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tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

明かりを灯す人

2019-09-03 23:06:12 | cinema

「手は一切使えない。歯を使ってラクダに結んだロープの結び目をほどいたら女の勝ち。ラクダは女のもの。ほどく前に男が性交できれば男の勝ち。ラクダは男のもの」
・・・映画のこのシーン。中国人たちは好色に目を光らせ、日本人たちは描かれてるのが日本人じゃなくて良かったと安心し、キルギス人たちはやるせない思いをしながら見ることだろう。
ひところの日本人たちはエコノミック・アニマルとして、世界のいろんな場所で顰蹙をかっていた。今はそれが中国の男たちにとって代わってる。

「明かりを灯す人」の主人公は、たまたま居合わせた中国のビジネスマンたちに対するこの接待の場面で、見るに堪えかねずつかみかかっていく。袋叩きに合い追い出された男は、電線をショートさせ、あたり一帯を停電させる。

『明りを灯す人』(原題: Svet-Ake(明り屋さん))は、アクタン・アリム・クバト監督の2010年の作品。なお、アクタン・アリム・クバト監督は、姓をこれまでのロシア名「アブディカリコフ」からキルギス人の名前である「アリム・クバト」に変更。

明かりを灯す人は、電気を盗む人でもあった。高い電気代を払えない山奥の寒村の村人たちのために彼は電気を盗んでいた。彼の夢は高台を風車で埋め尽くして、村全体の電力を作り、村人たちに電気を供給すること。
彼の夢は村の実力者に知れることとなり、中国マネーを引き出すための算段が行われる。でもキルギスの歴史は、中国の略奪との戦いの歴史でもある。ロシアやソビエトに併合されてもなお、民族の伝統を守り続けてきた国だ。今でも同族結婚や、キルギス民族同士の結婚をよしとしている。

今後、村では明かりは少しづつ灯っていくのだろう。そんなことを感じさせるラスト。


馬を放つ

2019-09-02 22:32:41 | cinema

キルギスの文化にもっと触れたくて借りたDVD。「馬を放つ」。国際的に高く評価されるキルギスのアクタン・アリム・クバト監督の2017年の作品。
「馬は人間の翼」。キルギスの伝説を信じて馬を盗み野に放っている男の姿が描かれていた。・・・人々は翼も心も失い、昔とはまったく違う物になってしまった。

遊牧民を祖先にもつ彼ら。かつて彼らは馬と共に生き、助け合って生きてきた。それこそ、馬が体に一部であるかのように。
いつしか家族同然だった馬は、その価値が忘れられ、愛情や敬意も失われつつある。馬は単なる家畜に、そして競走させて大金を賭ける道具となってしまった。馬を盗んで隣国に肉として売る輩も出てきた。
馬とともに生きてきた、キルギスの人々のアイデンティティーが次第に失われていく現代。そして男は馬を盗み野に放つ。

野良の馬として寿命を全うできる可能性があるのなら、飢えたオオカミに襲われる危険があっても、自由に野を駆けさせる方が馬たちにとって幸せなのかもしれない。人と馬のきずなが薄れた今となっては。。

・・・ならばこそ、これぞという馬と人とのからみを観たかったのだが、映画にはそれはなかった。彼らにとって、馬はあくまでも馬であり、どこかの国のペットのように安っぽい愛情を注ぐ相手ではない。


いいとこあるじゃん

2018-08-01 21:42:45 | cinema

「ビリギャル」のひとコマ。好きなシーンの一つだ。
滑り止め入試の日の朝、雪で交通はマヒ。
「歩いてでも行くしかない」というさやかを、長男の野球英才教育のために買ったマイクロバスで父親が入試会場まで送る。
途中でスタックしている見知らぬ人の車を見て、彼はさやかに告げる。「絶対間に合わせるからお前は勉強でもしておけ」
長年続いた家族の溝で崩壊しまくった父と娘の関係が和解していく瞬間だ。

・・・実際に名古屋の人たちにはそんな印象がある。太平洋沿岸の田舎の底抜けに明るい性格。そして義理人情の深さ。そんな人ばかりじゃないんだろうけど、これまで付き合ってきた名古屋の人々にはそんな印象があるのだぎゃなも。
東北のど田舎で育ったぼくは、なにかと内省的。自分で自分の限界をつくってしまう。やってみる前から「ダメだよね」とか。ダメだった場合に備えて、言い訳ばかりを準備する。
その点、名古屋の人たちの「ブレのなさ」には感心してしまう。やはり天下人の地なんだぎゃ。


落ち武者

2018-07-31 22:45:09 | cinema

友人から「Flying colors」という映画、観た方がいいそ。・・・絶対感動する(*‘ω‘ *)。
といわれて、探したDVD。あれっすね。日本語のタイトルで「ビリギャル」。
NHKの朝のTVドラマ「あまちゃん」に出ていた「落ち武者」の女の子の主演映画だ。
テレビを持ってないし、朝の連続TVドラマの時間帯はいつも電車の中。絶対観れるはずのない環境なのに、「落ち武者」のシーンだけは、なぜか生で観れた。
たぶん、出張先のホテルのテレビだったんだろうか。。。

塾講師・坪田信貴による著作「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」が原作。本でベストセラーになり、それのノンフィクション映画だ。
オバカなのに超ポジティブなさやかの一挙手一投足が最高に面白い。「さやか、ケーオーに行くことにした〜」「ケーオーって…どの慶応!?」
さらに、伊藤淳史演じる塾講師・坪田の「バカなところは否定せずに、良いところを見つけてそこを褒めて伸ばす」という指導スタイルにも惚れ惚れする。

大バカなブログで大恥かいても、「ウケた♪」と超前向きになるっきゃない。マジで見習いたい。
あの「落ち武者」の女の子も、表情豊かで、見た目も中身もどんどん変わっていく可能性を秘めたかわいい女の子を見事に演じてる。


Hidden Figures

2017-06-23 21:42:35 | cinema

成田から乗り継ぎのクアラルンプールに向かう飛行機の中で観た映画。
アメリカの初期宇宙計画に参加した黒人女性たちを描いた映画だ。
Hidden Figuresっていうのは「隠された人たち」を意味する。
話はアメリカの1960年代の黒人女性たち。1960年代の有人宇宙飛行計画(マーキュリー計画、アポロ計画)が背景となっている。人類を宇宙に送り、安全に帰還させようとする計画。
実在の3人の黒人女性。彼女たちは計算手(コンピューター)だ。
物理学や天文学のデータの計算とかデータ管理をする人たちは「コンピューター」と呼ばれていた。マンハッタン計画において、リチャード・P・ファインマンの微分方程式の数値解の計算を行ったのは、多数の女性数学者の計算手たちだった。
今でいうコンピュータの概念ができるのは1940年代。真空管を使った初期のコンピュータは信頼性が低く、八進法版の機械式計算機によりコンピュータの計算結果の検算がなされた。
当時のラングレーのコンピュータルームには、数学の天才の女性たちがズラッと並んでいたわけだ。しかも、安い給料の関係からそのほとんどが黒人。

キャサリン・ジョンソンは、1961年のアラン・シェパード(Alan Shepard)による1961年フライトの弾道計算に、そして、1969年のジョン・グレン(John Glenn)の月に向かったアポロ11の弾道計算の確認で知られている。
NASAの前身の航空局があった南部・バージニア州には、人種隔離政策があった。だから、黒人はトイレも別。水飲み場も別。バスの座席も別。図書館も別。学校も別。黒人女性は、同じ黒人男性からもエンジニアをやることに差別されてた。
エンジニアとして、そこら中にあるいろんな差別の壁。その壁に何度もブチ当たりながらも、諦めないでその壁を壊し続ける。戦って裁判に訴えたり。壁をとぱらって・・・。

観ていて泣けて泣けてしょうがなかった。隣に座ったマレーシア人のレスラーみたいな体格の男が心配するほど。。
アメリカで当時、ロケットを無事に飛ばせたのは、この人たちがあってこそだった。最初にバカにしていた人たちや、追い出そうとしていた人たちも、彼女たちの実力を見て尊敬の念にかかれていく。。本当に泣かせる。




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