彦四郎の中国生活

中国滞在記

パリ五輪日本代表:張本兄・妹、両親は中国の元プロ卓球選手➌—日本渡航、二人の子供の成長、国籍の課題

2024-03-08 16:37:31 | 滞在記

■上記写真左から2枚目は、1980年代後半には中国女子卓球界のエースだった「何智麗」。彼女は日本人と1989年に国際結婚し、1992年に日本国籍を取得、「小山ちれ」という名前となった。(写真3・4枚目) 1987年の世界卓球選手権のシングルス優勝。1994年のアジア卓球選手権広島大会には日の丸をつけて、シングルス決勝で中国のエース・鄧亜萍に激闘のすえ逆転で勝ち金メダルを獲得した。―祖国中国の宿敵になるなんてと、これは中国でも大きな反響を呼び「何智麗事件」と呼ばれた。日本の所属チームは大阪の「泉州池田銀行」。日本の国籍取得後、「全日本卓球選手権」では史上最多の8回の優勝を成し遂げている。

 この小山ちれさんの存在が、のちに、「怪童・怪物」とも呼ばれる張本智和や妹の美和の現在があることと関係があることはあまり知られていない。

 張本智和・美和の父である張宇(2014年に日本国籍取得後は張本宇)さんと張凌さん(現在52歳と51歳)。そもそも、「この二人が、なぜ日本に渡航し、日本で結婚生活を送るようになったのか?」ということなのだが‥。(※中国は夫婦別姓制度。生まれた子供は父親の姓を名乗る。中国では「陳」や「王」など、主に20余りの「姓」がとても多い。その中の一つに「張」がある。宇さんも凌さんも、たまたま「張」という同じ姓だったのかと思われる。)

 張宇さんも、張凌さんも、中国四川省の元プロ卓球選手だった。特に凌さん(1973年生まれ)は1995年の世界卓球選手権大会には中国女子代表選手となったほどの選手だった。(翌年の1996年に現役引退) 凌さんは現役引退後の96年からは、マレーシア女子卓球代表チームのコーチ兼監督を務めることとなった。一方の宇さんは、凌さんと四川省チームではチームメート。中国代表になることはなかったが、プロ卓球選手として活躍した。彼はその後、上記の小山ちれさんに練習パートナーとして誘われて日本に1993年に初来日することとなった。そして、1994年のアジア大会では日本代表チームのコーチの一員として参加している。その後、中国に戻ることとなった。(この大会での「何智麗」事件と呼ばれる状況を目(ま)の当たりにした張宇さんは、国籍問題の絡む国と国の難しさを実感したという。)

■『Sporta  Glaphic Number』(通称:スポーツ雑誌『Number』)の932号[2017年7月発売]では、「天才中学生の真実 張本智和はいかにして生まれたか」という題名の特集が掲載、その中で張本宇さんは次のようにも語っている。(書かれている)「中国の卓球界は、国家的な教化プロジェクトで選手を育成してきた。地方の"業余体育学校"と言われるスポーツ専門学校に集められたエリート候補たちがふるいにかけられ、一部の優秀な選手は学校を離れて地元の省の代表選手になるための指導・訓練を受ける。8歳で本格的に卓球を始めた宇は、13歳の時に四川省の代表チームの一員になった。」「省ごとの代表チームに入ってプロになれるのは、ほんの数人だけです。同世代のライバルとの競争はめちゃくちゃ厳しかったのです」と語る。

同じ四川省出身の張凌さんは、さらに過酷な選考を勝ち抜き、北京に召集されて中国代表の座にまでのぼりつめた。想像を絶するほど厳しい環境に身を置いた2人が、まったく違う環境で世界のトップレベルに達する息子の智和と娘の美和の土台(※張本家の教育方針としては、1に健康、2に勉強、3に卓球を掲げており、卓球選手生命を絶たれたとしても生活していけるように勉強することな重点を置いていた。)を築いてきたということは特筆すべきことかもしれない。中国の卓球関係者やメディアが日本の卓球界に心の底から脅威を感じるのは、中国の教化システムとはまったく違ったこの張本兄・妹のような選手の出現なのかもしれない。

(※この2月に行われた「世界卓球」で、日本は決勝戦で中国に2:3で敗れた。中国メディアの「新浪体育」には、「優勝を逃してもなお晴れやか」とのタイトルで記事が掲載された。記事には、「勝負が決まった後、日本の選手たちには全て笑顔が見られた。それも無理に作ったものではない、青春の息吹きを感じさせる純粋なほほ笑みである。‥‥力を出し尽くしたうえで、おおらかに失敗に向き合うことができるその姿は、我々中国の選手たちには見られないものではないだろうか」と記し、「中国の選手たちがいかに大きな心理的プレッシャーにさらされていたか」を言外に表現する記事ともなっていた。)

 宇さんは同スポーツ雑誌のインタビューで、「私たちが育った(卓球)環境では、子どもでも悔しさを露わにすることはできませんでした。感情をぐっと抑えながら、ラケットを振っていました。智和はまったく違います。試合に負けたとき、人目もはばからずに号泣するので、なだめるのが大変でした。それが良いか悪いかではなく、私たちはただ、智和が日本の環境に適応できるように育ててきただけなんです」とも語る。

 張宇さんは、日本で築いた人脈を通じて日本の仙台ジュニアクラブの指導者として1998年に、再来日すると、運命の歯車はさらに大きく動き始める。仙台の地を生活の拠点とした半年後、宇さんは交際していた(遠距離恋愛)張凌さんと籍を入れ(結婚)、仙台で凌さんと一緒に暮らすようになった。卓球界で名を知られた新婚夫婦には、母国からのオファーも届いた。日本語がまたまだ、あまり話せなかった2人は、日常生活にも苦労が絶えなかったが、中国には帰らず日本での生活を選択する。「日本の子供たちに卓球を教えるのが楽しかったのと、2003年に長男の智和が生まれたから」だ、と。

■同スポーツ雑誌『Number』932号で、張本宇さんは、「海外でいろんな経験を積んだあと、中国へ帰ってプロチームの指導者になることが、当時の中国選手たちの多くが目指し、歩む道でした。小山さんに招かれて日本に初来日した私も、将来はそうした道へ進もうと考えていました」と語っていた。その後、カタールやイタリアでプレーもしていた宇さんは、なぜ1998年に再び日本に来日したのか‥。それには次のような当時の状況もあったのかと推測される。

■当時、中国のスポーツ選手にとって日本は天国だった。日本の実業団に所属すれば、練習時間、練習場所、報酬、将来の保証とアスリートファーストで整えられ、競技に集中できる。張本智和の父・宇さんを含め中国の卓球OBたちが日本で指導にあたるのは、この環境に引き寄せられてのこととも言われている。宮城県の卓球関係者はこう語る。「当時、日本の給料がよかったからね。ここで生活して、祖国の実家に仕送りができた。やがて、宇さんのように帰化して、卓球場を開設した中国人は、いまでは愛知、大阪、全国の6、7カ所いる。その子どもたちが力をつけて大会の上位にいますよ。張本君だけじゃなくね」と。

 卓球は一通りの技術を習得するのに、2万1000時間かかると言われている。1日6時間の練習を1年間に350日やれば、10年で到達できる数字である。しかし、張本智和は、小学校を卒業するまで1日2時間以上の練習をすることを両親は許さなかった。(仙台ジュニアクラブでの智和の練習時間は午後9時まで)   張本家の教育方針は、健康第一、二に勉強、そして三が卓球だからである。

 『Number』誌で、父親の宇さんは「卓球は感覚のスポーツですから、小さいころから練習すればするほど、その感覚が早く身に着くのは間違いありません。智和がいろんな大会で優勝するようになると、私はもっと練習に時間をさくべきではないかと思うこともありました。でも、妻はなにより、智和の体のこと、そして将来のことを考えていました。しっかりと勉強して、地元の東北大学へ進んでほしかったんでしょう。魯迅(ルーシュン)先生が留学生として学んだ大学は、私たちにとって東京大学より憧れの学び舎ですから」と、苦笑しながら振り返り語る。

 智和も向学心が強く、小学校にあがる時、自らが希望して近所の学習塾に通い始めた。朝起きると、30分かけて塾の宿題プリントを仕上げてから登校する。小学校の授業を終えて家に帰ってきても、まず学校の宿題を終わらせてから、仙台ジュニアクラブの練習場に向かった。(※クラブには60人余りのクラブ生徒がいて、父の宇さんはその60人に均等に指導にあたるため、智和を特別に指導するということはなかったようだ。)

写真左より、➀宮城県仙台市立東宮城野小学校、②東京都北区立稲付中学校、③中学卒業証書授与、④日本大学高校、⑤高校入学の日、⑥早稲田大学大隈像前


■張本智和は教育産業の「学研」のイメージキャラクターとなった。かって将棋界名人の羽生善治さんがイメージキャラクターになったように。その後、妹の美和とともにイメージキャラクターとなっている。張本智和は、学研が主催する全国共通学力模擬テストにおいて、国語と数学で何度か全国1位となっている。また、妹の美和も全国1位(5500人中)になったこともあった。また、卒業した仙台市の東宮城野小学校の校長によれば、張本智和の成績は常にトップクラスを維持し、読書の習慣も身についていて、図書室から本を借りる数も全校で1、2位だったという。

■張本智和・美和の両親(宇と凌)は、中国四川省の家や仙台市の家を売り払って資金を調達し、2016年8月、仙台に「張本卓球場」をオープンさせた。

■2014年に張本智和・美和は父の宇さんとともに、日本国籍を取得している。日本は二重国籍を原則認めていない国なので、実質、まだ21歳以下なので二重国籍を黙認されていた智和・美和、そして中国国籍だった父の3人は、中国国籍ではなくなったことになる。

宇さんは「智和が日本国籍を取りたいと希望したため」と話していることから、もし、智和が言い出していなかったら、宇さんは日本国籍を取って日本に帰化していなかったのではないかとも思われる。子供が日本国籍を取るには、親のどちらかが日本人である必要がある。このため、父の宇さんの方がまず日本国籍を取ったのだろう。日本に骨を埋める覚悟で渡ってきたとしても、日本国籍を持っていた方が暮らしやすいと分かっていても、祖国の国籍をなくす、というのはなかなか決断できることではない。宇さんは、「帰化した直後は複雑な感情がありましたが、今は、日本人として、日本代表になった息子や娘をサポートすることにまったく迷いはありません」とも語る。

 母の凌さんは、今のところ日本国籍を取得したとの情報は、私が知る限りではない。もし、日本国籍を取得せず、中国国籍のままとしても、その気持ちはよく分かる。祖国とは、それほど愛しいものだからだ。そして十数年後、再び故郷(古里)四川省で暮らしたいと思っているのかもしれない。