2年に一度、いや、3年に一度のことだ。単身赴任のオヤジどもに付き合って、深夜まで飲む。終電はとっくの昔に終わっているから、タクシーを飛ばしてうちに帰る。ただし、タクシーは自宅から最寄の駅で降りる。そこには、私の愛車、アマンダが待っているからだ。
といっても、私には自転車に女性の名前をつける趣味はない。この名前は、この文章を書くに当たって、少し前に便宜的につけた名前だ。というのも、自転車に名前があったほうが、文章を書きやすいからだ。世の中には自動車やパソコンに女性の名前をつけてかわいがる変な趣味のおっさんがいる。しかし、私には、決してそのような変な趣味はない。まして、自転車だったら名前をつけるにしても、もっと文学的にロシナンテなどという名前にするであろう。
ともかく、タクシーで自宅にまっすぐ帰ればいいものを、地球温暖化をいつも念頭において生活している私は、少しでも二酸化炭素を減らすため、その日の朝、駅前に停めておいた愛車キャロラインを転がして家路についた。
ところがこの日は、駅裏で、いつも通りがかる度に気になっていたカフェバーの窓の灯りに誘われてその店の扉を開けたのだった。
店の中は、カウンター席が8席、壁際にロマンスシートとでも言うのだろうか、2人が膝をくっつけ会って座るような小さなテーブルと、2脚のイスがセットになったテーブルが5つばかり並んでいる。こんな店によくあるようなテーブルサッカーゲームや、ジュークボックスは見当たらず、壁にはハワイかどこかの海べりの絵、夕日にヤシの木がシルエットになっているそんな絵がはられている。
店の名前はcocomo。まさに絵に描いたような名前の店だった。
もう、日付が変わって土曜日の深夜。こんな時間にいた客は、ビールのグラスを前にした正体不明の若い女だけだった。
「いらっしゃい」
40歳前半であろう、昔サーファーだったことを想像させるマスターに注文を促され、メニューを一通り見たうえで注文する。
「ダイリキを大盛りでね♪」
さすがにマスターは苦労人なのだろう。「ダイキリですね」と、さりげなくかわして注文を確認する。
敵はなかなか腕が立つと読んだ。”ダイリキ”を注文し、出てきたのがダイキリだったら、こんなもん頼んでない。私が頼んだのは”ダイリキ”だ。なんてイチャモン付けたら、一杯ぐらいはただで飲ましてくれるかもしれない。命拾いしたなcocomoのマスターよ。いや、私はただで飲みたい訳ではない。文章書きのしがないサガで”ダイリキ”をおしゃれなカフェバーで注文したら、何が出てくるのか確かめずにはいられない気持ちを抑えることができなかっただけなのだ。
それにしても”ダイリキ”という言葉には、そこはかとない不思議な響きがある。オリジナルのカクテルの”ダイキリ”は、元々キューバにはダイキリという名の鉱山が存在しており、そこで働いていたアメリカ人の技師たちが、灼熱の地で清涼感を求めてキューバの特産物であるライムなどを使って作ったのが始まりとされている。このダイキリの一文字を入れ替えただけで、なにかマッチョな男くさいイメージがふつふつと湧き上がってくるのだ。たった一文字を入れ替えただけでこれほどの情感を醸し出す例は、他に少ない。
以前、都内のカフェバーで”マガルリータ”や ”ブラッディ・マーリ”を頼んだことがあったが、”ダイリキ”ほどのインパクトはない。これに匹敵するのを無理やり考えると”モコスミュール”とか”スロー・テーキラ”ぐらいのものだろうか。しかし、ちょっと変な発音としか取られないような気がしてならない。
このように、一文字だけを入れ替えることによって生み出されるそこはかとない脱力感はよく使われている手法で、それはカクテルの範疇だけに収まるものではない。
例えば、Adidas, Lacose, Ralph Louren, Burbarry, Babby phat...など。ていうか、商標を一字だけ変えると微妙な言葉というよりかなりの大問題だ。
ということで、3時には閉店するというこの店を出たのは朝の5時を回っていた。白々と明けていく朝もやの中を、私はベロンベロンになりながら、愛車ケイトを押して家まで帰った。翌日、店で妙にはしゃぎまくっていたのを覚えているが、マスターがどんな顔だったか、また、一人いた若い正体不明のオンナがどんな女だったかぜんぜん思い出せないでいた。
ジンビームのボトルをキープしたことだけ覚えているが、その店には恐くてなかなか行けそうもない。もし、メニューに”ダイリキ”が新たに加えられていたとしたら、私はそんな店には行きたくない。