彦四郎の中国生活

中国滞在記

湖西(西近江路)―北陸路―越前海岸を行く❶―湖西の水城跡「大溝城」や白鬚神社のあたり―

2018-07-23 16:14:26 | 滞在記

 7月20日(金)の午後、京都から故郷・福井県越前海岸の家に帰るため、琵琶湖の湖西の道(161号線)をひたすら走る。琵琶湖と湖西の山々が最も狭くなる地区がある。そしてここには、「滋賀県で最も古い歴史を持つ大社」と言われる「白鬚(しらひげ)神社」がある。琵琶湖の中に水上の鳥居があり、最近では中国や台湾からここを訪れる訪日客もけっこう多い。JRを利用して近江高島駅まで到着し、歩いて20分ほどのこの神社の鳥居を見に来るのだ。この日も中国系らしい人たちが何グループか来ていた。酷暑の中 わざわざこんなところまで、本当にご苦労さんだと思う。

 この「JR近江高島駅」の近くに「大溝城(おおみぞじょう)」の跡があり、天守曲輪や天守台などの石垣が当時のまま残されている。この城は琵琶湖の内湖を城郭の縄張りに取り込んだ水城であった。今も城跡の周辺に内湖である「乙女池」がある。1578年に織田信長が甥の織田信澄に築城させたもので、縄張り設計は、同じく水城を坂本に築いた明智光秀と伝わる。

 この城には後に、浅井三姉妹の次女「お初」が夫となった京極高次と新婚時代に住んだ城でもあった。この大溝城から白鬚神社に至るまでの約3kmの道は、琵琶湖と山々の間が最も狭くなり、すぐに山々が琵琶湖に迫っている地区である。このため、この地区には古代より交通の関門・要衝の地ちとして山城が築城された。戦国時代にはここの要衝をおさえ、高島の地を支配する拠点としての「打下(うちおろし)城」が築かれた。5年ほど前にこの山城に登ってみたが、標高は379mの山頂を中心としたかなり大規模な山城だった。沢には細い川が流れ落ち、飲み水はここで確保することができる山城だった。少し石垣部分も残っていた。

 歴史好き・山城好きにはたまらない「幻の城」がある。城の名前は「水尾城(みおのき)」、古代の飛鳥時代に築かれた朝鮮式の山城だった。日本書紀にはこの城のことが記載されていて、壬申の乱(672年)の際に落城をしたことも記されている。歴史専門家や歴史愛好家などが地元の人を中心に長年の調査をしてきているようだが、いまだもってその所在地が特定されていない「幻の城」となっている。琵琶湖に山々が最も迫っている区間は約3kmあり、このどこに城跡を示す石垣群の跡はまだ発見されていない。

◆日本の古代山城―飛鳥時代の663年、「中国の唐と朝鮮の新羅」連合軍VS「日本(倭国)と百済と任那(日本の領土となっていた)」連合軍が戦った「白村江(はくすきえ)」の戦いで日本との連合軍は敗退した。その後すぐに百済や任那は滅亡した。このため、日本は、664年以降、日本への侵攻に備えて多くの山城を九州北部や瀬戸内海沿岸に築城をした。

 これらの築城では、日本に逃れてきた百済国の人々の技術を用いたため、「朝鮮式山城」が多く造られた。その特徴は、山全体を石垣で囲むという山城だった。現存が確認されているもので約30ほどが日本には残っている。(九州大宰府の山城「大野城」や岡山県の「鬼ノ城」など)  最近では、大阪府と奈良県の境に横たわる生駒山系にある「高安城」の石垣群が山中の斜面より発見されニュースとなったことがある。

◆この頃、国際情勢(東アジア)の変化を受けて、都が飛鳥の地から琵琶湖南岸の大津に移された。大津京である。この地の防衛のために新たに築城されたのが「水尾城」だった。672年に起きた壬申の乱の時、大津京に迫った大軍により、この城は陥落したと日本書紀は記している。(※上記写真は、福井と滋賀の県境近い「道の駅」より撮影。琵琶湖に突き出ている山々の先端部があたりが「水尾城」や「大溝城」のあるあたり。)

 


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