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tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

都会っこタヌキ

2014-07-17 21:43:57 | old good things
明治の末のころの絵葉書。日比谷公園、鶴の噴水。
日比谷公園は、明治36年6月1日に、洋風式公園として開園した都立公園。
そのころの絵葉書。今は、遠くに摩天楼の町並みが見える。

大きく変わった東京の街並みだが、なんと、この大都会にもタヌキがまだ生息しているらしい。
http://tokyotanuki.jp/reports.htm
・・・銀座4丁目交差点でも目撃例はあるようだ。

タヌキは雑食。いろいろなものを食べる。
東京の都心部には、生ゴミが非常に多く、カラスとともにそのようなものを食べてくらしているのだろう。
皇居をはじめ、公園や大使館の庭など、ねぐらにも不自由しない。その上、夜間人口がとても少ないから、タヌキにとって、まさに都会はサンクチュアリなのかも。
がんばれ、都会のタヌキ。


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花嫁@潮来

2014-06-29 22:38:45 | old good things




♪好きなあの人 東京育ち  わたしゃ潮来の  水育ち

この歌が流行った昭和30年代前半、東京の男と茨城の女性を結んだ縁はどんな想定だったのだろう。
花の都へギッチラコ。
大名への輿入れを真似た花嫁行列は、江戸時代からのセレモニーだ。
だが、いくら近隣を意識した儀式とはいえ、まさか花嫁衣裳のまま手漕ぎ舟で東京まで行くまい。

よしきりさえも鳴いて見送る。。
ひょっとしたら、潮来から東京へ集団就職した少女なのかもしれない。
田舟(ざっぱぶね)に嫁入り道具を乗せて、あたらしい人生の門出。
あの人の待つ東京へ。期待と不安の輿入れだ。

江戸時代より新田開発が行われてきた潮来。
このあたりは、北浦、鰐川、前川の合流地点にあり、周囲をぐるりと水に囲まれた地域で、昔から水害に悩まされ続け、収穫できる年は3年に1度とも言われた。
日常的に交通手段は、潮来花嫁にも出てくるざっぱぶね。

両親が栃木出身なので、茨城弁は栃木弁に近くて、ぼくにはなじみやすい。

「おっぺずる」とか、「おったづ」とか。
「おっがぐ」とか、「おぢんぼ?」とか。
「ちょーす」、「ちんちかばる」、「ちんちろげ」、「ごじゃっぺ」とか。。
「こいてらばがしだあんめ」
とか言われたりね。今の花嫁さんにはわかんないよね。


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トリス

2014-06-17 21:10:28 | old good things

リキュール・グラスは、リキュールをストレートで飲むための脚の付いた細身の小さなグラスのことだ。
リキュールだけではなく、ウォッカ、テキーラ、ラムなどをストレートで飲むのにも使われる。
容量は30~45ml。
昭和初期のショットバーなどでウィスキーを頼むと、このグラスで出てきたのだろう・・・たぶん。

「昭和モダンの器たち(構成・佐藤由美子)コロナ・ブックス平凡社」によると、日本酒のお猪口としても使われてたようだ。
美人女将が一人でやっている飲み屋で、こんなグラスに熱燗が注がれれば限度を忘れて飲んでしまうに違いない。
残念ながら、時代の流れとともに、ウィスキーは水割りで、日本酒は1合徳利からもっと大きなサイズに。そして手間がかからないようにグラスも年月とともに大きくなってきた。人件費がうなぎ登りに高騰してきた時代。
そんなちっぽけなリキュール・グラス。今はほとんど見かけない。

戦後の日本人に、もっとも愛された洋酒といえば「トリス」。
「うまい やすい」のキャッチとともに、昭和21年に寿屋(現サントリー)から発売された。トリスを炭酸で割ったハイボールがトリスバーで人気となり、サラリーマンや学生がうまくて安い酒とハイカラな気分を味わおうと大勢集まったという。
リキュール・グラスで差しつさされつ、日本酒を飲んでみたいなあ。
どこかにそんな店はないのかな。築地あたりを探索してみようか。


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花嫁人形

2014-06-08 21:38:41 | old good things



大正時代から昭和時代にかけて竹久夢二、高畠華宵とともに一世を風靡した挿絵画家、蕗谷虹児。
児童画家であるとともに詩人でもある。

♪金襴緞子の帯締めながら、花嫁御寮はなぜ泣くのだろ

彼の描く美人画の美しさの影に少し憂いを感じる。
虹児が13歳の時に、かれの母親が29歳の若さで死去。
その母への追慕が、美人画の作風にも影響を与えたと言われている。

♪文金島田に髪結いながら、花嫁御寮は何故泣くのだろ

母の死後、商店に丁稚奉公に出され、絵の勉強をしながら夜学に通う。

♪あねさんごっこの花嫁人形は、赤い鹿の子の振袖着てる
 泣けば鹿の子の袂が切れる、涙で鹿の子の赤い紅にじむ

上京して郷土出身の日本画家に師事。やがて朝日新聞の連載長編小説「海の極みまで」(吉屋信子 大正10年)の挿絵によって、人気が爆発。
虹児23歳。
時代の寵児となった虹児は、「挿絵画家」の生活にあきたらずフランスへ留学。
1925(大正14)年、虹児26歳、妻17歳。

♪泣くに泣かれぬ花嫁人形は、赤い鹿の子の千代紙衣装

記憶が正しければ、子供のころに実家にあった児童向けの本は、講談社版・世界名作童話全集だったように思う。
とすれば、アラビアンナイト「船乗りシンドバッド」やアンデルセン 「白鳥の王子」の口絵や挿絵は蕗谷虹児によるものだ。
家で見たのか、あるいは、学校の図書館で見たのか、あやふやな記憶ではあるが、彼の絵を見て妙に懐かしさがこみあげてくるのは、確かに年少の一時期に彼の挿絵による物語を読んだからにちがいない。


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400年の時の旅

2014-05-17 23:07:43 | old good things



明治時代の銀座。1872(明治5)年の大火の後、都市の不燃化を目指して造られた煉瓦造りの街並み。そして鹿鳴館。
失われた明治の時代の日常が、およそ140年の時を経て再現されていた。
東京という都市は、庶民の文化の歴史を変遷して発展してきた。
規模の上では江戸時代の展示が多くを占めるが、関東大震災や東京大空襲といった災難を乗り越えて東京が復興してきたこと、そして1964年の東京五輪を迎えたことは感動すら覚えた。

昭和の記憶があるのは30代以上。その世代でさえあいまいな記憶の中にしか昭和は残ってない。
1960年代。大衆から愛されていた「てんとう虫」。
・・・なつかしいなあ。
昭和の面影を探して下町散歩。



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