加賀の旅人

郷土の凧と歴史の狭間に埋もれた凧の歴史を尋ねる旅人です。

9.神戸ふれあい全国凧あげ大会

2014年03月19日 | 阪神淡路大震災のプレゼント凧作り

 


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平成
839日(土)「神戸ふれあい全国たこ上げ大会」の当日、プレゼント凧製作に協力した頂いた有志の方々と一緒に内灘町のマイクロバスに乗り神戸の須磨海岸へと向かった。

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その当時の体験を日本の凧の会会報に投稿したので転記する。

 『阪神・淡路大震災復興チャリティ凧』

 「揚がっとる!」 目ざとく、自分達の作ったエイ凧を見つけ、まだ 動いている車から、おりた そうな、内灘ボランティアの「父ちゃん」、「母ちゃん」達。 3月9日早朝、内灘町教育長、職員とボランティア一行15名は、教育委員会提供のマイクロバスで一路、神戸へと車を走らせました。
 
名神高速を南下し、西宮ICを降り43号線を走り始めたとき、饒舌であった車内は、悲痛とも思われる溜め息が多くなり、ほとんど絶句状態になりました。
 
六千余百名もの尊い人命を瞬時に奪い、多くの建物を倒壊させ、今も尚、仮設住宅での不自由な生活を強いられている人達のことが、テレビで観た画面上の事と車中から見える風景がオーバーラップし、自分の心が段々暗くなるのを禁じえませんでした。
 

「子供たちにプレゼントする凧を提供して欲しい」大阪支部の橋本会長から依
頼を受けたのは、相良町での秋季本部大会のことでした。
 
暦も、残り少なくなった師走のある日、産経新聞から、一通の封書が届き、私達の凧のボランティアが始まりました。
 
去年からの二年越しの宿題を抱えての正月は、被災された人達の事が、急に親密度を以て感じられ、お屠蘇気分もそこそこに、凧の形、枚数の事だけで頭の中が一杯の日が過ぎていきました。
 今まで、大凧の製作に指導協力したことのある人達や、凧をしている私に理解を示してくれる人達に相談すると、全面的に協力してくれると言い、資金援助の申し出まであり、胸が熱くなる思いでしたが、自分たちの出来る範囲ですることにしました。
そして、大凧しか作った事のない人達に、四ヶ所で講習会を開き、プレゼント凧を作ってもらいました。
 
最初は、「わしらに、つくれるかいね?」で始まったのですが、段々時間がたつと「まだまだ少ないがいや」と盛り上がり、枚数が多くなることを期待して、最初から市販の竹ヒゴ、平竹を使ったので、追加、追加の大繁盛でした。
 
大凧作りは慣れているものの、小さな凧は、初めてとあって、神戸より、出来上がった凧を揚げたい一心のお父さん。家へ帰って孫に作ってやりたいと、材料を注文するお婆ちゃん、ミッキーの絵に彩色している顔が子供よりイキイキのお母さん。
 
糊が完全に乾いていないのに外へ出て揚げたいとウキウキ……全員でした。「あれ、見まっし!。簡単に揚がるがいねー。はよう、うち行って、作ってみんなんわいね、忘れんうちに」(あれを見てごらん、簡単に揚がりますね、早く家に帰って作りましょう、忘れないうちに)
 
 今回は、内灘町長のデザインした町をイメージしたダイヤ凧を600枚印刷して頂き、そのうちの535枚を有志のボランティアで組立し、各町内会の製作したエイ凧を170枚、その他町内の凧愛好者から97枚、その他18枚で合計820枚の凧を阪神の被災された子供たちへ贈ることができました。
 これは、ボランティアと各町内会の方々の協力もありましたが、心暖まる行政の計らいで、当初200枚予定のダイヤ凧が533枚とふくれ上がりました。
 
ダイヤ凧の尻尾には、内灘町の小学校の児童から被災地の子供たちへと、メッセージが書かれています。これは、被災した子供たちにプレゼント凧をとの取り組みが、マスコミに何度となく取材され、神戸と内灘町の絆が凧の糸でしっかり結ばれた様に思えました。

 内灘町で凧あげが始まって8年目、当初は大凧作りが盛んで、私も、大会近くには毎日のように公民館で大凧製作に励んでいました。
 
しかし、内灘町の凧の団体とは求めるものが自分とは合わず、以後は、自分自身のために凧を作り、凧を揚げたいと思うようになり、妻と、二人の凧行脚を始めました。とはいえ、大凧の醍醐味を知っている私は、依頼された所へは、百パーセント協力してきました。仕事より優先させたきらいもあるくらいです。
 
他県の凧揚げに参加するときは、弁慶の法被を着て、目立ちたがり屋になり、内灘では、極端に活動を狭めていたために、小さい凧に興味を示す人が多いことに気がつきませんでした。
凧を作るのが嫌とか、揚げるのが嫌というのではなく、作りたい時に自分で作り、一人ででも揚げたい人が沢山いることは、発見でした。
 毎年、大会のための大凧一枚は、町会の役に当たったからと、義務的に作っている所が多いことは、何年たっても変わっていません。大凧を作ることは、私も凧を始めたときから大凧を作ってきたので否定するものではありませんが、地域に根ざした凧の活動がなかった中で、内灘町の中での幾つかの公民館に、エイ凧作りを指導し、揚がったときの楽しさを分かってもらえたことが、私自身の小さなボランティアだったとも思っています。
 皆で作ったエイ凧、一枚一枚は、小さな凧ですが、互いの糸目をしっかり合せ、ボランティアとしての手ごたえを十分感じました。

 

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