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聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教伝記 14.2.1.「私はシュヴィリを掃除しよう!」

2009年11月01日 | ルフェーブル大司教の伝記
第14章 総長 防御の最後の試み
II. 掃除と改革

「私はシュヴィリを掃除しよう!」

  新しい総長が最初に遂行した仕事とは、彼が約束した通り、シュヴィリの大修学院を掃き清めることであった。修道会会則は総長に対し、創立者であるプラール・デ・プラース(Poullart des Places)の精神に従って正統な教義を誤謬から守るという最重要の職務を授けている。ローマは教育聖省(the Sacred Congregation for Seminaries)が送った、ピッザルド(Pizzardo)とスタッファ(Staffa)がサインした二通目の書簡を通してこの職務を奨励したのである。その書簡は、規則を軽視し、その中で“自然主義の風”が吹き荒れる司祭養成制度を非難した。

 この風は「新世代の司祭形成に不適切だと考えられる過去の様々な慣習を無関心に捨て去り、時代にあった『やり方』を絶えず探し求めることに労をも惜しまない者たちが共謀していたからである。つまりそこでは、祈り、親密な天主との一致、犠牲の精神、謙遜、従順、隠れた生活、そして世俗からの隔離などは、行動主義が装う一形態である愛徳という名目の下で軽視されている。」

 公会議の始めに、総長は個人ノートにご自身がもつ非常に根深い心配の種を書き出した。

「私たち、修道会総長は、非常に多くの目新しい事柄について聞き、また私たちのある教授方や神学を学ぶ学生たちの知性を侵略している「新しい神学」を見ている。私たちは驚愕している。さらに私たちはどうやってこれほど多くの誤謬を根絶し、その拡散を止められるのだろうか。信仰防御の最終防御線である検邪聖省からmonitum (警告)が来ても、一週間後には既に誤謬の主張者たちは倹邪聖省に反対している。この新しい神学の創始者が主張する教えについてどう考えなければならないのか?つまり、啓示、奇跡、人間と世界の起源、原罪、御聖体における聖主の現存、婚姻における貞潔、司祭の貞潔、そして祝された童貞マリアに関する彼らの主張について。これらすべては彼らによって疑われている。」
  
 ルフェーブル大司教は8月31日から9月10日まで、ポルトガル地域を訪問され、再びカルカヴェロス(Carcavelos)の神学校で保守されていた規範と教義的純粋さに敬服した。まもなくして彼はある計画を考案した。それは公会議に参列していた他のメンバーたちと既に分かち合ったものである。「神学を勉強している学生をシュヴィリからポルトガルに移そう!」
 残念ながら、彼が念願する、根本的な改革をもたらしたはずの大胆な解決策は、顧問総会において満場一致で受け入れられなかった。彼は中間策をとらなければならなかったのである。仕方がない、すぐにそれをしよう、と彼は決断した。



 マルセル・ルフェーブルは聖ピオ十世の Sanctorum Antistitum の方針に従ってシュヴィリの“掃除”に取り掛かった。第一年目、その経験を経た英知は、彼を広範囲に及ぶ変更を行わないよう促した。しかし彼はコンガール(Congar)、シュニュ(Chenu)、そしてその他の著者が書いた本を神学校の図書室から排除する事と、さらに自ら主導権を握って軽率に行動し、本部に対し尊敬を欠く態度をとる人員の排斥を要求した。しかしながら神学教授であるフゥルマン(Fourmand)神父の、神学教育課程を護教学や聖母に関する授業廃止し、教会論を改変するという提案を知ったとき、大司教はこの司祭をマルティニク(Martinique)に任命した。1963年中、もう一人の教授であるベゲリ(Béguerie)神父は修道会からの退会を申請した時、シュヴィリの外の修道院に移された。



 1963年4月、総長は幾つかの大神学校の校長たちの会議を招集した。そして5月には地域長会議を招集した。ルフェーブル大司教はこれらを補足して個人的に二通の手紙で実践的な指示を与えた。二通の書簡はのうち一通は地域長に、他の一通は大神学校の校長たちに与えられた。彼は地域長司祭たちに対し、
「教会の規範に従い、近代主義的思想を多少とも吹き込まれた人たちを教師の職務から排除する」ように要求した。



「全ての共同体で信仰を見張りなさい。長上に、黙想会指導者や講演者、又は新聞雑誌を探す時には、賢明に選ぶように忠告しなさい。公教会と教皇にたいする敬意を傷つけるような事や、聖書の歴史的真理や聖伝の価値、倫理と罪の根本的概念、そしてそれに対して個人が持つ責任を見くびる事柄を全て避けなければなりません。修道会への世俗的精神の侵略を私たちは防がなければならなりません。」

 彼は大神学校の校長たちに対し、権威の放棄ではなくその行使を奨励した。彼の書簡は公教会の革命が起こる以前の状況をまざまざと暴いている。
「間違いなく、この権威とは父親的なものであるが、校長は生徒たちを導き、監督しなければいけません。校長自身、活動的少数派である人たちに操られてはいけません。. . . 貴方たちは神学校の運営について、生徒たちに絶対にコメントを求めてはいけません。さらに規律や学校教育の重要ポイントについて議論することや、生徒たちが権限を執行し神学校を組織するある権利を持っているかのように考慮してはなりません. . . 貴方たちはあらゆる集団の要求を避けなければなりません. . . 生徒間の馴れ馴れしい話し方は嘆かわしいことです。それは校長が生徒たちに接する時と、何よりも生徒たちが校長に接する時に決してやってはならないことです。」

 総長は新たに“学部長(Deans of Studies)”を指名した。彼らの長上として、総長はジェラルド・フィッツジェラルド(Gerald Fitzgerald)神父を任命した。(この司祭は数年間ルフェーブル大司教の聴罪司祭を勤めることになる。)
哲学において、ルフェーブル大司教「現代の巨悪である観念論と主観主義」を非難した。「トマス哲学のみ、現実の知識を授けてくれる。」
神学において、彼は罪人の義化に関する論を推奨した。
「私たちが異教徒たちに対して、また義化(つまり聖化)の増加において育つ信者に対し、どのような行動を採るべきかを決定する際に非常に重要です。学生たちはこの論の中で、恩寵と自由とが協力して働くその原理を学ぶでしょう。」

司祭職の司牧という仕事の全ては、この恩寵に関する論を必要としないであろうか? それなくして、彼らの使徒職は純然たる自然主義、あるいはプロテスタント主義(これは自然主義とんど同じことであるが)に陥るだろう。
 最後に彼は書簡を書いた。「私たちは教導職と聖伝、さらにこの二者と、秘蹟そしてミサの犠牲の執行者との関連について強調しなければならない。」
 この目的に向かって、彼は“ピオ九世から今日までの主だった教皇回勅と文書” 特に、聖ピオ十世の公文書を食堂での食事中に朗読するよう命じた。さらには、朗読用の本の厳密なリストを作った。
 総長はまた、2つの簡潔な典礼法規を定めた。
「ローマの典礼法規を遵守せよ。」そして「自称典礼学者たちの個人的独創力からくるものを全て避けよ。」
定められた実用的法規について言えば、それは典礼法規に対して実践的「試み」の厚みを示している。これについて驚くことが何かあるだろうか? 共同司式ミサや会衆を向いたミサの「試み」が多くなされるのを目の当たりにしても、ピオ十二世自身がこの問題の根源に関して何も言及されなかったのである。

 ルフェーブル大司教自身は以下のように規定された。
● “真の敬虔さは、真の典礼によって保たれ、かつ発揮されるのであって、教会の決定に対する不従順によってではない。 
● 典礼言語は公教会によって指定されたものでなければならない。
● 準典礼(paraliturgy)は決して典礼以上に重要ではなく、その中に融合されてはならない
● 説明は典礼に従わせなければならず、典礼を説明に従属させてはならない。さもなければ短い間をとって説明を入れる。
● 御聖体は起立している拝領者に与えてはならない。
● 我々の神学校の聖堂において、例外的な場合と、必要な許可が与えられた後でなければ、会衆に面した御ミサは捧げられてはならない。“

 ここでさえ、必然的なこれらの規定は、単なる中途半端なやり方、あるいは半開きのドアでしかなかった. . . しかもローマが幅広く開放したドアの。1966年12月26日、オランダのバール・ノッソ(Baarle-Naussau)にある修練院で、ルフェーブル大司教自身、少なくとも一度、会衆に面して御ミサを共同司式で捧げられた。



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第14章 総長 防御の最後の試み
Ⅰ. 激戦を伴った選出


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