彦四郎の中国生活

中国滞在記

村人総出の防御の小さな城―福建省の「土堡(どほ)」に行ってきた―

2016-03-06 17:21:38 | 滞在記

 2月21日(日)の夕方、関西空港から中国福州に戻った。24日(水)から後期の授業が始まるが、私の担当授業は月・火・金なので、26日(金)から始まる。4日間をその準備にあてようと思っていた。福州の気候は、最低気温が3度前後、最高気温も10度くらいと、まだ寒い日々が続いていた。
 
 21日の夜、日本に留学中の林さんから、日本より連絡があった。「明日の22日・月曜日は、中国の春節期間の最後をしめくくる『元宵節』(小正月)なので、父がぜひ元宵節(げんしょうせつ)の様子や城を見せたいと言っています。車で迎えに行くと言っています。」との連絡が入った。どうしょうかと思ったが、「一泊して火曜日に帰ってくれば、授業準備も大丈夫かな。」と思い、結局行くことにした。
 午後に林さんの父と彼の友人(鄭さん)とが車で迎えに来る予定だったので、少しでも授業準備をしておこうと思ったが、朝の10時に私の宿舎に着いてしまった。現地でも仕事ができるように、パソコンや資料持参で車に乗り込んだ。福州市内を抜けて高速道路と一般道を利用して、2時間半ほどで 福建省三明市尤渓県に到着した。
 家に着き少し休憩して、「これから城に行きます。」というので、林さんの父と母、林さんの父の親友(兄弟と呼び合っている)と私の四人で車に乗ってでかけた。親友の鄭(てい)さんの車で、彼が運転をする。「いったいどこに行くのだろう?」「どんな城なのか?」「どの場所にあるのか?」「どのくらい時間がかかるのか?」と不安もかかえながら、乗車していた。車は山間地域にどんどん入って行った。高山茶の山も見えて来た。渓流の谷川沿いの道を上がっていくと、突然に棚田と集落が見えてきた。特徴的な伝統建築物が見えている。車で登って行くと、初めて見る建築様式の建物に近づいた。「この建築様式は、いったい何なんだ、見たこともない。」
 これが、「城」だった。「土堡(どほ)」<中国語でトゥバオと発音>という建物(小さな城)だった。狭間(はざま)―敵に向けて矢や鉄砲を撃つ穴―もある。

 土堡の一か所だけある門から内部に入ると、中央の中心建築が見えた。横側の建築群に入ると、上方に連なっている長い渡り廊下のような建築部分。いくつもの部屋もある。鶏がいて、大根の葉が干されていた。

 外に出て、土堡の周りを見て見ると、いつくもの狭間がある。「これは城郭的な建築物だな」と感心した。「こんな城郭もあるんだ--。」と興味深い。
 この地区のもう一つの「土堡」に行くことになった。かなり規模の大きな「土堡」だ。

 この「土堡」の周りも、狭間をもつ高い塀(壁)に囲まれていた。門は鉄の扉で作られている。内部に入り狭間から外を見る。高所からは、全景が見える。門の上に小さな穴があった。聞いてみると、「ここから敵に向かって熱湯や熱油をかける。もし門が燃やされ始めたら水を入れて消火する。」とのことだった。

 この「土堡」は、同じく福建省西北部に点在する「土楼」(どろう)[世界遺産]と同じように、村人が匪賊(ひぞく)の襲撃に備える目的を持っている。しかし、「土楼」のように日常的に村人・一族が定住しているのではなく、非常時(敵の襲来)に村人が立てこもり戦い、撃退するための「村人の城」であった。この「土堡」には、50あまりの部屋があった。武装集団に襲われた時に、村人がこぞって逃げ込み、戦う城であった。この村には2つの「土堡」があり、村人全員が立てこもったのだろう。
 福建省三明市には、大小異なる何百という「土堡」があるようだ。これらが作られたのは、明の時代からだが、特に清朝時代の末期(1800年代)には、多く作られた。福建省内の都市は、城郭に守られた都市が多かったが、都市から離れた農山村地域は、「村人自らが団結して小城を作り、生き延びることを助け合った」のだろうと思った。このような城は、日本にはないのではないだろうか。改めて中国の歴史の一端を覗き見た思いがする。

 翌日(23日)の午後、別の地域にある「土堡」を案内してもらった。山間地ではなく、かなり広い盆地にある場所だった。地域の子供たちが遊びにきていた。カメラを向けると、みんな隠れ逃げる遊びのようになったが、だんだん慣れてきた、カメラをもつ私に近づき笑顔をふりまいてきた。