1566(永禄9)年に始まった「お馬流し」は今年で450回を迎えた。
横浜市史稿 神社・教会編(昭和7年発行)では、「お馬流し」を次のように紹介している。
『神社明細帳記載の由緒に永禄九年の六月十五日初めてお馬流の催事を行ひ(略)
大祭は、毎年舊暦(きゅうれき)六月十五日で、馬流しと稱する古式の神事が行はれる。舊記によれば、この神事は永禄九年に始まったとあり、明細帳には干潮に執行す。当日牛込・原・宮原の漁村より五隻(今は四隻)の祭船を出し、馬と証する稱する茅萱(ちがや)にて亀形を造りたるものに神饌(しんせん)を盛りて、これを遠く海上に流し、競漕(きょうそう)して歸る。古くは式後漁民に、麥飯(むぎめし)の中へ生葱を入れたる生味噌汁百人前、及び濁酒一樽を饗するの例ありしが、今は廢せり。云々。』
参考までに舊暦6月15日は新暦で今年は7月30日である。
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神事は朝8時より始まった
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「お馬流し」で一番重要な祭礼具は「お馬さま」と呼ばれ、茅を主たる材料として、頭から首が馬、体が亀という馬首亀体という形をしている。
手間暇かけて作った祭礼具は、神事の最後には炊き上げたり、川や海へ流してしまう。炊き上げることによって炎とともに天へ願いを届ける思いであったり、流すことによって厄災を遠くへ追いやるなど、理由は様々だが、祭礼具は、人々の祈りや願いを届けるための装置として、或いは厄災を託す身代わりとして、日本のみならず世界各国で使用されている。
「お馬さま」も古式に則り、氏子が一年かけて育てた茅を「やぶ」の屋号を持つ羽鳥家当主(世襲)の手によって一週間かけて奉製し、氏子が定められた所作を経て「お馬さま」に地域の厄災を託し、最後は海に流す。
一旦放流したお馬さまが陸地へ還着することを極度に恐れるため、潮の干満を重視する。このため祭日は舊暦6月15日大潮の日に決まっていたが、明治に太陽暦が採用されてからは8月第一か第二日曜日の何れかが充てられ、毎年一定していない。
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ひとつ目の「お馬さま」が社殿よりお出まし
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前日に氏子らの手によって社殿に安置された6体の「お馬さま」を「お馬送り式」を行い、頭上奉戴の所作で奉戴車上に安置する。「お馬さま」の列には飾り付けた各町会の車が続く。
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列は各町会を巡行する。
迎える町会ではそれぞれ神酒所をあつらえ、お馬さまの巡幸を待つ。列は各神酒所にさしかかると速度を落とし、待ち受けていた町内の氏子からは神輿奉輿や獅子舞・お囃子の歓迎を受ける。それとともにそれぞれの地域の災厄が「お馬さま」に乗り移る。その後「お馬さま」の列は、本牧埠頭先の本牧漁港へと進む。
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本牧漁港
本牧漁港では、奉戴車から降ろされたお馬さまは、神社境内と同じく頭上奉戴の所作で二隻の祭礼船へ向かう。
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船のしばらく手前に来ると、奉戴者は一旦全員が立止まり息を整え、のちにそれまでの緩歩から祭礼船めがけて駆け出し、祭りは一変して勇壮なものになる(この動作を「せめ」と称す)。
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各町内に割り当てられて5隻の遊覧船も後を追う。乗りたかったね。無料だって。
お馬さまは、旧本牧六ヶ村(間門、牛込、原、宮原、箕輪、台)に因み計六体が奉製さるが、何故馬なのか、はっきりしない。「本牧」の地名の由来が「むかし、本牧あたりが馬の放牧場であった」との説もあるが・・・。
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「お馬さま」を沖合で流し無事に戻ってくる
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では、1566(永禄9)年とはどんな時代だったか、歴史を紐解くと。
戦国の世で、武田信玄と上杉謙信が川中島で戦う(1553~64年までの5回)。織田信長が桶狭間で今川義元を破った(1560年)。豊臣秀吉(木下藤吉郎)は信長の美濃国の足掛かりとして、短期間で墨俣城を築城(1566年)。家康は松平から徳川を名乗る(1566年)などがあった。
神社のある本牧は小田原北條氏の玉縄城の支配にあったが、安房・里見氏の攻撃もあって苦しい生活であった。そのため苦しい生活から逃れたいという祈りから「お馬流し」は生まれたのかも知れぬ。
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1954(昭和29)年のお馬流し
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1930(昭和5)年のお馬流し
横浜市史稿 神社・教会編(昭和7年発行)では、「お馬流し」を次のように紹介している。
『神社明細帳記載の由緒に永禄九年の六月十五日初めてお馬流の催事を行ひ(略)
大祭は、毎年舊暦(きゅうれき)六月十五日で、馬流しと稱する古式の神事が行はれる。舊記によれば、この神事は永禄九年に始まったとあり、明細帳には干潮に執行す。当日牛込・原・宮原の漁村より五隻(今は四隻)の祭船を出し、馬と証する稱する茅萱(ちがや)にて亀形を造りたるものに神饌(しんせん)を盛りて、これを遠く海上に流し、競漕(きょうそう)して歸る。古くは式後漁民に、麥飯(むぎめし)の中へ生葱を入れたる生味噌汁百人前、及び濁酒一樽を饗するの例ありしが、今は廢せり。云々。』
参考までに舊暦6月15日は新暦で今年は7月30日である。
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神事は朝8時より始まった
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「お馬流し」で一番重要な祭礼具は「お馬さま」と呼ばれ、茅を主たる材料として、頭から首が馬、体が亀という馬首亀体という形をしている。
手間暇かけて作った祭礼具は、神事の最後には炊き上げたり、川や海へ流してしまう。炊き上げることによって炎とともに天へ願いを届ける思いであったり、流すことによって厄災を遠くへ追いやるなど、理由は様々だが、祭礼具は、人々の祈りや願いを届けるための装置として、或いは厄災を託す身代わりとして、日本のみならず世界各国で使用されている。
「お馬さま」も古式に則り、氏子が一年かけて育てた茅を「やぶ」の屋号を持つ羽鳥家当主(世襲)の手によって一週間かけて奉製し、氏子が定められた所作を経て「お馬さま」に地域の厄災を託し、最後は海に流す。
一旦放流したお馬さまが陸地へ還着することを極度に恐れるため、潮の干満を重視する。このため祭日は舊暦6月15日大潮の日に決まっていたが、明治に太陽暦が採用されてからは8月第一か第二日曜日の何れかが充てられ、毎年一定していない。
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ひとつ目の「お馬さま」が社殿よりお出まし
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前日に氏子らの手によって社殿に安置された6体の「お馬さま」を「お馬送り式」を行い、頭上奉戴の所作で奉戴車上に安置する。「お馬さま」の列には飾り付けた各町会の車が続く。
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列は各町会を巡行する。
迎える町会ではそれぞれ神酒所をあつらえ、お馬さまの巡幸を待つ。列は各神酒所にさしかかると速度を落とし、待ち受けていた町内の氏子からは神輿奉輿や獅子舞・お囃子の歓迎を受ける。それとともにそれぞれの地域の災厄が「お馬さま」に乗り移る。その後「お馬さま」の列は、本牧埠頭先の本牧漁港へと進む。
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本牧漁港
本牧漁港では、奉戴車から降ろされたお馬さまは、神社境内と同じく頭上奉戴の所作で二隻の祭礼船へ向かう。
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船のしばらく手前に来ると、奉戴者は一旦全員が立止まり息を整え、のちにそれまでの緩歩から祭礼船めがけて駆け出し、祭りは一変して勇壮なものになる(この動作を「せめ」と称す)。
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各町内に割り当てられて5隻の遊覧船も後を追う。乗りたかったね。無料だって。
お馬さまは、旧本牧六ヶ村(間門、牛込、原、宮原、箕輪、台)に因み計六体が奉製さるが、何故馬なのか、はっきりしない。「本牧」の地名の由来が「むかし、本牧あたりが馬の放牧場であった」との説もあるが・・・。
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「お馬さま」を沖合で流し無事に戻ってくる
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では、1566(永禄9)年とはどんな時代だったか、歴史を紐解くと。
戦国の世で、武田信玄と上杉謙信が川中島で戦う(1553~64年までの5回)。織田信長が桶狭間で今川義元を破った(1560年)。豊臣秀吉(木下藤吉郎)は信長の美濃国の足掛かりとして、短期間で墨俣城を築城(1566年)。家康は松平から徳川を名乗る(1566年)などがあった。
神社のある本牧は小田原北條氏の玉縄城の支配にあったが、安房・里見氏の攻撃もあって苦しい生活であった。そのため苦しい生活から逃れたいという祈りから「お馬流し」は生まれたのかも知れぬ。
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1954(昭和29)年のお馬流し
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1930(昭和5)年のお馬流し
参考資料:横浜市八聖殿郷土資料館歴史講座「祭から見る昭和30・40年代」
本牧神社「お馬流し」