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花と文化財の寺・塩船観音寺を参る

2013-05-17 12:45:11 | 東京散策
青梅にある真言宗醍醐寺を総本山とする別格本山のお寺、大悲山塩船観音寺は春ともなればつつじが咲きほころぶ花の寺としてテレビの番組でも取り上げられている。
今シーズンも、2度ほど観音寺の絶景のつつじをテレビで観て、その素晴らしさを感じ、『行かざるなるまい』と、車を駆って訪れた。
時は、「つつじまつり」が終わった翌日のことだった。
つつじの絶景とは別に、このお寺は、東京では唯一ここでしか観ることが出来ない貴重な仏像が安置されていることでも有名のようだ。


大悲山塩船観音寺
寺の縁起によると、奈良時代、大化年間(645~650)に若狭の国の八百比丘尼(やおびくに)が紫金の千手観音像を安置したことに始まり、周囲の地形が小丘に囲まれ、あたかも小船のような形状であることから、仏が衆生を救おうと願う『弘誓(ぐぜい)の舟』になぞらえて、天平年間に僧、行基が『塩船』と名づけたと伝えられているとのこと。
八百比丘尼とは800歳まで生きたという伝説の女性で、若狭国(福井)に暮らしていた漁師の娘が、不老不死になれるという人魚の肉を食した故に、年をとらないわが身をはかなんで出家し、八百比丘尼と呼ばれる僧侶となり、諸国を行脚したといわれており、日本各地にそれにまつわる伝説が残されている。
   
当寺は、6,000坪の境内に、室町時代後期に建てられ国宝となった仁王門を潜ると、阿弥陀堂通って石段を上がると本堂となる。石段を上がらずに左手に行くと薬師堂がある。

仁王門(国宝)
仁王門は、茅葺の切妻造で、門柱以外に支柱が8本ある八脚門。
  
中に安置されている一対の仁王像は、室町時代に青梅にも勢力があり源氏に仕えた、武蔵国入間郡の武将金子家忠が平氏との壇ノ浦の合戦での戦勝祈願で造立した。
 

阿弥陀堂(国宝)
寄棟造妻入、茅葺形銅板葺。桁行2間、梁行1間の身舎(もや・家屋の主体をなす部分)の周囲に庇(ひさし)をめぐらした形式。
 
           
       
夫婦大杉
本堂に続く参道の両脇に、一際高くそびえる樹齢900年の夫婦杉がある。
鎮守の樹として永い間人々の手によって護られた大杉である。
                   
         
薬師堂(国宝)
 

    
本堂
茅葺寄棟造。
  
堂内には、本尊・十一面千手千眼観世音菩薩(千手観音)像、二十八部衆像が安置されている。
二十八部衆とは、千手観音に従う護り神(眷属・けんぞく)で、東西南北と上下に各四神、北東・東南・北西・西南に各一神ずつが配置され、合計で二十八部衆となる。
二十八部衆全て揃った寺は全国でわずか6カ所だけで、現存する中では、三十三軒堂に次いで古く700年前の鎌倉時代に造られた。そして東京ではここでしか見られない仏像である。
それらの中には、阿修羅、毘沙門天(びしゃもんてん)、梵天(ぼんてん)、帝釈天(たいしゃくてん)など知られる神もある。二十八部衆は、神将あり、金剛力士あり、俗体あり、迦楼羅王の様な異形もあって、変化と人間味に富んでおり、鎌倉時代の仏師にとっては、この上ないテーマであったと思われる。
それというのも、鎌倉時代の仏像の特徴は、それまでの柔和な表現とは異なり、武士の台頭によって、武家の気風があらわれた質実剛健な力強い作風が要求され、変わっていったからである。
その中でも、鬼子母神の子(夫とも)で、吉祥天の兄である散脂大将(さんしたいしょう、散脂夜叉)は、顔面が裂け、中から別の顔が現れる異相の様や、反対に老人の姿が表わされた婆薮仙人(ばすせんにん、聖仙ヴァシシュタ)のリアルな表現などを見ると、この変革期にあたって、宗教芸術の枠から離れ、人間性をひたすら追求する事が出来た仏師たちの、活気溢れた芸術活動が想像されると書かれた文章を読む。
仏師たちの、活気溢れた芸術活動が可能となったことには裏がある。
1181(治承4)年、平清盛の命を受けた平氏軍が、反抗的な態度を取り続ける寺社勢力に属する大衆(だいしゅ)の討伐を目的とした東大寺・興福寺など奈良南都の仏教寺院を焼討ちにした南都焼討(なんとやきうち)事件が発生した。
興福寺や東大寺などがほとんど焼けつくされ、復興を余儀なくされ、仏師たちの新鎌倉時代を生み出すきっかけとなったのである。
当寺の作品はこの時代とされる。
本堂には、これらの仏像に混じってこの寺ならではの仏像が安置されている。
戦国時代、この地は小田原北条氏の領地であっては、僧侶も武装し、豊臣・徳川軍と戦った。それが徳川の時代となり、武装した僧侶は追放となった。そのため寺院は僧侶のいない無住となったのである。そのため信仰の厚い住民たちは、大正時代まで仏像を各家々へ持ち回りをして拝んだという。その仏像は本殿内向かって左翼前部に置かれている。
本堂内は撮影が禁止されているので、その画像はない。

平和観音立像
ひときわ高くなった小丘に、開山1350年を記念して3年前に建立された観音様。
『右手は胸の前に上げて、人々に手のひらを向けている。これは、施無畏印(せむいいん)といい、人々の恐れを取り除き、安心を与える身振りである。
左手は与願印(よがんいん)といい、手のひらを正面に向けるのは人々の願いを聞き入れ、望むものを与えようとする身振り。さらに、手を下げているのは深い慈悲を表している。
また、持物として、水瓶(すいびょう)を持っていて、いくら使ってもなくならない大慈大悲の功徳の水が入っており、人々に無限に与えているといわれている。』と解説板がたっている。
この上からは天気が良ければ富士山が眺められるという。
       

小丘のつつじ
花の寺の異名をとるつつじは、およそ15種1万7千株あり、早咲き、中咲き、遅咲きと次々に咲いてゆく。
これほど見事なつつじの小丘になったのには、物語があった。
第二次世界大戦末期、地元の和菓子屋の主人が戦地で、夢枕に観音様が現れた。主人は観音様の一条の光の導きによって無事に帰国した。そのお礼として、私財を投じ、1966(昭和41)年より3年の歳月をかけ花の寺と呼ばれるようにした。
毎年5月のつつじまつりには、3万人以上の参拝客が訪れるという。
花の寺はつつじ以外にも、アジサイや夏の山百合、秋の萩と季節の色を添え、参詣の人々を楽しませてくれる。
 

  

 

 

 
訪れた人を魅了し、あでやかなグラデーションを描き、心をいやす花の寺
  
花の盛りの頃


わが家から車で50数キロ、途中八王子を通って行く。
八王子といえば数日前「絹の道散策」で歩いたばかりである。
往きは八王子バイパスを通り、道了尊跡がある史跡「絹の道」の下を通り、帰りは市内を走ったので、それこそ起点の八日市交差点を通り、八王子医療刑務所を脇をぬけ、ウソのいた片倉城址公園・住吉神社を抜けた。
同乗した家人にその時のことを話しながら、過日汗をかいて歩いた道をあっとの間で過ぎて行くことに複雑な気持ちであった。



                    参考資料 : テレ朝 ワビサビナビ・TOKIO散歩
                    関連    : 絹の道・浜街道を歩く 第1日目


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