北海道旅行3日目 6/5(日)根室港を見下ろす「金刀比羅神社」を後にして根室半島の先端「納沙布岬」を目指しました。
根室市外から道道35号納沙布岬へ向かう途中、なだらかな平原の向こうに風力発電の風車2基が見えてきました。
左手はノッカマップ岬で、風車を過ぎると道は右にカーブし、東側の海岸線が見えてきます。
最近の電力不足問題で、電力需要の午後のピーク時間帯に、供給余力が10%以上必要などとシビアな話を聞くと、改めて安定供給の大切さを教えられました。
昨年の北海道旅行で、「宗谷丘陵」「サロベツ原野」付近に立並ぶたくさんの風車に頼もしさを感じたものでしたが、曜日や、時間帯で変動する電力需要に安定的に供給する話を聞くと見方が変わります。
気まぐれな風や、日光に依存する自然エネルギー発電を増やすことが、今後の解決策になるのか疑問が湧いてきます。
こんな悩みも自然環境で生きる動物ではなくなった人間の宿命でしょうか。
根室半島と、ノッカマップ岬付近の拡大地図です。
海岸線に沿って細長く続く目立たない岬ですが、東端には「根室半島チャシ跡群」と書かれています。
ノッカマップ岬の東には「北方原生花園」があります。
海岸の美しい風景が見えて来て、道路脇の広くなったスペースに駐車しました。
道路わきに「ノッカマフ1号・2号チャシ跡 200m」と書かれ、岬の東端方向を指し示した案内標識がたっていました。
「チャシ」とは16世紀頃からアイヌによって造られた砦のような施設で、宗教的な役割もあったようです。
周囲に空壕があるようですが、チャシは見晴らしのよい高台にあることが多く、平地の続く根室半島では三方を海に囲まれた岬の地形が選ばれたものと思われます。
防衛や、宗教的役割を持つ施設と聞くと、沖縄の「グスク」を連想します。
標識が指す方向には草原が続き、道は見当たりませんでした。
道路から草原に直角に突き出した土を盛ったスペースの先には二本の鉄柱が立ち、鎖で通行止めになっています。
青い屋根の小屋のやや左にノッカマップ岬の東端が見え、そこに案内標識に書かれた「ノッカマフチャシ跡」があるものと思われます。
1789年(寛政元)、北海道東部で抑圧されていたアイヌが蜂起し、和人71人が殺害される「クナシリ・メナシの戦い」が発生しました。
事件は、根室半島の北に浮かぶ(クナシリ)国後島から始まり、西の対岸メナシ(知床半島の南部羅臼町から標津町)に広がったとされています。
蝦夷地での交易を支配する松前藩は、総勢約300人の武士内、260人の鎮圧隊を編成、大砲3丁・鉄砲85丁を装備した陣容で、約2ヶ月をかけてこの地に到着したとされています。
周辺のアイヌの首長たちの協力を得て、首謀者など37人を捕らえて臨時の牢屋に入れ、処刑したのが「ノッカマフチャシ跡」付近だったようです。
処刑は一人ずつ刀で首をはねる方法で、6人目となった時、牢屋の中で騒ぎが大きくなり、牢屋が壊れる程になったので、鎮圧隊は、鉄砲を撃ち込み、槍で刺すなど凄惨な殺害を行ったようです。
ノッカマップ岬の東端に小さな入り江があり、美しい風景が広がっていました。
事件から約200年後の今、国後島や、羅臼・標津に住んでいた交易相手のアイヌの姿はほとんど見られなくなり、社会は様変わりしてしまいました。
そこにはアイヌに代わり、日本人や、ロシア人が住み着いていますが、これも自然界でも見られる弱肉強食の一面なのでしょうか。
「クナシリ・メナシの戦い」の後、鎮圧に協力したアイヌ44人を引き連れて松前城へ凱旋、蠣崎廣年(波響)によって「夷酋列像」(12人のアイヌ首長の絵)が描かれ大きな話題となったようです。
旅行6日目に行った松前城天守閣の最上階に展示されていた「夷酋列像」のひとつ、ノッカマップの首長「ションコ」の絵です。
年老いて曲がった背、目の表情、着物の背中を中心に龍が描かれているのが印象的です。
12人の首長の絵は、当時の人々に強烈な印象を与え、江戸や京都で大きな話題となり、ついには当時の光格天皇の天覧を受けるまでに至ったとされています。
明かり窓の光が映り、見えずらくなっていますが、蠣崎波響(廣年)「夷酋列像」(御味方蝦夷之図)の絵は函館市中央図書館のサイトでも見られます。
しかし、首長の衣装は、松前で着せられたもので、アイヌ首長の現実の姿ではなかったようです。
ロシアの外套を着せた絵もあり、異民族を支配する松前藩を誇示する意図があったのでしょうか。
■絵に添えられていた説明文です。
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ションコ(贖穀)
東部ノッカマップ(根室)の総指導者。
威厳があり、深い知恵にあふれ貧しいアイヌを救ったという。弓術が巧みで常に携えていた。
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広い原野と、木道が続く北方原生花園の入口です。
木戸は、金具の他、二ヶ所にロープで戸締りされて、柵の中で放し飼いされているポニーの糞の臭いも少しただよっていました。
■柵の木戸に案内板がありました。
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お願い!
花園内には、ポニーが放牧されています。
ポニーが逃げないように、出入りの時は必ずカギを閉めてね!
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「北方原生花園」の木戸の横の風景です。
「ヒオウギアヤメ」の株が多く見られましたが、開花には早かったようです。
向うにはミズナラ風衝林が見えています。
根室市街から来る途中、道路脇で見た風衝林で、珍しい風景と思い、駐車して撮った写真です。
強い風に耐えて斜めに立つ低木の枝は、曲がりくねりゴツゴツしています。
北方原生花園の入口の東側に水芭蕉が咲いていました。
この辺りは谷のように低い湿地が続いています。
美しい水芭蕉の花です。
今年のゴールデンウテークに能登半島で自然に咲く水芭蕉を初めて見て、6月の北海道の各地でも終わりかけた花を見ましたが、ここでは最盛期の美しさが見られました。
根室市外から道道35号納沙布岬へ向かう途中、なだらかな平原の向こうに風力発電の風車2基が見えてきました。
左手はノッカマップ岬で、風車を過ぎると道は右にカーブし、東側の海岸線が見えてきます。
最近の電力不足問題で、電力需要の午後のピーク時間帯に、供給余力が10%以上必要などとシビアな話を聞くと、改めて安定供給の大切さを教えられました。
昨年の北海道旅行で、「宗谷丘陵」「サロベツ原野」付近に立並ぶたくさんの風車に頼もしさを感じたものでしたが、曜日や、時間帯で変動する電力需要に安定的に供給する話を聞くと見方が変わります。
気まぐれな風や、日光に依存する自然エネルギー発電を増やすことが、今後の解決策になるのか疑問が湧いてきます。
こんな悩みも自然環境で生きる動物ではなくなった人間の宿命でしょうか。
根室半島と、ノッカマップ岬付近の拡大地図です。
海岸線に沿って細長く続く目立たない岬ですが、東端には「根室半島チャシ跡群」と書かれています。
ノッカマップ岬の東には「北方原生花園」があります。
海岸の美しい風景が見えて来て、道路脇の広くなったスペースに駐車しました。
道路わきに「ノッカマフ1号・2号チャシ跡 200m」と書かれ、岬の東端方向を指し示した案内標識がたっていました。
「チャシ」とは16世紀頃からアイヌによって造られた砦のような施設で、宗教的な役割もあったようです。
周囲に空壕があるようですが、チャシは見晴らしのよい高台にあることが多く、平地の続く根室半島では三方を海に囲まれた岬の地形が選ばれたものと思われます。
防衛や、宗教的役割を持つ施設と聞くと、沖縄の「グスク」を連想します。
標識が指す方向には草原が続き、道は見当たりませんでした。
道路から草原に直角に突き出した土を盛ったスペースの先には二本の鉄柱が立ち、鎖で通行止めになっています。
青い屋根の小屋のやや左にノッカマップ岬の東端が見え、そこに案内標識に書かれた「ノッカマフチャシ跡」があるものと思われます。
1789年(寛政元)、北海道東部で抑圧されていたアイヌが蜂起し、和人71人が殺害される「クナシリ・メナシの戦い」が発生しました。
事件は、根室半島の北に浮かぶ(クナシリ)国後島から始まり、西の対岸メナシ(知床半島の南部羅臼町から標津町)に広がったとされています。
蝦夷地での交易を支配する松前藩は、総勢約300人の武士内、260人の鎮圧隊を編成、大砲3丁・鉄砲85丁を装備した陣容で、約2ヶ月をかけてこの地に到着したとされています。
周辺のアイヌの首長たちの協力を得て、首謀者など37人を捕らえて臨時の牢屋に入れ、処刑したのが「ノッカマフチャシ跡」付近だったようです。
処刑は一人ずつ刀で首をはねる方法で、6人目となった時、牢屋の中で騒ぎが大きくなり、牢屋が壊れる程になったので、鎮圧隊は、鉄砲を撃ち込み、槍で刺すなど凄惨な殺害を行ったようです。
ノッカマップ岬の東端に小さな入り江があり、美しい風景が広がっていました。
事件から約200年後の今、国後島や、羅臼・標津に住んでいた交易相手のアイヌの姿はほとんど見られなくなり、社会は様変わりしてしまいました。
そこにはアイヌに代わり、日本人や、ロシア人が住み着いていますが、これも自然界でも見られる弱肉強食の一面なのでしょうか。
「クナシリ・メナシの戦い」の後、鎮圧に協力したアイヌ44人を引き連れて松前城へ凱旋、蠣崎廣年(波響)によって「夷酋列像」(12人のアイヌ首長の絵)が描かれ大きな話題となったようです。
旅行6日目に行った松前城天守閣の最上階に展示されていた「夷酋列像」のひとつ、ノッカマップの首長「ションコ」の絵です。
年老いて曲がった背、目の表情、着物の背中を中心に龍が描かれているのが印象的です。
12人の首長の絵は、当時の人々に強烈な印象を与え、江戸や京都で大きな話題となり、ついには当時の光格天皇の天覧を受けるまでに至ったとされています。
明かり窓の光が映り、見えずらくなっていますが、蠣崎波響(廣年)「夷酋列像」(御味方蝦夷之図)の絵は函館市中央図書館のサイトでも見られます。
しかし、首長の衣装は、松前で着せられたもので、アイヌ首長の現実の姿ではなかったようです。
ロシアの外套を着せた絵もあり、異民族を支配する松前藩を誇示する意図があったのでしょうか。
■絵に添えられていた説明文です。
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ションコ(贖穀)
東部ノッカマップ(根室)の総指導者。
威厳があり、深い知恵にあふれ貧しいアイヌを救ったという。弓術が巧みで常に携えていた。
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広い原野と、木道が続く北方原生花園の入口です。
木戸は、金具の他、二ヶ所にロープで戸締りされて、柵の中で放し飼いされているポニーの糞の臭いも少しただよっていました。
■柵の木戸に案内板がありました。
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お願い!
花園内には、ポニーが放牧されています。
ポニーが逃げないように、出入りの時は必ずカギを閉めてね!
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「北方原生花園」の木戸の横の風景です。
「ヒオウギアヤメ」の株が多く見られましたが、開花には早かったようです。
向うにはミズナラ風衝林が見えています。
根室市街から来る途中、道路脇で見た風衝林で、珍しい風景と思い、駐車して撮った写真です。
強い風に耐えて斜めに立つ低木の枝は、曲がりくねりゴツゴツしています。
北方原生花園の入口の東側に水芭蕉が咲いていました。
この辺りは谷のように低い湿地が続いています。
美しい水芭蕉の花です。
今年のゴールデンウテークに能登半島で自然に咲く水芭蕉を初めて見て、6月の北海道の各地でも終わりかけた花を見ましたが、ここでは最盛期の美しさが見られました。