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信濃国・修那羅山安宮神社の石仏像群を訪ねて

2012-11-11 11:39:05 | 信州路&甲斐路
石仏群を訪ねて

長野県東筑摩郡麻績村(ひがしちくまぐんおみむら)をはしる長野自動車道の麻績インターチェンジから別所温泉に通じる「県道12号・丸子信州新線」道すじの舟窪山に標高1,037mの修那羅(しょなら)峠がある。
そこは、長野県のほぼ中央に位置的する。
修那羅峠って、名前からイメージすると、平家の落人の亡霊が出るとか、光彦さん(内田康夫作品の浅見光彦)や金田一耕助(横溝正史作品)に出てくる峠の名前のようにも思えるが、
この峠、古くから小県郡(ちいさがたぐん)と麻績地方を結ぶ「安坂(あさか)峠」と呼ばれていて、近くに大国主命を祀る祠があった。

         



幕末期の1855(安政2)年、修験者としてこの地に修那羅大天武(望月留次郎)が住み着いた。
修那羅大天武は、1795(寛政7)年に新潟県頚城(くびき)郡妙高村大鹿に生まれた。1803(享和11)年、9歳で天狗に従って家を出て、妙義山、秩父三峯山、相州大山、鳳来寺山、豊前彦山神社、加賀白山、越中立山、佐渡金鳳山など、各地の名山、神社仏閣を巡って修行を重ね、この間に学問は豊前坊という岳天狗に習い、越後の三尺坊からは不動三味の法力を授けられて、霊験を身に付けたという。
そして修那羅大天武はこの地で、弟子や信者たちと修行を行い定住した。
1855(安政2)年、この地方が旱魃(かんばつ)に襲われた際に、雨乞いの修法を乞うため、近隣の村人たちが峠に登ってきた。修那羅大天武はこれを受けて修法を行うと雨が降ったという。
やがて霊験あらかたな加持祈祷ということで、信濃国の各地から人々が集まることとなった。
いつしか峠に行く道を「ショナラさん」へ行く道と、安坂峠は修那羅峠と呼ばれるようになった。
村人たちは、願いをかなえてもらったお礼に手づくりの石仏・石神を奉納した。
その熱い信仰と感謝の気持ちが積もり積もって800余体となり、神社の摂末社として祀られている。中には平成の年号が刻まれた石仏も見当たる。
         
1872(明治5)年に、修那羅大天武は旅先で死去するが、その遺言により、門弟信徒の手で、「舟窪社」に大国主命と共に「修那羅大天武命」として合祀された。
「舟窪社」とは、社の縁起によれば、戦国時代の頃から大国主命を祀る小祠としてはじまったが、修那羅大天武がここに定住して社殿を造ってから、舟窪山にあることから舟窪社と名付けられ、さらに1902(明治35)年から修那羅山安宮社(しょならさんやすみやしゃ)に改められたという。
    
         

         

         

社の裏山と呼ぶべき境内に祀られている病気平癒、安産、農事豊作などを祈る石仏・石神群は、徳川時代末期から明治前期にかけての神仏混合時代の典型的形態を呈しており、祭神賀美観音、木妻大明神、金神、天神、道祖神、唐猫大明神、八幡宮、千手観音、鬼神催促金神、水天宮、弁天宮、子育宮等をはじめとする石仏や神像が鎮座している大小の石詞もある。後で知ったが、松代藩士佐久間象山(1811~1864)が奉献した千手観音像も祀られているという。

         

         

      

         

         

      

         

         

      

         

         

      

地元筑北村の広報では、『この末社のほとんどが作者不明ではありますが、素朴な感を呈し、且つ力強い表現は全国に比類なく、更に自然に相溶けあった美しさは、参拝客の心を和ませてくれます。』と書かれている。

         

         

長野自動車道麻績ICから修那羅山安宮神社へのアクセスは、
県道12号「丸子信州新線」を南へ6km。 県道沿いの修那羅峠に駐車場がある。そこから800m、徒歩15~20分。
或いは手前の坂井村氷室、バス停「桂石」を右折して道なりにくねくねと登り「修那羅森林公園キャンプ場」を越えて行くと神社へ歩いて数分という駐車場もある。
この駐車場からは下図のように鳥居をくぐって思索の森の「修那羅遊歩道」を歩むか、右手の舗装された道を安宮神社まで進んでいく。
「修那羅遊歩道」を選ぶと、早くから石仏像群と対面もできる。
                                         

その駐車場は丁度ドウダンツツジが紅葉の盛りであった。
余談であるが、ドウダンツツジは、灯台ツツジとも呼ばれ、枝分かれしている様子が、昔夜間の明りに用いた灯台(結び灯台)の脚部と似通っており、その”トウダイ”から転じたものといわれる。
結び灯台とは、三本の棒を途中で結わえて開いたものの上に油盞(あぶらつき・油皿と同じ)を載せただけのもので、宮中行事で使用された。


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