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聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 12.1.8. 劇的な対立

2008年07月06日 | ルフェーブル大司教の伝記
第12章 公会議の嵐に直面して

I. 中央準備委員会委員

劇的な対立

 最終会議の二日前の 6月 19日、中央委員会は対立関係にある二つの概要を討論することになっていた。

 最初は、神学委員会が準備し、オッタヴィアーニ枢機卿によって直接作成された「教会論 De Ecclesia」の第九章「教会と国家との関係と宗教的寛容」に関するものだった。本文 9ページに加えてピオ九世からピオ十二世までの教皇の教えから抜粋した引用文がたくさん付いている末尾注が 14ページあった。

 第二のものは、ベア枢機卿のキリスト教一致のための事務局によって草稿され、「信教の自由」という題目が付いていた。本文 15ページに 5ページの末尾注があったが教会教導権の文章に対しては何らの言及もなかった。

 ルフェーブル大司教はこの二つの文書をあらかじめ受けていたが、こう思った。「第一のはカトリック聖伝だ、しかし二番目はいったい何なのだ? これは自由主義、フランス革命、人権宣言文であり、これを教会の中に持ち込もうとしている! 全くあり得ない話だ! 会議中に何が起こるかよく注意しなければならない。」

 正にこれが起こった。オッタヴィアーニ枢機卿は自分の概要を紹介し始め、あからさまに対立するベア枢機卿の概要を攻撃した。

「カトリック国家とカトリック以外の宗教との関係に関する教理を解説するにおいて、聖なる教会会議 (公会議のこと) が教会の論争の余地がない教理、言い換えるとカトリック教会に固有の教理に従うべきであること、また、非カトリックの人々を満足させる、あるいは彼らの要求に屈服するような教理には従ってはならないということを認識しなければならないと思われます。ですから、非カトリックとの接触の影響を強く受けていると感じさせる「キリスト教一致のための事務局」が提案した草案を議題の題目から排除しなければならないと思います。」

 この影響を例証するために何種類かの事例を提示した後、オッタヴィアーニ枢機卿は自分の概要を紹介した。その概要の中心になる関心事は、カトリック信仰の保護及び真の宗教において市民の満場一致に基盤を置いた現世的共通善の保全だった。次に彼は国民の様々に異なる状況を区別した。すなわちまったくカトリックである国家、多様な宗教がある国家そして非カトリック国家である。

 第一の場合、真の宗教に対する社会的公認及び保護とともに教会と国家の一致において原則は完全に適応されること、そして必要な場合には、誤てる宗教に対する幾らかの黙認もあり得る。

 二番目の場合、教会は国家が自然法に違わないようなすべての宗教に対して認める共通の権利を享受する。

 三番目の場合、教会はただ活動する自由のみを要求する。

 ベア枢機卿は自分の順番になると立ち上がって信教の自由に関する自分の概念を説明した。彼によれば、すべての場合とすべての人々、はなはだしくは「信仰に関して道を間違っている人々」にも適用される信教の自由に関する概念だった。

 カトリック教会はこの瞬間まで自分の子らの権利のみを支持してきた。これからは教会がすべての宗教に帰依するための権利を要求することになるのだろうか? ベア枢機卿がすぐさま説明したように、その通りだ。彼は次のようにこの問題のエキュメニカルな意義を強調した。

「これは、今日、非カトリックの人々が極めて興味を抱いている問題です。彼らは何度も何度もカトリック教会を非難してこう言います。カトリックは多数派であるときには非寛容であり、少数派であるときは信教の自由を要求する、と。このような反論は非カトリックの人々を教会に導くためのあらゆる努力をまったく毀損します。事務局がその責任に基づいてこの概要を草稿しつつ、事務局はそのような状況を念頭に置いて、教会の信教の自由に関する義務がなんなのか、そしてそれをどのようにその義務を遂行しなければならないのかを自問自答したのです。」

 オッタヴィアーニの言葉がどれ程正しかったことか! ベア枢機卿が言ったように、この概要は本当に非カトリックの人々の主張を満足させるために捏造されたのだった。しかも、彼ら非カトリックの要求がカトリック教理になることを望んでいた。オッタヴィアーニがそのような計画を受け入れて協調することがどうしてできただろうか? 更に、ベアの概要を読むと、オッタヴィアーニにはそのまったく主観主義的哲学が見えてきていた。この主観主義哲学は、健全なトミズム哲学の現実主義の対極をいくものであった。


 ベアの概要によれば、誠実な人は天主の御旨を行おうとのぞむ、ところで人は自分の良心を通じて天主の御旨を知る、従って、「宗教に関して自分の良心に従う権利」がある、と言う。ところで、更にベア枢機卿によれば、人間の本性は人間が各自、自分の良心を外的にそして集団的に表明することを要求する、従って、人間は自分の宗教を、一人であろうが団体であろうが表明することを、いかなるものにも邪魔されない権利がある、但し、これが社会の3分の1あるいは全体の権利に対立する場合はそのかぎりではない。最後にこの信教の自由は「力強い法によって制裁され、宗教の社会的平等として表明されなければならない」と主張した。

 かくして、限りなく粗悪に表現された良心の自由の名前で、カトリック国家ではそうなった。

 以前のカトリック世界での -- そして多くの国でまだ適用されている -- どこにでも見られた反対の実践を前に自分の主張を正当化しようとして、ベア枢機卿はあらかじめこう言っておくことをためらわなかった。「現在の状況では、いかなる国も固有の意味で「カトリック」ということが出来ない・・・いかなる国もその他の国々と離れた一つだけのものとして考えることが出来ない」と。このことは、信教の自由の共通国際体制を提案していた。その他については彼はこう付け加えた。「国家は、それ自体として、超自然の秩序の存在もその効力も認識することができない」と。

 最後に、在位中の教皇は「現代化 (aggiornamento)」を望んでいた、「つまり、現代の生活条件に順応すること、過去可能であったことつまり他の社会学的構造において必要であったことををもう一度確立することではない」のだ。

 ベアはこう言って言葉を結んだ。

「私たちの二つの文書...は、文書番号第3番と 第8番で紹介された基本的要素に対して意見が同じではありません。あなたたちのこの集まりが判決を下さなければなりません。」


 自分が 20年間も教えて来た教会の公法になされるベア枢機卿の歴史的相対主義にいらいらしたオッタヴィアーニ枢機卿は、対立を明らかに強調して言い返すのがよいと考えた。

「キリスト教一致のための事務局の委員会は、それが教理委員会の教理と一致するか否かが分かるようにその概要 (これは「社会学」のみならず教理に関わるものであるから、何故ならこの「社会学」は教義に基礎を持っているから)を教理委員会に提出しなければなりませんでした。
正に今、私たちは私たちが同意できないことがあること、しかも私たちが教義に関することで同意していないことを見ています!」

 かくして、ルフェーブル大司教が論評したように、彼らはそこに、こうして、二人とも立ち上がって対立していた、その他の私たちは座ったまま、対立していた二人の枢機卿を、極めて基本的な命題に関して譲り合おうとしない著名な枢機卿を見つめていた。
(つづく)

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第12章 公会議の嵐に直面して
I. 中央準備委員会委員

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