1月下旬、妻が描く風景画の景色を求めて、倉敷美観地区へ行きました。
美観地区を流れる朝の「倉敷川」です。
川の向こうにある高い塀の向こうは「旧大原家住宅」のようです。
川の両岸にある木々に沢山の小鳥が忙しく動き回っていました。
メジロの小さな群れを見つけました。
絶えず動き回るメジロをやっと撮った写真です。
メジロの写真を拡大したものです。
ずんぐり系の愛くるしい姿が好きです。
子供の頃、春にメジロの大群に遭遇したことを思い出しました。
おびただしい数のメジロの大群が飛来、すぐ近くを飛び回る光景に、ワクワクしたものです。
観光案内や、無料休憩場もある「倉敷館」と倉敷川に架かる「中橋」です。
よく晴れ、観光客もまばらな平日の朝、妻の絵の川辺の街並みの風景探しです。
「凸凹堂」の看板のある東向きの店の屋根に大きな鳥が止まっていました。
「ゴイサギ(五位鷺)」のようです。
「ゴイサギ」が、東に向って飛ぶ飛行機を見上げているようです。
上空に飛行機雲風が見えますが、風のためか短時間で消えてしまいました。
拡大した「ゴイサギ」の写真です。
胸の羽が風でそり返り、なかなかオシャレな姿です。
■平家物語(巻第五)に「ゴイサギ」の名の由来があります。
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平安時代中期、醍醐天皇(60代天皇・在位897年~930年)が内裏近くの池のほとりにいる鷺を見つけ、そばに仕える六位の蔵人(秘書官)に鷺を捕まえるよう命じられたました。
鷺に近づいた蔵人は、鷺が飛び立とうとした時、「宣旨(天皇の命令)である!」と叫ぶと鷺は固まり、おとなしく捕まったそうです。
天皇は、従順に宣旨に従った鷺を誉め、「五位」※の位を与えて「鷺の中の王である」という札を付けて開放されたと言うお話です。
天皇の気まぐれとも思える命令に従い、鷺を捕まえた蔵人は、自分より上の位を鷺に与えられ、さぞかし悔しかったと思われます。
しかし、天皇は、いやいやながら命令に従う蔵人を見抜かれ、「五位」の階位を判断されたとも考えられ、この命令や、階位には日頃のストレス解消が込められていたのかも知れません。
「五位鷺」の名に、遊び心あふれる醍醐天皇のお人柄を想うと親しみを感じます。
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※五位:古代から続く律令制で、個人の地位を定めた位階制度の30ランク(正一位~少初位下)の内、11~12番目の位階のようです。
■醍醐天皇の時代(脱線気味の補足です)
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醍醐天皇の治世34年間は、先帝宇田天皇に続き、摂政・関白を置かず、後世「延喜の治」と讃えられた天皇親政の時代です。
南北朝時代の後醍醐天皇も範とした治世としても知られています。
しかし、父である宇多上皇も政治的な影響力を持ち、政治の実務は左右大臣の藤原時平・菅原道真に任せて親政はある程度形式的なものだったようです。
藤原時平の讒言で、菅原道真を大宰府の権帥に失脚させ、道真が失意の中で亡くなったのも醍醐天皇の時代でした。
その後に天皇の長子保明親王や、その子が続いて亡くなり、藤原時平も39歳で亡くなったことが菅原道真の怨霊によるものと考えられたようです。
道真の名誉回復をし、慰霊したものの、遂に清涼殿に落雷があり、その後まもなく崩御されています。
大宰府天満宮や、各地の天満宮に菅原道真が天神様として祭られて慰霊されるようになったのもこの時代からのようです。
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南の橋を渡って向いの岸に歩いて行きましたが、まだ「ゴイサギ」は同じ場所にいました。
時々、小さく身体を動かしていましたが、移動はしていません。
「ゴイサギ」は夜行性と言われ、昼間はウトウトしているのでしょうか。
同じ日の午後、吉備津彦神社の池で「ゴイサギ」に会いました。
めったに出会わない「ゴイサギ」に1日に2度も出会うとは、奇遇です。
天皇から五位の階位を与えられた幸運な「ゴイサギ」にあやかりたいと、ささやかな願いを込めて撮った写真です。
美観地区を流れる朝の「倉敷川」です。
川の向こうにある高い塀の向こうは「旧大原家住宅」のようです。
川の両岸にある木々に沢山の小鳥が忙しく動き回っていました。
メジロの小さな群れを見つけました。
絶えず動き回るメジロをやっと撮った写真です。
メジロの写真を拡大したものです。
ずんぐり系の愛くるしい姿が好きです。
子供の頃、春にメジロの大群に遭遇したことを思い出しました。
おびただしい数のメジロの大群が飛来、すぐ近くを飛び回る光景に、ワクワクしたものです。
観光案内や、無料休憩場もある「倉敷館」と倉敷川に架かる「中橋」です。
よく晴れ、観光客もまばらな平日の朝、妻の絵の川辺の街並みの風景探しです。
「凸凹堂」の看板のある東向きの店の屋根に大きな鳥が止まっていました。
「ゴイサギ(五位鷺)」のようです。
「ゴイサギ」が、東に向って飛ぶ飛行機を見上げているようです。
上空に飛行機雲風が見えますが、風のためか短時間で消えてしまいました。
拡大した「ゴイサギ」の写真です。
胸の羽が風でそり返り、なかなかオシャレな姿です。
■平家物語(巻第五)に「ゴイサギ」の名の由来があります。
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平安時代中期、醍醐天皇(60代天皇・在位897年~930年)が内裏近くの池のほとりにいる鷺を見つけ、そばに仕える六位の蔵人(秘書官)に鷺を捕まえるよう命じられたました。
鷺に近づいた蔵人は、鷺が飛び立とうとした時、「宣旨(天皇の命令)である!」と叫ぶと鷺は固まり、おとなしく捕まったそうです。
天皇は、従順に宣旨に従った鷺を誉め、「五位」※の位を与えて「鷺の中の王である」という札を付けて開放されたと言うお話です。
天皇の気まぐれとも思える命令に従い、鷺を捕まえた蔵人は、自分より上の位を鷺に与えられ、さぞかし悔しかったと思われます。
しかし、天皇は、いやいやながら命令に従う蔵人を見抜かれ、「五位」の階位を判断されたとも考えられ、この命令や、階位には日頃のストレス解消が込められていたのかも知れません。
「五位鷺」の名に、遊び心あふれる醍醐天皇のお人柄を想うと親しみを感じます。
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※五位:古代から続く律令制で、個人の地位を定めた位階制度の30ランク(正一位~少初位下)の内、11~12番目の位階のようです。
■醍醐天皇の時代(脱線気味の補足です)
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醍醐天皇の治世34年間は、先帝宇田天皇に続き、摂政・関白を置かず、後世「延喜の治」と讃えられた天皇親政の時代です。
南北朝時代の後醍醐天皇も範とした治世としても知られています。
しかし、父である宇多上皇も政治的な影響力を持ち、政治の実務は左右大臣の藤原時平・菅原道真に任せて親政はある程度形式的なものだったようです。
藤原時平の讒言で、菅原道真を大宰府の権帥に失脚させ、道真が失意の中で亡くなったのも醍醐天皇の時代でした。
その後に天皇の長子保明親王や、その子が続いて亡くなり、藤原時平も39歳で亡くなったことが菅原道真の怨霊によるものと考えられたようです。
道真の名誉回復をし、慰霊したものの、遂に清涼殿に落雷があり、その後まもなく崩御されています。
大宰府天満宮や、各地の天満宮に菅原道真が天神様として祭られて慰霊されるようになったのもこの時代からのようです。
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南の橋を渡って向いの岸に歩いて行きましたが、まだ「ゴイサギ」は同じ場所にいました。
時々、小さく身体を動かしていましたが、移動はしていません。
「ゴイサギ」は夜行性と言われ、昼間はウトウトしているのでしょうか。
同じ日の午後、吉備津彦神社の池で「ゴイサギ」に会いました。
めったに出会わない「ゴイサギ」に1日に2度も出会うとは、奇遇です。
天皇から五位の階位を与えられた幸運な「ゴイサギ」にあやかりたいと、ささやかな願いを込めて撮った写真です。