彦四郎の中国生活

中国滞在記

中国の「元宵節(げんしょうせつ)―小正月」を見る―連続爆撃のような爆竹のすざましさを体験する―

2016-03-07 17:28:50 | 滞在記

 2月22日の夜、この日は今年の「元宵節(げんしょうせつ)」という日だった。22日午後の「土堡」の見学を終えて、林さんの家に戻り軽い夕食を食べさせてもらった後、「近くの町の元宵節を見に行きます。」と告げられた。少し小雨がぱらついていた。林さんの家にも、「元宵節」の日のロウソクが灯されて、果物などが添えられていた。
 「土堡」に一緒に行った4人で、その町に向かった。「どこに行くのだろう?」と多少の不安ももちながら、川沿いの道を車はひた走った。多くの車がその町を目指しているようだった。20分ほどして、一つの町に着いた。楽隊が音楽を「弾きならしている」。ここかなと思ったが、さらに20分ほど車は、走った。町に着いたが、ものすごくたくさんの車が駐車されていた。

 大きな花火が何か所かから打ち上げられていた。爆竹の激しい音が方々から聞こえてくる。赤い提灯もたくさん見える。「ああ、これが元宵節の雰囲気なのか。」と感じながら、多くの人が集まる場所に向かう。

  ―「元宵節」とは―
 春節(旧正月)開始の日から15日目の満月となるの夜の行事を「元宵節」という。2月の満月の日は、年によって異なるので、それにともなって春節の日も毎年変わってくる。今年は、2月22日が満月になる日だったので、その日から15日前の2月8日が「春節」と決められた。ちなみに、私が中国に2013年9月に赴任して以降3年間の春節の日は、2014年は1月下旬、2015年は2月中旬、そして今年は2月上旬だった。
 この「元宵節」は「小正月」とも呼ばれる。日本では1月15日。中国人は、新年最初の満月の夜の「元宵節」が終わると、新年が来たという実感が湧いてくるという。この日、人々は新しい春の到来を祝って、提灯に火を灯し、ランタンを空に揚げたりする。そして、饅頭を食べながら一家団欒で満月を眺めるという行事だ。省や地方によって、「元宵節」の形態はさまざまあるようだ。
 元宵節は灯節とも呼ばれ、三国志の時代が終わった後の漢の時代から始まっている。「提灯」「ランタン」「灯籠(とうろう)」などが飾られる。封建的な時代には、若い女性は夜は自由に外出できなかったが、この日の夜は「花提灯を鑑賞しに行ってくるよ。」という口実で遊びに出かけることができる夜だったので、素敵な男を探すこともできる日だったようだ。中国の若い男女にとって元宵節は、恋人に出会うための「恋人節」だったという。
 中国の小学校・中学校・高校は、この「元宵節」の日で冬休みが終わり、翌日から2学期(※中国は2学期制)が始まるところが多い。大学の2学期(後期)開始は、2〜3日後から始まる。このため、3千万人ちかくの大学生が 故郷の省や町から 一斉に 大学のある街へと移動していく。

 町のマンションの窓にも赤い提灯が見える。戦争時の連続爆撃を想像される すざましい爆竹の連続音と硝煙や花火の音。爆竹の硝煙はビルの5階あたりまで登っている。とにかくすざましいの一言に尽きる。耳がおかしくなりそうだ。道路は爆竹の後の赤っぽい紙片で覆われる。
 龍の頭を先頭にした長いものが道を行く。龍の長い胴体は、明かりが灯る灯籠が連なっている。地元の小中学生が一つ一つを持ち練り歩いている。

 灯籠の龍のしっぽの後方を見ると、発動機を大人が曳きながら発電をしていた。

 このような「龍の灯籠」は、狭い町全体で10基以上(各町内の龍灯籠)が 一斉に練り歩いていた。それぞれの龍灯籠には、大量の爆竹が投げかけられるので、方々で すざましい爆竹が 爆発させられている。練り歩く小学生・中学生も大変な経験をしていることになる。けっこう怖いのだ。この日の夜の中国全土の空気は、かなり汚染されるだろうとも思った。

 車を駐車した場所の近くに、運転をしてきてくれた鄭さんの友人の事務所に寄りお茶をいただいた。その後、40分ほどかけて夜10時頃に林さんの家に戻った。しばらくして鄭さんの奥さんが来た。52度の白酒(バイチュウ)や地元の紅酒、ビールなどを飲みながら、深夜まで春節時期最後の夜をすごした。鄭さんは、林さんの父と小学校時代からの親友で、義兄弟の間柄のようだ。
 日本語がまったくわからない中国人たちと、少ししか中国語を聞き取れない日本人(私)との不思議な時間の経過が流れていった。時々、必要に応じて筆談もしていた。酔いつぶれてきたが、かろうじて部屋のベットに戻れた。一瞬で眠りについたようだ。

















村人総出の防御の小さな城―福建省の「土堡(どほ)」に行ってきた―

2016-03-06 17:21:38 | 滞在記

 2月21日(日)の夕方、関西空港から中国福州に戻った。24日(水)から後期の授業が始まるが、私の担当授業は月・火・金なので、26日(金)から始まる。4日間をその準備にあてようと思っていた。福州の気候は、最低気温が3度前後、最高気温も10度くらいと、まだ寒い日々が続いていた。
 
 21日の夜、日本に留学中の林さんから、日本より連絡があった。「明日の22日・月曜日は、中国の春節期間の最後をしめくくる『元宵節』(小正月)なので、父がぜひ元宵節(げんしょうせつ)の様子や城を見せたいと言っています。車で迎えに行くと言っています。」との連絡が入った。どうしょうかと思ったが、「一泊して火曜日に帰ってくれば、授業準備も大丈夫かな。」と思い、結局行くことにした。
 午後に林さんの父と彼の友人(鄭さん)とが車で迎えに来る予定だったので、少しでも授業準備をしておこうと思ったが、朝の10時に私の宿舎に着いてしまった。現地でも仕事ができるように、パソコンや資料持参で車に乗り込んだ。福州市内を抜けて高速道路と一般道を利用して、2時間半ほどで 福建省三明市尤渓県に到着した。
 家に着き少し休憩して、「これから城に行きます。」というので、林さんの父と母、林さんの父の親友(兄弟と呼び合っている)と私の四人で車に乗ってでかけた。親友の鄭(てい)さんの車で、彼が運転をする。「いったいどこに行くのだろう?」「どんな城なのか?」「どの場所にあるのか?」「どのくらい時間がかかるのか?」と不安もかかえながら、乗車していた。車は山間地域にどんどん入って行った。高山茶の山も見えて来た。渓流の谷川沿いの道を上がっていくと、突然に棚田と集落が見えてきた。特徴的な伝統建築物が見えている。車で登って行くと、初めて見る建築様式の建物に近づいた。「この建築様式は、いったい何なんだ、見たこともない。」
 これが、「城」だった。「土堡(どほ)」<中国語でトゥバオと発音>という建物(小さな城)だった。狭間(はざま)―敵に向けて矢や鉄砲を撃つ穴―もある。

 土堡の一か所だけある門から内部に入ると、中央の中心建築が見えた。横側の建築群に入ると、上方に連なっている長い渡り廊下のような建築部分。いくつもの部屋もある。鶏がいて、大根の葉が干されていた。

 外に出て、土堡の周りを見て見ると、いつくもの狭間がある。「これは城郭的な建築物だな」と感心した。「こんな城郭もあるんだ--。」と興味深い。
 この地区のもう一つの「土堡」に行くことになった。かなり規模の大きな「土堡」だ。

 この「土堡」の周りも、狭間をもつ高い塀(壁)に囲まれていた。門は鉄の扉で作られている。内部に入り狭間から外を見る。高所からは、全景が見える。門の上に小さな穴があった。聞いてみると、「ここから敵に向かって熱湯や熱油をかける。もし門が燃やされ始めたら水を入れて消火する。」とのことだった。

 この「土堡」は、同じく福建省西北部に点在する「土楼」(どろう)[世界遺産]と同じように、村人が匪賊(ひぞく)の襲撃に備える目的を持っている。しかし、「土楼」のように日常的に村人・一族が定住しているのではなく、非常時(敵の襲来)に村人が立てこもり戦い、撃退するための「村人の城」であった。この「土堡」には、50あまりの部屋があった。武装集団に襲われた時に、村人がこぞって逃げ込み、戦う城であった。この村には2つの「土堡」があり、村人全員が立てこもったのだろう。
 福建省三明市には、大小異なる何百という「土堡」があるようだ。これらが作られたのは、明の時代からだが、特に清朝時代の末期(1800年代)には、多く作られた。福建省内の都市は、城郭に守られた都市が多かったが、都市から離れた農山村地域は、「村人自らが団結して小城を作り、生き延びることを助け合った」のだろうと思った。このような城は、日本にはないのではないだろうか。改めて中国の歴史の一端を覗き見た思いがする。

 翌日(23日)の午後、別の地域にある「土堡」を案内してもらった。山間地ではなく、かなり広い盆地にある場所だった。地域の子供たちが遊びにきていた。カメラを向けると、みんな隠れ逃げる遊びのようになったが、だんだん慣れてきた、カメラをもつ私に近づき笑顔をふりまいてきた。





 

日本滞在➂④―故郷・福井、留学生の大学院試験結果、娘の結婚問題、文集作成など―

2016-03-05 06:38:12 | 滞在記

 2月8日から10日にかけて、福井県の故郷の家に帰った。一人暮らしの母は元気にしていた。南越前町糠漁港は、小さな漁村の一つだが、寒冷なシベリアからの北風に、少し海が荒れていた。冬季は海が荒れるので、定置網などの漁業網やブイ(網を浮かせる)は港に揚げられている。3月末より漁業が再開される。となり町の越前町の大型港では、冬季は「越前ガニ」の漁業が盛んだ。

 2月9日の朝、「寺坂家之墓」に行く。小さな墓から、わずかに海が見える。夕方、武生の街に行き、友人たちと久しぶりに会い、酒を飲みながら深夜までいろいろ話し、歌い 過ごした。
 10日の昼過ぎに京都に戻った。東京に住む中国人留学生の申さんが、「立命館大学大学院」の入学試験を受けるために京都に来た。夕方、すでに昨年の9月から立命館大学大学院に通学している林さんとともに三人で、市内で夕食をとった。翌日11日に試験がある。申さんの宿泊は林さんのアパート。

 1月17日に日本に帰国し、2月21日に中国に戻るまでの期間、「文集」を作成することが一つの目的だった。約3週間を要したが、文集が60部完成したので、2月19日に国際郵便で中国に発送した。福建師範大学外国語学部日本語学科3回生の「日本語作文」の授業で書かせた作文を掲載している。54ページ。以前に勤めていた学校で、料金を払い印刷製本させてもらった。文集作文の内容は、①写真②「私の故郷」※全員の作文➂「中国人と公共マナー」、「恥ずかしかったこと・くやしかったこと」、「自己紹介」の3つの作文から、学生が1つ選んだ作文を掲載している。中国人が書く日本語作文は、表現が率直で かなり面白い。

 中国も徐々にサッカー熱が国民的に高まってきていると思う。中国のプロサッカーリーグは今年度、世界で最も巨額の500億円近くのお金をかけて「世界の有名選手」を招致している。福建師範大学の運動場でも、一般市民のチームが何チームも練習やゲームをしている光景が増えてきた。
 ブラジルオリンピックのアジア枠出場権を男子チームが優勝し勝ち取った。何試合か このチームの試合を見たが、なにか強さを感じた。チームの一体感と言うか---。先制点をとられても、最終的に勝利するような予感を感じさせるチームだった。手倉森監督というのが 面白い人だ。何か親近感を感じる。かっては「鹿島アントラーズ」の一選手だったが、世界的選手のジーコが加入し、監督となるころはパッとせず、パチンコや競馬の賭け事にあけくれていたらしい。監督のジーコがパチンコ店まで探しに来たときには、隠れたりもしたようだ。サッカー人生に完全に行詰まっていた時期、貯金総額の2000万円を競馬に賭けて パーになったこともあるという。
 女子サッカーが、昨日 中国に2対1で完敗した。オリンピックへの出場は もうかなわないだろう。これまでのオーストラリア戦・韓国戦もみたが、佐々木監督の選手起用判断も冴えがなく、精神的にも完全に行詰まったチーム状況を感じた。FWの横山選手の活躍だけは、注目出来た。監督の進退も含めて新たなチーム作りが必要な時期なのかと思った。
 1990年代に数回、恐竜発掘調査のためにアメリカに行った時、芝生の広場などで「わぁ!女性がサッカーをしている!!」と驚いたものだが、それから20年を経て、世界的にも女子サッカーが盛んになってきた。

 アメリカでの「大統領選挙」に向けた「共和党」「民主党」の候補者選びの行方が、世界の政治状況に今後の大きな影響を与えるだろう。共和党の「トランプ現象」は、今のアメリカの国民感情をかなり露呈しているものかと思う。「世界のリーダー・アメリカはもうやめよう。他国の世界的な利益をも考えるリーダーシップ・アメリカはもうしない。アメリカ国民だけが豊かになればいいのだ。」というトランプの極端な主張。もし、トランプ氏が大統領になったら、この東アジア(中国・日本・韓国・北朝鮮・ロシア・台湾・ベトナム・フィリピンなど)の政治状況は、混沌とし混乱したものになり、緊張が高まり 危機が訪れることはまちがいないだろう。日本や中国の国民の暮らしにも直結する。
 それにしてもアメリカという国の、「民主主義」や「報道の自由」さには、改めて日本の国の現状を考えさせられる。奈良県選出の高市早苗総務大臣の「テレビ界」への恫喝的な発言(高市氏の安倍首相への「へびこつらい」に感じるが。)に対して、反論しないテレビ界の人間もかなり情けない状況かと思う。NHkをはじめとして、各テレビ局の「もの言う」報道番組司会者の左遷が ここ1年あまり目立ってきた。『時が滲む朝』(※楊逸 芥川賞受賞作)を立命館大学の図書館から借りて読んだ。なかなかすばらしい作品だった。作者の体験をもとに、身をけずりながら書いた作品だと思った。中国を知るためには、必読の一冊だ。

 昨年の7月から日本に来日し、東京に住み 日本の大学院進学を目指して苦労していた閩江大学時代の三人の学生たち。日本に帰国する一週間前あたりから、中国に戻った2月21日以降、各人の入学試験の結果が最終的に連絡されてきた。申さんは、「立命館大学大学院・立教大学大学院・明治大学大学院」に合格し、「明治大学」に入学する予定となった。黄さんは、「北海道大学大学院・東京外国語大学大学院」に合格し、「東京外国語大学」に入学する予定となった。もう一人は、受験した二つの大学院合格に至らなかった。中国の両親を説得し、さらに半年から一年間 苦しいだろうが日本に留まり、大学院進学を目指してがんばることとなった。

 ―娘の結婚―

 日本に帰国した1月17日の5日後に、娘が付き合っている男性と初めて会ったのだか---。急転直下、私の日本滞在中に結婚が決まってしまった。父親として、気持ちの切り替えが 急激な展開のために なかなか難しいのだが---。急きょ、中国に戻る1日前に 男性の両親たちや本人たち、私の妻がそろって、「京都がんこ寿司二条苑」で会うことになった。そして、結婚式の日取りも決まっていった。4月9日(土)、京都嵐山の結婚式場で挙式予定となった。この日は娘の28歳の誕生日となる。2013年9月の中国赴任以来、日本の桜を見ることができなかったが、3年ぶりに日本の桜を見る事ができる。別れと出会いや独立の季節だなあ---。桜が慰めてくれるだろう--。

 2月21日(日)、中国に戻る。後期は、一回生の「文法・会話」と二回生の「日本概況」の授業を担当し始めた。新しい学生たちとの出会いが始まった。

 







日本滞在②―大和郡山城、信州松本城―

2016-03-03 06:17:37 | 滞在記

 一月上旬、京都の自宅の玄関先に藪椿と白梅を生けてみた。赤と白の色彩、梅のほのかな香りが匂っている。
 二月上旬、京都府八幡市の「松花堂」で、中野芳春さんの「能面展」が開催されていたので行ってみた。中野さんは、中国・西安やスペインの大学で「能面」の講義をしたこともあり、国際的に活躍しているプロフィールをもつ。自宅も同じ町内の人だが、今回が初対面。いろいろ話をうかがった。一緒に酒を飲んだら楽しいだろうなと感じさせる 気さくで庶民的な人だった。

 
 日本の城❸ 大和郡山城
 大和三城とは、「高取城」・「宇陀松山城」・「大和郡山城」。どの城も見応えがある。特に高い山城である「高取城」はすばらしい。奈良県には300あまりの城跡がある。そのうち、今までに30あまりの城跡に行っただろうか。(※日本の3万あまりの城のほとんどは石垣がない。城とは土で成ると書くが、石垣が使用され始めるのは1570年代以降に作られた近世城郭であり、中世城郭には石垣はほとんど使用されていない。だから、山城の城跡を探しに、道なき道を登山しても、城址と判定するには少し専門的な知識や経験が必要となる。)
 2月11日(建国記念日)、妻と「大和郡山城」に行った。盆梅展が開催されているからだ。この城は丘陵地に築かれた平城(ひらじろ)で、大和の国の中心的な近世城郭だ。豊臣秀吉の弟である秀長が築いた城である。

 大和郡山城の大手門の建物内で盆梅展が開催されてきた。城内には梅の木も多い。なかなか見事な盆梅展だった。後一週間後だったら、もっと梅の開花がすすみ、更に見事だろうと思った。

 大和郡山城から車で10分ほど北に行くと、「薬師寺」「唐招提寺」がある。「薬師寺」に初めて行ってみた。中国からの留学生団体が来ていた。聞いてみると、日本の高校に留学中の中国人の団体だった。日本各地の高校に留学している高校生が集まって、今回は関西を研修旅行をしているのだという。(※中国の春節のこの時期、中国に帰国したいができない高校留学生のための企画のようだ。帰国できない仲間たちとの研修旅行。少しは寂しさが薄らぐかな。)


 日本の城❹信州松本城
 2月12日から一泊で長野県に行った。友に会い、松本城と雪の北アルプスの山々を見るためだ。京都駅から新幹線と特急を乗り継いで3時間あまりで松本市に着く。さっそく松本城に行った。いつ来ても見事な城だと思う。北アルプスの山々が神々しい。
 ここにも、中国人観光客が来ていた。話してみると、松本の町と城、そしてなによりも雪が見たいのだと言う。翌日は大町や白馬の方に行って、たくさんの雪世界を初めて見る予定だと言う。浙江省や福建省や広東省・江西省などの中国中・南部の人は雪を見たことがない人がほとんどだ。北海道への中国人観光は人気だが、信州もこれから中国人観光客が多くなっていくだろうと思った。(※中国の北部・中部、西部でも冬は雪が降るし、気温もマイナス10度〜マイナス20度以下のところも多いが、日本のように積雪は多くない。日本海のような海が近くにないからだ。時々、中国のテレビで雪の北海道が放映紹介されることがある。) 翌日、JRのローカル路線で大町まで行き深い積雪を見て、夜に京都に戻った。

 春節時期の京都駅のバス停。中国からの観光客が列をなしている。京阪電車「祇園四条」駅近くの南座前の「宝売り場」で、中国人観光客が宝くじを買っていた。記念にするのだろうか。中国人は「宝くじ」を日常的にやっている人が多い、その数は推定3億人。中国「五大娯楽」の一つである。中国で販売されている小さな革製バックを背負っている中国女性。このバックはチャーミングな女性の顔があり、なつかしい。(※このバックを愛用している中国の大学の日本人女性教員がいる。なかなかいいバックだ。)
 日本滞在中に見た好きな日本のCMポスターが何枚かある。ジョージアのCMはテレビでも見たことがある。自動販売機に貼られていた。そして、福井県のJR武生駅で見かけたJRポスター。


 









 

日本滞在②―京都・京北町、周山城―

2016-03-02 12:18:16 | 滞在記

 2月2日、妻の実家のある京都市右京区京北町に行った。京都市内から1時間ほどの丹波山地にある京北町は、雪がぱらついていた。実家(高室家)には、妻の母が健在だ。妻の兄は、明治維新期の歴史研究家(特に、山国隊)でもある。郷土史に関する話をしながら飲む酒はうまい。一泊した翌朝、窓から薄化粧の積雪が見えた。

 2月3日の朝、京北町の「常照皇寺」に久しぶりに行った。この寺は、皇室ゆかりの寺だ。開祖は光厳上皇(※南北朝時代の北朝初代天皇)。彼が僧となってからの1362年に造営されている。(※現在は、臨済宗天龍寺派) 秋は紅葉が美しく、春には桜がきれいた゜。(桜は、上皇手植えの「九重桜」や「左近の桜」「御車返しの桜」などがある。) この寺は、とても静かで、皇室ゆかりの寺の風情を感じる。皇室の御料地だった京北町は、この寺の存在もあいまって、尊王の気風の残る地でもある。そして、明治維新期に山国隊が誕生した。(※時代祭の先頭を笛を吹きながら行進する一隊は、山国隊の模倣である。伝統を受け継いだ本物の山国隊は、10月10日頃に この京北町の祭の際に行進する。)

 3日の午後、京北町からの帰り道、立命館大学に行った。自分の「研修員手続き書類」や今年秋入学の「大学院入学試験の要項」をもらったりした。立命館大学大学院の受験を希望している優秀な中国人学生がいるからだ。図書館に行って数冊の本を借りた。

 
 日本の城❷
 中国に戻る5日ほど前の2月16日、再び京北町に行った。今回は妻の姉の家(今泉家―妻の実家から車で10分ほど)に行き宿泊する。久しぶりに夫ともども飲みながら話す。翌朝起きると、うっすらと雪化粧。窓から、霧がたちこめる「周山城」のある山が見える。
 午前中、京北町にある「周山城」に行った。二回目の訪城だ。周山は標高500mほど(比高200mほど)。この城は明智光秀によって1579年に築城されている山城だ。かなりの石垣で造営されている城で見応えがある。織田信長より丹波攻略を命じられた光秀は、多くの年月をかけて丹波を攻略することになるのだが、当時この京北町一帯を支配していた反織田勢力の宇津頼重の宇津城を1578年に亡ぼし、交通の要衝であるこの地に城を築いた。
 登り始めると、急峻な山道。杉林(北山杉)が続き、登ること30分。さらに急峻な道が見えて来る。城域が近い。

 さらに登ること15分。石垣の散乱が見え始める。城郭はもうすぐだ。大手門らしい場所に着く。石組が見られ、三の丸に登る。二の丸にも石組みの散乱跡。本丸に登ると、相当広い。

 本丸跡と続く小姓丸跡に行くと、見事な石垣が今も残っている。沈丁花の花がひっそりと咲いていた。

 小姓丸と本丸の下あたりに、井戸の跡がある。下山を始め、山を下る途中に3人の学生たちに会った。この周山城は初めてらしい。
 日本には3万あまりの城跡がある。最も多いのは滋賀県で、次いで兵庫県。この京都府にも800あまりの城跡があるが、特にこの丹波地方の城の調査は、とても興味をそそられる。京都市から北へ福井県の小浜市に至る途中の京北町、その北にある美山町の城跡は20ほどある(山城)が、そのほとんどを訪れた。山に登ってもなかなか城址を見つけるのが難しい場合が多い。残るは3城。
 京北町からの帰り、立命館大学に寄って本を返却した。