彦四郎の中国生活

中国滞在記

世界遺産「福建土楼群」①―龍岩市永定県下洋鎮「中川(古)村」❶―

2016-03-23 22:58:29 | 滞在記

 3月18日(金)の1年生の授業が休講となったので、18日の早朝から世界遺産「福建土楼群」の見学に向かった。以前から行ってみたかった。宿舎の近くでようやくタクシーを見つけ、すざましい土砂降りで前が見えない渋滞の中 1時間ほどでようやく福州駅に着くころ雨がやむ。
 駅では、地方の農村地域からの人も多いので、赤ちゃんを背負う「ねんねこばんてん」を見かけることも多い。駅の外の人の通行しない場所に、布団を敷いて寝転がっている老人がいた。ルンペンの人かな--。
 ―「福州駅で、日本人が一か月間のルンペン生活」も、駅近くの中国人たちに助けられ日本に帰国―2012年10月配信
 2012年9月~10月にかけて1か月間、この駅でルンペン生活をしていた日本人男性がいたことを新聞が伝えていたことがあった。当時45才だった松本輝彦さんという人だった。福州市の福清という町に住んでいる彼の友人の住居にしばらく滞在し、友人が日本に短期間帰国するため、彼も荷物をもって福建省の近くをしばらく見てから帰国する予定だったそうだ。
 しかし、福州駅に着いてから「財布やパスポート」を無くした事態に気がついたという。中国語も英語もまったくできないため、とほうにくれて駅でのホームレスとなり、一カ月間。この間、駅の近くの中国人の人たちにいろいろ助けられ、なんとか食べさせてもらっていたようだ。その後、人々の援助でパスポートの再発行を経て日本に帰国することができたという。ちょうど、「尖閣列島」の問題が起こり、反日感情が巻き上がっていた中国の状況下でのできごとだった。
 午前9時15分発の新幹線に乗車。昼ごろが近くなると、「カップラーメン」を作って食べる人が多い。車内販売をしているので買う人が多いのだ。(※日本のような「駅弁」はない。) カップラーメンの独特の臭いが立ち込めて来る。気分がよくない。3時間かけて、12時12分に龍岩市に到着する。龍岩大学の日本人教員の鶴田さんが迎えに来てくれていた。「土楼」のある龍岩市永定県まで、長距離路線バスで行くことになった。腹ごしらえに「蘭州ラーメン」の店に入いる。1時45分発のバス券を買うことができた。

 バスで2時間、永定県の下洋鎮のバス停に着いた。福州からここまで、日本に例えれば「京都駅から新幹線で福島県まで行く」ような距離かと思う。ここは福州と同じ福建省だ。下洋のバス停の近くで「オートバイタクシー」(屋根つき)の運転手と鶴田さんが交渉し乗車。予約をとっておいてくれた町のホテルに着く。チェックインをすませて、部屋に荷物を置き再びオートバイタクシーに乗る。町から2kmの距離にある「中川村」という古村に向かった。すぐに村の入り口に着いた。時刻は4時となっていた。5時半ごろにバイクタクシーに迎えに村に来るように頼んだ。見学を始めた。小規模な水田や小川がある。村はずれの大きな家の入り口には、孫を抱く男性の姿があった。

 所々に大きなお墓が見える。(※一つの墓に夫婦二人が葬られるようだ。) 半年以内に葬られた人の墓なのか、朽ちた花輪がみられた。のんびりした ゆったり時間が流れる 小川沿いの道を歩く。水田の向こうに白い塔がみえる。しばらく歩くと「土楼」が一つ見える。近づいていくとアヒルたち。土楼の中に入る。人が生活しているようだ。初めて土楼を見た。

 土楼の3階まで上がる。規模は小さい土楼のようだ。ここは、観光客もほとんどこない土楼のような感じがする。土楼を出たらおばあさんと会った。挨拶すると笑顔が帰って来た。再び村の道を散策する。レンガ造りの立派な建物があった。洗濯物が干されていた。静かな村だ。古い歴史的な家から子供が出て来た。オートバイでこの地方のお菓子を売りに走って来た男の「売り子の声」に気が付いた子供が出てきて、バイクに走って行ったようだ。お菓子を買い、にっこりしながら家に戻っていった。

 再び歩きはじめる。立派な寺のような建物があった。鶴田さんによると、「この場所は風水思想によって選ばれた場所で、建物の背後に小高い丘、前面に小さな池をもつ。」という。村の重要な建物の前には、「功名塔」と呼ばれる石の塔が何本も建てられていた。日本では村や町の「顕彰碑」みたいなものらしい。村出身の人で、世間に「功」を成した人物を顕彰している記念碑だ。おそらく、この「功名塔」を作られる人物になることが、一つのすばらしい人生の目標になっているのだろうかと思う。
 ここをあとにして、迷路のような村の道を歩く。四角い「土楼」も見えた。壁には、過去に「毛主席万歳」と書かれていた文字が薄く見られた。中国の近代史の一端を感じる。村案内の小さな看板ポスターがあった。「天下第一僑郷」と書かれている。この村は、「華僑」人達の故郷という意味かと思う。








 

後輩たちへの報告交流会(今春より明治大学大学院生となる申さん)―10品ほどの料理を作った学生達―

2016-03-17 17:39:29 | 滞在記

 3月11日(金)の昼過ぎに、閩江大学の井上先生が4回生の張婷婷さんと共に宿舎に来てくれた。昨年の12月に張さんの故郷・福建省泉州市恵安での結婚式に参加させてもらった際、「恵安女」の民族衣装のスカーフ(頭から付ける)を買ったが、頭にかぶる花笠を買うことができなくて残念な思いをした。売っていないらしい。張さんのおばあさんが、手をつくして探してくれたものを、この日持ってきてくれた。とても美しい。感謝。
 宿舎の下の狭い道。ここは「結婚記念写真」のスポットの一つになっているらしい。時々、写真屋さんとともに、結婚式を控えたカップルがやってくる。私の娘の結婚式ももうすぐだな---。
 3月5日(土)の夕方に、閩江大学2回生の馮(ふう)さんと3回生の陳さんが宿舎に来た。二人とも日本語学科の学生ではないが、私の授業の聴講に来てくれていた学生達だ。見た目、男の学生のような馮さんは、この4月より台湾の大学に交換留学生として1年間行くことになっている。剣道初段の「剣道愛好家」で日本の歴史的人物(武将)が好きな歴女である。陳さんは「日本のアニメコスプレ」大好きの、乙女キャラ。二人は友達だが、対照的なキャラクターで、共通項は「日本好き」。バスに乗って「海鮮店」に行き、上海ガニなどを注文して食べた。二人とも歯が丈夫だから、硬いカニの足(かなりかなり硬い)も割ってたべていた。さすがに若い。

 3月14日(月)の夕方、福建師範大学日本語学科3回生7人(男子学生2・女子学生5)が宿舎に料理材料をたくさん持参してやってきた。彼らは、1時間ほどの時間をかけて、10種類(品)あまりの料理を作った。なかなかやるものだ。李君は故郷・雲南省の牛肉をもってきてくれて、「焼き肉」を作っていたが、とても良質の美味しい肉だった。

 後期の担当授業の一つとして「日本概論」がある。対象は2回生(※2クラス・約50人)。すでに3回(国土地理分野)の授業が終了した。16回の授業予定。

 昨日16日(水)の午後、日本に留学中の申楠楠さんが中国に戻り、昨年6月に卒業した閩江大学で報告交流会を行った。交流会会場の教室には、1回生〜3回生の後輩学生がたくさんきていた。最初に、張先生が開会の挨拶をし、その後 申さんが 留学についての体験を報告した。私も促されて、留学に関する話を学生達に話した。申さんは、日本での8か月間あまりの苦しく不安だった受験勉強生活を終えて、今春より明治大学大学院生となる。終了後、久しぶりに会う3回生の学生達と話すことができた。1回生から2年間教えた学生達だ。今後、留学の指導・アドバイスをする学生たちになるかもしれない。4回生の李順峰君は、時々 私の宿舎にきて 卒業論文や日本留学のための 話し合いをしてきている。彼は4回生の中では最も優秀な学生の一人だ。今年の9月(秋入学)の可能な「立命館大学大学院」(言語教育情報学科)の入学試験を目指している。

 3月15日(火)の午後、「第41回藤山サロン」の講演会があったので行ってみた。今回は、関西学院大学教授の于康(う こう)氏。演題は「日本語の誤用研究と日本語の学習」。于康氏は中国人。
 今日17日(木)の昼頃、福建師範大学外国語学部(英語科・日本語科・スペイン語科)の4回生と教員の全体写真撮影があった。250人あまりの学生と50人あまりの学部教員。6月の卒業を迎えるにあたっての「卒業アルバム」用の写真撮影だった。

最近のインターネットニュース記事より
❶「イギリスのサッカー・プレミアリーグチーム所属の岡崎慎二」ファンタスティクなオーバーヘッドシュート!!ゴール!!!

➋「北朝鮮からの脱出―イ・ヒョンソ―」2015年8月配信(※彼女のアメリカでのスピーチの様子が動画で見られた。)
 北朝鮮での幼年時代、『ここは地球上の最高の国』と信じていたイ・ヒョンソだったが、90年代の大飢饉に接してその考えに疑問を抱きはじめる。14歳の時に脱北。(※両親が彼女だけを脱北させる) その後 中国で素性を隠しながらの生活が始まる。
このスピーチは、必死で毎日を生き延びてきた彼女の悲惨な日々と、その先にようやく見えた希望の物語だ。そして、今 北朝鮮から遠く離れても、なお常に危険に脅かされる同朋たちへの力強いメッセージが込められていた。その人生の物語を的確な表現で、淡々とスピーチしているが、多くを語らないスピーチが 見る者・聞く者に感銘と勇気を与えてくれると思った。もう一度見たい。







 





中国で「カリスマ日本語教師」といわれる笈川幸司氏―今春、山形大学への留学生7人が来宅―

2016-03-15 06:16:22 | 滞在記

 福建師範大学の構内にオレンジの花を咲かせている木があったので近づいてみると、その木の花ではなかった。木の背後にある蔓(つる)性の亜熱帯植物が木を覆い花を咲かせているのだった。
 外国語学部校舎の入り口に、「第40回藤山サロン:笈川幸司―日本語学習法―3月11日(金)外国語学部多目的ホール・午後2時〜」という看板があった。「この笈川幸司という名前は、どこかで聞いたことがあるよな。ああ、今年の5月中旬に予定されている『日本語学科教員 北京実践交流会』(主催は、私の派遣元の『日中交流センター』と『中国外家専科局』)の講演者の名前だったなあ。」と気がついた。この人はどんな人なのだろう。宿舎に帰ってから、インターネットで「笈川幸司」(おいかわ こうじ)を検索してみた。中国で「カリスマ日本語教師」とよばれ、熱烈なファン層をもつ有名な人らしい。

 3月11日(金)、午前中の授業を終えて宿舎に戻り休憩し、再び大学に行き講演会に参加した。多くの日本語学科の学生達が来場していた。巧みな話術と表現力(表情など)とで、グイグイと聴衆を惹きつける講演には感心させられた。日本語と流ちょうな中国語をおりまぜながら語りかける話術に思わず笑わされてしまう。特に、「音声・発音・アクセント・イントネーション」に関する音声学習方法は勉強にもなった。
 全世界の日本語学習者は400万人近くいる。その中で最大の日本語学習者がいるのは、中国だ。日本語学科のある大学は300大学ほどあるそうだ。「中国・日本語講演マラソン」と銘打って、2011年からこれまでに ほぼ中国全土にわたる80都市・298大学で開催してきている。ヨーロッパなどの大学でも講演マラソンを始めているようで、今後本格的に「欧州日本語講演マラソン」を予定している。
 中国人にとって、日本語の会話・発音イントネーションは けっこう難しい。中国語は「四声」という発音があって、発音的には世界で最も難しい言語。この「四声」を発音して会話する際、「口」をかなり激しく動かし、「舌」も微妙に動かして正しい発音・イントネーションができなければ ほとんど通じない。
 これに対して、日本語の発音・イントネーションは 中国語と対極的だ。「舌」を動かすことはなく、「口」を動かすことも少ない。平板的な発声なのだ。母音の「あ・い・う・え・お」の中で「い」を発音する際の口の形で、ほぼ発音・会話をする特徴がある。激しく口の形を動かす習慣がある中国人の日本語学習者にとっては、この平板的な日本語発音・イントネーションは、指導されないと難しい。ポイントは「い」発声の口の形で日本語を話すということがポイントという指導方法の説明は説得力があった。
 笈川氏は、「笈川楽譜」と呼ばれる方法で日本語のイントネーションを視覚化する方法を提唱し、北京市の「日本語スピーチコンテスト」にて数年間にわたり優勝者を輩出してきた経歴をもっている。
 彼の経歴がユニークだ。[日本大学卒業➡中国北京の大学に1年半語学留学➡帰国後、国会議員秘書となる➡お笑い芸人となる(※5年間がんばったが鳴かず飛ばす)➡(2001年に、5年間交際した日本在住の中国人女性と結婚し、新地を求めて中国北京に渡る。)➡日本語学校の講師となるも、新婚1か月で離婚となる➡北京大学・清華大学の講師となる➡退職し2010年頃より、北京を拠点に「日本語学習」に関する活動を中国・日本を中心に始める。再婚し、子供もいる。現在45才とまだ若い]
  講演翌日の12日、『こうして僕は自分の生き方を見つけた』という笈川氏の本をアマゾンで注文した。笈川氏とは、5月に北京で会うことになるだろうかな。

 講演会終了後、大学内の施設でよくバレーボールをやっている地元の人たち。思い切って、話しかけゲームに参加させてもらった。ものすごく軽いライト・ライト バレーボールだった。みんなけっこう上手だ。このボールの扱いに慣れている。高校時代はバレーボールクラブ員だったが、このボールに慣れるのに時間がかかった。
 盛んになって来た中国のサッカー熱。運動場ではサッカーの練習をしている地元の人たち。機会があったら、次はサッカーの仲間に入りたいな。

 この日(11日金曜日)の夕方、今年の4月から日本の大学に留学(国立 山形大学)する7人の3回生の学生達が宿舎にやってきた。留学期間は、4月~8月までの5か月間の予定。(※交換留学協定) 4月~5月の東北地方は、桜と雪山のコントラストがきれいな季節だ。学生達も心待ちにしているようだ。福建師範大学の日本語学科では、沖縄の「国立 琉球大学」にも、3回生の前期(9月~)、7人ほどの学生が留学する。日本語学科の1つの学年数は50人。このうち、15人程度が在学中の交換留学を経験することとなる。(※希望と成績などにより選考される)
 鍋料理を作ってくれた。料理を囲みながら乾杯する。

 この日の午後9時から「新日本風土記―東北の春―」(NHKプレミアム)が放映された。中国時間とは、1時間の時差があるので、リアルタイムの午後8時からの放映開始。インターネツト契約配信で受信して、学生達と一緒に番組を見た。
 










「二寒二温」の福州―2月26日(金)より、後期の担当授業が始まった―※大学院留学の問題

2016-03-13 04:16:23 | 滞在記

 日本では「春に向かうこの時期」の季節用語に「三寒四温」という言葉があるが、中国の福州では「二寒二温」だろうか。一週間ほどかなり寒い(気温4度―10度で氷雨が多い)日が続くと、次の一週間はかなり暑い(気温13度―25度)が続く。福州は日本の京都よりも1か月間ほど早く季節が推移するので「今は春」の季節なのだが、春は2月下旬〜4月上旬の一か月半ほどと短い。4月中旬になると30度を超す日々が訪れ始める。

 2月23日(水)夕方に福建省三明市尤渓県より福州の宿舎に戻り、26日(金)からの担当授業が始まった。その日の夕方、閩江大学3回生の楊君が宿舎を訪ねて来た。初めて見る彼女同伴だった。楊君は大学に入学する時点でかなり日本語会話ができる学生だった。その当時の会話で、「僕には彼女がいます。広東省の深圳にいます。」という話をしていたので、「どんな彼女かな?」と興味があったが、今回初めて会った。ほがらかな優しい印象の女性だった。バスで「海鮮料理店」に行き夕食とビールを飲み合った。彼女と楊君は、高校の同級生で長距離恋愛4年目(※楊君は高校3年生の時、広東省の高校から福建省泉州の高校に転学している。彼女は、高校卒業後に「貿易実務」関係の専門学校に行き、現在就職して働いている。)
 3月2日(水)、水曜日は担当授業がない日なので久しぶりに閩江大学に行った。キャンパスが美しく、花々も多い。春の季節感を感じる「菜の花畑」や「木蓮」の木々、大輪の椿の花は そろそろ終わりごろ。梅の季節はすでに終わっていて、今は「桃の花」が咲き始めていた。外事科(外国人教員担当部署)科長の鄭さんに会い、日本の土産を渡した。帰り際、「先生、9月の新学期から閩江大学に戻って来てください。」と一言告げられた。

 2月26日(金)から担当授業(1回生の「総合日語2」)が始まった。前期(1学期)は、3回生の「作文」と「総合日語5」、4回生の「日本古典文法」と「日本近現代文学」の4教科(週12時間)もの授業を担当していたので、ものすごく大変だった。しかし、後期(2学期)は、1回生の「総合日語2」と2回生の「日本概況」の2教科(週12時間)だけなので、かなり楽だ。月曜日の午前中4時間「日本概況」(2クラス)、火曜日と金曜日の午前中各4時間で8時間「総合日語2」(2クラス)となっている。
 授業は午前8時から始まるので7時15分に宿舎を出る。宿舎周辺には小学校・中学校・高校が多く密集している文教地区なので、大学に着くまでの大小の道路は、通学・通勤の人々でごったがえしている。昨年に購入した自転車で通っているが、道路は非常に危険である。大学の正門に入るまで、絶対油断はできない。四方八方に気をつけて人や車やバイクとの衝突や接触を避けながら通行する。宿舎から20分ほどで外国語学部のある建物に着くことができる。

 ※上記の写真は「1回生1班(組)」

  ※上記の写真は1回生2班(組)
 福建師範大学での1回生の授業は、今まで前期・後期の全て中国人教員が担当するのが恒例だったようだが、なぜか今回 私が後期に担当することになった。1回生は まだ簡単な日本語会話しかできない会話レベルなので、それに即した授業展開や工夫が必要となる。また、重要で基礎となる日本語文法事項が目白押しなので、学生にとっては難しいが 担当教員の私としては面白い教科だ。
 1回生はかなり真面目な学習態度が維持される時期で、8時からの授業開始の20分~30分ほど前から教室に来る学生が多い。そして自習している。これが学年が上になるほど、ぎりぎりに教室に来る学生が多くなってくる。

 3月5日(土)の午前10時から福建師範大学外国語学部日本語学科「第39回藤山サロン」(日本語や日本に関する講演会)に行った。今回は法政大学大学院・米家志乃布教授の「法政大学周辺の歴史地理」というテーマの講演だった。江戸・東京の歴史地理について1時間ほど話してくれた。福建師範大学と法政大学は、昨年に「大学院入学試験協定」を結んだ(他に福州大学・重慶師範大学・四川外国語大学)。中国国内で日本の大学院試験を受けられるというのが、法政大学側の売りだ。
 しかし実態は次のようだ。4回生時期の3月に試験を受ける➡6月に中国の大学を卒業➡合格者は9月に来日し、法政大学大学院の聴講生となる➡翌年の1月頃に正式な大学院入学試験➡合格者は4月から正式な大学院生となれる。つまり、大学院生になれるのに、大学卒業の翌年の4月(9か月間を要する)。これでは、多くの日本への大学院留学を目指して来日するルート(7・8月頃に来日し日本語学校➡翌年の1月・2月を中心に行われる日本の各大学院の入学試験受験(※複数を受験する学生が多い)➡合格者は4月大学院入学)とあまり変わらないと思われる。
 福建師範大学や福州大学は、日本の3倍以上の「3000あまりある中国の大学でのレベル順位は100番以内の大学」なので、「割る÷3」の単純計算をすれば日本の大学のレベル順位25位〜30位前後の大学(例えば、広島大学や上智大学などかな)との入試協定を結ぶのなら、学生に受験を勧めるそのメリットはあるのだがと思う-----。現在の福建師範大学の4回生は、5人が3月6日(日)にこの試験を受験をした。日本に来日したら、彼らは「もっとレベルの高い評価を受けていてキャンパスらしい大学院の試験を受ければよかった」と思う可能性は大きいかもしれない。
  明治大学もそうだが、法政大学キャンパス市ヶ谷校区は、(大学キャンパス校地)というより、どこかの大企業の建物のような高いビルデングの建物の大学なのだ。樹木も多く広い大学校地の中国の大学からの留学生は、どう感じるのだろうか。都心の中心地で、隣に「靖国神社の緑地がある」という立地条件はとてもいいのだが--。(※大学のキャンパス風景は、大学院を選ぶ場合のとても重要な面だと思う。)
 なお、次のような「日本語学校」の問題点を考えると、法政大学の聴講生としての来日も一つの良い選択かもと考えられる面もある。

 ―日本の「日本語学校」の問題―
 ◆大きい問題の一つは、日本の大きな「日本語学校」では「大学院進学コース」というコースがあるにはあるが、一人一人の個別的な進学相談に対応できず[対応指導ができる教員も少ないようだ]、大学院入学試験「研究計画書」の書き方などの一斉授業があるだけという実態。したがって、個人的に努力して、受験先を探すことになる。受験指導は、その学生の「総合的学力」と「進路希望」に対応した受験指導・相談活動が必要なのだが----。) 
 また、日本の大学院進学を目指す留学生たちは、中国の大学在学中に「日本語能力検定試験1級」に合格している学生がほとんどなので、「日本語学校での日本語の授業」を受けても、レベル的に必要性を感じない。しかし、授業の欠席が多いと、退校になり在日ビザがなくなり中国に帰国をせまられるから、必要性がなくても授業に参加せざるをえないようだ。これは、けっこう辛いものがあるようだ。
 その間、高額な日本語学校の授業料(年間約80万円)と毎月のアパート代・生活費用(約10万円は)が必要となる。日本語学校に在籍した場合、正式に大学院に入学できる9か月間で、学費と生活費にほぼ180万円(中国元で約9万元。これは中国の都市部平均年収[約4万2千元]の2年分以上となる。)は必要となる。
 中国から日本への留学生が増加している今日、「日本語学校」大学院留学コースの学生への、学費に見合った授業内容や個別進路指導の充実が求められているように思う。大学院留学を目指す学生達は不安の中で必死なのだ。

 ◆日本には在籍大学生の半数近を留学生が占める大学が結構ある。「○○国際大学」と名前のつく日本の私立大学は ほぼ最低レベルに近い大学が多いのが実態のようだ。2年ほど前に、岡山県の備中高梁市にある「備中高梁城」を見るため一泊した。
 地元の居酒屋で夕食をとった際、地元の人たちに「この町にある吉備国際大学は どんな大学なのですか。」と聞いたら、「約3000人の学生のうち、3分の1の約1000人が中国などからの留学生ですよ。留学生たちの多くは 岡山市などまで行ってアルバイトばかりしていて、勉強を熱心にしている学生はごく少数ですよ。」と話していた。地元での評判はかなり悪いようだ。
 翌日の午前中に、この大学に行ってみた。そして、留学生担当課の事務室に行き担当者とも話した。「マンガ・アニメ―ション学科」があるのが一つの売りで、日本のアニメに興味をもつアジアからの学生を多く集めて経営を成り立たせているようだ。
 中国では、毎年六月に実施される「国家統一大学入学試験」の一発入試で、約900万人が受験する。そのうち、約720万人が3000ほどの大学のどこかに入学できる。どこの大学にも入学できなかった150万人(年間)以上の人は、専門学校などに行く学生も多い。このような学生にとって、どこの大学でもいいから、「日本の大学」に行く(留学)ことは、専門学校に行くよりも ある程度の「面子」がたつことなのかもしれない。



 









尤渓城市と朱子学の祖・朱熹(しゅき)誕生地―日本の「うどん」のルーツの地かもしれない―

2016-03-09 16:49:40 | 滞在記

 翌日の2月22日(火)に福州に戻りたかったが、昨晩の「元宵節」が終わり大学生たちが一斉に大学のある都市に戻るためか、長距離バスや新幹線のチケットは売り切れていたようだ。23日(水)の午後1時50分発の「福州行」長距離バスのチケットを買うことができたと、林さんのお母さんがチケットを渡してくれた。だから22日は、新しくできた「東門」「尤渓県博物館」「朱熹博物館」などを巡ることになった。昼は、林さんのおじいちゃんの家へ行くこととなった。
 尤渓県(ゆうけい けん)[中国読み:ヨウシー シエン]の中心の街「城関鎮」は、城壁に囲まれた「城市」だったが、城壁ののほとんどは壊されている。最近になって「東門」が再建された。(※中国では、「文化大革命時代の歴史的史跡否定」のため、全国各地の多くの歴史的史跡が破壊された経緯をもつ。ここ10年間でこれらの史跡復興・一部再建が進められてきているところが多い。観光産業興隆のねらいもある。)
 この日は、午前9時半ころに林さんの兄(林億)が車で来てくれた。車に乗車して、「東門」に行った。この門には何度が来ているが、いつ見てもいい門だ。

 城壁と門の前を川が流れている。泳ぐことができる程度、この川の水はきれいなのだが、昨日来の雨で濁っている。川の中に小さな中州があるが、よく見ると猫の額ほどの「畑」があった。野菜が植えられていた。近くに、かなりの年代物の塔が見える。車を駐車している所に戻り、おじいちゃんの家に向かった。兄(林億)さんの彼女も途中で同乗した。

 おじいちゃんの手料理や地元の「紅酒」(ホンジヨウ)を振る舞われた。おじいちゃんとは久しぶりの乾杯だ。「これを飲んでみて。」と持ってきたのが、「スズメバチの入った白酒(バイジョウ)」だった。手作りの酒だ。お土産に、手作り酒を2本も渡してくれた。

 午後、「朱熹が創設した書院(大学)跡地に再現された朱熹博物館」と「尤渓県博物館」に行った。前回は、゜第一次整備」の時期に訪れたのだが、今回は第二次整備が終了したあとだったので、とても充実した施設となっていた。ここは、朱熹生誕の地でもある。林さん父と親友の鄭さんも合流し、林さんの兄と私の4人での見学を始めた。

 徳川幕府時代の日本に多大な影響を与えたのが「朱子学」だ。朱子学の祖・朱熹は、南宋時代の1130年にここで誕生した。中国で「~子」といえば敬称にあたる。(※「朱熹」(しゅき)[中国読み・ジューシー)
 儒教は、古代中国の戦乱の時代に生まれた。孔子を中心に孔子学団が形成され、儒教思想が広まり始めた。その後の歴史で、孟子が儒教の新たな展開を試みている。そして、1100年代の南宋時代に至って朱熹が儒教の新たな展開として「朱子学」を提唱した。「朱子学」は、宇宙天体物理の学問的な理系と文系の両面を持ち合わせた儒教であった。(孔子➡孟子➡朱熹)
 朱熹の開設した書院があった当時の、樹齢800年以上の楠の木の巨木が2本、今も葉をつけている。

 次に隣接する「尤渓県博物館」に初めて入る。石器時代から近現代までの歴史的展示がされている。前日に行った「土堡」や民俗学的な「元宵節」に関する展示もあった。「石」の特別展も開催されていた。「風画石」がすばらしかった。
 中国はアメリカ(USA)とほぼ同じ面積があり、日本の25倍の面積をもつ広い国だが、33の省・自治区・特別行政区に行政区分がなされている。福建省はそのなかでも広い省ではないが、日本の「九州・四国・中国の各地方」を合わせた面積より少し広い約12万平方㌔。日本の3分の1の面積。人口は約3500万人。韓国(約9万平方㌔)よりも広い。面積・人口的には一つの国といってもいい。台湾に最も近い福建省は、歴史的にも日本とのつながりが古代より深く、日本で働く福建人も多い。
 日本では、行政区分は「県」➡「市町村」となっているが、中国では表現が逆だ。「省」➡「市」➡「県」(又は「市」※「市」の中に「市」がある。例えば「福建省福州市福清市○○鎮」など。)  そして、「県」の行政区分の中に➡「鎮」や「郷」がある。例えば、「福建省三明市尤渓県梅仙鎮」など。
 福建省には、「福州市」「厦門(アモイ)市」「泉州市」など九つの市があるが、尤渓県のある「三明市」もその一つだ。面積は約2万3千平方㌔で、京都府の5倍、新潟県の2倍の面積がある。そのほとんどが山地のため人口は約300万人と少ない。(※省都の「福州」は約700万人) 三明市には、12の県がある。「尤渓県」の面積は約3千5百平方㌔で、大阪府の2倍、奈良県や鳥取県とほぼ同じ面積で、7鎮6郷がある。人口は約43万人。地方大都市「福州」より 人々の様子が素朴であり、中心地のにぎやかな商店街を歩いていても なにかほっとさせられる。この街では、子供を背中に背負う「ネンネコバンテン」がよく見られる。この「尤渓県」は、741年の唐の時代に「県」が置かれた歴史をもつ。

 新しい「尤渓博物館」には、「中国共産党」による「人民解放軍」の郷土史のコーナーもあった。当時の「中国共産党」支配下の紙幣は、現在の毛沢東肖像の人民元紙幣ではなく「レーニン(ロシアの革命家)」肖像の人民元紙幣だった。蒋介石率いる国民党軍との「尤渓県」での戦いに勝利し、「尤渓城市」解放の様子を東門を背景に描かれた大きな絵画も展示されていた。


 ―「尤渓」に関する最近の記事より―
 ①「日本のうどんの起原は福建省尤渓、日本留学経験のある中国人が主張」―中国メディア(2015年2月)
 うどんで有名な日本の香川県では、奈良時代に弘法大師(空海)が中国から持ち帰った小麦と作り方・技法が起原だと伝えられてきた。長い間、中国のどの町から伝わったのか分かっていなかったが、中国の民間うどん研究家が故郷の福建省尤渓であると主張している。18日付で人民網が伝えた。
 中国のうどん研究家、傳樹華さんは1988年に留学生として来日し、日本語学校に通い出した。そこで、教わった日本のうどんを見て、故郷の尤渓で食べていた太麺にそっくりであることに気付く。早速、「日本のうどんは尤渓が起源だ゜」と訴えたが、クラス中に笑われた。
 1995年に帰国すると早速、うどんと尤渓の太麺との関連について調べ始めた。尤渓は朱子学の創始者、朱子の生まれた町。地元ではこの太麺は「朱子寿麺」と呼ばれ、少なくても700年以上の歴史を誇る。「日本のうどんはこの『朱子寿麺』に違いない」という傳さんの主張に地元当局も注目しているという。

 ※司馬遼太郎の歴史小説『空海』に詳しく描かれている空海は、中国渡航の際に舟が暴風雨に遭遇し、福州近郊の海岸に到着。その後福州に長期間滞在し、当時の中国の都であった「西安」に向かう途中、この「尤渓」を通過した可能性はある。(寺坂)

②「中国:福建省三明に危険廃棄物処理場を建設、住民1万人抗議」―外電(2015年12月)
[中国]福建省三明市尤渓県西浜鎮で1日、危険廃棄物の総合処理施設の建設が密かに進められているとして、住民約1万人が抗議行動を始めた。住民らは鎮政府の庁舎前で座り込みを行っている。外電が伝えた。
 住民は「鎮政府の欺瞞に抗議せよ」などと書かれた横断幕を掲げ、街中をデモ行進した後、鎮政府の庁舎前で座り込みを行った。庁舎前は住民で埋め尽くされ、周辺の交通が混乱したという。
 ある住民によると、問題の施設は最寄りの村落までわずか300m以内の位置に建設される。福建省内の9市で収集された腐食性、毒性、可燃性がある危険廃棄物30種類と、三明市の医療廃棄物を対象に、焼却・固体化した上で埋設処分する。
 住民に事前の通知はなく、着工の際に初めて公表されたという。1日にはデモ隊のほか、西浜鎮の数百軒の商店と露店がすべて営業をやめ、施設建設に抗議した。


 22日夜、林さんの家で、家族(林さんの父・母・兄)と鄭さん夫妻、兄の彼女、母の妹と私の8人で夕食をとりながら酒を飲む。この日は、健康のために早めに部屋に戻り休んだ。翌朝、林さん゜の父(林栄東)さんは自室で点滴をしていた。疲れから熱が出たようだ。
 午前中は授業に向けた仕事をし、寝込んでいる林さんや 犬の「トウトウ(名前)」に別れを告げ、再びおじいちゃんの家で昼食をとる。おじいちゃんの弟(福建省泉州在住)の家族という人たち5人が泊まっていたので、9人で一緒に食事をとった。
 二時発の満席の長距離バスに乗った。高速道路を走り、福州西駅(バスターミナル)に4時半に到着した。バスターミナルは、福建省各地などから戻ってきた大学生でごったがえしていた。
 日本語がわかる人がだれもいない環境での尤渓「二泊三日」の生活は、昨年の11月に続いて2回目の経験だった。かなり精神的にハードな経験なのである。林さんたち家族と鄭さんには本当に世話になった。感謝。