多文化共生なTOYAMA

多文化共生とは永続的なココロの営み

外国人にとってちっとも楽にならない国際化 成果上がらぬ日本の「国際値」

2014-07-28 09:00:07 | 多文化共生
(以下、SankeiBizから転載)
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外国人にとってちっとも楽にならない国際化 成果上がらぬ日本の「国際値」
2014.7.27 06:00


 企業であろうと教育機関であろうと、「我々は国際化をしないといけない」とどこでも口を揃えて語る。 

 この1か月間の日本滞在中、至るところでこのセリフを聞いた。それは国際化したほうが良いだろう。閉鎖的なより開放されていた方がいい。

 ただ、ここでいう国際化には色々な思惑があるが、一つには、いわば「国際値」なるものの上昇を目指しているようだ。端的にいえば、外国の人と怖気づかずに仕事ができるようになりたい、というのが「国際値の上昇」だろう。

 それでは何をするのか。教育機関なら海外の提携校と交換留学生を増やしたい。しかし、海外での学生受け入れ先に日本に留学したい学生が沢山いる、というわけでもない。しかも日本側に英語の授業がないことも多い。双方の数字のバランスがとれないとシステムが成立しない。だから片思いになる。

 企業も自らの国際値をあげて何とか海外市場に商品を売りたい。

 政府の外国人観光客の誘致政策をチャンスとみた会社で、日本に観光で滞在する外国人が使うスマホのアプリを開発している。これを世界標準にしたい、と説明に熱が入る。そのためにも日本の企業や自治体に営業をかけているようだ。

 ぼくは、これは営業の方向が違うのではないか?と思った。日本に来る人たちが多い国でアプリを標準にすることが、最初の目標にならないとおかしい。短期滞在のために、初めてのアプリを使う人がそんなにいるはずがない。

 如何にそれまでに地元で使い慣れてもらうかとのアプローチがなく、日本の空港に降り立った瞬間から、そのアプリを使ってもらおうというのは無理がある。ユーザーの立場になっていない。

 外国人にとってちっとも楽にならない国際化だ。

 地域活性化活動でも同じである。自分たちの土地の活性化のために、外国とさまざまな接点を探るのは頼もしいようでいて、実は心もとない。例えば外国人の知恵やノウハウを期待する。だが、そのために自分たちが外国人に知恵やノウハウを提供することには考えが及ばない。

 他地域のアイデアや協力が欲しいなら、まず自らが他の地域に出向き、そこの土地が抱える問題の解決に協力してやろう、と思わないといけない。海外の地域に何か役立つことができないかとアプローチを試みることで、自分たちの解決策のヒントを得られるかもしれないし、相手方もお礼に協力したいという気持ちが芽生えてくる。

 このように、「国際値があがる」とは相手をともなったプロセスのなかで実現されていくものだ。自分だけで鍛えてどうにかなるものではない。しかし、実際には自分の目標を達成することばかりが念頭にあるケースが目につく。

 だから成果があがらないことおびただしい。

 結局のところ、「我々は国際化しないといけない」動機の多くが、世の中に流布する掛け声や役所の方針に従うことにあるので、体裁が先にくるのだろう。「国際化した風」であることに気が急ぐのだ。

 相手にされる海外の組織や人にとってはいい迷惑である。

 日本では、「人の立場になって考えさない」ということを小さい頃から繰り返し教えられる。思いやりは得意なはずだ。しかし、殊、こういう異なる文化とのつきあいになると、丁寧過ぎるか、まったく気を配らないかの両極端になる傾向が強い。

 もちろん海外の人にとっては、日本の組織や人がオープンで国際化されることは歓迎である。だが、その基本のところで手伝うことはないと考えている。ビジネスを有利に運ぶために圧力を加えることはあるが、マインドのあり方に直結するところまではつきあう気がない。

 いや、正確に表現するならば、マインドや文化に関与するデリケートな話題に他者は入りにくい。さらに言うならば、入るべきではないと考えている。

 「国際化したい」という前に一呼吸おいてみたいものだ。



 ローカリゼーションマップとは? 異文化市場を短期間で理解するためのアプローチ。ビジネス企画を前進させるための異文化の分かり方だが、異文化の対象は海外市場に限らず国内市場も含まれる。

 安西洋之(あんざい ひろゆき) 上智大学文学部仏文科卒業。日本の自動車メーカーに勤務後、独立。ミラノ在住。ビジネスプランナーとしてデザインから文化論まで全方位で活動。現在、ローカリゼーションマップのビジネス化を図っている。著書に『世界の伸びる中小・ベンチャー企業は何を考えているのか?』『ヨーロッパの目 日本の目 文化のリアリティを読み解く』 共著に『「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか? 世界で売れる商品の異文化対応力』。

外国人の生活保護受給は是か非か

2014-07-28 08:50:10 | 多文化共生
(以下、DIAMOND onlineから転載)
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外国人の生活保護受給は是か非か
最高裁判決を読み解く「共同体」というキーワード

2014年7月18日、最高裁において「外国人は生活保護法による保護の対象にはならない」という判決が下された。この判決は、何を意味しているのだろうか?

今回は予定を変更し、この最高裁判決について、憲法学者・笹沼弘志氏の見解を紹介する。そもそも、日本に在住する外国人が生活保護を利用できる根拠は何なのだろうか? それは、なくすべき運用なのだろうか?

最高裁は本当に
「外国人は生活保護の対象外」としたのか?

 2014年7月18日、最高裁第二小法廷において、「外国人は生活保護法による保護の対象にはならない」という内容の判決が行われた。毎日新聞によれば、下記のように報道されている。

生活保護訴訟:中国人女性の逆転敗訴確定 最高裁
毎日新聞 2014年07月18日 21時01分

 外国籍であることなどを理由に生活保護の申請を却下されたとして、永住資格を持つ中国人女性(82)が大分市の処分取り消しを求めた訴訟の上告審判決で、最高裁第2小法廷(千葉勝美裁判長)は18日、女性の訴えを認めた2審・福岡高裁判決(2011年11月)を破棄し、女性側敗訴の1審を支持した。女性側の逆転敗訴が確定した。小法廷は「生活保護法が適用対象とする『国民』は日本人を意味し、永住外国人にも準用される根拠は見当たらない」という初判断を示した。
(以下略)
 この判決を受けて、ネットでは「在日外国人は生活保護を利用することができない、と最高裁が判断した」という理解に基づいた感想が数多く見受けられる。

 現在、判決文全文はTBSラジオ「Session 22」のサイト内のページで読むことができる。直後、パーソナリティの荻上チキ氏が、この判決について番組内で取り上げたからだ。

 そもそも、最高裁が今回、改めて「生活保護法下で、外国人は生活保護法による保護対象ではない」としたわけではない。生活保護法第一条には

「第一条  この法律は、日本国憲法第二十五条 に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする。」

 とあり、対象は「日本国民」となっている。現在、永住外国人も生活保護の対象になっているのは、1954年の厚生省(当時)通達に、

「当分の間、生活に困窮する外国人に対しては一般国民に対する生活保護の決定実施の取扱いに準じて」必要ならば保護を行うことが指示されて現在に至っているからだ。

 生活保護、つまり公的扶助を日本国民に限定する国籍条項は、国際社会で問題とされてきた。1981年、日本が国連の難民条約を批准した際には、「永住外国人等にも生活保護は準用されている」という事実をもって生活保護法の国籍条項を改正しないままで難民条約を批准したという経緯もある。

 そして今回の最高裁判決は、

「以上によれば、外国人は、行政庁の通達等に基づく行政措置により事実上の保護の対象となり得るにとどまり、生活保護法に基づく保護の対象となるものではなく、同法に基づく受給権を有しないものというべきである」

 としている。つまり「生活保護法による保護の対象ではないけれども、厚生省通知による準用の対象ではある」と言っている。生活保護の申請が却下された時、日本人に対しては認められている審査請求の機会が外国人等に対してはないことも含めて、「現行の運用でよい」としているのだ。

憲法学者が見る
今回の最高裁判決の意味


笹沼弘志(ささぬま・ひろし)氏プロフィール/1961年生まれ。静岡大学教授、憲法専攻。野宿者のための静岡パトロール事務局長としてホームレスの人々や生活困窮者の支援にも取り組んできた。主な著書;『ホームレレス自立/排除』(大月書店、2008年)、『臨床憲法学』(日本評論社、近刊)、監修・著『えほん日本国憲法』(明石書店、2008年)など。
 憲法学者の笹沼弘志氏(静岡大学教授)は、今回の最高裁判決について、どう見ているだろうか?

「まず、枠組みの問題ですね。今までの外国人への生活保護の適用のされ方という枠組みがどうなっていたのか。今まで、法的に受給権があったのかどうか」(笹沼氏)

 現行の生活保護法は、対象を「日本国民」としている。

「そうなんですが、旧生活保護法では、『日本国民』という限定はありませんでした。昭和25年改正の生活保護法(新法)で『日本国民』と限定されたのは、日本国憲法との整合を取るためだといわれています。ですから、生活保護法新法のもとでは、外国人に受給権はないと見ることができます。ただし、外国人には準用されてきました。人道的措置として、生活保護法による保護と同様の内容の保護を、一方的に与えてきたという理屈です。今回の訴訟では、大分地裁の一審判決(2010年)は、外国人への生活保護を『贈与』としています。外国人からの生活保護申請は『贈与してください』という申し込みで、福祉事務所が『じゃ、あげますよ』と言ったら、その方には生活保護という『贈与』を受け取る権利が発生する。そういう考え方です」(笹沼氏)

 その後、2011年の福岡高裁判決では「一定範囲の外国人も生活保護法の準用による法的保護の対象となる」という考え方が示された。違いは「生活保護法の準用」を法的保護と見るか見ないかのみ、と言えるかもしれない。ただ、この「法的保護」であるかどうかは、却下された場合に異議申立ての権利があるかどうかを左右する大きな問題ではある。

 最高裁も、大分地裁の考え方を支持しているのだろうか?

「最高裁がどういう考え方をしているのかは、この判決文からははっきりしません。ただ、基本的には「外国人は行政措置として事実上保護の対象となるにとどまる」ということです。法的に請求権はないけれども、行政上の措置としての保護は実施することは適法。外国人も保護を受け取ることはできます。ただし、法的請求権がなく、行政の側が『出さない』といったときに『いや、ください』と言って争う資格がない。すべては行政の考え方次第。最高裁判決は、そこにとどまった内容です」(笹沼氏)

 では、そもそも外国人を公的扶助の対象とするのは是なのか非なのか。

「『外国人の生活保護』が問題なのではなく、『われわれの共同体をどう考えるか』という問題です。居住している外国人は、一緒に生活し、仕事している共同体の一員です。共同体の一員として、納税義務があり、権利も義務もあります。権利は認めず義務だけというのは、奴隷制度です。それは許されません」(笹沼氏)

 そもそも、在住外国人は、どのような人々なのだろうか。

「日本国の主権のもとに、この国に居住しているわけです。一過的な旅行者ではなく、一定期間以上居住しています。外国人であっても、平等な市民として、権利や義務を認められるべきなのです」(笹沼氏)

 在住外国人にも、日本国民と平等に、納税の義務はある。

「そうです。平等な市民として権利や義務が認められるべきという前提のもとに、年金制度も外国人に平等に適用するように変わっていきました。他の諸国でも、公的扶助は外国人にも認めています。正規の滞在資格があることに加えて、いくつかの条件はありますが。ただ、生存権を具体化した保護受給権のような権利を認めていない国もあります。たとえば米国は、保護受給権を正面から認めていません」(笹沼氏)

 国によるスタンスの違いも、議論を複雑にする。

「義務はあっても権利はない」の
行き着く先は社会不安

 少子高齢化が問題となりつづけている日本では、このところ、外国人労働者の受け入れ拡大に関する議論が盛んだ。日本政府は、技能実習生制度を介護・医療へと拡大しようとしている。

「でも、移民として地位を獲得させるわけではありません。労働は提供させるけれども、生活は保障しません。『技能実習終わったら、とっとと帰れ』ということです」(笹沼氏)

「出稼ぎ」以上の何でもない、ということだろうか。

「しかも、『実習』なので、最低賃金の縛りもありません。非常に都合よく使おうとしているわけです。これで、うまくいくのでしょうか? おそらく、『まったくうまくいかない』という現実に直面せざるを得ないと思います」(笹沼氏)

 前例はある。

「1990年代に、入管法の改正が行われました。当時は単純労働者が少なく、外国人労働者への需要がありましたから。そして、日系人には定住資格を与えて、単純労働もできることにしました」(笹沼氏)

 そしてブラジルなどから、多数の人々が日本に移住してきた。そして、東海地方を中心とした製造業の工場で働きはじめた。

「でも、移住してきた方々は人間です。一定期間であっても日本に移住するということは、家族生活を営むということでもあり、子どもに教育を受けさせる必要もあるということです。1990年代の日本は、その方々を労働力としては使うけれども、家族として生活を営むことについての制度整備はしませんでした」(笹沼氏)

 するとどうなるか。

「自治体レベルで問題が起こりました。外国籍の子どもたちの居場所がないんです。『外国人の子どもには義務教育が適用されない』という理由で、小学校・中学校にも行けない子どもが出てきます。そういう問題に、現場の自治体が直面したわけです」(笹沼氏)

 そして、自治体はどうしたか。

「浜松市では、自治体として、外国籍の子どもたちに対して、きちんと教育を受けさせる取り組みを進めてきたりしました。どうしても、そういう措置を取らざるを得ないんです。それをしないで『労働力としてだけ使う』ということはできません」(笹沼氏)

 そもそも、外国人が日本で暮らすとは、どういうことなのか。

「身体がありますから、住む場所が必要です。家族と一緒に暮らすのであれば、子どもの教育の整備が必要です。労働力である以上、事故や病気で労働力を失うこともあれば、職場を失うこともあります。そのときには最低生活の保障または職場の確保が必要です。何らかの手段で、最低生活条件を確保する必要があります。そうしないと死んでしまいますから。これは、そもそも公的扶助はどうして出来上がったかとも関係のある話です」(笹沼氏)

「社会保障」は「社会」のためのもの

 公的扶助は「恩恵」や「施し」なのか、それとも権利なのか。議論の尽きないところだ。国家レベルでも、公的扶助をはじめとする社会保障について「過重な負担である」「国家の義務である」と議論は尽きない。

「でも、生活困窮者に何もしないということは、その人は『生きていくためになんでもしなくてはならない』ということです。すると、社会不安が高まります。だから、社会不安を生み出さないようにする必要があります」(笹沼氏)

 社会不安に対する根本的な対策とは、どのようなものだろうか?

「たとえば、格差というものは社会的な不安を増大させます。19世紀には、『階級闘争』となりました。その教訓から、公的扶助や労災制度が生まれ、発達しました。公的扶助は、受給者を守るというよりは、社会の安定性を守るための制度です。社会の安定性を守るから、『社会』保障なんです。この根本的な問題に行き着きます」(笹沼氏)

「一緒に生きる仲間」と考えることから
始めるしかない

 話を、今回の最高裁判決に戻そう。外国人に対して「健康で文化的な最低限度の生活」の保障を行うことを止めたら、日本はどうなってしまうだろうか?

「外国人を労働者として使いながら、最低生活保障を行わないとすれば、19世紀の労働者と同じ状況を作るだけです。グローバル化が進んでいますから、国内だけでなく世界中で同じことが行われるわけです。日本資本が外国で、外国人労働者を日本人より低い賃金で雇用してきていますけれども、簡単に企業が『ボロ儲け』はできませんよね。労働問題も起これば、賃上げ要求もされます。それと同じことです」(笹沼氏)

 では、現在日本に居住している外国人の人々については?

「外国人の人々、かつて『日本帝国臣民』であった旧植民地の人々は、今、ともに日本に居住して生活しているわけです。旅行者ではないので、すぐにどこかに行く可能性はありません。一緒に暮らさざるを得ない存在です。

 2008年、『派遣切り』に遭ったブラジル人の中には、帰国支援制度を使ってすぐに帰国した人もいましたが、さまざまな事情から、日本に引き続き居ざるを得ない人々もいました。その人たちが『一緒に居住している共同体の仲間なんだ』ということから考え始めるしかないと思います」(笹沼氏)

 そもそも、憲法の及ぶ範囲そのものに、数多くの解釈の可能性がある。

「日本国憲法25条が『すべて国民は』という文言を使っているから生存権保障から外国人を排除していると解釈する文言説は既に否定されており、権利の性質によって外国人にも保障されるという「性質説」が通説とされています。地方参政権であれば外国人にも保障されるという考え方もあるわけですから、生存権が外国人に保障されるという考え方には説得力があると思います。したがって、憲法25条の理念に基づく生活保護法が外国人にも保護受給権を保障しているという解釈も成り立つはずです」(笹沼氏)

 結局は、「外国人」や「生活保護」という面だけに注目していたら、建設的に次のステップに結びつく理解はできない、ということだろう。「社会保障」とは? そもそも「社会」とは? 「共同体」とは? 「公共」とは? という根本的な問題から考え続ける必要がありそうだ。

 次回は、見直しが検討されている住宅扶助に関して、引き続きレポートする予定である。