彦四郎の中国生活

中国滞在記

尤渓城市と朱子学の祖・朱熹(しゅき)誕生地―日本の「うどん」のルーツの地かもしれない―

2016-03-09 16:49:40 | 滞在記

 翌日の2月22日(火)に福州に戻りたかったが、昨晩の「元宵節」が終わり大学生たちが一斉に大学のある都市に戻るためか、長距離バスや新幹線のチケットは売り切れていたようだ。23日(水)の午後1時50分発の「福州行」長距離バスのチケットを買うことができたと、林さんのお母さんがチケットを渡してくれた。だから22日は、新しくできた「東門」「尤渓県博物館」「朱熹博物館」などを巡ることになった。昼は、林さんのおじいちゃんの家へ行くこととなった。
 尤渓県(ゆうけい けん)[中国読み:ヨウシー シエン]の中心の街「城関鎮」は、城壁に囲まれた「城市」だったが、城壁ののほとんどは壊されている。最近になって「東門」が再建された。(※中国では、「文化大革命時代の歴史的史跡否定」のため、全国各地の多くの歴史的史跡が破壊された経緯をもつ。ここ10年間でこれらの史跡復興・一部再建が進められてきているところが多い。観光産業興隆のねらいもある。)
 この日は、午前9時半ころに林さんの兄(林億)が車で来てくれた。車に乗車して、「東門」に行った。この門には何度が来ているが、いつ見てもいい門だ。

 城壁と門の前を川が流れている。泳ぐことができる程度、この川の水はきれいなのだが、昨日来の雨で濁っている。川の中に小さな中州があるが、よく見ると猫の額ほどの「畑」があった。野菜が植えられていた。近くに、かなりの年代物の塔が見える。車を駐車している所に戻り、おじいちゃんの家に向かった。兄(林億)さんの彼女も途中で同乗した。

 おじいちゃんの手料理や地元の「紅酒」(ホンジヨウ)を振る舞われた。おじいちゃんとは久しぶりの乾杯だ。「これを飲んでみて。」と持ってきたのが、「スズメバチの入った白酒(バイジョウ)」だった。手作りの酒だ。お土産に、手作り酒を2本も渡してくれた。

 午後、「朱熹が創設した書院(大学)跡地に再現された朱熹博物館」と「尤渓県博物館」に行った。前回は、゜第一次整備」の時期に訪れたのだが、今回は第二次整備が終了したあとだったので、とても充実した施設となっていた。ここは、朱熹生誕の地でもある。林さん父と親友の鄭さんも合流し、林さんの兄と私の4人での見学を始めた。

 徳川幕府時代の日本に多大な影響を与えたのが「朱子学」だ。朱子学の祖・朱熹は、南宋時代の1130年にここで誕生した。中国で「~子」といえば敬称にあたる。(※「朱熹」(しゅき)[中国読み・ジューシー)
 儒教は、古代中国の戦乱の時代に生まれた。孔子を中心に孔子学団が形成され、儒教思想が広まり始めた。その後の歴史で、孟子が儒教の新たな展開を試みている。そして、1100年代の南宋時代に至って朱熹が儒教の新たな展開として「朱子学」を提唱した。「朱子学」は、宇宙天体物理の学問的な理系と文系の両面を持ち合わせた儒教であった。(孔子➡孟子➡朱熹)
 朱熹の開設した書院があった当時の、樹齢800年以上の楠の木の巨木が2本、今も葉をつけている。

 次に隣接する「尤渓県博物館」に初めて入る。石器時代から近現代までの歴史的展示がされている。前日に行った「土堡」や民俗学的な「元宵節」に関する展示もあった。「石」の特別展も開催されていた。「風画石」がすばらしかった。
 中国はアメリカ(USA)とほぼ同じ面積があり、日本の25倍の面積をもつ広い国だが、33の省・自治区・特別行政区に行政区分がなされている。福建省はそのなかでも広い省ではないが、日本の「九州・四国・中国の各地方」を合わせた面積より少し広い約12万平方㌔。日本の3分の1の面積。人口は約3500万人。韓国(約9万平方㌔)よりも広い。面積・人口的には一つの国といってもいい。台湾に最も近い福建省は、歴史的にも日本とのつながりが古代より深く、日本で働く福建人も多い。
 日本では、行政区分は「県」➡「市町村」となっているが、中国では表現が逆だ。「省」➡「市」➡「県」(又は「市」※「市」の中に「市」がある。例えば「福建省福州市福清市○○鎮」など。)  そして、「県」の行政区分の中に➡「鎮」や「郷」がある。例えば、「福建省三明市尤渓県梅仙鎮」など。
 福建省には、「福州市」「厦門(アモイ)市」「泉州市」など九つの市があるが、尤渓県のある「三明市」もその一つだ。面積は約2万3千平方㌔で、京都府の5倍、新潟県の2倍の面積がある。そのほとんどが山地のため人口は約300万人と少ない。(※省都の「福州」は約700万人) 三明市には、12の県がある。「尤渓県」の面積は約3千5百平方㌔で、大阪府の2倍、奈良県や鳥取県とほぼ同じ面積で、7鎮6郷がある。人口は約43万人。地方大都市「福州」より 人々の様子が素朴であり、中心地のにぎやかな商店街を歩いていても なにかほっとさせられる。この街では、子供を背中に背負う「ネンネコバンテン」がよく見られる。この「尤渓県」は、741年の唐の時代に「県」が置かれた歴史をもつ。

 新しい「尤渓博物館」には、「中国共産党」による「人民解放軍」の郷土史のコーナーもあった。当時の「中国共産党」支配下の紙幣は、現在の毛沢東肖像の人民元紙幣ではなく「レーニン(ロシアの革命家)」肖像の人民元紙幣だった。蒋介石率いる国民党軍との「尤渓県」での戦いに勝利し、「尤渓城市」解放の様子を東門を背景に描かれた大きな絵画も展示されていた。


 ―「尤渓」に関する最近の記事より―
 ①「日本のうどんの起原は福建省尤渓、日本留学経験のある中国人が主張」―中国メディア(2015年2月)
 うどんで有名な日本の香川県では、奈良時代に弘法大師(空海)が中国から持ち帰った小麦と作り方・技法が起原だと伝えられてきた。長い間、中国のどの町から伝わったのか分かっていなかったが、中国の民間うどん研究家が故郷の福建省尤渓であると主張している。18日付で人民網が伝えた。
 中国のうどん研究家、傳樹華さんは1988年に留学生として来日し、日本語学校に通い出した。そこで、教わった日本のうどんを見て、故郷の尤渓で食べていた太麺にそっくりであることに気付く。早速、「日本のうどんは尤渓が起源だ゜」と訴えたが、クラス中に笑われた。
 1995年に帰国すると早速、うどんと尤渓の太麺との関連について調べ始めた。尤渓は朱子学の創始者、朱子の生まれた町。地元ではこの太麺は「朱子寿麺」と呼ばれ、少なくても700年以上の歴史を誇る。「日本のうどんはこの『朱子寿麺』に違いない」という傳さんの主張に地元当局も注目しているという。

 ※司馬遼太郎の歴史小説『空海』に詳しく描かれている空海は、中国渡航の際に舟が暴風雨に遭遇し、福州近郊の海岸に到着。その後福州に長期間滞在し、当時の中国の都であった「西安」に向かう途中、この「尤渓」を通過した可能性はある。(寺坂)

②「中国:福建省三明に危険廃棄物処理場を建設、住民1万人抗議」―外電(2015年12月)
[中国]福建省三明市尤渓県西浜鎮で1日、危険廃棄物の総合処理施設の建設が密かに進められているとして、住民約1万人が抗議行動を始めた。住民らは鎮政府の庁舎前で座り込みを行っている。外電が伝えた。
 住民は「鎮政府の欺瞞に抗議せよ」などと書かれた横断幕を掲げ、街中をデモ行進した後、鎮政府の庁舎前で座り込みを行った。庁舎前は住民で埋め尽くされ、周辺の交通が混乱したという。
 ある住民によると、問題の施設は最寄りの村落までわずか300m以内の位置に建設される。福建省内の9市で収集された腐食性、毒性、可燃性がある危険廃棄物30種類と、三明市の医療廃棄物を対象に、焼却・固体化した上で埋設処分する。
 住民に事前の通知はなく、着工の際に初めて公表されたという。1日にはデモ隊のほか、西浜鎮の数百軒の商店と露店がすべて営業をやめ、施設建設に抗議した。


 22日夜、林さんの家で、家族(林さんの父・母・兄)と鄭さん夫妻、兄の彼女、母の妹と私の8人で夕食をとりながら酒を飲む。この日は、健康のために早めに部屋に戻り休んだ。翌朝、林さん゜の父(林栄東)さんは自室で点滴をしていた。疲れから熱が出たようだ。
 午前中は授業に向けた仕事をし、寝込んでいる林さんや 犬の「トウトウ(名前)」に別れを告げ、再びおじいちゃんの家で昼食をとる。おじいちゃんの弟(福建省泉州在住)の家族という人たち5人が泊まっていたので、9人で一緒に食事をとった。
 二時発の満席の長距離バスに乗った。高速道路を走り、福州西駅(バスターミナル)に4時半に到着した。バスターミナルは、福建省各地などから戻ってきた大学生でごったがえしていた。
 日本語がわかる人がだれもいない環境での尤渓「二泊三日」の生活は、昨年の11月に続いて2回目の経験だった。かなり精神的にハードな経験なのである。林さんたち家族と鄭さんには本当に世話になった。感謝。