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鎌倉七口を辿る その3

2012-05-27 12:21:27 | 鎌倉巡り
鎌倉七口めぐりの3日目、今回は名越切通を辿った。


                           名越切通
                  

国史跡 名越切通(なごえきりどおし)は鎌倉時代に尾根を掘り割ってつくられたとされ、鎌倉から三浦半島を結ぶ重要な通行路の役割を果たしてきた。
「名越」の名は、この道が峻険なため「難越(なこし)」と呼ばれたことから由来するといわれている。
鎌倉時代には衣笠城(横須賀市)を拠点とする三浦氏の脅威からの防御手段として、切通をあえて狭くして通行しづらくしたり、「大切岸(おおきりぎし)」と呼ばれる人工的な防衛の壁を築いている。
発掘調査によると、名越路は江戸時代も使われていたことが分かっている。明治に入り1883(明治16)年にトンネル道路が、1889(明治22)年に横須賀線が開通して、切通も幹線道路としての役割を終えた。
また、発掘調査では鎌倉時代の路面までは確認できてはいない。おそらくその道は、今よりずっと急坂で、高いところを通っていたかも知れないといわれる。


鎌倉七口めぐりは、鎌倉十井もあわせており、先ずは十井巡りと、今回のスタートは鎌倉駅から京急バス逗子行に乗り、「光明寺」バス停で下車した。

光明寺
浄土宗大本山。正式には天照山蓮花院光明時(てんしょうざん・れんげいんこ・うみょうじ)という。
開基は1243(寛元元)年、鎌倉幕府四代執権・北条経時(ほうじょうつねとき)で、開山は記主禅師然阿良忠(ねんありょうちゅう)といわれている。
三門は鎌倉において、現存するものとしては最大の二階建ての門で浄土宗関東総本山にふさわしい名建築。
江戸時代に、 徳川家康が浄土宗学問所関東十八壇林を決めた時に第一位になり、大変繁栄をした。
              

先日、TVの十津川サスペンスで亀井刑事が捜査のため鎌倉に訪れ、光明寺三門から出てくるシーンを見た。TV的にもこの三門の映像は良いのだろう。
三門は、五軒三戸二階二重門といい、一階が和風、二階が唐風の折衷様式で浄土宗関東総本山にふさわしい風格ある門である。扁額の「天照山」は室町時代の第102代後花園天皇の筆によるとされる。
団体予約すれば三門が拝観できるという。
  
      
本堂に上ると正面右手に弁財天が祀られている(本堂・・重要文化財)。
              

蓮池(大賀ハス)を中心とした小堀遠州の作の庭園。ほかに三尊五祖の石庭もあるという。
              

光明寺裏山に上ると、「かながわの景勝50選」の碑がある。1979(昭和54)年に選定された「光明寺裏山の展望」であるが、今は木々が景勝を覆ってしまっている。
              

その先、トンネルを潜って車道を下りて行くと、右手に内藤家の墓所がある。
陸奥国磐城平の藩主から国替えになって、日向延岡の領主になった内藤家歴代の墓所で、200基以上の石塔が建っている。
              


さらに、国道134号(横須賀市-大磯町)道路を潜り、海辺に出ると、国指定史跡「和賀江嶋」の碑がたっている。

和賀江島
和賀江島(わかえじま/わかえのしま)は、1232(貞永元)年に築造されたわが国において現存する最古の築港跡で、国指定の史跡になっている。
鎌倉の海岸が遠浅で、船からの荷の上げ下ろしが不便で、また波風が高い時は、着線が流されるなどの被害が多かったため三代執権・北条泰時の援助を受けて、石積みの提・和賀江嶋を築いた。
石積みの石材は、相模川や酒匂川、遠く伊豆半島より運んだ。その後、この港は鎌倉の海の玄関口として重要な役割を果たした。
築造時の姿は分かっていないが干潮時には島状の姿が現れる。

タイミング良く引き潮時であったため、石積みの和賀江嶋の遺跡を見ることが出来た。石碑の奥に黒く線が延びているのが石積みである。近くでは団体の小学生が、石の影に隠れているカニを探して騒いでいる。


「和賀江嶋」の碑の先にある海岸線に沿った小道を進んでゆくと右手に「六角の井」を見つける。民家の駐車場の脇にあった。

六角の井
保元の乱で敗れた源為朝(頼朝の父・義朝の弟)は、腕の筋を切られ大島に流された。
弓の名手であった為朝が自分の力を試すために、配流先の大島から18里離れた光明寺裏にある天照山めがけて放った矢がこの井戸に落ちたという。
井戸は八角であるが鎌倉側に六角、小坪側に二角であることから「六角ノ井」と呼ばれる鎌倉十井(じっせい)のひとつであるが、ここは現在逗子市小坪五丁目である。
別名を「矢の根ノ井」というが、これは、村人が矢の根を拾い上げると水の質が悪くなったので、元に戻したところ、もとのような清水が涌き出るようになったという伝説からこの名がついた。


「六角の井」から次は、本日の主要目的地である「名越切通」に向かう。
鎌倉七口プラス鎌倉十井が鎌倉散策のため、目的地が離れてしまうコース立てになってしまった。そこで、次の目的地、「名越切通」までは黙々と1時間近く歩く。

当初は名越切通を鎌倉側から入る予定であったが、どこかでターンしなければならないので逗子側から入ることとした。
直接、名越切通に来るのなら逗子駅から鎌倉駅行京急バスで「久木新道」バス停下車が逗子側入口に便利なようだ。鎌倉側入口は「緑ヶ丘入口」バス停を下車となる。

今回は、逗子側でも法性寺の裏をまわって名越切通に行くことにした。

法性寺
日蓮宗、猿畠山法性寺(えんはくさんほっしょうじ)は安房の清澄寺(せいちょうじ)で日蓮宗を改宗した日蓮は、鎌倉の松葉ヶ谷(まつばがやつ)に草庵を構え布教を行っていたが、様々な法難にあい、草庵を焼き討ちされた。その才、白猿に導かれ法性寺の岩窟まで逃げてきたという伝説がある。
三門の「猿畠山」と書かれた扁額には、日蓮を導いたとされる白猿があしらわれている。
              

 

                 

法性寺本堂脇を進んでいくと、上りはじめてすぐ右手にやぐらが見える。
              

ノラと思うネコが2匹いる。1匹は尻尾を高々と上げて威嚇してくる。その先でもノラネコが群れていた。
日蓮は白猿が案内してこの地に来たかも知れぬが、私はこの地でノラに追いかけられるのではと人気のない山道で恐ろしさを感じた。

法性寺の裏を上りきったところが鎌倉幕府防衛施設の「お猿畠の大切岸」の一部のようだ。
              

案内に辿って突き当たりに出る。切通の本道のようだ。先ずは逗子側の入口にと、足を進める。


改めて「名越切通」の案内板があるところからスタートする。
              切通入口

              第一切通

まんだらやぐら群
この先、危険で立入禁止となっている。その反面、期間限定で公開出来るのは何故なのだろう。
「まんだらやぐら群」とは何なのか、調べてみたが今ひとつ分からない。
かつて、この場所に死者を供養する「曼荼羅堂」があったという。
また、150穴ほどの「やぐら」があるという。やぐらとは、岸壁などをくりぬいた横穴に死者を埋葬し五輪塔などを置く墳墓である。
百聞は一見に如かずで、実際に見れば分かるのだろうか。
               
次回の公開は、10月~12月上旬の土日祝日とのことで、詳細は逗子市社会教育課HPまで。
 

「まんだらやぐら群」を先に進むと「名越切通」がある。

名越切通
   

「名越切通」を過ぎると急坂となる。
     
苔むした岩が道の中央に座っている。右の画像は振り返って坂を見上げて写す。

JR横須賀線の電車の音が聞こえ始めると30分ほどの名越切通の散策も終りである。
     
(右画像)左側の通路が切通に通じる道、右下が横須賀線の線路


JR横須賀線の名越坂踏切を渡り、県道311号葉山鎌倉道路を鎌倉駅方面に向かう。
すぐに「十井之一銚子井」と書かれた石柱を見つける。
ここの十井は石柱だけで実物はないのかなと思い、路地から出てきた婦人に尋ねると気にしたことがないので分からないとの返事が返ってきた。予習が足りないなとアンチョコを読む。
「銚子の井」は、婦人が出てきた路地に石の蓋を被せてあるという。道路から3~4m入った場所にあった。そばに文字が消えうせて全く読めない案内板らしきものもたっていた。

銚子の井
この井戸は「銚子の井」と呼ばれている。この画像では全く分からぬが、六角に造られた井戸枠の一端の水の出口が銚子の口に似ていることから名付けられたようである。
また、水戸光圀が命じて編纂した鎌倉地誌の新編鎌倉志によると、岩を掘った井あり、石井と呼ぶ。鎌倉十井の一と記すということが書かれており、またの名を「石井の井」とも呼ばれている。
    

名越踏切を渡ってすぐ右手の小道を進む。
白猿の法性寺で記述した松葉ヶ谷に草庵があったという安国論寺と妙法寺に向かう。

安国論寺
日蓮の鎌倉での布教の中心となった松葉ヶ谷草庵跡のひとつとされ、松葉ヶ谷霊跡安国論寺とも言う。
この地にある岩屋に日蓮が初めて庵を結んだのが始まりとされている。ここを拠点に布教活動を行っていたが、反対を唱える人びとにより、1260(文応元)年、草庵は焼き討ちされた。日蓮は、迫害に耐えつつ鎌倉幕府第五代執権・北条時頼に建議した「立正安国論」を執筆した岩穴(法窟)側に安国論窟寺を建てたのが始まりといわれる。
            三門

            本堂


            松葉ヶ谷草庵跡の碑

東芝社長や経団連会長を務めた土光敏夫の墓所がある。
                    

妙法寺
1253(建長5)年に日蓮が安房より移り住んだ松葉ヶ谷草庵跡に開かれたとされ、境内奥の山腹に「御小庵趾」の碑があるが、実質的な開山はずっと後で、1357(延文2)年の日叡(にちえい)である。日叡は、後醍醐天皇の子・護良(もりなが)親王と藤原保藤の娘・南方(みなみのかた)の間に生まれ、日蓮を偲び、かつ父・護良親王の菩提を弔うためにこの地に堂等伽藍を建て、自身の幼名である楞厳丸(りょうごんまる)にちなみ楞厳山法妙寺と名付けた。

              
境内奥右手山頂には護良親王の墓が、左手山頂には母・南方と、日叡自身の墓がある。
江戸時代には、十一代将軍家斉はじめ将軍家および徳川御三家、肥後細川家などの尊崇を集めた。総門、仁王門、法華堂が朱塗りであるのは将軍家斉を迎えるためであったとされる。
また、現在の本堂は幼くして亡くなった細川家息女の菩提を弔うため文政年間に肥後細川家により建立されたものである。
              

              三門

                      みごとに咲くクレマチスの花

              本堂

              仁王門

             金剛力士像

薩摩屋敷焼討事件戦没者墓-同じく仁王門左にある。幕末の三田の薩摩藩邸焼討事件の戦没者を祀る
元は薩摩藩邸内の妙法寺の支院「清正公堂」にあり、1995年に現在地に移転。
              

苔石段-仁王門から釈迦堂跡に続く石段で、苔に覆われており、このため妙法寺は別名「苔寺」「苔の寺」とも呼ばれる。苔の保護のため通行止、脇に新しい階段が作られている。
                      

奥の院御小庵趾-釈迦堂跡左手、鐘楼脇の階段上にあり、日蓮が20数年に渡って住んだ松葉ヶ谷草庵跡とされる。
              

護良親王御墓-後醍醐天皇第三王子であり中興開山・日叡の父である。小庵趾より右手に登った山頂に
なお、護良親王の墓とされるものは鎌倉市二階堂の理智光寺跡にもあり、そちらが正式とされる。
日叡上人御墓・南の方御墓-小庵趾より左手山頂にある。

(左)護良親王御墓  (右)日叡上人御墓・南の方御墓

              裏山からの眺め                             

松葉ヶ谷草庵跡のひとつとされ寺院には、今回寄らなかったが石井山長勝寺も近くにある。


逆川(さかさがわ)沿いの道を北上し釈迦堂切通に向かう。



釈迦堂切通(通行止)の看板が道すじにたっている。通行止といっても少しは釈迦堂切通の気配を感じることが出来るかな?という期待感をもって歩いて行った。


釈迦堂切通
釈迦堂切通は、鎌倉時代の面影をよく伝えている。この切通しは鎌倉と外の地域を結ぶものではないため鎌倉七口には数えられていない。
鎌倉幕府二代執権・北条義時の霊を祀る釈迦堂が建っていたため字名に「釈迦堂」が残っている。一帯は初代執権・北条時政の屋敷跡である。
                                          

この釈迦堂切通は上方を残したトンネル状になっており、切通としては例外的のようである。

           
通行止のバリケードがもう少々低ければ良い写真が撮れたのに、と思いつつ切通の気配も感じず引き上げた。
次に向かったのは北条政子ゆかりの寺、安養院である。

安養院
尼将軍といわれる北条政子が夫である源頼朝の冥福を祈るために佐々目ヶ谷に建立した祇園山長楽寺が前身と伝えられる。建立1225(嘉禄元)年。その後、鎌倉時代末期に善導寺の跡(現在地)に移って安養院になった。安養院は政子の法名である。
徳川四代将軍家綱の時代の1680(延宝8)年に全焼したため、頼朝に仕えていた田代信綱が建立した田代寺の観音堂を移し、祇園山安養院田代寺となった。
国の重要文化財・政子の宝篋印塔が建っているという。
              

                                         

安養院から150mほど先の路地を右折し、ぼたもち寺にむかう。

常栄寺
日蓮が、龍ノ口に護送される途中、この地に住んでいた「桟敷の尼」が、「胡麻入りのぼた餅」を捧げたという言い伝えから、「ぼたもち寺」と呼ばれている。
その後日蓮は、奇跡的に処刑を免れたことから、「頸つなぎのぼた餅」という逸話が生まれ、「御首継ぎに胡麻の餅」といわれるようになった。
              

              

つぎは本日最後の本覚寺にむかう。
古めかしい三門を潜る。
この三門は仁王門で江戸時代のものを明治の初期に三浦半島の寺院より移築したという。

本覚寺
現在の本覚寺の山門がある場所の前には、夷堂(えびすどう)と呼ばれる堂があった。この夷堂は、頼朝が鎌倉幕府の開幕の際に、幕府の鬼門にあたる方向の鎮守として建てたとされ、天台宗系のものであった。1274(文永11)年に佐渡配流から帰った日蓮が一時、この夷堂に滞在し、辻説法などの拠点としていた。その後の1436(永享8)年に一乗院日出が日蓮にゆかりの夷堂を天台宗から日蓮宗に改め本覚寺を創建したという。 後に身延山より日蓮の遺骨を分骨して本覚寺に納めた。本覚寺が「東身延」と呼ばれる理由である。
              

             夷堂

             本堂は大正時代の創建

           鐘楼・・1410(応永17)年銘 

日蓮御分骨堂・・身延山の参拝が困難な信者のために日蓮の遺骨を久遠寺から分骨し、祀る。
                           


鎌倉七口巡りも5つとなり、あとは極楽寺坂切通と大仏切通が残るのみとなった。
鎌倉十井は、今回六角ノ井と銚子ノ井を巡り、7つを数える。あとは、8つ目の坂ノ下・虚空蔵堂の星ノ井を廻れば全てとなる(扇ノ井と棟立ノ井は見学不可)。
最終、4日目を期待しよう。

                関 連 : 鎌倉七口を辿る その1
                     : 鎌倉七口を辿る その2
                     : 鎌倉七口を辿る その4


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