Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

オッタヴィアーニ枢機卿が、新しいミサの出来たときに警告したとおりに

2009年12月09日 | ミサ聖祭
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

第二バチカン公会議の「典礼憲章」にはこうあります。

 7(典礼におけるキリストの現存) このような偉大なわざを成就するためにキリストは、常に自分の教会とともに、特に典礼行為に現存している。キリストはミサの犠牲のうちに現存している。「かつて十字架上で自身をささげた同じキリストが、今、司祭の奉仕によって奉献者として」司祭のうちに現存するとともに、また特に、聖体の両形態のもとに現存している。キリストは、自身の力をもって諸秘跡のうちに現存している。すなわち、だれかが洗礼を授けるとき、キリスト自身が洗礼を授けるのである。キリストは自身のことばのうちに現存している。聖書が教会で読まれるとき、キリスト自身が語るのである。なお、「わたしの名によって、2・3人が集まるところに、わたしもその中にいる」(マタイ 18・20)と約束したキリストは、教会が懇願し、賛美を歌うときにも現存している。


 具 正謨(イエズス会司祭 上智大学神学部准教授)著『典礼と秘蹟のハンドブックI』はこれを解説して、こう言います。

「第二バチカン公会議は、宗教改革者たちの洞察を幅広く受け入れながら、典礼におけるキリストの現存説を展開している。すなわち公会議は、キリストは「常に自分の教会とともに、特に典礼行為(全体)に現存する」と言い、すれは具体的には、「(1)聖体の両形態のもとに、(2)司祭の奉仕のうちに、(3)諸秘跡のうちに、(4)聖書朗読のときに、(5)共同体の懇願と賛美のうちに現存する」ことを意味するとした。

 典礼におけるキリストの現存を理解するために、まず理解しておくべきことがある。それは「典礼」とは、二千年前に生きたナザレのイエスと、歴史的、物理的に出会う場所ではなく、復活によって存在の様態を変えられ宇宙に満ちているキリストに出会う場所である」ということである。それゆえ、典礼において復活されたキリストに出会うということは、霊的かつ内面的な性質を持つ。このような体験はシンボルを通して起きる秘蹟的な体験である。」

(ここで筆者の友人の逸話を持ち出して、この友人の修道士が召し出しを感じてつきあっていた彼女に「別れよう」と告げようとするが、緊張してたばこを吸おうとしてポケットに手を入れたが、その時その場所に赤い色でマークされている「禁煙」の標識を目の前に見た、その瞬間、彼女の方から「言いたいことは分かっている」と言われた。この修士にとって「禁煙」の印は、ただの「たばこを吸ってはいけない」ではなく、人生にとって一番重要であったその時を思い起こさせる、自分を導く天主の恵みを思い起こさせ、それを確認するシンボルとして働くという。)

「キリストの教会が、イエスの最後の晩餐の再現として典礼を行うのも同じである。それは言葉やしるし(パン、ぶどう酒、水、油)などを使って、二千年前に神がイエス・キリストを通して示された恵みを思い起こし(アナムネシス)、同じ恵みが今もなお聖霊によって与えられていることを、体験をもって確認するプロセスだからである。キリストの教会にとって、典礼とは、記憶とともに生きておられる神様に出会う、禁煙の標識のようなものである(ママ!)。実体変化は、その標識が、信仰者にとって真の神のシンボルとして働くことを表す。」(64-66ページ)


 このことは、オッタヴィアーニ枢機卿は、新しいミサが出来たときにこう警告したとおりです。オッタヴィアーニ枢機卿がサインしてパウロ六世に提出した「新しいミサを研究書」によると新しいミサによる「ミサ」の定義の分析があります。

 ミサの定義は「ミサの一般的構造」と題された「ローマ・ミサ典書の総則」の第2章の冒頭、第7番段落にあります。

 これが新しい式次第によるミサの定義(1969年版)です。

「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。」

 1970年版では第二バチカン公会議の内容に従う次のような言葉も付け加えられました。

「ミサの祭儀において、キリストはその名のもとに集まっている集会の中、奉仕者の中、御言葉の中に、現実に、またパンとぶどう酒の形態のもとに本体のまま現存される」

 これを見ても明らかなように、御聖体におけるイエズス・キリストの真実の現実の実体的な現存と、霊的な現存とが混同されています。

 2002年の第3版によれば「新しいミサ」の定義は次のようになっています。

Institutio Generalis Missalis Romani 2002

Caput II DE STRUCTURA MISSÆ EIUSQUE ELEMENTIS ET PARTIBUS
I. DE GENERALI STRUCTURA MISSÆ

27. In Missa seu Cena dominica populus Dei in unum convocatur, sacerdote præside personamque Christi gerente, ad memoriale Domini seu sacrificium eucharisticum celebrandum. Quare de huiusmodi sanctæ Ecclesiæ coadunatione locali eminenter valet promissio Christi: « Ubi sunt duo vel tres congregati in nomine meo, ibi sum in medio eorum » (Mt 18, 20). In Missæ enim celebratione, in qua sacrificium crucis perpetuatur, Christus realiter præsens adest in ipso coetu in suo nomine congregato, in persona ministri, in verbo suo, et quidem substantialiter et continenter sub speciebus eucharisticis.

「ミサ、または主の晩さんにおいて、キリストを代理する司祭を座長として、主の記念、または聖体のいけにえを祝うために、神の民は一つに招集される。したがって、このような聖なる教会の場所的な集合について、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束が、特に、実現される。実にミサの祭儀において、十字架のいけにえが永続され、キリストはその名のもとに集まっている集会の中、奉仕者の中、御言葉の中に、現実に、またパンとぶどう酒の形態のもとに実体的に内在的に現存される」

 この定義は、一言で言えば、ミサの本当の定義が言及しなければならないはずの、贖罪のいけにえであること、御聖体におけるキリストの現存が単なる霊的なものではなく本当の現実的な実体的な現存であることについて一切言及していません。これらの教義的な価値を故意に省略することによって、事実上否定されるに至っているのです。

 この定義の後半部分は、この既に非常に曖昧な表現をもっとひどく曖昧にさせるかのごとくこう挿入されています。

「『私の名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。」

 この霊的現存の約束が、キリストの御聖体の秘蹟における現存、すなわち、実体的で物理的な現存と、度合いの違いこそはあるものの、全く同じ次元に置かれてしまっています。

 だから、新しいミサにおいては、ルターやツヴィングリやカルヴァンなどの洞察(!)を幅広く受け入れて、全実体変化という言葉はもはやこっそりと忘却の彼方に捨て去ろうとしたのです。

 そのもう一つの例として、現在の信仰教義聖省長官であるレヴァダ枢機卿は、以前、アメリカの大司教だったとき、ハイト神父(Fr Eugene Heidt)との面会の中で「全実体変化」についてこう言っています。

「ええっと、それはあまりにも長い難しい言葉で、私たちはその言葉をもう使いません。」

「それはあまりにも混乱をもたらす言葉です!」

"Well, that's such a long and difficult term anyway, and we don't use that term anymore."

"That's such a confusing term!"

(Priest where is thy Mass? Mass where is thy Priest? Expanded edition p.68)

 つまり、第二バチカン公会議による新しい理解によれば、聖体とは「禁煙」のサインと全く同じ意味における想起のきっかけに過ぎず、むしろ「聖体」ではなく「典礼」に注目すべきであり、典礼とは復活したキリストと出会うこと、霊的かつ内面的な体験にすぎないのです。

 しかしトリエント公会議はこう言います。

1条。もしも誰かが、聖体の秘跡の中に、真に、現実に、そして実体的に私たちの主イエズス・キリストの御体と御血とがその霊魂と神性とともに、さらにキリスト全部が含まれていることを否定し、そうではなく、この中には、しるしまたは象徴として、または効力においてあるだけであると言う者は排斥される。

 それにもかかわらず、典礼憲章と新しいミサの総則を見る限り、もはや新しいミサにおいて、第二バチカン公会議後の教会において、全実体変化というトリエント公会議の教えは暗黙のうちに否定されているのです。

主よ、我らを憐れみ給え!
天主の聖母、終生童貞なる聖マリアよ、我らのために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【参考資料】
 カトリック教会は、ミサ聖祭について次のように教えています。

Sessio XIII, 11 octobre 1551; Decretum de ss. Eucharistia

トレント公会議 第13総会:聖体についての教令(1551年10月11日)

第1章 いとも聖なる聖体の秘跡における私たちの主イエズス・キリストの実在

Principio docet sancta Synodus et aperte ac simpliciter profitetur, in almo sanctae Eucharistiae sacramento post panis et vini consecrationem Dominum nostrum lesum Christum verum Deum atque hominem vere, realiter ac substantialiter sub specie illarum rerum sensibilium contineri. Neque enim haec inter se pugnant, ut ipse Salvator noster semper ad dextram Patris in caelis assideat iuxta modum exsistendi naturalem, et ut multis nihilominus aliis in locis sacramentaliter praesens sua substantia nobis adsit, ea exsistendi ratlone quam etsi verbis exprimere vix possumus possibilem tamen esse Deo, cogitatione per fidem illustrata assequi possumus et constantissime credere debemus.

 第一に、聖なる公会議は次のことを教え、明らかに簡単に表明する。養う聖なる聖体の秘跡において、パンとブドー酒の聖変化の後、まことの天主であり(まことの)人である私たちの主イエズス・キリストが、真に、現実に、実体的に、(パンとブドー酒という)かの可感覚的な形色のもとに含まれていることを。事実、私たちの救い主ご自身が自然な存在の仕方で、天において常に聖父の右に座しておられることと、しかしながら、私たちが言葉で表わすことはほとんど不可能ではあるが、天主には可能である存在の仕方によって、信仰に照らされた認識によって私たちが同意することができ、また私たちが固く信じなければならない存在の仕方によって、秘跡的に他の多くの場所にご自分の実体によって現存して私たちに臨在しておられることとは互いに矛盾しない。

第4章 全実体変化について

Quoniam autem Christus redemptor noster corpus suum id, quod sub specie panis offerebat (cf Mt 26.26ss; Mc 14.22ss; Lc 22.19s; 1 Co 11.24ss), vere esse dixit, ideo persuasum semper in Ecclesia Dei fuit, idque nunc denuo sancta haec Synodus declarat: per consecrationem panis et vini conversionem fieri totius substantiae panis in substantiam corporis Christi Domini nostri, et totius substantiae vini in substantiam sanguinis ejus. quae conversio convenienter et proprie a sancta catholica Ecclesia transsubstantiatio est appellata.

 私たちの贖い主キリストは、パンの形色のもとにささげ給うていたものを本当にご自分の身体であると仰せられたので(マテオ26・26以下、マルコ14・22以下、ルカ22・19以下、1コリント11・24以下参照)、その通りに、天主の教会において常に信じてきた、そしてそのことを、今再び、この聖なる公会議は宣言する。すなわち、パンとブドー酒の聖変化を通して、パンの実体はことごとく私たちの主キリストの実体となり、ブドー酒の実体はことごとくその血の実体に変化する。この変化は、聖なるカトリック教会によって、適切に固有の意味で全実体変化と言い表わされた。


至聖なる聖体の秘跡に関する規定(Canones de ss. Eucharistiae sacramento)

Can. l. Si quis negaverit, in sanctissimae Eucharistiae sacramento contineri vere, realiter et substantialiter, corpus et sanguinem una cum anima et divinitate Domini nostri Jesu Christi ac proinde totum Christum; sed dixerit, tantummodo esse in eo ut in signo vel figura, aut virtute: anathema sit (cf. DS 1636 1640).

1条。もしも誰かが、聖体の秘跡の中に、真に、現実に、そして実体的に私たちの主イエズス・キリストの御体と御血とがその霊魂と神性とともに、さらにキリスト全部が含まれていることを否定し、そうではなく、この中には、しるしまたは象徴として、または効力においてあるだけであると言う者は排斥される。

Can. 2. Si quis dixerit, in sacrosancto Eucharistiae sacramento remanere substantiam panis et vini una cum corpore et sanguine Domini nostri Jesu Christi, negaveritque mirabilem illam et singularem conversionem totius substantiae panis in corpus et totius substantiae vini in sanguinem, manentibus dumtaxat speciebus panis et vini, quam quidem conversionem catholica Ecclesia aptissime transsubstantiationem appellat: an. s. (cf. DS 1642).

2条。もしも誰かが「神聖にして犯すべからざる聖体の秘跡において、パンとブドー酒との実体が私たちの主イエズス・キリストの体と血とともに残る」と言い、パンとプド一酒の形色だけは残りつつもパンの全実体が御体に、プドー酒の全実体が御血にかの驚くべきかつ特別の変化をすること(この変化をカトリック教会ほ全実体変化という極めて適切な表現で呼ぶ)を否定する者は排斥される。

【関連記事】

【お祈りのお願い】「事業仕分け」で難しい立場に置かされつつある芸術家の方々

2009年12月09日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 もうご存じの方々もたくさんおられるとは思いますが、私は先ほど教えてもらいました。
 例の「事業仕分け」で今までのように、科学関係の予算が削減されるのみならず、芸術には税金が使われなくなるようです。「伝統文化子ども教室、学校への芸術家派遣、コミュニケーション教育拠点形成:国の事業として行わない」ということになるそうです。「芸能は国がやる仕事ではない」のかもしれません。芸術は「どうせやりたかったら、勝手にやりなさい」ということになるそうです。

 主に次の二つの点が挙げられています。
(1)日本芸術文化振興会への文化庁交付金への圧倒的な縮減
(2)本物の舞台芸術体験事業からの国の撤退

 芸術家の方々のブログをご紹介します。難しい立場に置かされつつあるこのような芸術家の方々のために愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いいたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

「事業仕分け」で能楽公演廃止に!!!!

例の事業仕分けで日本のオーケストラが大変なことに・・・

札響チェロ奏者:荒木均のブログ 「事業仕分け」と道の予算削減

事業仕分けとオーケストラの危機

聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 14.5.1.“私は警告の叫びをあげた”(1)

2009年12月09日 | ルフェーブル大司教の伝記
V. 真のアッジョナルナメントに向けて


“私は警告の叫びをあげた”(1)

 1965年に公会議がペルフェクテ・カリターティス(Perfectae Caritatis)という修道生活の刷新・適応に関する教令をもって、修道会の近代化またはアッジョルナメントを推進するさなか、ルフェーブル大司教はご自身の修道会の会員たちに向けてこのことに関する書簡を準備した。1966年1月6日付けの書簡は、現地の長上たちに、公会議公文書を研究させ、聖霊修道会の会憲について会員たちの提案を集約するよう要請した。これはローマで開催されることになる運営上の総会の準備のためだった。

 大司教は、この提案が「簡素な、客観的、現実的、平和の精神において」行われように依頼した。

 彼は、革新のための四委員会を自分が立ち上げることを報告した。それは聖霊修道会会則、養成、修道会規律、修道者の使徒職に渡る。

 しかしながらあらかじめ、地域長、修練院と神学校の校長宛の手紙の中で、大司教は、後に彼が言うように、“修道者の諸徳に関して、さらには知性と意志の養成に関して、真の修道会のアッジョナルナメント”を要求する“警告の叫び”をあげた。

 もしそこから二年後に明らかな立ち戻りがなければ、 . . . 私たちはこの修道会を絶滅に導いてしまうだろう。”

 大司教は念を押して、神学校の長上たちが教義に関して警戒を怠らないようにとその義務を思い起こさせた。

“進化論、唯物主義、自然と超自然的の混同の誤謬に対して、さらに個人責任を軽視しする誤謬、人間性の誇張という誤謬に対して”の警戒である。

 これに対する対策は、“聖トマスが説く諸原理に従う哲学”であり、特に「家族、社会、政治倫理」において「実証神学のみならず、思弁神学である。それは聖トマスとともに、理性と信仰の両立性を立証するためである。」

 典礼の領域で、ルフェーブル大司教は総会の決定を適応させた。共同の祈りを整備し、“聖霊修道会の祈り” に代わって、司祭たちの大満足を得て、教会法において教会が推薦する習慣に従って朝には賛課、夜には晩課或いは終課を用いることを個人の自由に任せて(ad libitum)提案した。

 しかしながら、典礼実験への渇望がフランスとオランダの聖霊修道会地域に拡がったので、総長は“典礼的適応に正しい場所と適切な機会を与える”のを許す原則を思い起こさせた。ところで、この原則が公会議の典礼憲章とあまり関係がないと言わなければならない。こういうわけで、大司教が公会議に忠実ではないと非難するささやきが日増しに聞かれた。

 さらに不満分子たちは、公会議の名によって刷新を奨励していたので、ルフェーブル大司教は新規な逸脱にすばやく介入して訂正することをためらわなかった。

 ルフェーブル大司教はこう求めた。
「私たちは、主祭壇の中心という御聖体の秘蹟に相応しい名誉ある地位を、聖体のために残し続ける」そして「乱用的に共同司式の数を増やすことや、一人で捧げる読誦ミサを過小評価することを避ける。」

 彼は「自国語によるミサの挙行を週に二回だけ」許可した。

(つづく)

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カトリック教会の危機:約7万人のカトリック司祭が・・

2009年12月09日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今から2年前の記事です。「辞めた」司祭、「戻った」司祭というのが記事のタイトルです。PRETI CHE «ABBANDONANO», PRETI CHE «RITORNANO» - GianPaolo Salvini S.I.

イタリアのラ・チヴィルタ・カットリカ誌に掲載されているイエズス会師ジャンパオロ・サルヴィニ神父の記事によると、姿を消したなどのケースもあり正確な数字は分からないが、バチカンに報告されているだけでも、およそ35年の間に約7万人のカトリック司祭が司祭を辞め、そのうち約57000名の司祭達が結婚して司祭職を放棄したそうです。(司祭職を辞めて後に11213名が司祭職に復帰している。)

参考資料

主よ、我らを憐れみ給え!
天主の聖母、終生童貞なる聖マリアよ、我らのために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【関連記事】

聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 14.4.2.宣教師たちの修道生活を擁護して

2009年12月09日 | ルフェーブル大司教の伝記
IV. 修道生活と使徒職


宣教師たちの修道生活を擁護して

 大司教の聖霊修道会士たちへの書簡をもって、あるいは聖霊会総合会報(Bulletin General これはルフェーブル大司教が英語とフランス語の二ヶ国語で出版させ、この構想は英語圏の人々から評価された)に掲載された「今月の言葉」をもって、ルフェーブル大司教は宣教師たちの修道生活の擁護者となった。自ら発言したように、ルフェーブル大司教は、公教会の聖伝の源泉から汲み取って擁護した。

 聖霊修道会の会員宛の最初の書簡の中で、彼は“教会に属する事”について言及し、「私たち独自の考えには場所を与えないこと、そうではなく、私たちの考え全ては公教会と教皇の考えであること」と語った。

 大司教は、先任の総長のように、“信心の真の源泉と、ミサの聖なる犠牲への信仰の源泉とからそれ汲み出させる”ことに心遣いをしていると表明した。彼は大神学校の校長に対しては、「若きレヴィ人達【訳者注:司祭となるべき神学生達のこと】を真の司祭的な霊魂に養成する」よう依頼した。

 司祭的霊魂とは「キリストの従順、天にまします聖父とのキリストの一致、その謙遜、単純さ、さらに強く自己謙虚の愛徳において、かの最高の大司祭であるキリストの似姿となる」ことを追い求める。

 当初から、大司教は修道生活の価値を理解しない批判精神の態度を攻撃した。
聖霊修道会では、司祭であれ、修道者であれ、全ての会員は三つの修道誓願を立てていたにもかかわらず、創立者である尊者リベルマン(Venerable Libermann)は、もともとは自分の修道会を、修道者たちの会はなく、宣教司祭の会として構想したというのを口実にして、ある会員たちはこう議論した。
「私たちはまず宣教師である。」

 他方で他の会員はこう反論した:「いや違う!私たちは先ず修道者である。」

 ルフェーブル大司教は「この空しい議論は、修道生活と使徒的生活の両方に対する理解の欠如を示している」と無効を宣言した。

 ルフェーブル大司教は「司祭職と修道生活において有り余るほどに与えられる孝愛の賜物によって完全に刻印を押された霊魂は、修道生活に、つまり、礼拝、信心、そして祈りの生活-に飢え乾くだろう。」と説明した。

 使徒職の目的は「人間の霊魂内に、信仰、希望、愛の徳の影響の下で、敬神の徳(vertu de religion)を生き返らせる以外の何物でもない。

 その時、修道生活と使徒的生活の間には如何なる対立も乖離もないのである。「観想的生活は、本質的には活動的なのである。」と大司教は印象に残るほど端的に言った。それは、観想生活と修道生活は、延長上に、活動的で使徒的にもなるのであり、「同じ源泉により養われ、同じ目的を持っている」という事である。

 ルフェーブル大司教は長年、司祭生活と修道的生活との一致をこそ生きて来たのである。しかし1964年に、これを聖霊修道会士たちに教育するために責務を負わされたことまで戻らなければならない。その時大司教は、パウロ六世の

「活動的生活よりも内的生活が卓越していること深く確信しなさい。あなた方は、この世に同一化することなく、・・・この世を霊的に征服するよう召されている。クレルヴォーの聖ベルナルドはあの使徒的な人にこう思い起こさせている:“もしあなたが賢明なら、運河ではなく、貯水池になれ”と。なぜなら、貯水池は自分が水で溢れる前に、水を満たす事から始めるのに対し、運河は一滴も水をとっておかず、ただ自分によって水を通過させるだけだからである。」という言葉を引用した。

 教皇は締めくくった。

「黙想に忠実に留まる事によって、あなた方はこの内的生活を養い、活動がもたらす損害からそれを守るだろう。」

 その年の終わりに総長は再びパウロ六世の言葉を引用して繰り返して力説した。

「重荷であるかのように修道生活を送ってはならない。あるいはそれを使徒的生活に立ちはだかる障害などと見做してはならない!」

 修道者的清貧に忠実であり、大司教は聖霊修道会の司祭たちに“小遣い”を与えようという意見を断固として却下した。

「それは出来ない」と彼は言う。「たしかに司祭たちには相続した所有物を保持する事が許されていているが、特別な許可もなく、収入を彼らの希望通りには使用することは出来ない。」 

 ある司祭たちは修道生活の刷新に関する公会議の教令を誤解し、デマゴギーによって、修道士たちに司祭たちと対等な資格を与えようとした。

 大司教はこう書いている。「いいえ、修道士たちは修道会の一般の目的においては司祭たちと対等である。つまり天主の栄光とその会員の聖化という会の目的である。しかしながら“黒い肌の異教徒たちを宣教する”という特殊な目的に関して、修道士たちは司祭たちを助けることにとどまる。実際、彼らは修道士としての身分に属しており、聖職者になることを望んでいない。彼らは修道士独特の目的である自分の仕事あるいは専門的知識を用いて司祭たちを助けることを高く評価している。」

 この発言は、修道士たちに下級品級を与えるのが望ましいという大司教のお考えを阻むものではなかった。ただし、それは全く別の理由からであった。つまり彼は宣教地で遂行できるようにと、修道士たちに侍祭と伝道師の任務に相当する恩寵を与える事を望まれたのである。

第14章 総長 防御の最後の試み
Ⅰ. 激戦を伴った選出

II. 掃除と改革


III. より優れた組織編成


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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