彦四郎の中国生活

中国滞在記

世界遺産「福建土楼群」④―「初渓土楼群」の村中を歩く―

2016-03-26 13:26:48 | 滞在記

 川にかかる𣘺を渡って、土楼群を見学する。まずは、大きな方形楼の「縄慶楼」(世界遺産)。側面にはたくさんの薪が積まれている。1779年の清朝の時代に作られている4層の建物だ。内部に入る。台所の建物の通路向かいが食事などをする一家団欒の部屋である。本を読んでいる姉妹がいた。川向うを見ると大きなお墓。墓の入り口付近には、故人の写真がはられているようだ。入り口は二つ。夫婦が葬られている。

 隣の「集慶楼」(世界遺産)に行く。初渓土楼群中、最も大きな円楼だ。1400年代の初め、明王朝の永楽帝の時代に徐氏一族によって作られた。永楽帝は即位する際に旧勢力を一掃するため前帝・建武帝(永楽帝の兄)の側近や一族、およそ1万人を処刑した。たとえば建武帝時代の側近の儒学者である方考儒もその一人で、彼は永楽帝に仕えることを断固として拒んだため、約900人もの親類が、彼の目の前で一人ひとり処刑されていった。徐氏一族も、この時 逃れて来た一族なのかもしれない。
 この楼はかなり大きい。600年以上の歴史をもつ建物で、外円の直径は66mもある。4層建てに225の部屋があり、二重円楼構造となっている。鉄釘は一本も使われていない。中心に宗祖を祀る方形の祖堂を配置している。
 鶏(にわとり)が放し飼いされていた。小さな子供が、子犬のしっぽをつかんで おもちゃのように投げ飛ばしたりして遊んでいた。

 4階より「集慶楼」全体を見下ろす。とても大きいことがわかる。中国人観光客もけっこう多い。西欧系の観光客男性が一人みられた。楼の住民のお婆さんたちにカメラを向けたら、「撮ってはいけない!」と怒っている。

 楼の中に「写真展示コーナー」があった。初渓村と周辺の棚田、人々の様子などの写真が展示されていて興味深い。

 次の土楼に向かう。「庚慶楼」(世界遺産)は1849年に建てられた3層土楼、「余慶楼」(世界遺産)は1729年に建てられた3層土楼。いずれも清朝の時代の建立。2つの楼の間の山道から、野菜を採って来た女性が下りて来た。
 村の中心的な幅の狭い道を登って行く。村人の姿が多くなる。放し飼いの鶏がたくさんいる。村の中を下り落ちる渓流。坂を下りて来たお婆さんにカメラを向けると、「撮るな!」とここでも怒られた。この村のお婆さんたちは写真に撮られるのが嫌いなようだ。

さらに登って行くと円形土楼に「土楼住宿」という文字が見えた。土楼内の「宿泊施設」の案内だ。一泊130元(約2600円)で泊まれるようである。土楼内の何室かを改装してきれいにしたものらしく、シャワー・トイレが各部屋に置かれているようだ。
 この土楼の後方に、「善慶楼」という白い土楼があった。1978年に作られた新しい3層土楼である。この楼も世界遺産に登録されている。












世界遺産「福建土楼群」➂―さすがに見事!「初渓土楼群」―※「土楼」概説

2016-03-26 05:27:12 | 滞在記

 3月19日(土)、明け方には激しい雷雨がやみ始める。食事を兼ねた町の早朝の散歩から、午前8時頃にホテルに戻ると驚いた。二人のそれぞれの部屋は掃除の真っ最中なのだ。こんなに早い時間に勝手に部屋に入り掃除をしていることに驚いた。パスポートなどの貴重品も机の上に置いて散歩に行っていたのでなおさらだ。もちろんチェック・アウトもしていない。「もう掃除が終わる頃だから、部屋には入らないで!」という笑顔も何もない雰囲気の接客態度にも「ここは中国なんだな--。」と今更ながら感じ入る。そくさくと荷物をまとめ部屋を出て、チェックアウト。昨日に世話になったバイクタクシーがホテルの前に来てくれた。
 バイクタクシーに乗って山岳地帯をひたすら登る。山々の高度が高くなりバイクタクシーも霧に包まれ始める。45分ほどで「初渓土楼群」のある初渓村に到着した。ようやく来られた、「世界遺産の福建土楼群」へ。さっそく、村全体が俯瞰できる展望台のある山に登る。山霧も晴れきて、土楼群の村が良く見える。川の近くに大きい土楼が4つ並ぶ。3つの円形楼と1つの方形楼。その背後にも多くの土楼が密集している。「見事な景色だ!、この土楼群は---。」と感じ入る。



   ―「(客家)土楼」概説―
 ❶「客家(はっか)」は、中国の黄河中流・下流の「中原(河南省の大部分と山東省の西部、河北省、山西省の南部)」に居住していた漢民族。もともと中国の中・北方に住んでいた漢民族が、中原の北西部の民族に攻め入られたことを皮切りに、戦乱や歴史的要因により東晋時代末(300年代初め)から清時代末期(1800年代の終わり)までの1000年以上にわたって、5回の大規模な南下を行う。
 客家とは「お客・よそ者」を意味する。彼らが異郷の地で暮らすには、血縁一族が衣食住をともにし、団結する必要があった。その結果、客家人たちは 原住民の居住地を避けて山深い山間地に分厚い土壁で囲まれた、土楼と呼ばれる巨大な一族集合住居を作った。これが「客家土楼」である。
 ➋「土楼」は、福建省龍岩市「永定県」、福建省漳州市「南靖県・華安県」地域を中心に、福建省と広東省や江西省の3省にまたがる山地に約3万以上を数えるという。土楼には「円形」「方形」「八角形」「楕円形」など様々な形がある。「永定県」には8千あまりの土楼が存在するようだ。
 「円形土楼」には、角部屋がなく、部屋の大きさは同じであり、一族の団結をはかるうえで、身分差別的な関係を作っていなかったようだ。円楼の中で最も大きい「承啓楼」(※永定県「高北土楼群」にある)は、直径が73m、4階建て。外壁の高さ約17mで外壁円周約230m。400あまりの部屋がある。最も多い時代には、80世帯、600人以上がここに暮らしていたという巨大建築物。土楼の王と呼ばれる。
 福建省の「永定」からも近い広東省「梅州市」(山間地方)には、同じ客家人たちが作った「囲龍屋」といわれる客家人伝統集合住居が約2万近くあるそうだ。これを「世界遺産」として申請する活動も始まっている。
 ❸福建省・広東省・江西省の山地や海南省や台湾などに移住した「客家人」。学問を重んじる「客家人」は、勤勉で才能豊かな人材を多く輩出しており、海外に散在する華僑の20%は客家人といわれる。
 元台湾総統:李登輝、元中国共産党主席:小平、シンガポール首相:リー・クアンコー、朱子学の祖:朱熹、宋家のなど三姉妹(※孫文・蒋介石などの妻)など、政財界や学問の世界での有名人も多い。客家人は約1億人近くがいて、「東方のユダヤ人」ともいわれているようだ。



 ❹2008年に「福建土楼」として世界遺産に登録された。登録された土楼は「6土楼群と4つの土楼」(合計46土楼)である。いずれも福建省にある。(※永定県➡◆「洪坑土楼群」、◆「高北土楼群」、◆「南渓土楼群」、◆「初渓土楼群」、南靖県➡◆「田螺土楼群」、「懐遠楼」「和貴楼」「裕昌楼」「河坑楼」、華安県➡「大地土楼群」)
 世界遺産に登録された「6群4楼」を、バスやバイクタクシーなどを利用して全て巡ろうとすれば、少なくても3日間を要するだろう。最寄りのバスターミナルは、龍岩市内と漳州市内にある。
 まずここから、それぞれの土楼群に向かう。土楼群に直接行けるバスではなく路線バスなので、2時間あまりバスに乗り、下車後バイクタクシーなどを利用して土楼群に向かう。若干の中国語能力が必要だ。福建省のアモイ市からは、日帰り土楼バスツアーも組まれているようだ。アモイから土楼群まで約4時間の所要時間で、往復だけで8時間を要するが--。「永定土楼民族文化村」とも呼ばれる「洪坑土楼群景区」など、1箇所の土楼群を見学するツアーのようだ。
 ❺今回行った「初渓土楼群」は、なだらかな山の斜面に円楼と方楼が集まる土楼群だ。村の手前には渓流が流れ、山水と一体となった土楼のある風景が美しい。5つの円楼と31の方楼がある。このうち6つの土楼が世界遺産に登録されている。最奥地にあるためアクセスはあまりよくないが、必見の土楼群の一つだと思える。(※必見したいと思うものには◆印を記す。)


 展望台からは、土楼内部を遠く見ることができた。山には「わらび」の群生が見られる。山を下りて、村の前の渓流から土楼群を見る。数日来の豪雨のためか、川の水が濁っているがなかなかいい景色だ。
 車の駐車場に戻る。映画の撮影現場にもなったようで、大きな映画看板があった。「下南洋」―从永定土楼出发―という題名の映画のようだ。
 公共トイレは伝統的なスタイルの尻見えトイレだが、掃除が行き届いていて清潔ではあった。川にかかる石橋より土楼群を見る。


 ❻「土楼」は城ともいえる。土楼は頑丈で、安全で閉鎖的、また一族の宗教的要素も含んでいる防御式城楼だ。外壁の下部は2mの厚さがある。地元の赤土に小石や砂、もち米、赤砂糖などを混ぜたコンクリートのような硬さをもつ外壁。1930年代、政府軍に抵抗するため、客家の人たちが立てこもったた際、砲弾を16発撃ち込まれたが小さなへこみの穴ができただけだったと記録にある。
 「土楼」内には井戸や食糧倉庫があり、万一包囲され攻撃されても半年間は耐えることができるといわれている。一階は食事を作る台所や食事をする居間の部屋、二階は倉庫の部屋、三階や四階はベットや机などが置かれた居住空間の部屋となっている土楼が多いようだ。楼の中心に祖先を祀る「祖廟」の建物がある。ちなみに、一つの土楼の人々の姓はみな同じである。
 ❼土楼に住む人は年々少なくなってはきている。しかし、最近は道路の整備がすすみ、国内外からの観光客が増加してきている。このため、世界遺産登録の土楼群の村の経済は豊かになりつっあるようだ。村に残る人の減少にも歯止めがかかっているようだ。「春節(旧正月)」期間になると、都会で暮らしている村民が「土楼の自分の家(部屋)の鍵を開け」滞在し、宗祖の霊にお参りし、楼の行事に参加する人が多いという。