彦四郎の中国生活

中国滞在記

坂本城落城❷今、湖底に沈む城の石垣―明智の菩提寺:西教寺唐門に二体の向かい合う麒麟がある

2021-03-01 07:10:29 | 滞在記

 昨年、2月下旬に坂本城址に行く。「坂本城址」と書かれた大きな石碑が置かれた場所は小さな城址公園となっていて、明智光秀の立像や城についての説明板なども設置されていた。だが、この場所はかっての坂本城の城内ではなく、城のすぐ南方を流れる川(坂本城の天然の堀ともなっていた)の河口付近につくられた城址公園。

 かっての壮麗な坂本城の遺構らしきものはほとんど見ることはできない。ただ当時と同じような風景が広がる。琵琶湖東岸の安土城方面も望める。琵琶湖畔の砂浜に葦(よし)が群生し湖を渡る風が吹いていた。

 昨年6月中旬、再び明智城を訪れる。湖に沈んでいる本丸郭の石垣を見ることができるかもしれないからだ。事前に調べ、だいたいどこに行けば石垣が沈んでいるのか見当をつけて訪れた。今、本丸のあった場所を国道161号線が通っている。現在の下坂本地区にあった坂本城。161号線沿いには桔梗紋の書かれた歩道が。

 国道沿いに「明智塚」があった。城の落城時に自害したり戦死した者たちの遺骸を焼いて埋めた場所とされる。梅雨に入っているこの時期、塚のまわりのアジサイが雨に打たれていた。この明智塚は、かっての本丸の西南隅の櫓付近かと思われる。

 琵琶湖が異常渇水して水位がとても下がったことがあった。1994年の夏のことである。この時、琵琶湖湖畔に沈んでいた坂本城本丸の石垣が並んでいるものが水上・岸辺に出現し調査が行われた。

 昨年6月中旬に行った時は、時々の雨模様で、琵琶湖は少し強い風が吹き、湖面がさざ波を立てていた。ようやく石垣が沈んでいる場所を探し行きつく。小さな桟橋のようなところから湖面をのぞくと水面下1mほどのところに石垣が並んでいるのが見えた。湖面がおだやかならば、もっとはっきり見えるかと思う。坂本城跡の遺構は明智塚とこの湖底の石垣があるだけだった。

 昨年、下坂本の坂本城から北西に2〜3kmほどの所にある、比叡山山麓の宗教都市・坂本に何度か訪れた。この坂本にある西教寺。ここはかって、明智一族が帰依していた寺院。坂本城内にかってあった城門のひとつがここに移築されている。西教寺の山門がそれだ。本堂近くには、坂本城落城時に亡くなった明智一族の墓所や、光秀の妻・熙子の墓、熙子の実家・妻木一族の墓所などがある。また、熙子の「黒髪伝説」を詠った芭蕉の句碑もある。芭蕉もここを訪れたようだ。

 私の母は33歳で亡くなった。私が小学校に入学する2週間前の3月22日、心臓病による急死だった。49日の法要が終わり、母の遺骨の一部はここ西教寺に納められた。次いで、祖父母の遺骨も。そして、62歳で亡くなった父の遺骨もここに納められている。いずれ、私の遺骨もここに納められることになるかと思う。そんな縁もある西教寺。

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の麒麟。ここ西教寺の唐門を見上げると、向かい合う麒麟が二体彫られている。かって、光秀たちもここの麒麟を見たのではないかとも推測される。

 明智・妻木一族の墓所に近い境内に、「明智光秀公辞世句」の石板が置かれていた。石板横の説明によれば‥。

 「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」という漢詩の五言絶句。これは江戸時代の1693年に書かれた『明智軍記』に因るもので、山崎の合戦で敗れた光秀が、従士の溝尾庄兵衛に託して自刃したと伝わる。漢詩の大意は、「修行の道には順縁と逆縁の二つがある。しかし、これは二つに非ず、実は一つの門である。即ち、順境も逆境も、実は一つで、窮極のところ、人間の心の源に達する大道である。而してわが五十五年の人生の夢も醒めてみれば、全て一元に帰するものだ」と。

 光秀の深い教養と人生哲学をこの漢詩に感じる。句碑は明智顕彰会が建立したしたもので、毎年6月13日にはここ西教寺で光秀公を偲び法事を行っているようだ。明智一族、ここに眠る。

◆落城した坂本城は、山崎の合戦では羽柴秀吉方についた織田信長の重臣武将の一人丹羽長秀の居城の一つとなった。長秀は城を改修した。坂本城のさらに南方の交通の要衝・大津の地に、新しく「大津城」(水城)が築城され始めると、坂本城は破城とされ石垣や木材などが大量に大津城に運ばれた。1586年に大津城が完成し、坂本城は完全に破城となる。

 1600年の関ヶ原合戦の際、当時の城主だった京極高次による壮絶な西軍の1万5000とも3万ともいわれる大軍に対する籠城戦を大津城は闘う。この西軍は関ヶ原の合戦に参加できず、ここで10日間ほどくい止められた。これは、関ヶ原の戦いの前哨戦となり、天下分け目の合戦の帰趨を決めた要因の一つともされる。この大津城は、光秀の坂本城ととてもよく似ていた。江戸時代となり徳川家康は、この大津城を廃城とし、より東の琵琶湖湖畔に「膳所城」(水城)を築城した。

 大津城籠城戦を激賞された京極高次は、若狭国(福井県)を新しく拝領し、小浜城を築いた。この小浜城は石垣が見事に残る。この城も日本海に面した水城だった。(※高次は、滋賀県北西部の大溝城➡大津城➡小浜城を居城とした。いずれも水城だ。京極高次の妻は、浅井長政の三姉妹の次女・お江。)

 このように、明智光秀の築いた坂本城は、その後築城された水城の先駆をなす城郭であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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