彦四郎の中国生活

中国滞在記

日本も原産国の一つ?「蓮」―福井県南越前町南条地区の「はすまつり」、南北朝時代の杣山城址

2022-07-22 07:57:59 | 滞在記

 7月17日(日)、午前中に祇園祭山鉾巡行などを見て、午後に1か月ぶりの帰省のために福井県南越前町に向かう。三連休の中日(なかび)のため、琵琶湖西岸の湖西道路はとても渋滞をしていた。福井県との県境に近い滋賀県高島市マキノ町のメタセコイヤ並木周辺の田んぼの稲が青々としていて見事な景観。実家のある南越前町河野地区に着くと、午後7時ころ日本海に夕日が沈んでいった。

 翌朝18日(月)、早朝7時半ころに家を出発し越前市に向かう。途中に見る水田風景が美しい。水田の中に蓮が開花しているところもあった。8時過ぎに高校時代の恩師の一人である滝澤先生(故人)の家[福井県越前市・武生市]に行き、仏壇に京都の阿闍梨餅を供える。高校時代に下宿をしていた道上家にも行き、阿闍梨餅を渡し近況を話す。9時過ぎに越前市市内の喫茶店で友人の山本君と会い、1時間余り話す。そして、南越前町南条地区にある「花はす公園」に向かった。

 南条地区の美しい水田の光景。花はす公園の近くには向日葵(ひまわり)畑があって、今が満開の時期を迎えていた。

 「はすまつり」(6/25~8/7)が開催されている南条地区の花はす公園に、たくさんの人が訪れていた。この花はす公園には約130種の蓮(はす)があるようだ。(まつり期間中、JR今庄駅から1日に7便のシャトルバスが運行されている。)

 睡蓮(すいれん)の原産地はアフリカのナイル川流域とされ、古代エジプト文明時代の絵画にもこの蓮が描かれてもいる。蓮(はす)の原産地はインドとされていて、日本には中国経由で仏教の伝来とともに平安時代までには伝わったと一般的には言われてもいるが、蓮は日本も原産地の一つという説もある。

 この7月中旬から下旬にかけてが、南越前町の花蓮(はなはす)は見ごろを迎えているようだ。

 ここには約130種類の蓮があるようだが、いったい世界にはどれだけの種類の蓮があるのだろうか。蓮の花言葉は、「清らかな心」「神聖」など。

 日本も蓮の原産国の一つなのだろう―2000年前の縄文遺跡から見つかり、発芽した、大賀蓮(はす)の種(たね)

 1951年、千葉県の縄文遺跡(落合遺跡)を発掘中に、地中から種が3つ発見された。植物学者の大賀一郎博士が、この種の発芽を試みたところ、2つは発芽しなかったが、1つの種から発芽が確認された。1952年のことであった。そしてその後、古代蓮は開花をした。2000年も前(発掘当時)の古代蓮。このころ、日本と中国やインドとはほぼ交流のない時代でもあったので、「日本も蓮の原産国の一つでは?」となった。この古代蓮は発芽を成功させた大賀博士の名前をとって「大賀ハス」と名付けられた。

 現在、全国30箇所あまりの地に、この古代蓮があり花を咲かせ続けている。(上記写真5枚は、「大賀はす」。この大賀ハスは、今、日本全国各地で見ることができる。南越前町の花はす公園でも見ることができる。京都市でも数箇所の池に。例えば、孫の寛太とよく散歩に行く、吉田山山麓の金戒光明寺の池にも大賀ハスが今開花している。他の蓮の花びらの開花のようすと少し違って、少し丸みをもった16枚余りの花びらが重なって開花しているのが特徴だ。)

 蓮の化石は北半球の各地で発見されていて、日本でも7000万年前〜1億年前の地層から蓮の葉の化石が発見されている。(佐賀県など) このことから見ると、蓮は、特にインドが原産地ということではないようだ。日本もその原産地の一つとみてまちがいないだろう。(仏教と蓮の関連が強く印象付けられて、インド原産説が広がったと考えられる。)

 南条地区の花はす公園の背後にある杣山(そまやま)。この峻険な山に、山城である「杣山城(そまやまじょう)城址」がある。そして山の麓には居館跡があり、土塁などもみられる。鎌倉時代末期に、地元の豪族・瓜生一族が城を造ったとされる。1333年、鎌倉幕府が滅亡すると、足利尊氏(北朝方)と新田義貞や楠木正成ら(南朝方)の戦いが始まる。1336年、新田義貞が後醍醐天皇の皇子である恒良・尊良両親王とともに敦賀の堅城・金ケ崎城に入ると、瓜生一族は新田義貞らを援護した。しかし、金ケ崎城が落城し、逃れた新田義貞軍はこの杣山城に瓜生一族とともに籠るも、1341年についに落城した。(1336年には、足利尊氏は京都・室町に幕府を開いた。)

 杣山城の本丸のある標高は492m、東御殿(東丸)、西御殿(西の丸)などの郭(曲輪)が山頂付近にあり、杣山の北方は断崖絶壁が続き、この方面からの攻城はまずできない。南方の絶壁が多い。麓の居館跡から本丸まで、徒歩1時間半あまりを要する、南北朝時代を代表する峻険な山城の一つだ。1575年の織田信長による越前国一向一揆攻めの際、木の芽峠城塞群を突破された一揆勢の一部はこの杣山城に逃れ、立て籠もって抗戦したとも伝わる。

(※私の故郷・南越前町には、他に「燧城(今庄地区)」「木ノ芽峠城塞群(今庄地区)」、「河野新城(河野地区)」、「柚尾城(南条地区)」などがある。)

 麓の居館があった場所付近には、一ノ城戸、二ノ城戸、そして堀跡が残る。ここ花はす公園のある谷は、当時、瓜生一族とその武士たちが住まう武家屋敷などがあった場所でもあった。そういう視点から見ると、戦国大名で越前国を領国とした朝倉氏の一乗谷城郭・館・城下町群(1471年―1573年)の先駆をなすところが、日野川の支流の一つ阿久和川が流れるこの谷筋の地区だったとも言えるかと思う。杣山城址は国指定の史跡となっている。

 7月18日のこの日、敦賀市の日本海市場に立ち寄り、親戚などに海産物を送った。三連休の最終日の交通渋滞を避けるため、滋賀県のマキノ町から303号線に入り、安曇川沿いの鯖街道を走り朽木・(花折峠)・京都大原とぬけて、京都市内に入った。銀閣寺近くの娘の家にも海産物を少し届けた。

 日本に滞在できるのもあと1か月たらずだろうか…?。大学から、8月下旬から9月上旬の中国渡航を強く要請され始めてきている。