アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
第二バチカン公会議の「典礼憲章」にはこうあります。
7(典礼におけるキリストの現存) このような偉大なわざを成就するためにキリストは、常に自分の教会とともに、特に典礼行為に現存している。キリストはミサの犠牲のうちに現存している。「かつて十字架上で自身をささげた同じキリストが、今、司祭の奉仕によって奉献者として」司祭のうちに現存するとともに、また特に、聖体の両形態のもとに現存している。キリストは、自身の力をもって諸秘跡のうちに現存している。すなわち、だれかが洗礼を授けるとき、キリスト自身が洗礼を授けるのである。キリストは自身のことばのうちに現存している。聖書が教会で読まれるとき、キリスト自身が語るのである。なお、「わたしの名によって、2・3人が集まるところに、わたしもその中にいる」(マタイ 18・20)と約束したキリストは、教会が懇願し、賛美を歌うときにも現存している。
具 正謨(イエズス会司祭 上智大学神学部准教授)著『典礼と秘蹟のハンドブックI』はこれを解説して、こう言います。
「第二バチカン公会議は、宗教改革者たちの洞察を幅広く受け入れながら、典礼におけるキリストの現存説を展開している。すなわち公会議は、キリストは「常に自分の教会とともに、特に典礼行為(全体)に現存する」と言い、すれは具体的には、「(1)聖体の両形態のもとに、(2)司祭の奉仕のうちに、(3)諸秘跡のうちに、(4)聖書朗読のときに、(5)共同体の懇願と賛美のうちに現存する」ことを意味するとした。
典礼におけるキリストの現存を理解するために、まず理解しておくべきことがある。それは「典礼」とは、二千年前に生きたナザレのイエスと、歴史的、物理的に出会う場所ではなく、復活によって存在の様態を変えられ宇宙に満ちているキリストに出会う場所である」ということである。それゆえ、典礼において復活されたキリストに出会うということは、霊的かつ内面的な性質を持つ。このような体験はシンボルを通して起きる秘蹟的な体験である。」
(ここで筆者の友人の逸話を持ち出して、この友人の修道士が召し出しを感じてつきあっていた彼女に「別れよう」と告げようとするが、緊張してたばこを吸おうとしてポケットに手を入れたが、その時その場所に赤い色でマークされている「禁煙」の標識を目の前に見た、その瞬間、彼女の方から「言いたいことは分かっている」と言われた。この修士にとって「禁煙」の印は、ただの「たばこを吸ってはいけない」ではなく、人生にとって一番重要であったその時を思い起こさせる、自分を導く天主の恵みを思い起こさせ、それを確認するシンボルとして働くという。)
「キリストの教会が、イエスの最後の晩餐の再現として典礼を行うのも同じである。それは言葉やしるし(パン、ぶどう酒、水、油)などを使って、二千年前に神がイエス・キリストを通して示された恵みを思い起こし(アナムネシス)、同じ恵みが今もなお聖霊によって与えられていることを、体験をもって確認するプロセスだからである。キリストの教会にとって、典礼とは、記憶とともに生きておられる神様に出会う、禁煙の標識のようなものである(ママ!)。実体変化は、その標識が、信仰者にとって真の神のシンボルとして働くことを表す。」(64-66ページ)
このことは、オッタヴィアーニ枢機卿は、新しいミサが出来たときにこう警告したとおりです。オッタヴィアーニ枢機卿がサインしてパウロ六世に提出した「新しいミサを研究書」によると新しいミサによる「ミサ」の定義の分析があります。
ミサの定義は「ミサの一般的構造」と題された「ローマ・ミサ典書の総則」の第2章の冒頭、第7番段落にあります。
これが新しい式次第によるミサの定義(1969年版)です。
「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。」
1970年版では第二バチカン公会議の内容に従う次のような言葉も付け加えられました。
「ミサの祭儀において、キリストはその名のもとに集まっている集会の中、奉仕者の中、御言葉の中に、現実に、またパンとぶどう酒の形態のもとに本体のまま現存される」
これを見ても明らかなように、御聖体におけるイエズス・キリストの真実の現実の実体的な現存と、霊的な現存とが混同されています。
2002年の第3版によれば「新しいミサ」の定義は次のようになっています。
Institutio Generalis Missalis Romani 2002
Caput II DE STRUCTURA MISSÆ EIUSQUE ELEMENTIS ET PARTIBUS
I. DE GENERALI STRUCTURA MISSÆ
27. In Missa seu Cena dominica populus Dei in unum convocatur, sacerdote præside personamque Christi gerente, ad memoriale Domini seu sacrificium eucharisticum celebrandum. Quare de huiusmodi sanctæ Ecclesiæ coadunatione locali eminenter valet promissio Christi: « Ubi sunt duo vel tres congregati in nomine meo, ibi sum in medio eorum » (Mt 18, 20). In Missæ enim celebratione, in qua sacrificium crucis perpetuatur, Christus realiter præsens adest in ipso coetu in suo nomine congregato, in persona ministri, in verbo suo, et quidem substantialiter et continenter sub speciebus eucharisticis.
「ミサ、または主の晩さんにおいて、キリストを代理する司祭を座長として、主の記念、または聖体のいけにえを祝うために、神の民は一つに招集される。したがって、このような聖なる教会の場所的な集合について、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束が、特に、実現される。実にミサの祭儀において、十字架のいけにえが永続され、キリストはその名のもとに集まっている集会の中、奉仕者の中、御言葉の中に、現実に、またパンとぶどう酒の形態のもとに実体的に内在的に現存される」
この定義は、一言で言えば、ミサの本当の定義が言及しなければならないはずの、贖罪のいけにえであること、御聖体におけるキリストの現存が単なる霊的なものではなく本当の現実的な実体的な現存であることについて一切言及していません。これらの教義的な価値を故意に省略することによって、事実上否定されるに至っているのです。
この定義の後半部分は、この既に非常に曖昧な表現をもっとひどく曖昧にさせるかのごとくこう挿入されています。
「『私の名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。」
この霊的現存の約束が、キリストの御聖体の秘蹟における現存、すなわち、実体的で物理的な現存と、度合いの違いこそはあるものの、全く同じ次元に置かれてしまっています。
だから、新しいミサにおいては、ルターやツヴィングリやカルヴァンなどの洞察(!)を幅広く受け入れて、全実体変化という言葉はもはやこっそりと忘却の彼方に捨て去ろうとしたのです。
そのもう一つの例として、現在の信仰教義聖省長官であるレヴァダ枢機卿は、以前、アメリカの大司教だったとき、ハイト神父(Fr Eugene Heidt)との面会の中で「全実体変化」についてこう言っています。
「ええっと、それはあまりにも長い難しい言葉で、私たちはその言葉をもう使いません。」
「それはあまりにも混乱をもたらす言葉です!」
"Well, that's such a long and difficult term anyway, and we don't use that term anymore."
"That's such a confusing term!"
(Priest where is thy Mass? Mass where is thy Priest? Expanded edition p.68)
つまり、第二バチカン公会議による新しい理解によれば、聖体とは「禁煙」のサインと全く同じ意味における想起のきっかけに過ぎず、むしろ「聖体」ではなく「典礼」に注目すべきであり、典礼とは復活したキリストと出会うこと、霊的かつ内面的な体験にすぎないのです。
しかしトリエント公会議はこう言います。
1条。もしも誰かが、聖体の秘跡の中に、真に、現実に、そして実体的に私たちの主イエズス・キリストの御体と御血とがその霊魂と神性とともに、さらにキリスト全部が含まれていることを否定し、そうではなく、この中には、しるしまたは象徴として、または効力においてあるだけであると言う者は排斥される。
それにもかかわらず、典礼憲章と新しいミサの総則を見る限り、もはや新しいミサにおいて、第二バチカン公会議後の教会において、全実体変化というトリエント公会議の教えは暗黙のうちに否定されているのです。
主よ、我らを憐れみ給え!
天主の聖母、終生童貞なる聖マリアよ、我らのために祈り給え!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【参考資料】
カトリック教会は、ミサ聖祭について次のように教えています。
Sessio XIII, 11 octobre 1551; Decretum de ss. Eucharistia
トレント公会議 第13総会:聖体についての教令(1551年10月11日)
第1章 いとも聖なる聖体の秘跡における私たちの主イエズス・キリストの実在
Principio docet sancta Synodus et aperte ac simpliciter profitetur, in almo sanctae Eucharistiae sacramento post panis et vini consecrationem Dominum nostrum lesum Christum verum Deum atque hominem vere, realiter ac substantialiter sub specie illarum rerum sensibilium contineri. Neque enim haec inter se pugnant, ut ipse Salvator noster semper ad dextram Patris in caelis assideat iuxta modum exsistendi naturalem, et ut multis nihilominus aliis in locis sacramentaliter praesens sua substantia nobis adsit, ea exsistendi ratlone quam etsi verbis exprimere vix possumus possibilem tamen esse Deo, cogitatione per fidem illustrata assequi possumus et constantissime credere debemus.
第一に、聖なる公会議は次のことを教え、明らかに簡単に表明する。養う聖なる聖体の秘跡において、パンとブドー酒の聖変化の後、まことの天主であり(まことの)人である私たちの主イエズス・キリストが、真に、現実に、実体的に、(パンとブドー酒という)かの可感覚的な形色のもとに含まれていることを。事実、私たちの救い主ご自身が自然な存在の仕方で、天において常に聖父の右に座しておられることと、しかしながら、私たちが言葉で表わすことはほとんど不可能ではあるが、天主には可能である存在の仕方によって、信仰に照らされた認識によって私たちが同意することができ、また私たちが固く信じなければならない存在の仕方によって、秘跡的に他の多くの場所にご自分の実体によって現存して私たちに臨在しておられることとは互いに矛盾しない。
第4章 全実体変化について
Quoniam autem Christus redemptor noster corpus suum id, quod sub specie panis offerebat (cf Mt 26.26ss; Mc 14.22ss; Lc 22.19s; 1 Co 11.24ss), vere esse dixit, ideo persuasum semper in Ecclesia Dei fuit, idque nunc denuo sancta haec Synodus declarat: per consecrationem panis et vini conversionem fieri totius substantiae panis in substantiam corporis Christi Domini nostri, et totius substantiae vini in substantiam sanguinis ejus. quae conversio convenienter et proprie a sancta catholica Ecclesia transsubstantiatio est appellata.
私たちの贖い主キリストは、パンの形色のもとにささげ給うていたものを本当にご自分の身体であると仰せられたので(マテオ26・26以下、マルコ14・22以下、ルカ22・19以下、1コリント11・24以下参照)、その通りに、天主の教会において常に信じてきた、そしてそのことを、今再び、この聖なる公会議は宣言する。すなわち、パンとブドー酒の聖変化を通して、パンの実体はことごとく私たちの主キリストの実体となり、ブドー酒の実体はことごとくその血の実体に変化する。この変化は、聖なるカトリック教会によって、適切に固有の意味で全実体変化と言い表わされた。
至聖なる聖体の秘跡に関する規定(Canones de ss. Eucharistiae sacramento)
Can. l. Si quis negaverit, in sanctissimae Eucharistiae sacramento contineri vere, realiter et substantialiter, corpus et sanguinem una cum anima et divinitate Domini nostri Jesu Christi ac proinde totum Christum; sed dixerit, tantummodo esse in eo ut in signo vel figura, aut virtute: anathema sit (cf. DS 1636 1640).
1条。もしも誰かが、聖体の秘跡の中に、真に、現実に、そして実体的に私たちの主イエズス・キリストの御体と御血とがその霊魂と神性とともに、さらにキリスト全部が含まれていることを否定し、そうではなく、この中には、しるしまたは象徴として、または効力においてあるだけであると言う者は排斥される。
Can. 2. Si quis dixerit, in sacrosancto Eucharistiae sacramento remanere substantiam panis et vini una cum corpore et sanguine Domini nostri Jesu Christi, negaveritque mirabilem illam et singularem conversionem totius substantiae panis in corpus et totius substantiae vini in sanguinem, manentibus dumtaxat speciebus panis et vini, quam quidem conversionem catholica Ecclesia aptissime transsubstantiationem appellat: an. s. (cf. DS 1642).
2条。もしも誰かが「神聖にして犯すべからざる聖体の秘跡において、パンとブドー酒との実体が私たちの主イエズス・キリストの体と血とともに残る」と言い、パンとプド一酒の形色だけは残りつつもパンの全実体が御体に、プドー酒の全実体が御血にかの驚くべきかつ特別の変化をすること(この変化をカトリック教会ほ全実体変化という極めて適切な表現で呼ぶ)を否定する者は排斥される。
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愛する兄弟姉妹の皆様、
第二バチカン公会議の「典礼憲章」にはこうあります。
7(典礼におけるキリストの現存) このような偉大なわざを成就するためにキリストは、常に自分の教会とともに、特に典礼行為に現存している。キリストはミサの犠牲のうちに現存している。「かつて十字架上で自身をささげた同じキリストが、今、司祭の奉仕によって奉献者として」司祭のうちに現存するとともに、また特に、聖体の両形態のもとに現存している。キリストは、自身の力をもって諸秘跡のうちに現存している。すなわち、だれかが洗礼を授けるとき、キリスト自身が洗礼を授けるのである。キリストは自身のことばのうちに現存している。聖書が教会で読まれるとき、キリスト自身が語るのである。なお、「わたしの名によって、2・3人が集まるところに、わたしもその中にいる」(マタイ 18・20)と約束したキリストは、教会が懇願し、賛美を歌うときにも現存している。
具 正謨(イエズス会司祭 上智大学神学部准教授)著『典礼と秘蹟のハンドブックI』はこれを解説して、こう言います。
「第二バチカン公会議は、宗教改革者たちの洞察を幅広く受け入れながら、典礼におけるキリストの現存説を展開している。すなわち公会議は、キリストは「常に自分の教会とともに、特に典礼行為(全体)に現存する」と言い、すれは具体的には、「(1)聖体の両形態のもとに、(2)司祭の奉仕のうちに、(3)諸秘跡のうちに、(4)聖書朗読のときに、(5)共同体の懇願と賛美のうちに現存する」ことを意味するとした。
典礼におけるキリストの現存を理解するために、まず理解しておくべきことがある。それは「典礼」とは、二千年前に生きたナザレのイエスと、歴史的、物理的に出会う場所ではなく、復活によって存在の様態を変えられ宇宙に満ちているキリストに出会う場所である」ということである。それゆえ、典礼において復活されたキリストに出会うということは、霊的かつ内面的な性質を持つ。このような体験はシンボルを通して起きる秘蹟的な体験である。」
(ここで筆者の友人の逸話を持ち出して、この友人の修道士が召し出しを感じてつきあっていた彼女に「別れよう」と告げようとするが、緊張してたばこを吸おうとしてポケットに手を入れたが、その時その場所に赤い色でマークされている「禁煙」の標識を目の前に見た、その瞬間、彼女の方から「言いたいことは分かっている」と言われた。この修士にとって「禁煙」の印は、ただの「たばこを吸ってはいけない」ではなく、人生にとって一番重要であったその時を思い起こさせる、自分を導く天主の恵みを思い起こさせ、それを確認するシンボルとして働くという。)
「キリストの教会が、イエスの最後の晩餐の再現として典礼を行うのも同じである。それは言葉やしるし(パン、ぶどう酒、水、油)などを使って、二千年前に神がイエス・キリストを通して示された恵みを思い起こし(アナムネシス)、同じ恵みが今もなお聖霊によって与えられていることを、体験をもって確認するプロセスだからである。キリストの教会にとって、典礼とは、記憶とともに生きておられる神様に出会う、禁煙の標識のようなものである(ママ!)。実体変化は、その標識が、信仰者にとって真の神のシンボルとして働くことを表す。」(64-66ページ)
このことは、オッタヴィアーニ枢機卿は、新しいミサが出来たときにこう警告したとおりです。オッタヴィアーニ枢機卿がサインしてパウロ六世に提出した「新しいミサを研究書」によると新しいミサによる「ミサ」の定義の分析があります。
ミサの定義は「ミサの一般的構造」と題された「ローマ・ミサ典書の総則」の第2章の冒頭、第7番段落にあります。
これが新しい式次第によるミサの定義(1969年版)です。
「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。」
1970年版では第二バチカン公会議の内容に従う次のような言葉も付け加えられました。
「ミサの祭儀において、キリストはその名のもとに集まっている集会の中、奉仕者の中、御言葉の中に、現実に、またパンとぶどう酒の形態のもとに本体のまま現存される」
これを見ても明らかなように、御聖体におけるイエズス・キリストの真実の現実の実体的な現存と、霊的な現存とが混同されています。
2002年の第3版によれば「新しいミサ」の定義は次のようになっています。
Institutio Generalis Missalis Romani 2002
Caput II DE STRUCTURA MISSÆ EIUSQUE ELEMENTIS ET PARTIBUS
I. DE GENERALI STRUCTURA MISSÆ
27. In Missa seu Cena dominica populus Dei in unum convocatur, sacerdote præside personamque Christi gerente, ad memoriale Domini seu sacrificium eucharisticum celebrandum. Quare de huiusmodi sanctæ Ecclesiæ coadunatione locali eminenter valet promissio Christi: « Ubi sunt duo vel tres congregati in nomine meo, ibi sum in medio eorum » (Mt 18, 20). In Missæ enim celebratione, in qua sacrificium crucis perpetuatur, Christus realiter præsens adest in ipso coetu in suo nomine congregato, in persona ministri, in verbo suo, et quidem substantialiter et continenter sub speciebus eucharisticis.
「ミサ、または主の晩さんにおいて、キリストを代理する司祭を座長として、主の記念、または聖体のいけにえを祝うために、神の民は一つに招集される。したがって、このような聖なる教会の場所的な集合について、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束が、特に、実現される。実にミサの祭儀において、十字架のいけにえが永続され、キリストはその名のもとに集まっている集会の中、奉仕者の中、御言葉の中に、現実に、またパンとぶどう酒の形態のもとに実体的に内在的に現存される」
この定義は、一言で言えば、ミサの本当の定義が言及しなければならないはずの、贖罪のいけにえであること、御聖体におけるキリストの現存が単なる霊的なものではなく本当の現実的な実体的な現存であることについて一切言及していません。これらの教義的な価値を故意に省略することによって、事実上否定されるに至っているのです。
この定義の後半部分は、この既に非常に曖昧な表現をもっとひどく曖昧にさせるかのごとくこう挿入されています。
「『私の名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。」
この霊的現存の約束が、キリストの御聖体の秘蹟における現存、すなわち、実体的で物理的な現存と、度合いの違いこそはあるものの、全く同じ次元に置かれてしまっています。
だから、新しいミサにおいては、ルターやツヴィングリやカルヴァンなどの洞察(!)を幅広く受け入れて、全実体変化という言葉はもはやこっそりと忘却の彼方に捨て去ろうとしたのです。
そのもう一つの例として、現在の信仰教義聖省長官であるレヴァダ枢機卿は、以前、アメリカの大司教だったとき、ハイト神父(Fr Eugene Heidt)との面会の中で「全実体変化」についてこう言っています。
「ええっと、それはあまりにも長い難しい言葉で、私たちはその言葉をもう使いません。」
「それはあまりにも混乱をもたらす言葉です!」
"Well, that's such a long and difficult term anyway, and we don't use that term anymore."
"That's such a confusing term!"
(Priest where is thy Mass? Mass where is thy Priest? Expanded edition p.68)
つまり、第二バチカン公会議による新しい理解によれば、聖体とは「禁煙」のサインと全く同じ意味における想起のきっかけに過ぎず、むしろ「聖体」ではなく「典礼」に注目すべきであり、典礼とは復活したキリストと出会うこと、霊的かつ内面的な体験にすぎないのです。
しかしトリエント公会議はこう言います。
1条。もしも誰かが、聖体の秘跡の中に、真に、現実に、そして実体的に私たちの主イエズス・キリストの御体と御血とがその霊魂と神性とともに、さらにキリスト全部が含まれていることを否定し、そうではなく、この中には、しるしまたは象徴として、または効力においてあるだけであると言う者は排斥される。
それにもかかわらず、典礼憲章と新しいミサの総則を見る限り、もはや新しいミサにおいて、第二バチカン公会議後の教会において、全実体変化というトリエント公会議の教えは暗黙のうちに否定されているのです。
主よ、我らを憐れみ給え!
天主の聖母、終生童貞なる聖マリアよ、我らのために祈り給え!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【参考資料】
カトリック教会は、ミサ聖祭について次のように教えています。
Sessio XIII, 11 octobre 1551; Decretum de ss. Eucharistia
トレント公会議 第13総会:聖体についての教令(1551年10月11日)
第1章 いとも聖なる聖体の秘跡における私たちの主イエズス・キリストの実在
Principio docet sancta Synodus et aperte ac simpliciter profitetur, in almo sanctae Eucharistiae sacramento post panis et vini consecrationem Dominum nostrum lesum Christum verum Deum atque hominem vere, realiter ac substantialiter sub specie illarum rerum sensibilium contineri. Neque enim haec inter se pugnant, ut ipse Salvator noster semper ad dextram Patris in caelis assideat iuxta modum exsistendi naturalem, et ut multis nihilominus aliis in locis sacramentaliter praesens sua substantia nobis adsit, ea exsistendi ratlone quam etsi verbis exprimere vix possumus possibilem tamen esse Deo, cogitatione per fidem illustrata assequi possumus et constantissime credere debemus.
第一に、聖なる公会議は次のことを教え、明らかに簡単に表明する。養う聖なる聖体の秘跡において、パンとブドー酒の聖変化の後、まことの天主であり(まことの)人である私たちの主イエズス・キリストが、真に、現実に、実体的に、(パンとブドー酒という)かの可感覚的な形色のもとに含まれていることを。事実、私たちの救い主ご自身が自然な存在の仕方で、天において常に聖父の右に座しておられることと、しかしながら、私たちが言葉で表わすことはほとんど不可能ではあるが、天主には可能である存在の仕方によって、信仰に照らされた認識によって私たちが同意することができ、また私たちが固く信じなければならない存在の仕方によって、秘跡的に他の多くの場所にご自分の実体によって現存して私たちに臨在しておられることとは互いに矛盾しない。
第4章 全実体変化について
Quoniam autem Christus redemptor noster corpus suum id, quod sub specie panis offerebat (cf Mt 26.26ss; Mc 14.22ss; Lc 22.19s; 1 Co 11.24ss), vere esse dixit, ideo persuasum semper in Ecclesia Dei fuit, idque nunc denuo sancta haec Synodus declarat: per consecrationem panis et vini conversionem fieri totius substantiae panis in substantiam corporis Christi Domini nostri, et totius substantiae vini in substantiam sanguinis ejus. quae conversio convenienter et proprie a sancta catholica Ecclesia transsubstantiatio est appellata.
私たちの贖い主キリストは、パンの形色のもとにささげ給うていたものを本当にご自分の身体であると仰せられたので(マテオ26・26以下、マルコ14・22以下、ルカ22・19以下、1コリント11・24以下参照)、その通りに、天主の教会において常に信じてきた、そしてそのことを、今再び、この聖なる公会議は宣言する。すなわち、パンとブドー酒の聖変化を通して、パンの実体はことごとく私たちの主キリストの実体となり、ブドー酒の実体はことごとくその血の実体に変化する。この変化は、聖なるカトリック教会によって、適切に固有の意味で全実体変化と言い表わされた。
至聖なる聖体の秘跡に関する規定(Canones de ss. Eucharistiae sacramento)
Can. l. Si quis negaverit, in sanctissimae Eucharistiae sacramento contineri vere, realiter et substantialiter, corpus et sanguinem una cum anima et divinitate Domini nostri Jesu Christi ac proinde totum Christum; sed dixerit, tantummodo esse in eo ut in signo vel figura, aut virtute: anathema sit (cf. DS 1636 1640).
1条。もしも誰かが、聖体の秘跡の中に、真に、現実に、そして実体的に私たちの主イエズス・キリストの御体と御血とがその霊魂と神性とともに、さらにキリスト全部が含まれていることを否定し、そうではなく、この中には、しるしまたは象徴として、または効力においてあるだけであると言う者は排斥される。
Can. 2. Si quis dixerit, in sacrosancto Eucharistiae sacramento remanere substantiam panis et vini una cum corpore et sanguine Domini nostri Jesu Christi, negaveritque mirabilem illam et singularem conversionem totius substantiae panis in corpus et totius substantiae vini in sanguinem, manentibus dumtaxat speciebus panis et vini, quam quidem conversionem catholica Ecclesia aptissime transsubstantiationem appellat: an. s. (cf. DS 1642).
2条。もしも誰かが「神聖にして犯すべからざる聖体の秘跡において、パンとブドー酒との実体が私たちの主イエズス・キリストの体と血とともに残る」と言い、パンとプド一酒の形色だけは残りつつもパンの全実体が御体に、プドー酒の全実体が御血にかの驚くべきかつ特別の変化をすること(この変化をカトリック教会ほ全実体変化という極めて適切な表現で呼ぶ)を否定する者は排斥される。
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