彦四郎の中国生活

中国滞在記

丑の刻参り(呪いの藁人形)❶―南越前町甲楽城「二ノ宮神社」・中学3年生 夏の深夜のこと

2017-07-17 10:21:57 | 滞在記

 私の母校「河野中学校」は、私が中学生当時 各学年3クラスあった。私の家がある河野村「糠」集落から学校まで、約5kmほど。毎日、海沿いの道を歩いて 途中、「甲楽城(かぶらき)」という集落を経て、「今泉・河野」集落にある中学校まで登下校をしていた。

 冬の時期の12月上旬から2月下旬までの3カ月間、日本海の海は ほぼ連日荒れる。シベリアからの寒波で風雪の日も多い。この時期の登下校の楽しみの一つは、浜に打ち寄せられて「息絶え絶えになっている大きなイカ」を探すことだった。このイカは、地元では当時「モンゴルイカ」と呼ばれていた。日本海の向こうのロシアやモンゴルの方面から この地に流れ着くから「モンゴル」という名前が付くのだと信じられていた。今調べてみるとこのイカは、「紋甲イカ(モンコウイカ)」という名前であることを初めて知った。発音がモンゴルとよく似ている。寿司などの材料としても使われているようだが、肉厚のイカである。

 当時、糠地区の男子中学生は 登下校の道すがら 視線を海の浜辺に向けて歩き、このイカを探したものだった。大きなものになると1mあまりの体長があり、当時のお金で5000円くらいで売ることができた。一冬に運よく1匹ぐらいを見つけることができた。見つけた時の飛び上がるような胸の高まりは言葉に尽くせないほどだった。

 登下校途中の、甲楽城集落のはずれに「下長谷洞窟」という場所がある。この洞窟には、私が中学生時代には、集落の老人夫婦が暮らしていた。洞窟内に藁小屋を作って暮らしていた。なにか息子夫婦との難しい人間関係事情のため、ここに二人で暮らすことになったのだろう。

 この洞窟の云われを見ると、「1336年10月、新田義貞が後醍醐天皇の皇子である尊良(たかなが)・恒良(つねなが)両親王を守って、敦賀・金ケ崎城に2千の兵で立て籠もるも、足利尊氏軍10万に攻められ、翌1367年3月に城は落城。新田義貞の息子や尊良親王は自刀。敦賀気比神宮の神官により小舟に乗り脱出した恒良親王一行は、この地にたどり着き、隠れ住んだ洞窟」とされている。この洞窟の岩山の上の森には、両親王を祀った「二ノ宮神社」(村社)がある。7月11日の朝、渓流荘の友人宅に行った戻りに、この神社へ行った。

 この神社は、わけがあって50年間あまり 行ったことがない神社だった。「丑の刻(うしのこく)参り」(呪いの藁[わら]人形)の現場を見てしまったからだ。あれは中学3年生の夏休みの8月のことだった。当時、私は卓球部に入っていた。夏休み中は、高校受験に備えて「夏季補習」があった。この神社で夜中に藁人形をしている女がいるという噂を聞いて、同じ集落に住む卓球部仲間の同級生宮本と話をして、「見に行こけ」ということになった。

 夜中の12時半頃に、村の漁港付近で待ち合わせをして、隣村のはずれにある二ノ宮神社に向かった。20分ほどで神社の近くの海岸に着いた。「草木も眠る丑三つ時」とは、午前1時から3時ころまでの間だ。1時半ころに神社の階段を息を殺しながら登って行った。

 神社に近づくと、カーン・カーンという音がかすかに聞こえてきたので、身震いし怖くなった。引き返そうかと二人とも思ったが、最後の石段近くから、そっと神社の方を覗いてみると、音のする方向に 白い装束らしいものを着た人間の姿が見える。「うわっ!」あとは二人とも声にも出せなかった。「丑の刻まいり」を見てしまった。そっとそっと、階段を下りていった。後で知ったことだが、7日間にわたる「丑の刻まいり」の現場を他人に見られた場合、見た人間を殺さなければ、その呪いは自分に返って来るのだそうだ。

 私たちが中学生の時代の1960年代末、このあたりの漁村や農村は まだ 相当の田舎だった。交通手段も乏しく、陸の孤島的側面もあった。村社会という閉鎖された中で、「嫁姑(よめしゅうとめ)」の確執問題などは今では考えられないくらいに相当深刻な問題だった。人に対する呪いや憎しみは、どこの家庭にも多少はあったといえなくもない。このような丑の刻参りという行為は、昔から かなりあったのではないかと推測される。このような呪いを祈願する行為をするぐらいなら、村はずれに、老夫婦2人で家を離れて暮らすという方法の選択もありかなとも思った。

 神社からは、妊娠している女性が横たわるようにも見える敦賀半島や 遠く丹後半島が見える。1年前に約50年ぶりにこの神社を訪れた。怖い思いがずっとあって、トラウマとなって ずっと行くことを避けていた神社だった。

 12日に京都の自宅に戻り、「丑の刻まいり」のことを調べていたら、その発祥地の一つとして、京都の貴船神社のことが書かれていたので、行ってみようと思った。現代でも「この呪いの祈願」は行われているのだろうか。

◆続く

 

 

 

 

 


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