。

「昨日」はもうどこかに行ってしまいました。「明日」はまだ来ていません。今、皆さんは寝ています。今、天主様を愛して、そして何か仕事をする事ができます。今、悪魔は皆さんを攻撃して、今やっている事を妨害しようとする事もできます。もしも悪魔が恐ろしい形相をやって恐ろしい武器を持って、「ワァァーッ!」とやって皆さんを攻撃しようとする時、「ストップ!明日来て下さい。」もしもそれができないならば、今、防ぐ事ができないならば、悪魔は皆さんをそのまま死へと追いやるでしょう。

そして死の「臨終の時」です。それも言っていいならば「今」の事です。死というのは個人的な審判の時です。誰もその日はその時は知りません。しかし善には報いを、私たちのした悪にはその罰を、裁き主は与えます。天主様は誰にでもチャンスを与えたいと思っています。イエズス様はマリア様に特別の力を与えて、マリア様が全ての霊魂一人ひとり各々に救いの為の恵みを与えるチャンスを、憐れみのチャンスを与えるのを御望みです。「我らの臨終の時、」これこそ最も大切な決定的な時です。皆さんが臨終の時に、その死の時にどこに立っているかによって、永遠が決まってしまうからです。教会はこう教えています、「この瞬間こそ、私たち誰もが恐れのあまり恐れおののかなければならない時である」と。

「私は死の瞬間、どうやって天主の前に立つ事ができるだろうか。一体誰が終わりまで忠実を守る事ができると保証する事ができるだろうか。私の全く目もつけてられないような弱さを忘れてしまっただろうか。悪魔はどれほど巧妙で、その私たちをいとも簡単に倒してしまう事ができるだろうか。多くの人々は突然死んでしまって、その死の準備をする間もなかった。私には一体何が起こるだろうか。」

天主は、憐れみの御母がその私の死の時には、最高の最大の憐れみの母となる事を望んでおられます。教会はいつも、私たちの死の瞬間におけるマリア様の特別の役割について教えています。教会はマリア様の事を、「天の門」と賛美します。「死せる者の希望」とか。ですから私たちの数かぞえきれないほど多くの生前に言ったこの「めでたし」は、この「今も臨終の時も祈り給え」と言うのです。「その時に御身の御胎内の御子イエズスを私たちに示して下さい」と。

もしもその時に、いつも常に生涯の間マリア様の子供であったならば、何と幸せでしょうか。マリア様はその時に特別のやり方でご自分の子供の方にやって来ます、そして助けます。そして私たちが想像していた以上に、思ったよりもはるかに効果的に私たちを助けてくるのですけれども、1つだけ条件があります。それは、「生涯、私たちがマリア様と共に一緒にいる事」です。だからこの特別のマリア様の御約束があります、「もしも私たちが忠実に茶色のスカプラリオをいつも身に付けているならば、マリア様は地獄の火から私たちを守って下さる」と。初土曜日の、今日は初土曜日ですけれども、そのマリア様の1つの約束はこれです、「私は救霊の為に全ての必要なお恵みを持って、臨終の時にあなたの傍にいます」と。

皆さんと私の死がどのようなものか、今からちょっと言います。どのように、そしていつ、どこで、という事は言いませんが、この事については天主様だけが知っています。でも本質的にはこの事が分かります、まず「死の苦悩」です。これは皆さんが今まで経験した事がない、また最悪の、最も耐える事ができないと思われるほどの苦悩が死の時にやって来ます。たとえ外見的には平和に亡くなったという風に思われたとしても、霊魂の奥底では全く別の事が起こっています。悪魔はまさに、この死のその瞬間を待ちに待ち構えていたのです。

今悪魔はこの負けたとしても、それほど重要ではありません。もしも或る人が罪人が回心して、天主に回心して、そして20年間聖なる生活を送った、これは悪魔にとっては大きな打撃ではありません。ただ罪人がもしも死の瞬間、天主の方に立ち戻ってしまった、そうした時には悪魔は決定的な敗北が決まるので、それこそ恐れているのです。

悪魔はまず皆さんに、皆さんの犯した全ての罪を恐ろ恐ろしく目の前に見せて、そして皆さんのなさった最も下らない、つまらない、この馬鹿ばかしい事を見せて、「こんなお前は愚かな事をした。」そして私たちを絶望の淵へと導こうとします。悪魔は全て口を開いて、皆さんの霊魂をこの地獄の淵へと引きずり込もう、引きずり込もうと一生懸命戦いを挑みます。その最後のその死の瞬間には、皆さんのご両親、皆さんの大親友、皆さんの特別の親友、皆さんのもう無二の親友、皆さんのもう分かちがたい友達も、また友達と食べたおいしい料理も、そして皆さんが使った楽しい時も、何の役にも立ちません。

皆さんがもしもこの生きている間に、お金とか、銀行口座にいくら貯まっているかとか、或いは力のある有力な友人とか、或いは有力な親戚とか、或いはこう自分のやっているビジネスとか、何かそういう権力とか、力とか、そういう事に依り頼んだとしたら、死の瞬間全く用を成しません。

でも残念ながらカトリック信者でさえも、この世の物に依り頼んでいます。今カトリック信者がその死の老後の為に何をやっているか知っていますか?老後の生活の為にたくさんのお金を貯蓄して、それからたくさんの薬も溜め込んで、それから美しく肌をきれいにして、髪も染めて、そして力も名誉もためて、それで老後に備える、と。

それよりももっと大切なのは、今秋田でこの事を習うのですけれども、「マリア様の子供として常に留まっている。」これこそが最高の準備です。これは誰もそれを受けるに値する事ができない程の特別のお恵みを持って、マリアの子供にマリア様はやって来て、それを助けます。これが「堅忍の徳」です。堅忍の徳というのは、終わりまで耐え忍ぶ力であって、これはマリア様がイエズス様から勝ち取った特別の恵みです。

最後の瞬間悪魔が、皆さんは自分のものだ、「俺がもらう権利がある!」と言う時が来ます、「この子は1,570回大罪を犯した。小罪275,000回。生涯の間、天主の現存の前に現存に生きた、1時間。私の大罪の状態であった時間、23時間。この子は私のものだ。」その時には皆さんは、「それは嘘だ!間違っている!誤解だ!」と言う事はできません、それは本当です。

その最後の瞬間、どうぞマリア様の元に身を投げ出して下さい。「“Salve Regina”憐れみの御母、私の希望!」その時にマリア様は、私たちがそう言ったその瞬間、マリア様は悪魔に向かって、「出て行け!」と言います。

そして天主様はもっと素晴らしい真理をこの私たちに見せます。これは聖ベルナルドの言葉です、それは「天主様が私たちに何を、どのようなものであれ与えようとするならば、必ずマリア様を通して全てを与える」という事です。その時こそが大勝利の時です。私の霊魂における最後の、決定的に悪魔の頭が踏み砕かれる時です。永久に、この死にかけている子供たちの霊魂を救うのです。これが有名な言葉、「マリアの子は決して滅びない。」

「私たちの生涯の間、いつも、常に、マリア様の隣に、マリア様の傍にいるという事が大切か」という事です。この点について聖マキシミリアノ・コルベの奉献の祈りの最後の部分をお読み下さい、「あなたが入るところはどこでも、御身は回心とそして聖化のお恵みを勝ち取ります」と。「御身の手を通して、イエズス様の聖心の全ての恵みは私たちにやって来る」と。

では少し休息を入れます。皆さん、強い濃いコーヒーを飲んで下さい(*^^*)。
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秋田巡礼-霊的講話【9】-2016年5月6日シュテーリン神父様「あわれみの御母の御業(回心の御恵)」

2017年05月12日 | お説教・霊的講話
2016年5月6日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話9
「あわれみの御母の御業(回心の御恵)」

同時通訳:小野田圭志神父


マリア様の憐れみの御母の具体的な仕事、具体的な活動についてモットーについて、お仕事について黙想しました。

マリア様はまず、誤謬と罪によって破壊し尽くされた廃墟の前にご自分を見ています。たった1日でも、たった1年だけでも、全ての国を回心させたマリア様に私たちは信頼しきっていない、これが問題です。最も悪い罪に凝り固まった悪意の罪人であっても、マリア様は回心する事ができるという事を、そのマリア様の憐れみに信頼していない、という事です。まだ生きている限りは、マリア様はその人がまだ生きている限りは、たとえその人がどのような最悪の、もっとも邪悪な宗教の中にいたとしても、どのような者であったとしても、「救いたい」と思っている事を私たちはまだ確信していません。

皆さんの中には、或いは皆さんの中の多くは、かつてそのような状況にいらしたかもしれません。皆さんはこうマリア様にお尋ねになるかもしれません、「おぉマリア様、一体なぜ私にはそのお恵みを下さって、他の方にはそのお恵みを与えないのですか?日本には私よりももっと高貴な霊魂がいらっしゃるのに、なぜ私をお選みになって、なぜ私には憐れみを下さったのですか?彼らはまだ異教の闇にいますけれども、私は光を得て回心する事ができました。なぜ私にはその憐れみを得る事ができたのでしょうか?」

マリア様はこう答えるでしょう、「そういう風に尋ねないで下さい。私の憐みの真理は、あなたの小さな頭にはあまりにも偉大すぎるのです。そうではなくて、あなたは私がして欲しいという事を、ただ友人の日本の方々の為にするだけで良いのですよ。何故ならば、私はあの人にもお恵みを与えたいのですけれども、お恵みを与える為には道具が必要なのです。あなたがその道具になって下さい。」ですから、「なぜ私がお恵みを得て、他の人はお恵みを得ないか」と聞く時には、「何故ならば、あなたが他の人のお恵みの道具となる為ですよ。」

では、既にかつて信仰の恵みを受けて光を受けた、キリスト教信者の場合について話してみましょう。

しかし、たとえ信仰の恵みを受けたとしても、ある時その信仰を捨ててしまいました。それは現代の多くの多くの多くのカトリック信者で、私は多くの親御さんたちが私に、その子供たちについて嘆いているのを聞きました。

このような人たちは異教徒たちよりも更に状況は悪いのです。何故なら、異教徒たちはかつて光を受けた事がありませんでした。ですから、「No!」と言う機会がありませんでした。でもキリスト教信者は既に光を受けたのです。しかもそれにもかかわらず、「No!」と言いました。では何かこれらを助ける事ができるでしょうか?

では今から、想像してみましょう。とても悪い子供がいたとします。その多くの罪を犯した子供のお母さんなのです。全世界はそのような子供を見て、本当に馬鹿にして、軽蔑します。もしもこのお母さんが良い母だとしたら、その子供が不良だという事で、「もう親子の縁を切る!」と言うでしょうか。良き母の心は憐れみです。良き母は聖モニカにのようにするでしょう。聖モニカは聖アウグスティヌスの回心の為に18年間、祈り、祈り、祈り、祈り続けました。もしもそのような子供がちょっとでも回心の兆しのようなしるしを見せたら、お母さんはどれほど嬉しいでしょうか。もしもそのような子供が、もう罪に陥って罪の鎖に陥っているこの子供が、ある時、「お母さん!助けて欲しい!」と言った時に、その母親はどれほど喜ぶでしょうか。その時お母さんが、「何、お前、自分で泥の中に入ったのに、自分で起きなさい!」と言うでしょうか。きっとその良きお母さんは、私にしたようになさるでしょう。

私がまだ子供の時に、いつだったかちょっと覚えていません、何才だったのか。私の家に豚を飼っていました。それから豚小屋をきれいに掃除しなければなりませんでした。私は父のお手伝いをしていつも豚小屋をきれいにしていました。豚が食べた後で体の中から出す肥をたくさん、その豚小屋の外に山のようにこう積んでありました。そしてその横にはちょっとした溜め池があって、その豚の体内から流れ出るそのような物がたくさん溜まっていました。そしてある時、その周りでちょっと遊んでいて、アッという内にその溜め池の中にドボン!と入ってしまいました。その溜め池には底が無いので、ズブズブズブズブと入ってしまって、おそらく5才か6才だったと思います。誰もその周りにいませんでした。そこで私はズブズブズブと入る時に自分の全力を振り絞って、「お母さーん!!!」と叫びました。その時母は台所で料理をしていたのですけれど、私の声を聞きました。もしも母が聞いてくれなかったら、私はそのまま溺れていたところです。母はそこの台所からバッとこうダッシュしてこう駆け寄って、そしてこの溜め池にズボーン!と入って、私をガシャッと取って救ってくれました。3日間、私の体からは豚の汚物の匂いがずっとして、部屋から出る事ができませんでした。

ポーランドにいた時に、私は老年の方で55歳ぐらいの方の訪問を受けました。そのご夫人はギブスをはめておられました。そのご夫人は私にアドバイスを求めました。自分の息子さんが不良の道に入っているので何とかして救いたいのだけれども、どうして良いか分からない、との事でした。こう話しをしている途中に、どうもその話しの端々から、「あぁ、このお母さんがギブスをしているのは、これは息子が暴力をふるって腕を折られたのだ」という事が理解できました。その息子さんが自分のお母さんをあまりにも乱暴にこう殴ったので、お母さんはその腕を折ってしまったのです。

「奥さん、息子さんに怒っていませんか?」と聞きました。「神父様、私の子供ですよ。」この奥さんは、自分の事など全然構わなかったのです。ただ自分の子供を救いたい、それだけでした。もしも田舎に住んでいるこの奥さんがそれほど子供の事を考えたのなら、マリア様はそのどれほど私たちの事を考えるでしょうか。

チェンストホーバの有名なブラックマドンナ、黒いマドンナの御影です。これはポーランドの国を挙げての聖地です。この頬に傷が2つ付いています。この2つの傷はどうやって付けられたか知っていますか?異教徒あるいはプロテスタント、どっちかちょっと詳しく忘れてしまいましたが、そのイコンを傷付けようと、壊そうとしたのです。刀を持って剣を持って、それで壊そうとしました。そして半分壊されたその絵を、有名な画家がそれを回復します、修復します。全て完壁に回復したはずなのに、この傷だけは残りました。それで修復しようと修復しようと、何とかしてこう元通りに復元しようとするのですけれども、この傷が現れるのです。

マリア様はこれで何を私たちに示そうとしているのでしょうか?それは、「マリア様はたとえご自分に冒瀆的な、瀆聖的な痛みを与えつけようとするようなその子でさえも、そのような子にさえもマリア様は決して顔を背けずに、この子を助けたい」と思っているという事です。マリア様は皆が見る事ができるように、この憎しみの傷をその皆に見せようとしています。「ご覧、我が子よ。これがお前が私にしようとした事ですよ。でもこの傷は何でもありません。何故ならお前は私の子供だから。」

天主様は本当に皆さんの霊魂を救いたいと思っています。回心の事業が誰にとっても易しいものであるようにしたいと思っています。それを易しくするのが母です。聖母です。

どんなに極道のヤクザのようなものすごい人々の前にも、憐みの目を、眼を、決して背けない母がいます。

私は今これでお伽話を、作り話をしているなどと考えないで下さい。例えば皆さんもしかしたら、私はこれ「カトリックの教えから離れているんじゃないかな」と疑うかもしれません。聖ベルナルドはこう言っています、「どうして人は、自分の弱さの為にマリア様に近付くこうとしないのだろうか。マリア様には何も恐れるべきものはなく、何も近付く事を妨げるものはない。マリア様の全ては心の優しさ、そして柔らかさ、そして憐れみだ。だからそのような素晴らしいお母様を私たちに与えた、その御方に感謝しよう。」

ここで、全人類の中で最も最悪の人に存在に辿り着きます。その全人類の中で最も極悪の人は、私たちです。「神父様、何を言っているんですか!?良いカトリック信者が最悪の人ですって?」皆さんとか私のように、天主様に忠実であり、天主様の御旨を果たそうとしている人がなぜ悪いのでしょうか?

もしも誰かが、とても良い友人を持っていたとします。ところが突然、理由もなくこの友人を侮辱します。するとその友人は、「え、お前これ、何でいきなりこんな事をするんだ?」「すみません、ごめんなさい、ちょっと何か、どうしてこんな事をやったのかちょっと分からないのですけれども、傷付けてしまいました。悪い態度でした。申し訳ありません。」もちろん彼は親友ですし、良い友達ですから、彼は私の事を許してくれます。しかしそのしばらく後に、もう一回侮辱します。

ある時私はポーランドで、ある青年が神学校準備生として入会を入学を求めた子がいました。

3ヶ月後、この子は態度が良くありませんでした。さらに3ヶ月の後で態度がますます悪くなって、いろいろなところで周りの人々に、私たち聖ピオ十世会について悪口を言いふらして歩いてまわったのです。

ついにその神学生は3ヶ月後、神学校を出て、さらに聖ピオ十世会の色んな悪口を言いふらして行くのですけれども、1年後に帰ってきました。「神父様、すいません、私、何をしたのか分かりません。えぇと、もう一度神学生として受け入れて下さい。」

私と、他の同僚と、他の神父様と、ブラザー・クラウスというドイツ人のブラザーが相談しました。ブラザー・クラウスという方は聖ピオ十世会の最も年季の長い間いらっしゃるブラザーの1人です。私がもう1回彼を入学を許可したと聞いて、彼らからは「神父様には希望がありません」と言われました。

「この子の事をよく知っているじゃないですか、神父様。この子は何回やってもダメに決まっていますよ。」

でも私は言いました、「でも、まぁもう一回チャンスを与えてあげよう、もう一回いいじゃないか。」

ブラザー・クラウスは「この、まぁ様子を見てみましょう」と言いました。で、やっぱり 3ヶ月後に同じ事が起こりました。で、3ヶ月後に出て行って、それからもっと酷い事を、私たちに反対の悪口を言いました。ブラザーは、「ほら神父様、言った通りでしょう」と言いました。

2年後、この男の子がもう1回やって来ました。それで私は、本当にちょっとおかしいのですが、このもう1回受け入れます。そして神父様たちは皆私の事を、「神父様は本当に気が狂っている」と言いました。

3ヶ月後、また同じ事が起こりました。その青年はさすがに4回目はもう受け入れてくれないだろうと思って来ませんでした。何故かというと、もしも私が4回目を受け入れたとしたら、きっと他の神父様たちが革命を起こして私を追放したかもしれないからです(^^;)。

私は彼を3回も受け入れるほど狂っていました。イエズス様を見て下さい。何回でしょうか?何回私たちはイエズス様に、「あぁ、イエズス様、ごめんなさい。後悔しています。」

私たち良きカトリック信者はこの事を、この点を考えなければなりません。私たちの過去の告解、そして私たちの過去の遷善の決心と宣言、立派な遷善の決心、荘厳な約束、朝の祈りで今朝、「今日こそは私は、主に背くまじと決心し奉る。」しかしいつも同じでした。もしもそのような事が3回起こったとしたら、もうそれで普通ならば受け入れられません。そのような不公平な事を見て私たちは、少し自分の事について心配しなければなりません。全く問題なく、最も荘厳な約束を何度破ってきた事でしょうか。

では今、どうしたら良いでしょうか?

ではまた空しい宣言と空しい約束を持ってイエズス様の前に行くのでしょうか?私はこういう人を知っています、誠実さとか真面目さという事を主張する人々です。そういう人たちは、「もう空しい言葉や、空しい約束や、空しい宣言はもうしたくない」という事で、「もうイエズス様の元に行かない」という人です。

しかし、そうやって全てをやめてしまう事によって、天主様に対してますます不誠実になってしまうのです。何故かというと、とどのつまり全ては天主様から私たちは頂いていますし、とどのつまり結局はイエズス様から私たちは赦しを得なければならないからです。

今ここで大問題は、平凡な生ぬるいキリスト教徒として留まるか、或いは聖徳の道を進み行くか、このどちらかです。

皆さんがたとえ素晴らしい宣言文を持って、血で染めたスタンプでサインをした物を持っても、皆さんが良くなるわけではありません。何故かというと、この宣言をするに、皆さんは自分に、自分を頼んで、自分に信頼して、自分によりかかってそれを作っているのですから、皆さんはこれを破るに決まっています。

1つしか解決方法がありません。

マリア様です。もしも私たちが常に同じ罪に陥ってしまうなら、天主の御稜威の前に立つ事を恐れてしまうでしょう。イエズス様はこう私たちに尋ねられる事でしょう、「お前は一体どこまで私を釘付けにし続けるのか?お前は微笑みを受けながら、こう宣言を以って私を釘付けにし続ける。」

天主の正義をそのように何度も屈辱する事を恐れた霊魂たちが希望を失う事がないように、天主は御自分の御憐れみの生き写しを、つまり聖霊の浄配を私たちに送って下さった。

母が来ました。その自分の、ご自分の汚らしい子供を自分の手にとって、その皆さんの全ての弱さ、そして皆さんの努力とその躓きと、色んな試練を全て含めて、マリア様は皆さんを連れて、ご自分と一緒に天主の玉座に連れて行きます。でもイエズス様はマリア様を決して拒否する事はありません。マリア様は私と共に、イエズス様の前に玉座の前に跪きます、いとも清き汚れのない天と地の元后が。

そして私。マリア様の子供ですけれども、汚らしい恐るべき極悪人。マリア様はこうやってイエズス様に申し上げます、「我が子よ、私たちにはお願いがあります。」私はマリア様の顔を見ます。マリア様は、「私」はお願いがありますではなくて、「私たち」にはお願いがありますと言ったのを聞いたのです。マリア様と私は1つで、「私たちにはお願いがある」と言っているのです。

マリア様をご覧になってイエズス様はにっこりと笑って、「うん、どうぞ、仰って下さい」と言います。マリア様は私の方を見て「さあ、話しなさい」と言います。

「え、え、え?ぼ、僕?僕の話は、ただ、えぇっと、オオカミ少年で、話だけなのですけれども…」「話しなさい。」そこで私はマリア様の方を見て、こう震える声でこう言います、「おぉ、我が主イエズス・キリストよ、もう何千回も同じ事を申し上げました。私の宣言というのは全くバカバカしいと知っています。約束を守る事もできません。マリア様が私に話しなさいと仰るので、私ではなくマリア様に免じて私を赦して下さい。“キリエ・レイソン”主よ、憐れみ給え。」

イエズス様は、「あぁ、またか」とは仰らずに、「もちろんだ。赦してあげる」と仰います。何故かというと、イエズス様はマリア様を喜ばせたいと思っているからです。

イエズス様はあなたを皆さんを赦します。何度も何度も何度も何度も、何千回、何万回もの罪の赦しが与えられます。そして何度も何度も、その罪人を自分の聖心に、至聖なる聖心に受け入れます。これが悔悛です、罪の痛悔です。これが天主の憐れみの御母の業です。

もしも罪を犯したのならば、たった1人でイエズス様の所に行かないで下さい。自分の力でやるのではなくて、「我、今より心を改め、決して御身に背く事あるまじと決心し奉る! どうだすごいだろ!」

そうではなくて、マリア様の方にいつも行って下さい。「マリア様、私は本当に幼い子供です。私は御身がいなければ倒れてしまって、また、また倒れてしまいます。どうぞお傍にいて下さい。」

これこそが本当の霊的戦いです。これが私たちの事実を本当に理解する事です。

まず自分が破壊され尽くされた、という事をよく理解して下さい。いつも約束を破っている事を理解して下さい。本当に馬鹿ばかしい泥の一塊で、それ以外何でもないという事を理解して下さい。でも天主様にとってそれは問題ではないのです。マリア様にとっても問題ではありません。マリア様はよく知っています。マリア様は皆さんが何かを、皆さんよりもよく知っています。たとえ皆さんが惨めさとか汚らしさを知らなくても、マリア様はよく知っています。

マリア様の前で憐れさを見せて、マリア様に助けを求めて下さい。まず皆さんの惨めさを、悲惨さを認識して、マリア様に心から願って下さい。そしてマリア様の御元に平伏して、マリア様にお願いして下さい、「マリア様、マリア様だけが最後のチャンスです。」

マリア様は皆さんがやって来るのをずっと待っていました。そして皆さんがマリア様にその指の1本を出すのを待っていました。そしてそれを取って仰るでしょう。もしも明日また罪を犯して倒れてしまったら、何が起こるでしょうか。同じ事をして下さい。

マリア様は、「あぁ、我が子よ。立ち上がって、その泥から立ち上がって下さい。決して『また落ちた、また落ちた』と言わないで下さい。何故ならまた、また、何度も何度も何度も落ちるでしょうから。」マリア様が皆さんをこう助けて下さるのを許して下さい。私たちが罪を犯して倒れる度ごとに、ますます少なく自分を信頼して下さい。ますますマリア様の傍にいればいるほど、もっとマリア様の清さは、そしてその光を愛して、その罪の醜さを憎む事になるでしょう。

これは罪を犯したらすぐになさって下さい、すぐに。たとえ小罪であれ、大罪であれ、すぐにして下さい。

どのような罪を犯してもすぐに、マリア様の元に身を投げ出して下さい。マリア様の憐れみに信頼して下さい。

マリア様は皆さんのお憐れみです。皆さんを待っています。マリア様はすぐに行って助け出してくれます。マリア様は私たちが最高の痛悔の念を起こすのを助けてくれます、遷善の決心を。イエズス様はすぐにもう一度私たちを赦して下さいます。次に告解に行く時には、その時は全てうまくいってるはずです。

マリア様に手を差し伸べるのが時々ではなく、いつも、しょっちゅう出して下さい。つまりマリア様の現存を、マリア様の事をよくよくもっともっと頻繁に考える、と。朝1回夜1回ではなくて、いつも常に、という事です。

ロザリオをずーっと唱えている事はできません。でもマリア様と共に一緒にいるという事は、マリア様の現存の中に生活するという事です。マリアはいつも私たちと共にいて下さいます。考えて下さい。マリア様は私たちを本当に愛しています。たとえ危険の時だけでなく、喜びの時も、いつもしょっちゅうマリア様の事を考えて、「あぁマリア様、愛しています」と。

「天地の元后よ、キリスト教の軍隊の総指揮官よ、助けて下さい、悪魔が誘惑しようとしています。疲れてもう本当に弱くなっています、もうできません。でも、マリア様と一緒ならばできます。マリア様は私の力です。信頼しています。」

「マリア様、もう理解できません、分かりません。何か問題だらけで頭がいっぱいです。でもマリア様、御身は私の光です。私の教育者、私の光ですから、私に教えて下さい。」

皆さんはお父さんお母さんですね。自分の子供を自分で教えて、天主へと導こうとするのですか?忘れて下さい。「子供に対して厳しくあるか、優しくあるか、コラッ!と怒るべきか、ニコニコッとするか、よく分かりません。私を導いて下さい、道を示して下さい。」

こうやっていつもマリア様の考える事と、マリア様はいつも皆さんと一緒にいるという事です。

マリア様といつもこうやって親しく一緒にいる、という事に慣れると、次の誘惑は何でしょうか?

昔は悪魔がニコニコと笑って来て、そして私たちに近付いて、マリア様がいないのでボンッと一撃で私たちはもうこれで終わっていました、罪を犯していました。

いつも次のことが起こっています。今ではインターネットや携帯があるので、1つのクリックで、クリック1つでもう大罪です。これが今の現代の世の中です。私たちの青少年はいつもこの罪によって倒れています。でもマリア様と共に生きているなら、生活しているなら、マリア様といつも一緒にいて、マリア様にいつも手を差し伸べているなら、皆さんたとえコンピュータの中で働いていても、たとえば「ここをクリックしなさい」というのがチカチカしていると、もしかしたら「クリックしようかな」と思うかもしれません。

でもここにマリア様がいらっしゃるじゃないですか。昔はこのマリア様の事を考えませんでした、マリア様はニッコリと笑っておられます。「No!!」と。私はそういう事が何度もありました。

誰かがその大罪に落ちようとするその瞬間、でもこの人はマリア様の無原罪の聖母の騎士でした。彼はこの人は情念が沸き起こってもう罪を犯すその瞬間でした。この罪を犯すその瞬間、不思議のメダイ、スカプラリオ、「あぁ、私にはできない。」

マリア様はどうやって救ってくれるか知っていますか?マリア様はたとえ罪を犯した後でも助けてはくれますが、もしもマリア様にいつも忠実であるならば、罪を犯さないように助けてくれます。たとえ誘惑が来ても、マリア様はそれに対してより強く、強く、強く、抵抗する事ができるようにしてくれます。

最初はもしかしたら、その最後の最後の最後の瞬間に罪から逃れるかもしれません。しかしトレーニングをよくした訓練をされた兵士のように、ますます強くなっていきますので、罪を犯す事が難しくなるようになり、マリア様に行く事だけが罪を犯さなくなる唯一なやり方です。もちろん何年もかかります。でも必ず成功します。

マリア様は、その汚いカリスをいつもいつもきれいになされている方です。これは回心のお恵みです。もしもその回心した霊魂がこのマリア様の子供が、いつも忠実にマリア様の方に近付いてマリア様からお恵みをもらおうとするならば、マリア様はその子供に光とお恵みをたくさん下さいます。その時に初めて、天主様からマリア様が頂いたその恵みを私たちに下さる事ができます。

回心のお恵みというのはもちろん、私たちにとって非常に大切ですけれども、0.1パーセントです。しかし聖化のお恵みは99.9パーセントです。残念な事に多くのカトリック信者は、その「キリスト教信仰というのは、罪を犯さない事だけだ」と思っています。

その誤解している事は、「全キリスト教生活のその核心というのは、汚いこの汚れたカリス、つまり泥の中に入ってしまったカリス、これを泥の中から取って、これをきれいする。それだけ。そしてそれを戸棚の中にしまっておく。それを使わない。」

何か司祭が贈り物に、きれいな最高のカリスを贈り物にもらいながら、そしてその素晴らしいもう金・銀で、もう色んな宝石が付いているカリスですけれども、それを使ってミサをする代わりに、それを金庫の中にしまっていて、何も使わない。

そうではなくて、まさに罪の浄めが終わったら、今から本当の生活が始まるのです。今こそ、憐れみの御母、憐れみの宝庫から、たくさんの宝を皆さんに下さる事ができるのです。

この宝物については、明日お話します。
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2017年5月の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2017年05月09日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは!第11回目の秋田の巡礼を終え、5月の大阪と東京で聖伝のミサを捧げることができました。今回は、シュテーリン神父様やブラザー・クラウスも来られ大変うれしく思います。

去年の8月には聖母黙想会をしましたが、それはファチマ百周年のため、9ヶ月の準備のノベナの始まりのようでした。

今年の秋田巡礼は、ファチマ百周年がいまから始まるというそのスタートを準備させるもののようでした。そのお恵みが日本に与えられて聖母の汚れなき御心に感謝します。

大阪ではファチマの最初の御出現の記念日の翌日である、5月14日(主日)にはレネー神父様の聖伝のミサがあります。

次の東京での聖伝のミサは、6月です。

6月2日、3日に大阪で
6月4日、5日に東京であります。
お間違えのないようによろしくお願いします。

次のようなご報告を頂いたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

5月の初金曜日、初土曜日のミサの報告をお送りいたします。

5月5日(初金曜日) 至聖なるイエズスの聖心のミサには13人が、
5月6日(初土曜日) 聖マリアの汚れなき御心のミサには19人が御ミサに与るお恵みを頂きました。
デオグラチアス!!

この度はアジア管区長のシュテーリン神父様、私達の小野田神父様と、ポーランドからのお客様のクラウス修道士様を大阪の聖堂にお迎えする大きなお恵みを頂きました。
小野田神父様の日本一のお聖堂を作る計画はまだまだ始まったばかりですが、それでもシュテーリン神父様が、お聖堂や御像を褒めて下さったのがとても嬉しかったです。

また、聖母の騎士会発足の誕生日にあたる5月6日初土曜には、全世界のM.Iの代表としてシュテーリン神父様が奉献の更新をしてくださり、聖母の騎士として大きな喜びと責任を感じました。お説教ではファチマとマリア様の汚れなき御心についての神秘を深く黙想でき、マリア様の汚れなき御心にどっぷりつかっているような幸福な2日間でした。

自分なりにファチマの事は良く勉強しているつもりでしたが、ちまたで手に入る本やインターネットで閲覧できる情報だけでは知る事の出来ない事を多く知る事ができ、
何よりもマリア様の汚れなき御心の神秘と役割をファチマを通して知る事が出来た事が私には大きな宝物になりました。

あまりにも素晴らしいお説教と霊的講話でしたので、お御ミサに来られなかった方々にもぜひビデオを見て頂きたいと思います!!!!

土曜日の御ミサ、公教要理の後にはグレゴリオ聖歌のマリア様の歌を2曲練習しました。
その後に、信徒会長と信徒で「聖ピオ十世司祭兄弟会を聖母のその悲しみに満ちた汚れなき御心に奉献する祈り」に、シュテーリン神父様が仰ったように、日本を加えてお祈りしました。

8月にはファチマをもっと良く知るための「小黙想会」が大阪であるそうなので、沢山の方々が参加されて、ファチマの神秘を知り、マリア様の汚れなき御心に入ることが出来ることを期待しています。

秋田巡礼の後の大阪でのミッションで神父様方にはいつもにも増してお疲れになったことと思います。どうぞ天主様が神父様方、修道士様に大きく報いて下さいますように!
マリア様の汚れなき御心の中で休息して元気を取り戻してくださいますように!

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様、秋田巡礼と大阪のミッション、お疲れさまでした。
ところで、秋田から大阪までシュテーリン神父様、小野田神父様、クラウス修道士とともにいい時間を過ごさせていただきました。

特に今回初めて日本にお越しになったブラザー・クラウスには、みんな良い印象を受けました。お優しい眼差しと雰囲気、静かで謙遜な態度に、良いブラザーが来られたと信者一同ありがたく思いました。(…)ブラザーの生真面目な性格が伺われて、本当に良い方だと改めて思いました。鈴の鳴らせ方のうまさにも感心しました。その性格のように優しい音でした。手の動きを教えてもらいましたが、なかなかあそこまで上手にできません。

シュテーリン神父様が講話でお話しになったファチマの聖母ご出現とその前年の天使の出現、そして特に聖母を見てお声を聞いた三人の子どもたちの生き方の重要性を改めて認識しました。

聖母の汚れなき御心へのロシアの奉献によって、ベラルーシ、ウクライナを含むロシアが、強固なるロシア正教の信仰を持つ彼らが、カトリックへ回心するならば、まさに奇跡です。

では、来週13日の第一回のファチマの聖母ご出現の記念日に、三人の子どもたちのうちの二人、福者フランシスコとヤシンタが列聖されるのを楽しみにしながら、両神父様とブラザーのお三方に、絶えざる御助けの聖母と秋田の聖母、そしてファチマの聖母の御取り次ぎが豊かにありますように。



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ファチマ100周年のこの年に秋田巡礼を遂行して下さり、本当にありがとうございました!
その後シュテーリン神父様とご一緒に大阪の聖母の汚れなき御心聖堂にお越し下さり、初金・初土の御ミサも捧げて下さり、本当に御恵み溢れる4日間でした!
イエズス様の至聖なる聖心の随意ミサ、マリア様の汚れなき御心の随意ミサ、聖ヨゼフ様の御ミサ、ファチマの御出現の御講話、マリア様の御像の前でのロザリオの黙想、十字架の道行き、御聖体降福式と、ファチマ100周年の巡礼に向けて、秋田のマリア様は御恵みを凝縮して私たちの心を準備して下さっているように感じました!

ドイツからブラザークラウスもお越し下さり、シュテーリン神父様と20年間ご一緒に働かれたブラザーという事で、とても貫禄のある、しかし穏やかな、お優しい雰囲気の方だと思いました。グロリア~のお歌もとてもきれいでした!

ファチマの御講話もとても興味深いものでした。
マリア様の御出現を受けた3人の子供たちは、それぞれ性格というか役割が違っているような感じを受けました。フランシスコは観想的で、「天主様をお慰めしたい」という強い思いで祈りに徹していて、ジャシンタは活動的で、「地獄に落ちるかわいそうな私の霊魂を救いたい」という強い思いで祈っていて、ルチアは、「マリア様の汚れなき御心に御捧げする為に」という一心で全ての生活を送っていた、という印象を受けました。
フランシスコとジャシンタの生涯の話しは今まで読んだり聞いたりして少し知っていたのですが、シスタールチアの生涯はあまり詳しく知らなかったので、今回とても色々知ることができて、私もルチア様に倣って、従順、謙遜、単純に、毎瞬間をマリア様の汚れなき御心の為に生きて、生涯を送りたいと思いました。

今年も巡礼の為に労を執って下さった、シュテーリン神父様、小野田神父様、ヨゼフさん御一家には心から感謝とお祈りを申し上げます。

長々と書いてしまいましたが、ファチマのアヴェ・マリアの好きな歌詞を5つ選んで下さいという事をお伺いしましたので、一応選ばせて頂きました。(´艸`*)

9 おおイエズス 愛するため 我が苦しみ 捧げまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

10 汚れの無き 御心こそ 我が避難所(のがれば) 天(あめ)への道
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

11 茨刺(いばらさ)さる 母の御心(こころ) 慰めたい、償いたい
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

19 秋の空に 踊る太陽 色とりどり 染まる大地
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

24 優し母の 御心(みこころ)こそ あまねく世の 救いとなれ!
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

が特に良いなぁと思いました☆(o^^o)

ファチマの聖母黙想会と巡礼、とても楽しみです!

デオ・グラチアス!アレルヤ!



【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 23人(内、子供2人)
女: 32人(内、子供5人)
計: 55人(内、子供7人)

シュテーリン神父の霊的講話の参加者数
男: 9人
女: 12人
計: 21人

晩課の参加者数
男: 3人
女: 6人
計: 9人
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「ファチマのアヴェ・マリア」  (続き) その4

2017年05月08日 | ファチマ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「ファチマのアヴェ・マリア」の聖歌の記事の続きです。

「カトリック聖歌集」に掲載されている歌詞の続きで、さらに新しい歌詞の提案もいただきました。合計39番になりました。追加の歌詞(32番から38番まで)があります。聖歌の歌詞のよいアイデアがありましたらもっともっと知らせて下さい。投稿をお待ちしております!

日本を訪問されたシュテーリン神父様に、日本ではファチマのアヴェ・マリアは33番まであると自慢したら、インドでは聖アントニオを称える聖歌が48番まであってインドでは毎回全部歌っている(20分かかる)と言われました。そう言われれば、フィリピンでは聖週間に Pasyong mahal ni Jesucristo という天地の創造からイエズス・キリストの御復活と最後の審判までの歌があります。これを全部歌うのは一日かかります。

心に染み入る歌詞がたくさんあり、甲乙つけがたいのですが、その中でも、愛する兄弟姉妹の皆様に五つを無理やり選んでもらったところ、投票が多かったのは次の歌詞です。

3 おんみこそは 愛の極み 我らの母 慕いまつらん
5 おおマリアよ み手をのべて 世の行末(ゆくすえ)照らし給え
8 我が天主よ われは信じ あがめ、のぞみ 愛しまつらん
9 おおイエズス 愛するため 我が苦しみ 捧げまつる
10 汚れの無き 御心こそ 我が避難所(のがれば) 天(あめ)への道 (3)
11 茨刺(いばらさ)さる 母の御心(こころ) 慰めたい、償いたい (4)
19 秋の空に 踊る太陽 色とりどり 染まる大地 (2)
24 優し母の 御心(みこころ)こそ あまねく世の 救いとなれ! (2)
28 我が御母の 御手によりて 主の玉座の 花とならん (3)
29 ロザリオもて 祈るならば 解決せぬ ことはあらじ
30 天主に付き、地獄仇し、われら臨む 霊のいくさ
32 インマクラータの 凱旋(かちほこり)を 待ちて祈る アヴェ・マリアぞ


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ファティマのアヴェ・マリア

1 ああうるわし 若葉ゆれて 光りの君 立たせ給う
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

2 幼子たち 招き給い 神の秘密 ささやきたもう
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

3 おんみこそは 愛の極み 我らの母 慕いまつらん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

4 ロザリオもて 平和祈れ 罪に泣けと 諭させたもう
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

5 おおマリアよ み手をのべて 世の行末(ゆくすえ)照らし給え
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

6 ああ懐かし 空のかなた 導きてよ 愛のみ母
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

【続き】

7 世の罪にて 悲しみ給う 主を慰め 奉らん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

8 我が天主よ われは信じ あがめのぞみ 愛しまつらん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

9 おおイエズス 愛するため 我が苦しみ 捧げまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

10 汚れの無き 御心こそ 我が避難所(のがれば) 天(あめ)への道
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

11 茨刺(いばらさ)さる 母の御心(こころ) 慰めたい、償いたい
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

12 母の心 愛するなら 我が救いを 保証し給う
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

13 「初土(はつど)毎(ごと)に 五回続け ロザリオもて お勤めせよ」
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

14 主と聖母(せいぼ)の 計り知れぬ 功徳により 祈りまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

15 御聖体を 全ての罪の 償いとて 捧げまつらん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

16 主と母との 御心により 世の回心 願いまつらん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

17 あまたの人 地獄の中 幼子らに 見せさせたもう
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

18 雨の中を 民は集う 奇跡を見に 祈るために
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

19 秋の空に 踊る太陽 色とりどり 染まる大地
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

20 人知れずに 子供ヤシンタ 病(やまい)の身を 捧げ逝けり
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

21 罪に痛む 主の姿を 見て祈るは フランシスコ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

22 ルチアは地で 母の御心 知らせるため 選ばれたり
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

23 「聖母に会い この目で見た 間違いない 嘘はつけぬ」
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

24 優し母の 御心(みこころ)こそ あまねく世の 救いとなれ!
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

25 我が日の本(ひのもと) 平和求む 主の御母(みはは)よ 祈り給え
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

26 信じまつる 崇めまつる 望みまつる 愛しまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

27 苦しみもて 罪償い 我ら全て 捧げまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

28 我が御母の 御手によりて 主の玉座の 花とならん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

29 ロザリオもて 祈るならば 解決せぬ ことはあらじ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

30 天主に付き、地獄仇し、われら臨む 霊のいくさ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

31 汚れのなき 御心もて 主と聖母に 御栄えあれ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

32 イェズス、マリア、愛しまつる 霊魂たち 救い給え
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

33 主のみ旨を 果たすために 我を母に 捧げまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

34 汚れなき み心にて わが十字架 愛させてよ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

35 全世界の 司教たちと パパにたのむ ロシア奉献
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

36 百年(ももとせ)超(こ)え 国を越えて われら集う ファチマの丘
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

37 いやし身なる われらなれど 母通せば 主は受け給う
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

38 汚れの無き 母御心(ははごころ)を 知らしめんと 望み給う
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア


39 インマクラータの 凱旋(かちほこり)を 待ちて祈る アヴェ・マリアぞ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア
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マルコによる聖福音の日本語の朗読録音ファイルのご紹介

2017年05月04日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは! 聖マテオによる福音の朗読、数名の方々が感謝して下さり、より多くのファイルをご紹介することを励まして下さった方々がいました。大変うれしく思います。調子に乗って、マルコによる聖福音の朗読もご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


マルコによる聖福音の朗読

マルコによる聖福音の朗読 第一章
マルコによる聖福音の朗読 第二章
マルコによる聖福音の朗読 第三章
マルコによる聖福音の朗読 第四章
マルコによる聖福音の朗読 第五章
マルコによる聖福音の朗読 第六章
マルコによる聖福音の朗読 第七章
マルコによる聖福音の朗読 第八章
マルコによる聖福音の朗読 第九章
マルコによる聖福音の朗読 第一〇章
マルコによる聖福音の朗読 第一一章
マルコによる聖福音の朗読 第一二章
マルコによる聖福音の朗読 第一三章
マルコによる聖福音の朗読 第一四章
マルコによる聖福音の朗読 第一五章
マルコによる聖福音の朗読 第一六章


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「イエズスは私を知らせ、愛させるためにあなたを使うことを望んでおられます。」(ファチマの聖母)

2017年05月03日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

「イエズスは私を知らせ、愛させるためにあなたを使うことを望んでおられます。」(1917年6月13日)
Jesus quer servir-Se de ti para Me fazer conhecer e amar.





愛する兄弟姉妹の皆様、

 5月13日は、ファチマの聖母の御出現百周年です。5月13日には、ファチマにフランシスコ教皇様も行かれるそうです。

 ファチマの聖母について、ご存じですか? 聖母は天国からファチマに来られて私たちに何を語りかけておられるのでしょうか?

 日本に住む私たちにとって、何故ファチマがそれほど大切なのでしょうか?

 ファチマの霊性とは何でしょうか? 

 聖母マリア様が私たちに特別のメッセージを与えようとしてファチマに来られました。聖母マリアさまの呼びかけに耳を傾けて下さい。

 ファチマのことを知って、是非、お友達にも教えてあげて下さい。

 ファチマの聖母は、私たちにもルチアと同じことを語りかけています。ファチマの聖母が愛する兄弟姉妹の皆様におっしゃる言葉を聞いて下さい。

「イエズスは私を知らせ、愛させるためにあなたを使うことを望んでおられます。」

 来る主日には、ファチマの聖母について、長い間研究し、数冊の本を書いたシュテーリン神父様のお話を聞きに来て下さい。

場所:東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

日時:5月7日(主)午前10時半 ミサ聖祭の説教
          午後02時半 ファチマの聖母についての講話

「イエズスはこの世界に私の汚れなき御心への信心を打ち立てることを望んでおられます。この信心を実行する人に私は救いを約束します。これらの人々の霊魂は天主の玉座を飾るために私によっておかれた花のように、天主にとって大切なものです。」(ファチマの聖母1917年6月13日)

【追加のお知らせ】

5月7日(主)には、ミサ聖祭が2回あります。午前8時と、午前10時半のミサです。

午前8時のミサが終わった後、よりよく歌ミサで歌うことが出来るために、聖歌隊は「復活後第3主日」のグレゴリオ聖歌のリハーサルをする予定です。
できるだけ多くの方々が聖歌隊と一緒に聖歌を歌うことが出来るように望んでおります。そこで、リハーサルにもご参加なさることをお招きいたします。

       午前8時     ミサ聖祭(読誦ミサ)
       午前8時45分頃 聖歌の練習(同時に告解もあります)
       午前10時    ロザリオ
       午前10時半   ミサ聖祭(歌ミサ)


天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

コメント

初水曜日には「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみについて黙想」することをご提案します。

2017年05月03日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、5月3日は、初水曜日(月の初めての水曜日)です。

毎月の初水曜日には「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。

聖ヨゼフは、この世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失ならんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。

2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。

3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。

4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。

5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。

6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。

7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。

交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。


聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph


英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.
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【質問】聖ピオ十世会とは何ですか?

2017年05月02日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、皆様のご質問にお答えいたします。



【質問】聖ピオ十世会とは何ですか?

【答え】
聖ピオ十世会とは、ルフェーブル大司教によって、1970年11月1日スイス、フリブールのシャリエール司教から正式な認可を得て、カトリック教会法典に則って創立されたカトリック教会の1つの修道会です。

聖ピオ十世会の創立の目的は、近代主義の教えや道徳や礼拝に染まらない、正統なカトリック信仰による司祭の養成です。

2017年3月現在:
神学校6校、
管区(管区には少なくとも三つの小修道院がある)14、
自律修道院(管区になる前の段階)4、

小修道院165(そのうちフランス管区には38、アジア管区には6)、
ミサ・センター(聖堂・教会)772、
大学2校、
養老院7、

司教3名、司祭612名、神学生215名、神学準備生40名、
修道士116名、聖ピオ十世会の修道女195名、奉献修道女79名、
カルメル会修道院4、
ケニアの宣教修道女17名、
37諸国に修道院を持ち、そこからさらに35の諸国へミッション活動(総計72の国々で活動)。
聖ピオ十世会の学校で学ぶ生徒の数は3000名。


聖ピオ十世会の活動の国々は、
アジアではフィリピン、日本、韓国、シンガポール、インドネシア、マレーシア、香港、ベトナム、スリランカ、インドなどで活動し、

西欧では、フランス、イギリス、アイルランド、ドイツ、オーストリア、スイス、イタリア、スペイン、ポルトガル、ベルギー、オランダなど、

東欧ではポーランド、リチュアニア、ロシアなど、

北欧ではスカンジナビア、ノルウェイ、デンマーク、スウェーデンなど、

アメリカでは、アメリカ合衆国、カナダ、メキシコ、アルジェンティナ、チリ、コロンビアなど、

アフリカではガボン、ジンバブエ、南アフリカなど、

オセアニアではオーストラリア、ニュージーランドなど
で活躍しています。

日本では、聖ピオ十世会はフィリピンから毎月2回、司祭を派遣し、東京と大阪で聖伝のミサを捧げています。

日本人司祭の数:1名
日本での常設聖堂:1(大阪)


【質問】聖ピオ十世会はローマに従っているカトリック修道会ですか?

【答え】
はい。聖ピオ十世会は永遠のローマに従い、歴代の公会議や教皇様たちの教えをそのまま守っているカトリック修道会の一つです。



【質問】聖ピオ十世会は何故SSPXと言われるのですか?

【答え】聖ピオ十世会のことを、英語では the (Priestly) Society Saint Pius Xと訳されているので、SSPXと言われています。

ラテン語でFraternitas Sacerdotalis Sancti Pii X (聖ピオ十世司祭兄弟会) と言うので、ヨーロッパでは普通、FSSPXと略称されます。



【質問】教会の高位聖職者たちは聖ピオ十世会をどう取り扱っていますか?

【答え】
近代主義の考えに染まってしまった高位聖職者たちは、カトリックの聖伝に対立し、聖ピオ十世会の使徒職を妨害しています。
しかし保守的な高位聖職者たちは、聖ピオ十世会の活動を天主の祝福であると発言しています。



【質問】何故、高位聖職者たちは聖ピオ十世会に反対するのですか?

【答え】
高位聖職者たちは聖ピオ十世会に反対するのは、高位聖職者たちが沈黙のうちに葬り去ろうとしていることを聖ピオ十世会が発言するからです。

何故かというと、第2バチカン公会議以後、カトリック教会に前代未聞の背教(=信仰を捨てること)が起きてしまったこと、聖伝のミサを初めとして聖伝の儀式による秘蹟の執行が捨て去られたこと、現代なされているエキュメニズム(=宗教統一運動)がカトリックの信仰に反していることなど。聖ピオ十世会が第2バチカン公会議の欠点を指摘していることも、改革を推し進めようとする人々にとでは嬉しいことではないからです。



【質問】聖ピオ十世とは誰ですか?

【答え】
聖ピオ十世(在位1903年-1914年)とは、ピオ十二世教皇によって1954年に列聖されたカトリック教会の教皇の1人で、特に教会内部を冒していた近代主義を排斥し、グレゴリオ聖歌や御聖体拝領などによってカトリック教会を大きく復興させた教皇です。

聖ピオ十世教皇は、近代主義に反対する回勅『パッシェンディ』(1907年)の中でこう書いていました。「教会のために力強く闘うカトリック信者たちに対して、近代主義者たちは悪意と厳しさをもって迫害するが、私たちはそのことを驚いてはならない。カトリック信者らにたいして彼ら近代主義者らがなす侮辱には制限がないからである。」
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秋田巡礼-霊的講話【8】-2016年5月6日シュテーリン神父様「あわれみの御母」

2017年05月01日 | お説教・霊的講話
2016年5月6日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話8
「あわれみの御母」

同時通訳:小野田圭志神父


皆さんに憐れみの御母についてお話しする前に、16年前に一体何が起こったかという事を話したいと思います。

私はガボンで宣教師でした。私の同僚が、女の子たちの為の運動を創立しました。ガボンではファチマの聖母に対する非常に深い信心があります。教会はこのファチマの聖母の、マリア様の汚れなき御心への信心を教えています。私の同僚はファチマの信心会を通して、コルベ神父様について発見しました。「1917年にコルベ神父様が創立した無原罪の聖母の騎士会は、非常に私たちにとって大切だ」という事が分かりました。これはマリア様に対する信心だけでなく、私たちが必要としている戦いの精神を教えてくれるからです。特に若い人たちは青年は、「私たちには敵があって、この敵と戦わなければならない。もしもその敵と戦わなければ負けてしまう」という事が理解できていないからです。

このガボンの女の子たちの為の運動は信心会は、まず聖母の汚れなき御心に対する信心を深め、そして更にコルベ神父様の霊性に従って、異教主義、或いは不道徳、或いは不潔などに対して戦っていかなければならない、ということを目的に創立されました。

女の子たちは本当に私たちの驚く事には、それに従って、それを実践してきました。私の同僚はしばらくすると別の所に任命されて、私がその責任者になりました。このグループには300名の女の子たちがいました。この300名の会員からたくさんの召命が出ました。私はそのものすごいお恵みの目撃証人です。

1人の女の子は、脳のマラリアで、もう死ぬしかありませんでした。よく倒れてしまって気を失ってしまって、意識を失ってしまって、もう動く事もできずに、いつもベッドで寝ていました。私がガボンで会った女の子の内で、最も知性的で頭の良い女の子でした、その子はドイツ語さえも話せました。

この子は洗礼を受けていませんでした。異教徒の家庭に生まれて、そのお父さんは魔術師でした。そしてこの子がミッションに来てミサに与ると、その女の子を鞭で叩きました、「行ってはいけない。」

この子の試練は、そのようなお父さんを憎まないという事でした。まだ洗礼を受けてなかったにもかかわらず、周りのお友達や、その友達の女の子たちを皆このミサにミッションに連れて行きました。洗礼を受けるとすぐにカテキスタになって、公教要理を教え始めました。

その子は公教要理をあまりにも上手く雄弁にこう語りかけるので、それを聞いていた異教の未信者さんたちを非常にこう興味深く、「あぁ、そうか、そうか」と納得させていました。私がガボンから別の所に任命された時に亡くなりました、20歳でした。彼女はおそらく1000人以上の人々をカトリック信仰に導きました。

彼女の力はどこから来たのでしょうか?インマクラータ、無原罪のマリア様です。この子は無原罪の聖母の騎士を生きていました。

もう1人の女の子がいます。この子はミッションの所から8キロ離れた所に住んでいたのですけれども、毎日ミサに与りに来ました。その子は1時間歩いてタクシーを拾って、それからタクシーに乗って学校に来てミサに与って、その後でそのミッションに付いている学校、付属の学校に行きました。そのお爺さんはガボンの法務省の大臣でした。この法務省の大臣も魔術師でした。その大臣のお爺さんがこの子に、その「異教の魔術を習うように」と言いました。そのお爺さんがその子に聞いた時の周りに、10人以上それを目撃した人が聞いた人がいます、これは本当の話しです。

「私は、イエズス様とマリア様のものです。だからそうしません。」

するとこの元大臣のお爺さんはピストルを胸に付けて、「するのかしないのか。もししないなら、お前死ぬぞ。」

するとその子はお爺さんの顔を見て答えます、「私は死んだ方がましです。」

15歳の子が「私は死んだ方がましです」と答えました。今、彼女は聖ピオ十世会のシスター会のシスターとなっています。

このような話がたくさんあるのですけれども、もしも1つ1つ話したら、夜中までかかってしまいます。

そうしてそのガボンからポーランドに任命を受けたのです。実はポーランドというのはコルベ神父様の祖国で、無原罪の聖母の騎士のまさにその中心地でした。コルベ神父様が書いたポーランド語で、その原語で、その文章を、コルベ神父様が書いた物をその直に読むと、読めば読むほど、「これこそが本当に今必要なものだ」と感じます。

日本の長崎にも聖母の騎士会はあって、それは今でも続いています。でも残念ながらコルベ神父様の理想を変えてしまいました。

コルベ神父様はこの会員たちに、「インマクラータにお祈りして、カトリック信仰を持っていない人が信仰に導かれるように」と「回心の為に祈れ」と言いました。

コルベ神父様は皆に会員たちに言って、「悪と戦い、悪魔と戦い、罪と戦い、そしてそれに対する戦闘を挑む事」を望みました。

しかし現在では、この無原罪の聖母の騎士会は、「世界の平和」とか「人類の一致」とか、或いは「一人一人が幸せに生きよう」という事だけになってしまっています。

1999年に、黙想会の終わりに3名の方が来て、「神父様、聖伝の昔のままの聖母の騎士をやりたいのですけれども、何かして下さい」と言ってきました。そこで聖ピオ十世会の総長様であるフェレー司教様に言って、「聖マキシミリアノ・コルベが作ったそのままの、創立したままのその精神で、聖伝のままの無原罪の聖母の騎士会をまた復興させても良いか」と聞きました。すると「ポーランドだけ」という限定付きで、フェレー司教様は許可を下さいました。

そこでその創立の為に、マリア様の聖母聖月、5月の初土曜日、つまり5月6日、2000年の5月6日を選び、それが今日です、最初の入会式が今日行われました。聖伝に基づく無原罪の聖母の騎士会が今日、16年前にこうやって始まりました。明日、またそれについてもっとたくさん話をする事ができればと思っています。

では「憐れみの母」についての黙想を続けましょう。

天主の憐れみを受ける唯一の条件、これが「謙遜である」という事を黙想しました。天主の憐れみというのは、「本当にもう無であり、何でもない被造物に愛する注意を向ける」これが天主の憐れみです。「この憐れな、もうどうしようもない罪の私たちに、自分の憐れみを示して、その彼らをその罪の汚らしい泥の中から引き出して、きれいな光で満たして下さる」これが天主様の憐れみです。

また憐れみというのは、天主の最も偉大な属性であるという事を見ました。でもそれだけではありません。その他にも色々な属性があります。従って天主の憐れみというのは、その他の属性といつも連携させて黙想しなければなりません。例えば「全能と憐れみ」「全知と憐れみ」などです。

この世に私たちの主が来られた時には、その憐れみを最高度に表そうとして来られました。何故なら、「憐れみ」というのは「天主の聖心のそれ自体」であるからです。全ての光と、美と、善の宝のその宝庫であるからです。天主の憐れみとはつまり、「イエズス様の聖心」です。この聖心は閉じられているのではなくて開かれていて、私たちの惨めさや憐れさに開かれています。この聖心は十字架の上で苦しみ、死にます。お持ちになっているもの全てを与え、与え、与え、与え、与え尽くす事を望んでいます。

イエズス様の聖心というのは、ただ単にこの壁に書かれた絵ではありません。この聖心の御影は私たちの家に、イエズス様の愛するこの現存があるという事を思い出させてくれます。

皆さんの胸に、心臓がドキ、ドキ、ドキと動いていると同じように、今この部屋で、この御聖櫃の前で、イエズス様の聖心もドク、ドク、ドクと動いています。今ここで、皆さんの心に今、直接、直に、イエズス様の聖心からの憐れみが今流れています。

イエズス様の憐れみにはまた別の属性があります。使徒信教にあるように、「生ける者と死せる者の裁き主」です。裁き主は善人に報いを、悪人に罰を与えなければなりません。ところで憐れみというものは、罰を排除するものです。天主はその純粋に、ただただその存在に於いて、そのある者に於いて、純粋にただ憐れみだけを与えようとしています。そこで天主様は、憐れみだけ、純粋な憐れみ、憐れみそのもの、という存在を創造する事を考えました。その存在の最初から終わりまで、ただ有るものは憐れみ、そのようなものを。

聖ベルナルドによると、「この方は、裁く事もなく、罰を与える事もない。」たとえ悪いものを受けたとしても、侮辱を受けたとしても、ただ単に良いものを与え、与え、与え、与え、与え尽くして、そしてその目も当てられない惨めな子供に愛を注ぎ尽くす、そのような憐れみそれ自体を考えました、作りました。

この方は、この存在は、その子供から非常に悪い取り扱いを受けて、本当にもう悪さばかりさせられて、もう悲しい思いだけをされるのですけれども、決して「もういい加減にして欲しい、もう怒った、もう堪忍できない」と言う事が決してない方です。この方こそ、聖母マリア様です。聖ベルナルドはマリア様の事を、「“Misericordia pura”純粋な憐れみそのもの」と言いました。

大聖アルベルトという大聖人がいますが、この分厚い本を書いて、“Mariale”という「マリア学」という分厚い本を書きました。

聖トマス・アクィナスのお師匠様ですけれども、マリア様の事を深く研究した大聖アルベルトは、「マリア様の称号はこれにまとめられる、つまり、『憐れみの御母』であって『憐れみの元后』である」と言っています。

私たちが、「元后憐れみの御母…」と言う時に歌う時に、それはただ単にきれいな歌ではありません。これはこの言葉は、マリア様の最も深い存在の中核、その本質に行き当たるのです。

マリア様はイエズス・キリスト様の御母です。イエズス様の聖心は天主の憐れみの、地上における天主の憐れみです。マリア様は、この天主の憐れみそれ自体の母となるのです。天主イエズス・キリスト様は、その自分の持てる全ての憐れみを全くひっくるめて集めて、マリア様に全て与え尽くして、「マリア様、これはあなたのものです」と言うのです。

大聖アルベルトによると、「『憐れみの元后』という称号は、『憐れみの母』というよりも更に大事だ」と言います。

天主はマリア様が元后、女王であるという事を望みました。元后、女王いうのは権力を持っているという事です。女王というのは権威があるという事です。

マリア様には天主の全ての憐れみの御業が委ねられています。天主の憐れみの御業が皆さんの霊魂に、この世の中に現れるか現れないかは、マリア様にかかっています。天主の憐れみというのは、この天主の被っている王冠の最も美しい宝石です。そしてこの御自分の王冠のこう宝石を取って、マリア様に差し上げました。最もこの王冠の中で一番輝ける、一番美しい、最も大切な部分を全て、マリア様に差し上げたのです。これが、「天主はマリアに、憐れみの次元を全て委ねた」という事です。

一体何故でしょうか?何故天主は、その最も美しいものをこの憐れなこの被造物に与える、という謙遜を見せたのでしょうか?何故か分かりますか?

何故ならば、天主は私たちの霊魂を、「いかなる犠牲を払っても、いかなる値を払っても救いたい」と思っているからです。私たちは天主からあまりにも遠く離れていて、私たちの心はあまりにも天主の事に関心を持たなくて、全く冷淡で、全くこう冷たく氷のように冷えているので、「何とかして私たちの心を触りたい、こう心に辿り着きたい」と思っているからです。もしも天主様が御自分の姿を多くの人に現したら、多くの人は天主の御稜威に恐れおののいて、遠くに隠れてしまうかもしれません。その天主の正義、或いは裁き主という事に恐れおののくかもしれません。その天主に直接行くのを恐れるかもしれません。「私たちはあまりにも悪くて、あまりにも汚らしくて、あまりにも罪人なので、天主に直接行く事ができない」と言う人がたくさんいます。

これは本当です、信仰の真理です。もしも私たちが大罪の状態であるならば、このまま地獄に行ってしまう、これは真理です、本当の話しです。

私たちを励ます為に、この憐れなもう悲惨な私たちの前に、或る方が現われました。そしてこの憐れみ深い眼で私たちをご覧になっています。きっとお悲しみになっているかもしれませんけれども、いつも微笑んでおられます。たとえ私がその方を叩きのめしたとしても、決して私たちの元を離れずに、優しく眼差しを注いで下さる方です。その方はいつも私の胸のドアを優しくノックして下さいます。

私はそれに対して開きもしません。そして時々ドアを開けると、「また来たか!帰れ!」と言って外に出してしまいます。でもマリア様は変わりません。決して諦めません。私が生きている限り、いつも同じ憐れみを下さいます。限りのない際限のない憐れみです。マリア様は私たちを救い、私たちを幸せにし、私たちに命を与える事しか望んでいません。

では具体的にどうやったらそれがうまくいくのでしょうか?マリア様の事を今から黙想しましょう。マリア様の最も奥深くにある中核、核心は何でしょうか?「無原罪の御方よ、御身よ。御身は一体どなたですか?」

マリア様の心の奥深くには天主の愛が燃えて、それがマリア様を轟々と燃え立たせています。この天主の轟々と燃える愛は、マリア様の汚れなき御心によって現れています。この汚れなき御心は永遠に永遠に、天主の彼女に対するマリア様に対する憐れみを、いつも礼拝しています。この御心には自分の事は1つもありません。自分の事は、たったこのゴミの欠片のような小さなものもありません。たった1つのほんのちょっとしたこの自分の利益とか、或いは躊躇いとかもありません。

マリア様は従って聖寵に満ち充ちた御方で、全ての聖寵をその充満に於いて受ける事ができたのです。マリア様の御心には、御子イエズス様に対する愛で燃え立っているのです。

ではこの御子に対する愛とは何でしょうか?

御子を御胎内に宿し、そして十字架の上で亡くなるのを見るその時まで、愛というのは、全てをその愛する方と分かち合うという事です。

愛というのは、決して愛する人をそのまま打ち捨てる事がありません。信じられないその偉大な愛において、マリア様はいつも御子と共にいる事を望んでいます。イエズス様はマリア様を受け入れます。大聖アルベルトはマリア様の事を、「キリストの伴侶」と言います。最も謙遜なキリストの伴侶です。この模範はこのモデルは、夫婦が互いに愛し合っているという事です。

マリア様はご自分の心を全てイエズス様に捧げて、イエズス様は御自分の聖心を全てマリア様に捧げます。だから、「マリア様の汚れなき御心とイエズス様の至聖なる聖心のその2つの聖心は、分かち難く離れない」という信心があります。

ではこの聖心はどこで一番固く結び付くでしょうか?カルワリオです。ここに於いて私たちは、新しいアダムと新しいエヴァを、この2つの聖心が合体した時にここで、全ての救いの恵みが湧き出るのです。新しいアダムの従順、最初から最後に十字架に至るまでの従順。そして十字架の御下では、新しいエヴァの忠実さが終わりまであります。

この2つの聖心の最高のいけにえは、天主御父の聖心をも開きます。天主の聖心、開かれた聖心から憐れみの激流が、イエズス様の聖心を通して、そしてマリア様の御心を通して、全ての人々に、全ての被造物に流れ込むのです。

イエズス様の聖心と共にマリア様の御心こそ、天主の憐れみの源泉です。イエズス様の十字架の御下で、マリア様は全ての憐れみを、赦しの憐れみの恵みを自分で受けます。全ての人々の回心と聖化の恵みを受けるのです。マリア様の御心はもう満ち溢れんばかりに恵みに満たされています。その後にマリア様は私たちの方に向いて、無限の憐れみの御恵みを、その子供である私たちに下さるのです。それが永遠に至るまでのマリア様のお仕事です。イエズス様が十字架の上で亡くなったその瞬間から始まりました。

マリア様はイエズス様によって、私たちの母となるように任命をけます。人類の全歴史に於いて、全ての良い意思を持つ善意の人々に対して、全永遠に至るまでそれが働きます。

では憐れみの御母が具体的に一体何をなさるか、よく見てみましょう。憐れみの御母、憐れみの元后であるマリア様は、全ての憐れみを全く全て全て、私たちの為に、そしてご自分の為に受け取りました。マリア様はそしてルルドで、或いはファチマで、或いはラサレットで、或いは秋田でお現れになります。或いはその他の他の所で現れて、お恵みを与えます。マリア様は周りをご覧になって、その全ての子供たちをご覧になります。

でもその状況はどうでしょうか?マリア様は、例外なく全ての人が、恐ろしいもう悲惨な状況を見ます。誰もマリア様に関心を持ちません。他の人々は色んな事に関心を持って、色んな事に熱中して、色んな事をしていますけれども、ただ1つ、マリア様からお恵みを受ける事だけは無関心です。

想像して下さい。皆さんは或る時に任命状を受け取ります。その任命状には、「ある莫大な王国の王様、或いは女王様となる」という任命状でした。そしてその王として、或いは女王として、その王国に行くのですけれども、どこを見ても廃墟です。廃墟だけです。汚らしい汚物だけです。破壊されたものだけです。ちょうど原爆がドカンと色んな所で炸裂して、有るのは真平らにされた廃墟と死体だけです、ゴロゴロと転がっている死体だらけです。マリア様がお仕事を始める、任命された仕事を始めようとすると、その時に周りに見たのはこの状態でした。

他の横に座っている人の事は考えないで下さい、まずご自分の事を考えて下さい。「私」がまずそうでした。私の霊魂は罪によって全く崩壊されて、破壊されていて、汚らしく、汚れて、そして死体でゴロゴロしていて、もう壊れ尽くして、もう回復の余地のないほど真平らとなった霊魂でした。

憐れみの御母はそこで一生懸命働き始めました。憐れみの御母は私たちの霊魂一人一人に働きかけて、その憐れみを受ける妨害になる、邪魔になる障害物を全て取り除けて、天主の憐れみを受ける事ができるように一生懸命きれいにして下さいました。マリア様はどれほどすぐに、今すぐに天主の全ての美しさと全ての恵みをバッと一気に与えたいのですけれども、その霊魂はそれを受ける事ができません、壊れているので。

例えば、もう最高級の高い何千万円もする一本のワインを持って、そこでそれを受ける為に汚らしいワイングラスを持って、その中には腐ったもうトマトとか、腐敗した卵とか、汚らしいものだけでいっぱいのワイングラスです。その中にその最高級のワインを入れろというのですか?マリア様はまず私たちのワイングラスをきれいにする為に、この腐った卵とか腐ったキュウリとかを全部出します。

ではこの障害物は何でしょうか?2つあります。「罪」、「誤謬」。
罪と誤謬、その2つです。

罪人は、「私はもう駄目だ。でもこの罪は好きだ。」「私は臭い。でもこの臭さが好きだ。面白いから。」「お金もあるし、健康だし、臭くても何でも良いよ。マリア様はいらない。」これが罪です。

私たちはこの罪を犯しています。マリア様はこう考えています、「あぁ、何というかわいそうな惨めな子よ。お前は本当にめくらだ。おまえを苦しめて、お前を破壊し尽くしてしまうものにそれに閉じ込もって、それに気が付いていない。これらはお前を永遠の火に、燃え尽くす火に導くのだ。でもそれには全然関心を持っていない。」秋田のマリア様の涙はこれです。

また別の罪人は、この罪から何とかして脱出しようと思っているかもしれません、「はいマリア様、この罪から、もうこれをやめなければならないと知っています。はい、これは悪いのです、よく知っています。でも、今ではなくて後で。」でも、この後ではもう遅すぎるかもしれません。

では誤謬について考えます。誤謬とは何でしょうか?誤謬をそのまま信じている人は天主様の心を知りません。自分の事も知りません。天主がどなたであるか、また自分が誰であるかという事について誤解している人です。

宗教とは何でしょうか?宗教というのは、天主と私との間を繋げる「連結」です。天主、また私が何か、という事について間違った見解を持っていれば、このそれを繋ぐリンクも間違っています、そしてこれは間違った宗教です。

真の天主を知らない事は恐ろしい事です。カトリック宣教師の最初の仕事は、人々が真の天主の事を知る事です。

真の天主は仏陀ではありません。現代のユダヤ教のヤーウェではありません。イスラムのアッラーではありません。何故ならこれは、間違った天主の概念だからです。真の天主というのは、フリーメーソン的なこの全宇宙の建築者ではありません。このようなもしかしたら宗教には、天主に関する本当の特徴の一部があるかもしれません。例えばこの主張しているこの神々は、「この天地の創造主である」とか「生ける人と死せる人とを裁く者」とか。

でも見て下さい、皆さんお札があったとします。でもこの本物のお札が、これは本物か偽物が、どうやって調べますか?

皆さんに、私がこのプラスチックで出来たお札を見せた時に、「これがお金だ!」と言ったら、「ちょっとおかしいんじゃないですか?」と言われます。もしも偽札を作るとしたら、その本物のお札にできるだけ近く似たように作ります。

では、飲む事のできる飲用水と、毒の混じった水との違いはどこでしょうか?それはこうではありません、つまり100パーセント飲む事のできる飲用水と、100パーセントの毒ではありません。たとえこの中に、飲用水の中に一滴でも毒の猛毒を入れれば、これが飲む事のできない毒になります。この一滴でも毒があれば、飲んで下さい、死んでしまいます。

「あぁ神父様、でも99パーセント純粋な飲用水ですよ、たった一滴の毒じゃないですか。」

「じゃあ私がこれを飲んだ時に、99パーセント健康になりますね。」(それは嘘です!死んでしまします。)この様にたとえ思っても、そのような毒の入ったものは飲まないで下さい。

天主に関する間違った概念は、本当の天主に対する態度を間違えさせてしまいます。真の天主は、御自分から、自分がどなたであるか、という事を啓示して下さった天主です。真の天主というのは、私が「こうである」と自分で考え付いたものではありません。

また別の問題は同じような問題は、私たちが「自分が何であるか」という事を知らない事です。多くの宗教は、「人間に自由意志がある」という事を認めません。多くの霊魂は私たちの霊魂は、永遠の命を持っている、永遠の為に創られた、永久に死なないという事を教えていません。

この天主について誤っている、また人間に対しても誤っていれば、この天主と人間とを結びつけるものも誤っています、ですから宗教も誤っています。

マキシミリアノ・コルベ神父様はですから涙を流して、「どれほど多くの人々が、私たちを愛している天の聖父を知らないでいるのか」と嘆いていました。「彼らはこの最高のお母さんがいらっしゃるという事を知らない」という事で嘆いていました。

マリア様はこの闇の中に、暗い中に落ちている人を光に導きたいと思っています。これがマリア様の仕事の最初です。ここでマリア様が憐れみの御母という事が分かります、見えてきます。マリア様はその素晴らしい光の輝きで、闇に包まれている霊魂を照らし出します。罪の鎖にがっちりと繋がれている霊魂を、マリア様は信じられないやり方で解放します。

人間的に言えば、このような霊魂は救われるチャンスは全くありません。憐れみの御母は、日本にいる1億2300万人の人々をご覧になっています。また中国にいる10億人の人々、インドにいる10億人の人々をご覧になって、「あぁ我が子らよ、私の子供よ」と思っています。

マリア様の本当にもう目を見張るような模範です。

ある大陸は全く誤謬と異教の暗闇の中に深く沈んでいました。その彼らの持っていた宗教は子供を、自分の子供を殺す、人身御供にする宗教でした。1484年、そこにいわゆる自称司祭と言われている人々は、1日で2万3000人の子供たちを殺しました。

どうやって?

子供を石の上に乗せます。ナイフを持って、生きているその心臓を取り出して、そしてこの生きている心臓を石の蛇の顔をした偶像の口の中に入れます。この蛇の偶像は、そこの宗教によれば最高神でした。これはメキシコのアステカの宗教でした。

アメリカ大陸の発見の後にカトリック司祭がやって来ましたが、誰も回心しませんでした。多くの宣教師たちが続々とやって来て、メキシコで一生懸命働いて、教会を建てて、宣教するのですけれども、誰も回心しません。今日皆さんが目の前で見ている様な美しい祭壇を作って、そしてイエズス・キリスト様、真の天主がやって来て、そのイエズス・キリスト様の真のいけにえが捧げられていても、人々は遠くに離れていました。

何故遠くに離れたかというのは、その理由には色々ありました。たとえば征服者の悪い模範とか、或いは異教の宗教、元々地元にあった宗教の司祭たちが彼らに影響力を与えた、などの理由です。

12月9日、1531年12月9日の日にそれが突然変わります。多くの宣教師たちがようやく回心させたほぼ50名ぐらいの内の1人が、ある日教会にミサに与りに行く時に、声を聞きます。皆さん、この天主の御母がこの彼に言った、その優しい言葉を読んで下さい。このグァダルーペのマリア様がこのホアン・ディエゴに言った言葉1つ1つは、憐れみで満ちています。

まずマリア様は、ご自分を「真の天主の母だ」と言います。そして「自分はどのような犠牲を払っても、どのような値を払っても、霊魂たちを救いたい」と言っています。そしてアステカの言葉のそれに固有の表現を使って、このマリア様は全ての霊魂と全ての人々を、自分の胸のこの中にこう囲んでいるほど世話をしている、と表現しています。

でもこの人々はどのような人々でしょうか?昨日まで偽りの神に、自分の子供を生贄として捧げてきた人々です。現代の今日でも、まだこの目で見て、その感嘆する事の、驚く事のできる、賛美する事のできる素晴らしい奇跡を行いました。マリア様の本当のお姿を見せました。ホアン・ディエゴのこのマントに。グァダルーペのマリア様です。

そして1年で全メキシコは回心します。この太陽が上がってそしてこの日が沈むよりも早く、人々の心は回心して、マリア様に惹き付けられていったのです。20年の後には、全アメリカ大陸がカトリックになりました。この全大陸に行くまでもなく、マリア様は一人一人の霊魂に語りかけています、働きかけています。

今から話す話は、ユダヤ教のラビの息子の話です。この子にはこの息子には1つの天敵があります、「これだけは絶対破壊し尽くそう」という、それは「カトリック教会」でした。何故かというと、自分のお兄さんはカトリック教会に盗まれたからです、何故かというと、この自分のお兄さんはカトリック教会の司祭になったからです。

アルフォンソ・ラティスボンはカトリック教会を憎しみました。そしてヨーロッパに巡礼に行きます。ローマに行って友達に会います。友達は不思議のメダイをあげるのです。ラティスボンはもちろんその不思議のメダイなど信じていなかったのですけれども、友達を喜ばせる為にこのメダイを受け取ったのですけれども、そのローマから離れるその日、教会の中に行くのです。その教会の中で、マリア様の姿を見ます。マリア様の姿を見たその瞬間、ラティスボンは回心しました。イエズス・キリストのもう最悪の敵が、最も忠実な使徒になりました。

もう1人の話もさせて下さい。この人の事をよく知っています。この人をよくよく知っています。この方を見ると、憐れみの御母はどれほどの事をこの人にしたかがよく分かります。マリア様だけが、この人の心を変える事ができて、光を与える事ができます。そしてこの人にマリア様だけが、平和を与える事ができます。そしてマリア様だけが、この人を秋田に連れて行く事ができます。それは皆さんです。

マリア様だけが、この方を回心させて秋田のマリア様に連れて行く事ができるのですけれども、この方とは皆さんの事です。皆さんは実は、マリア様の憐れみによって光を得て、回心して、浄められ、聖化して、今ここに、この話を聞いているお恵みを受けました。全てマリア様の憐れみの結果です。
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御復活祭からカトリック教会は特別な季節になりました。復活節です。Tempus Paschale.

2017年05月01日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!


愛する兄弟姉妹の皆様、

 5月1日、勤労者聖ヨゼフの祝日です。聖母の月が始まりました。5月は、シュテーリン神父様が日本に来られます。5月3日から5日までは秋田巡礼です。

 5月の初金と初土に大阪で、5月7日(主日)は東京です。
今回は、ドイツで最初に聖ピオ十世会の修道士となったクラウス修士(Br. Klaus)も来日される予定です。

 5月は、都合により、聖伝のミサはこの一回だけになってしまいました。(予定されていた5月21日は、フェレー司教様のマニラ訪問のためにフィリピンにいなければならなくなりました。)愛する兄弟姉妹の皆様の多くが聖伝のミサにお越しになることをお待ちしております。

 ところで、御復活祭からカトリック教会は特別な季節になりました。復活節です。Tempus Paschale. 復活祭から聖霊降臨後の土曜日(三位一体の主日の直前の土曜日)までの特別の期間を「復活節」と呼びます。

 カトリック教会は、大祝日には、七日プラス一日の、八日間(オクターヴ)付きで祝います。例えば、聖霊降臨や御降誕祭がそうです。復活祭もそうです。しかし復活祭の場合、大祝日中の大祝日なので七日プラス一日、復活祭のオクターヴ(第八日目)が終わるその日から数えて、さらに、七日掛ける七プラス一日(7x7+1)の五〇日の間、更に祝います。五〇は旧約聖書によると大きな喜びを象徴する数です。

 御復活祭が始まる前の季節はバビロン捕囚の七十年に例えられ、七旬節があります。七旬節の間、私たちはアレルヤを歌うことが出来ません。逐謫・流刑にあったようです。

 復活節にはアレルヤが追加されます。絶え間ないアレルヤの歌は、天国にいるかのようです。あたかもユダヤの民がバビロンから、乳と蜜の流れる約束の地に戻ってきたかのようです。御復活直後のイエズスも、弟子達の前で蜜を食べます。復活の主日の直後の主日には聖ペトロの書簡の言葉が響きます。「新たに生まれたみどりごのように、それによって救いに成長するために、まじりのない霊的な乳をのぞめ。」

 復活節の間(聖霊降臨の主日とその八日間を除いて)ミサ聖祭では司祭は喜びの白の祭服を着ます。復活の栄光の白、幼子のような汚れのない白、乳よりも白い輝きです。

 イエズス・キリストは、ご自分の血によってみどりごである私たちを養って下さいます。十字架の上での死によって、ご自分の羊の群れに命をお与えになります。御復活によって、道を迷って失われた羊である私たちに赦しと慰めと導きを与えます。聖ペトロはその書簡で言います。「あなたたちは、羊のように迷っていたが、今はあなたたちの霊魂の牧者と番人とのもとに帰ったのである。」私たちは全て、イエズス・キリストの元に群れをなさねばなりません。

 イエズス・キリストの生まれる二〇〇〇年前、異教の中から天主はアブラハムを選び、アブラハムから偉大な民を作り上げました。この民は、天主によって聖化され、天主のために聖別されました。

 ユダヤ民族が偉大なのは、アブラハムに由来するからではなく、この民からイエズス・キリストが生まれるべきであったからです。ユダヤの民は、祝された天主の御一人子なるイエズス・キリスト、約束された贖い主の故に特別なのです。

 天主はこの民を特別に愛し、保護し、この民から人類の贖い主と、贖い主の御母、使徒たちが生み出されました。ユダヤの民は、キリストにおいて、人類のために偉大な善を運びもたらしたのです。なんと祝された民でしょうか!

 しかし、残念なことに、ユダヤの民は書かれた律法と預言に不忠実でした。残念なことに、ユダヤの民は、救いの実体であるキリストよりは、印と陰にこだわっていました。イエズス・キリストを信じず、イエズス・キリストを拒否してしまいました。

 キリストは霊的に全世界を自分の元に集めようとしました。しかし、残念なことに、ユダヤ教は全世界の政治的な支配を求めていました。ユダヤ教は、霊的な救い主の代わりに、政治的なこの世的な救い主を求めます。

 イエズス・キリストは、全世界の民族を霊的に統治することを臨んでいます。イエズス・キリストは、霊的な救い主です。そこで、この復活節 Tempus Paschale の間、イエズス・キリストの昇天があります。私たちの祖国は天国にあることを教えるために。イエズス・キリストの統治が霊的であると教えるために。イエズス・キリストは、ご自分の霊、聖霊を私たちに送ります。聖霊によって教会を統治するように。新しい霊的なイスラエルであるカトリック教会の霊的な指導の下に、諸国が合い互いに助け合うように、望まれます。

さて、お便りを頂きましたので、ご紹介させて下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんにちは! お久しぶりです🙂 もう少しで 秋田巡礼ですね!

 昨夜 マテオによる聖福音の日本語の朗読を拝聴いたしてました、ありがとうございます。この朗読ファイルは、「天主様」で統一されていて、バルバロ訳の聖書も開いて時々聖書にも目を通しながら聴きました。貴重です。神父様のお声 若いです。時折ワンちゃん🐕の鳴き声が聞こえました、最後の28章になりましたら 「待て!おあずけ!」となりましたゆえ、神父様に御礼とお願いのメールを差し上げております。28章の件 どうぞよろしくお願い致します。また 神父様の聖書の朗読を 他のもお願い申し上げます。

 少し前のことですが、「イエズス・キリストが死なれた日は」(4月13日)にては、その説明を読みすぐに、神父様の説明と照らし合わせて 聖書の四つの福音書を開いてじっくりと読んでみました。過ぎ越しの食事をとる日が 共観福音書とヨハネ福音書において、ずれがあるというところです。そう言われてみると本当にそうです、自分が何も考えずに聖書を読んでいることをあらためて知らされています。これまで自分はそのような違いにも気づかないで聖週間を過ごしてきたのだなとわかりました。十二人の弟子たちや一般民衆と、上流階級・司祭階級・衆議所などというような人たちでは、過ぎ越しを異なる日に行っていたということを とてもくわしくご説明いただいて、・・まだ私は十分には理解できていないように思いますが・・感謝申し上げます。聖ヨハネは神殿に魚を卸していて、司祭職の人達の習慣にもよく精通していたのだという説明が思い出されました。また、用意日という言葉が福音書の中にあることも、すっかり見逃して読み過ごしていることにも気づきました。(用意日のことを バルバロ訳以外の聖書では、準備の日と訳していました。)イエズス・キリストが死なれた日は、ユダヤ人にとって 天主の子羊を裂く時、過ぎ越しの食事の時であった。そして イエズス様におかれましては 同時にその日 すべてを成し遂げられ、御父からのみ旨をすべて終えられた(安息日)だったのかなと 想像しました。聖書を読むということは、とても奥深いことであると感じさせられました。いつもご指導ありがとうございます。今年の四旬節は おかげさまで 聖書に親しむようになれたことも、とても嬉しく思っております。(ヨハネ福音書の公教要理の宿題もご報告したいともっていましたが・・・後ほどに。)

神父様の4月8日のお説教を読ませていただいて、悲しみ苦しみと喜びのコントラストをずっと思っていました。民衆からの栄光と司祭長からの冒涜というコントラスト、聖金曜日と復活の主日のコントラスト、十字架と復活というコントラスト、というお話がレフレインのように響いてきていました。

 枝の主日でも、その民衆がホザンナと歌って喜び歓迎したこととイエズス様の悲しみの両方が歌われましたが、その意味はこのお説教の中で話されていることと同じかもしれないと思いました。地上的な物事しか見えない時は、悲しみ苦しみ辱めの面だけ浮かび上がりますが、聖寵をいただいて天上のことまで見やる視野をいただけるなら、そこ(悲しみや苦しみ)に喜びや永遠の幸福が透けて見えるようになるということかなと 感じました。

ファチマで 三人の子供たちは天国からいらした光り輝く聖母マリア様を見たと同時に地獄の光景も見させられた、とあります。光と影、そして永遠とこの世。美しい典礼、グレゴリア聖歌や素晴らしい彫刻や絵画、それらは、天主様の栄光を讃えるために作られたと感じることがあります。(先日 美容院で渡された雑誌の中にミケランジェロのピエタの写真があり、ミケランジェロのマリア様の理解の仕方がなんて素晴らしいんだろう感動してしまいました)。わたしがカトリック教会の扉を叩いたのも、永遠という言葉がきっかけになっていたことを思い出します。人間の心の奥底には、永遠への憧れが息づいているのでしょう。天国からいらっしゃったマリア様の美しさと地獄の恐ろしさの対比の中で、ファチマの子供たちは永遠を思い信仰を生きたのですね。

そして4月16日のお説教では、力強い励ましをいただきました。イエズス様が復活されたことを受け入れることを選ぶ人は少ないかもしれません。特にこの日本では! イエズス様が復活されてマリア様が天の元后であることを信じる人・知る人はほんのわずかで、家族がカトリック信者でない人は孤独に信仰生活を送ってます。復活祭の主日のお説教をUPしていただいて、お説教を読んで 復活の喜びをようやく味わいました。ありがとうございます。一人でも多くの人に その喜びが伝えられますように 祈ります。

四旬節の前の準備の期間から、四旬節を良く過ごせるようにと大小斎や犠牲と祈りをよくできるようにと、そして 受難節のなかでの喜びと苦しみ悲しみのコントラストを強く意識させていただきました。大小斎も 四季の斎日や決められている日以外にも家族の協力もあり、たくさんお捧げできましたことを感謝しています。おかげさまで わたしは今年 復活の喜びの意味をよりよく黙想できたように思います。神父様ご指導ありがとうございます。

 今朝 復活節の主日の朝に わたしは マリア様の“イエズス様の復活”を待つ愛のことを黙想していました。イエズス様が最初に復活のお姿で現れてくださったのは 御母マリア様であったとのことを お説教でも触れてくださいました。受胎告知によって喜びだけでなく天主様への愛と人々の救いのために苦しむことを受け入れた聖マリア様の汚れなき御心は、聖土曜日に十字架上で苦しみと悲しみの中で罪に打ち勝ち死と地獄に勝って復活されたイエズス・キリストを待ち望む喜びに満たされていたことを 思いめぐらしました。マリア様は、喜びの中で実は苦しみをも受け入れられたということとコントラストするかように、深い悲しみ苦しみの中でも希望を失うことなく喜びを待ち望まれていたということを、今年ははっきりと理解できたように思います。(ロザリオでもこうしたことを思いめぐらしながら祈れて感謝です。2015年6月28日のブログ Ecce ancilla Domini Fiat! 大好きです。)勝利された主イエズス・キリストと いつもともに歩めますように。汚れなき御心のマリアに助けられ、いつも喜びに満たされていますように。

長々と乱文を書き連ねてしまいまして 失礼をお許しください。
秋田巡礼に一人でも多くの方が参加されますよう 私も微力ながらお祈りします。秋田のマリア様の警告は とても現実的です。胸が痛みます。
秋田の聖母 我らを憐れみ給まえ!

聖マリアの汚れなき御心のうちに!アレルヤ!

【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ブログにマテオ様による聖福音の日本語の朗読録音ファイルをご紹介して下さってありがとうございます!

既にCDにして食事の時や、車の運転時などにずっと聞かせて頂いているのですが、この音源のおかげで福音書に接する機会がとても増えて、内容もよく知ることが出来て、とても嬉しく思っております!是非、さらにご紹介して頂けると、新約聖書に接する機会が皆さん増えられてとても良いのではないかなぁと思います!小野田神父様の朗読もとても聞きやすいです(o^^o)♪

デオ・グラチアス!アレルヤ!


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