梅之芝居日記

歌舞伎俳優の修行をはじめてから15年がたちました。
日々の舞台の記録、お芝居ばなし等、お楽しみ下さい。

巡業日記15・新湊の巻

2005年07月16日 | 芝居
今日は富山県新湊市の『新湊市中央文化会館 大ホール』での一回公演でした。
朝十時十分にホテル前から出発の貸切バスでの移動。すぐ近くの金沢駅に立ち寄って、お昼ご飯用に駅弁を買ってから乗り込みました。会館に到着し、楽屋作りをしてから頂きましたが、金沢の駅弁の定番『利家御膳』、なかなか美味しゅうございました。江戸時代の加賀藩の武家料理をアレンジしたものとのこと。煮物や焼き物、酢の物などに二種類のご飯、それに可愛い大福もついております。

さて本日はこの巡業の「中日」でございました。巡業中も、普段の公演と変わらず、御祝儀を頂いたり、こちらからお渡ししたりいたします。
ついに折り返し地点ですね。今回の巡業は、「移動日」「休演日」が昨年の東西コースの時よりも多く、一回公演の日も多かったので、なんだかあっという間に過ぎてゆく感じです。ゆとりのある日程のお陰で体調も良く、有り難いことです。

今日は先述の通り一回公演でしたので、新湊の街は全然散策できませんでした。とりたててお話するような出来事にも巡り会わなかったので、「与三郎の傷」に引き続いて「手拭」のお話をさせて頂きましょう。
御存知とは思いますが、『源氏店』の与三郎は<豆絞り>の手拭で頬かむりをしております。偶然ゆすりに入った家の女が、昔の恋人、お富と知って、「御新造さんえ、おかみさんえ、お富さんえ、イヤサお富、久しぶりだなア」のセリフで、おもむろにその頬かむりを外すと、額、頬に傷を残した与三郎の顔がようやくあらわになる。実に効果的な演出です。
この頬かむりは、カツラの髷の後ろが少し出るくらいに手拭を乗せ、両端を捻りながら鼻先に持ってゆき、頬の所で挟んでできあがりとなります。端を挟むのは師匠梅玉が自分でするのですが、それ以外は床山さんが担当いたします。床山さんは基本的に、カツラに関わるもの全て(冠でも、頭巾でも)を受け持ちますからね。端を捻ってゆくにしても、きれいにヒダをとるようにまとめてからでなければ格好がつかないわけですし、かぶる本人では手が届かない所にも注意を払わねばなりません。本人の手だけではなく、床山さんの技術とで作り上げるものなのです。ちなみに捻る部分にはあらかじめ霧を吹いておき、しんなりとまとまりやすくしておきます。

頬かむりの命は「折り目」です。手拭の丁度半分の所に縦に折り目をつけ、これを額の中央に合わせてかぶることで、出来上がった時、眉の端から額にかけて、手拭の縁で綺麗な山形がつくられます。この山形の頂点、つまり折り目の部分がピッシリ鋭角的になることで、粋な感じが出るのです。この鋭角な山形を作るために、アイロンでしっかりと折り目をつけるのですが、折り目の部分と、山形を作っている部分には洗濯ノリを薄くかけて、形が決まりやすいようにしております。それから、折り目を頂点とする左右の二辺が、内に反るようになっていたほうが良いので(漢字の<人>みたいに)、折り目をつけた後いったん広げて、改めて折り目の左右をアイロンします。
気をつけなくてはいけないことは出来上がりの形が<人>ではなく、<入>のように、頂点がどちらかへ寝てしまうことで、これだと頬かむりした時にも形が悪くなってしまうのです。ですのでアイロンをよく気をつけてかけ、アイロン後は針金ハンガーに吊して保管します。

傷にしましても手拭にしましても、師匠の芝居に関わるものを扱うのは、責任もありますし大変ですが、これも一つの芝居づくり、楽しい作業でもあります。

巡業日記番外・『吉野山』の立ち回り

2005年07月15日 | 芝居
今日は金沢への「移動日」です。羽田空港を午後二時三十五分発のJALの飛行機に乗り、約一時間で小松空港に到着。それから貸し切りバスで約四十分で、金沢駅前の『ガーデンホテル金沢』に着きました。今日からこのホテルに三連泊です。

公演がない今日は、巡業日記番外といたしまして、『吉野山』の立ち回りについてお話させていただきます。
私が『吉野山』に花四天役で出演させて頂くのはこれで四回目でございます。それぞれの、佐藤忠信、実は源九郎狐役の俳優さんは、一回目が音羽屋(菊五郎)さん、二回目が師匠梅玉、三回目がまた音羽屋さん、そして四回目となる今回が、播磨屋(吉右衛門)さんです。
四回とも、立ち回りの手順はほとんど同じです。前にも書いた通り、この立ち回りは、昔からの手順が、さながら振付けのように残されている「所作ダテ」でございまして、清元、竹本両浄瑠璃の歌詞、曲に、とても良くあった手順が完成されているので、わざわざ変える必要がないのですね。

では、今月の舞台に基づいて、立ち回りの手順を御説明いたしましょう。播磨屋さん扮する、忠信をはさんで、上手に四人、下手に四人の花四天が並び、シン(立ち回りの中心となる人のこと。ここでは忠信)の見得に合わせて「ドッコイ」と声をかけると、清元節の始まり、ここからが「所作ダテ」になります。
まずは四人の花四天が、花槍で鳥居の形をつくるくだり。
それから、シンの両手をとった二人の花四天のうち、右手をとった下手側の花四天が『三徳』とよばれるトンボを返り、それを上手側の花四天が『返り越し』で飛び越え、それから二人揃って上手向きに『三徳』、さらに前の人が『ゴロ返り』という、いわば後ろでんぐり返りをするのを後ろの人がくぐり抜け、最後は二人とも両足を天に向けて倒れる『ギバ』をするキマリ。
次は竹本に浄瑠璃が変わります。『四つ目』といって、シンを中心とした四角形を四人の花四天がつくり、対角線状に向かい合った二人が、花槍を突きながら、お互いの位置を入れ替わる、ということをふた組で行い、最後は四人がシンを挟んで一直線に並び、花槍を担いで大名行列の槍奴の真似をするくだり。
ここから忠信に変わって萬屋(歌昇)さんの早見の藤太が出て来まして、上手、下手から一人ずつ花槍で突いてくるのをかわすと、そのニ本の花槍を花四天が担いで駕篭かきの真似事。最後はその二人の花四天と『狐拳』というジャンケン遊びをした挙げ句に『平馬返り』というトンボを返して見得。
ここから再び清元となり、しばらく藤太と静御前、忠信との振りごとがあって、藤太が自分の陣羽織で忠信を捕らえようとするのを、一人の花四天が花槍を使って、藤太を操り人形に見立ててあしらい、最後は藤太にトンボを返されます。
あとは全員の花四天が、忠信に追い込まれて引っ込み、立ち回りは終了となるわけでございます。
先程も書きましたが、例えば鳥居を作るくだりが、清元節の「ちょっと鳥居を」、返り越しが「飛び越え狐」という歌詞に合わされているわけですね。
結局、五つのパートに分かれているわけでして、これを八人の花四天で、うまく分担して行っているわけでございます。八人ですと一人につき二パートは関わらなくてはなりませんが、歌舞伎座など大劇場で上演する際は、花四天の人数も十人以上になったりしますので、そうなると一人一パートで済むことになります。
私は、最初の鳥居を作るくだりと、藤太にからんで駕篭かきの真似と『平馬返り』をするくだりをさせていただいております。
『平馬返り』は、膝をかがめた姿勢、いわゆる相撲の「そん踞」の格好からトンボを返ることで、普通の『三徳』より難しいものでございます。私、今月の舞台ではじめてこの『平馬返り』に挑戦しておりますが、なるほど膝を曲げた状態からの回転は予想以上に大変で、まだまだ納得のいく出来ではございません。このひと月の公演中に、なんとかモノにしたいと思っております。

また、先述の『返り越し』もさることながら、立ち回りが済んだ後、本当は狐である忠信にたぶらかされ、一人の花四天が、両手に静御前の杖と笠を持ったままで『返り立ち』をする場面もございまして、これは本当に難易度の高い技でございます。どちらにしても一つ間違えば怪我につながるわけで、よほどの自信と技術がなければ勤まりません。
今月は、二人の後輩がそれぞれ元気に勤めてくれております。かつてどちらも勤めさせて頂いた経験がある私としましても、どうか残り半分の公演を無事に乗り切って欲しいと願っております。

巡業日記14・松戸の巻

2005年07月14日 | 芝居
昨日の須賀川公演後は、予定より一本早い「やまびこ」に乗ることができまして、十一時半には帰宅できましたが、荷物の整理や何やかやで、気がつけば日付けが変わっておりました。

さて本日は、千葉県松戸市にある『聖徳大学 川並記念講堂』での二回公演でした。小学三年から中学一年まで、やはり千葉県の流山市にいた私としましては、馴染みの深い街でございます。今私がすんでいる所からも、京成線と常磐線の乗り継ぎで三十分ほどでした。
また、今月一緒の一座の私の同期が、今も松戸の住人でございまして、差し入れを頂いてしまいました。地元の菓子舗『峰月』のドラ焼きで、変わっているのは甘く漬け込んだ梅の実を、白餡の中に丸ごと入れてありまして、これはなかなかの美味しさ。聞けば保存料など添加物を使用していないとのこと、なるほど、優しいお味でした。

今日の会館は舞台と楽屋の行き来が大変でした。そもそも舞台が講堂の三階。その舞台を挟んで上手側の楽屋と下手側の楽屋と、二つに別れておりまして、それぞれ六階まで楽屋がございますが、その上手、下手それぞれの楽屋を結ぶ道が、舞台裏しかないのです。私達名題下は上手側の六階、師匠梅玉は下手側の二階の楽屋となったので、何か用事をするとなると階段の昇り降りがキツいキツい。
今日はニ公演とも、ここの生徒さんを中心とした鑑賞教室で、以前の桐蔭学園のように『歌舞伎の見方』『吉野山』『源氏店』というプログラムだったので、私の出番が一つ減っていたので、早ごしらえがなかっただけでも有り難かったです。
それにしても、この大学そのものが、小高い丘の上に建てられておりまして、松戸駅前のイトーヨーカドーの、五階にある連絡通路を抜けると大学の入り口になる、というくらいですから、我々の楽屋は、いったい標高何メートルだったのでしょう?

こちらの学校は女子大です。学生さんは皆さん明るく元気な方ばかり。今日はケータリングサービスが屋外に設置されておりまして、お茶を飲みながら広場を行く学生さんを眺めておりますと、手を振ってくれたりしました。学食の食事券を頂いたので行ってみると、広い食堂は、当たり前のことながら女性に埋め尽くされておりまして、なんとも賑やかなこと! 少数派の我々公演関係者は、なんとなく恥ずかしいというか、照れるというか…。

…それから今日の舞台で大変なのはなにも楽屋の行き来だけではございません。舞台や楽屋に、大道具や荷物を運び入れる入り口を<搬入口>と申しますが、ここの会館の<搬入口>は舞台裏にあるのですが、先ほど書きました通り今日の舞台は地上三階。大きな扉を左右にスライドさせると、ぽっかりと外の景色が開けますが、真下を見れば足場もなんにもない、ただ垂直に壁があるだけ。撤収作業を見ていると、書割りや、支木(しぎ)という支えの棒を、ロープで縛ってから手作業で階下に降ろしておりました。幕などの布製品は風呂敷で包んでそのまま放り投げておりましたが、一つ間違えば事故、怪我となる危険な作業。これを今日だけの手伝いも含めての十数人で、迅速、かつ慎重に行う姿は、「すごい」の一言に尽きました。荷物を運び入れる搬入作業の時は、もっと大変だったのではないでしょうか。本当に、大道具スタッフさん方の毎日のお仕事には感謝しなければなりません。

今日も無事終了いたしました。明日から再び東京を離れます。

巡業日記番外・郡山で暇つぶしと与三郎の「傷」

2005年07月13日 | 芝居
今日は須賀川市の『須賀川市文化センター・大ホール』での、六時からの一回公演です。午後三時半の出発なので、半日フリーとなりました。
朝九時半に朝食を済ませてから、郡山駅周辺の神社とお寺めぐりにでかけました。駅の観光案内所でマップをもらい、行ってみたい所をだいたい決めましたが、どうせ見知らぬ土地なので、足の向くまま気の向くまま、道に迷うもまた楽し、という感じです。
訪れた順に挙げますと、
「愛宕神社」
「田中稲荷」
「阿邪訶根(あさかね)神社」
「赤木神社」
「神明宮神社」
「大慈寺」
「安積国造神社」
となりますが、小屋のような質素なお社から、土地の産土神としての立派な神殿造りまで、規模も様々。なかには何の神様をお祀りしているのかわからないところもありました。なかでは「阿邪訶根神社」は境内も広く、<石造曼陀羅供養塔><石造浮彫阿弥陀三尊塔婆>といった県、市の文化財も見ることができました。
また「大慈寺」は曹洞宗のお寺でしたが、地図に<蝉塚>があるとの表記がございまして、これはなんなのだろうと興味津々で参詣いたしましたが、実際は、あの松尾芭蕉の“しずけさや 岩にしみ入る 蝉の声”の句碑で、どういう御縁でこれが建ったのかはわかりませんでした。
行く先々でしっかりと巡業の無事を祈り、素敵な風景はカメラにおさめ、ウロウロキョロキョロのんびり歩きましたので、ホテルに帰ったのは正午を過ぎておりました。これで昨日の巨大海老フライが消化できましたでしょうか?

さて、本日の須賀川公演が終わりますと、いったん東京へ帰ります。最終に近い新幹線に乗りますので、今日中には、須賀川公演のお話はできないかと存じます。
そこで、今日は番外二回目といたしまして、『与話情浮名横櫛』で師匠梅玉が演じております与三郎が、「源氏店の場」で体中に描いております<傷>についてちょっとお話させて頂きます。
以前歌舞伎の化粧法についての話の中でもふれたと思いますが、歌舞伎の化粧品は、基本的に油溶性のものがほとんどです。もちろん水溶性のものも使用しますが、汗で流れ落ちたりせず、長時間の舞台にも耐えるのは、やはり油墨、油紅と呼ばれるものですね。
では与三郎の傷も、そういうもので描いているかと申しますと、実はそうではないのです。というのは、油溶性のものは、肌に定着はしても、衣裳などと触れたり擦れたりすると、べったりと色移りしてしまうのです(口紅と一緒ですね)。傷は体中に描いているわけですから、衣裳はもとより、舞台に敷かれた<上敷(畳を表現するゴザ状のもの)>にもくっついてしまうでしょうし、第一、体に描いた傷そのものが、形が変わってしまって見苦しいものになってしまうでしょう。
といって水溶性のものでは汗で滲んでしまいます。そこで、油溶性ではなく、かつまた水溶性でもない顔料を、手作りで調整するのです。
あの傷の色、やや茶がかった赤を出す方法は、与三郎をなさる役者さん方によって相違もございましょうし、ある種「企業秘密」的なものでもございますので、これは皆様の御想像にお任せいたしますが、ともかくも、出来上がった色に混ぜることで、汗にも滲みにくく、かつ色移りしにくくなるモノが、<膠(にかわ)>なのでございます。熱を加えて溶かした膠を混ぜることで、ドロッとした絵の具状になります(日本画の岩絵の具も、膠を混ぜますね)。これで傷を描き、乾かすことで、膠が固まり、落ちにくくなるというわけです。
色の調合、そして膠をどれくらい混ぜるか、これはなかなか難しい作業のようです。舞台照明があたって、ちょうどいい色合いにすること、描きやすく、落ちにくい粘りを出すこと。これはひとえに、経験がものをいう世界です。
私達梅玉一門では、兄弟子がこの<傷作り>の担当です。私が入門する前からなさっていらっしゃるわけですから、私が申すのもおこがましいですが、ベテラン、ですね。会館に到着すると、まっ先に調合開始。膠が入るので固まりやすく、長期の保存、つまり作り置きができないのです。だいたい一回に三日分作るのが限度のようですね。

この他にも、師匠の舞台を支える、弟子の仕事(技術、ということもできますね)はいろいろございます。また別の機会に、お話いたしたいと思います。

それでは、ひと休みしてから、須賀川へ行ってまいります。


巡業日記13・会津の巻

2005年07月12日 | 芝居
今日は会津若松市『會津風雅堂』での二回公演でした。
朝九時半にホテル前から貸し切りバスで一時間二十分の移動。昨日の温泉の効果か車中でぐっすり寝ることができ、気がつけば会場に到着、という感じでした。
『會津風雅堂』は、いわゆる文化ホールではございますが、和風の外装でとても落ち着いた雰囲気です。広さもちょうど良い感じで、楽屋も使いやすかったです。
近くには白虎隊の悲劇の舞台である飯盛山、そして鶴ヶ城がございます。今から四年前、平成十三年に、やはり巡業でこの地を訪れたさいには、飯盛山の辺を散策し、白虎隊士の墓やさざえ堂などを拝見いたしましたが、今日は昼の部と夜の部のあいだに、鶴ヶ城を訪ねることができました。お城そのものは四十年前の再建でございますから、往時をしのばせるものは苔むした石垣ぐらいなものでしょうか。しかしながら、歴史の舞台を実際に歩き、空気を感じることは、私にとってとても大切な体験でございます。

近くのお土産屋さんで、「赤べコクッキー」を買いました。クッキーの表面に郷土玩具の赤べコが描かれておりまして、これがなかなか可愛い。今度長時間の移動の時、お腹が空いたら食べてみようと思います。
食べると申せば、今日のお昼に頂いた『とんかつ・焼肉 とん亭』の「親子海老フライ定食」これは凄まじいという言葉がぴったりの内容でした。長さがなんと二十五センチの「親」海老フライ一本と、十五センチの「子」海老フライ二本、付け合わせに千切りキャベツとスパゲティー、それにライス、味噌汁、漬け物、大根おろしとナメコの和え物がついておりまして、そのボリュームに圧倒されました。一体なに海老を使っているのでしょう?
残さず食べ切ることはできましたが、お腹がパンパン。『吉野山』の立ち回りの最中ももたれっぱなしで、難儀をいたしました。お値段は二千円近いのですけれど、一昨日のダーツで、今日のお昼ご飯をかけた勝負をし、運良く勝ったお陰で仲間の御馳走になりました。有り難いことでございます。

そういえば昨日の晩ご飯は、ホテル近くのラーメン屋『めった屋』、「めった」とは辛いという意味だそうですが、ここのラーメンもボリュームは満点でした。旅に出る前、「体重管理」を誓ったはずなのに、かなしいかなその誓いも食い気におされ、着実に体重は増えつつあるように思われます。
なんとかせねば! しかしながら、御当地名物は魅力がいっぱいですしねえ……。

巡業日記12・磐梯熱海でポカポカの巻

2005年07月11日 | 芝居
一日お休みの今日は、先輩のお誘いで、磐梯熱海温泉を訪れることになりました。
昼から夕方までは一時間に一本しか発車がない「磐越西線」の、午後十二時十分発、会津若松行きに乗り、十五分で磐梯熱海駅に到着です。熱海といえば神奈川県の温泉街ですが、なぜここ福島にも熱海があるのかと申しますと、鎌倉時代に伊豆の国から移り、この地を治めることになった伊東氏が、豊富な温泉に恵まれた新領地に、自らの生まれ育った地をしのんで、熱海の名をつけたのだそうです。ちなみにその領主となったのが、『曽我対面』でお馴染みの工藤左衛門祐経の息子だというのですから、なにか因縁を感じます。

まずは当温泉の源泉にある「源泉神社」へ参ります。磐越西線に沿って流れる五百川を上流へと向かいまして、途中から「蓬山遊歩道」に入ることにいたしました。遊歩道とはいっても、登り下りも結構多く、周りは木々に囲まれて、ちょっとしたハイキング気分です。<マムシ注意>の看板におびえながらも、十分ほどでもとの通りに出ました。出たところがちょうど神社の入り口、神社はオオヤマツミの神とお稲荷様、そしてこの地から湧き出る温泉を合祀する素朴なお社でした。
このそばに、無料で入れる「立ち寄り足湯」がございました。さっそく歩き疲れた足を浸します。やや熱めですがそれがかえって気持ちよく、おりから空は晴れ、涼やかな風が吹き込み、気分爽快。居合わせた旅行客同士の会話に、訛りが聞こえてくるのも、いかにも旅の温泉地の雰囲気です。

続いては立ち寄り湯をするためのお宿を探しながら、国道四十九号線を歩きます。温泉宿の他には何もないような鄙びた町並み。いくつか廃虚になった建物も見られますが、それもまたある種の風情と感ぜられるのは、ちと思い込みが強すぎましょうか? …磐梯熱海駅へ戻るように進み、ほぼ駅前に「温泉本舗 きらくや」というお宿があり、ここに立ち寄ることにいたしました。入浴料五百円。小さいながらも趣のある造り、露天風呂もありまして、なかなか楽しめました。泉質はアルカリ単純泉。すこしぬるりとした滑らかな湯触り。肌に優しそうです。露天風呂は使い込まれた木の湯舟。生け垣で囲まれた、季節の花が咲く庭の中で、半身浴でのんびりとした時間を過ごしました。お湯がぬるめになっているので、のぼせの心配もございません。

これだけで終わってはつまりません。今度は近年建てられたというスパ温泉「郡山ユラックス熱海」に。駅を通り越し反対の方向に十分ほど歩くと、巨大な近代建築が見えます。こちらはスパ、スポーツ施設、そして他目的ホールが一緒になった、一大複合施設でして、同じ敷地内には「磐梯熱海アイスアリーナ」もありました。
さてこのスパは、先程とはうってかわって広々とした空間に、打たせ湯、寝湯、ジャグジー、サウナ、露天風呂と揃っております。平日の三時ごろということもあり、お客さんはちらほら。おかげでゆっくりできましたが、こういう大浴場では、衛生上いたしかたないことながら、塩素が入っているのが、残念といえば残念でございました。
湯上がり後はもちろんビール! 今日は仕事はお休みでございますからね。館内のレストランで、昼食と共にジョッキでゴクゴク。至福の時でした。食後のお喋りに一通り花が咲いたところで、もう一度入浴し、午後五時前に施設を出ました。帰りの電車は午後五時三十五分。六時過ぎにはホテルに到着となりました。

今日一日で、体の疲れがずいぶんほぐれました。今この文章を書いている間も、なんだかポカポカがまだ残っているようです。さあ、これでリフレッシュができました。明日からの舞台も、ますます頑張れそうですよ!

巡業日記11・康楽館とお別れの巻

2005年07月10日 | 芝居
古き良き芝居小屋「康楽館」とも今日でお別れです。連日大入り満員、有り難いことでございました。
三日間の滞在、朝晩の食事はホテルでとりましたが、楽屋にいる間の昼食は、康楽館の売店(本来は観客用)で頂きました。近くの飲食店から出前もできるのですけれど、ほとんどの出演者、スタッフさんは、皆この売店を利用しておりました。
メニューはうどんと蕎麦が幾種類かずつ。ただそれだけといえばそれまでなんですが、楽屋の横の庭にテーブルとベンチがおいてありまして、ここでみんなが集まって食事する。この雰囲気がなんとも言えず旅芝居っぽくて楽しいんですよ。一日目と三日目の今日は曇りや雨だったのですが、昨日はこの旅に出てから久しぶりの晴天、お日さまの下で食べるのは、本当に気持ちが良いものでした。
ここの売店はデザートもあります。小坂町の名産アカシア蜂蜜を練り込んだソフトクリーム、地元で採れた山ぶどうと牛乳のシャーベット、そしてぶどうだけのシャーベット。これが幕内になかなかの人気。若い女性の付人さんはもとより、普段甘いものとは無縁そうな役者達さんも、連日食べておりましたね。かくいう私は大の甘党なので、三日間ですべての甘味を堪能しました。

今日の夜の部は、上演中から撤収作業でバタバタいたしました。康楽館からバスで盛岡駅、それから新幹線で本日の宿泊地郡山への移動なのですが、もし遅くなると配布の指定切符の時刻に間に合わないおそれがあったからです。常にせわしないのが巡業の撤収ですが、今日はとりわけです。そのおかげでしょうか、師匠梅玉をお見送りした五分後には撤収完了、私達が乗るニ便のバスが、団体ツアーで来たお客様の乗ったバスと、ほぼ同時刻に出発できたのですから、これはみんなの努力の成果、ですね。

新幹線での夕食となりましたが、盛岡駅で買った、伯養軒謹製『特製誂え弁当 大人の休日―いわて食の道楽―』、これがなかなか美味しゅうございました。岩手の名物、食材をふんだんに使用した献立ですが、三陸秋刀魚の甘露煮、まいたけと凍み豆腐の煮物、胡麻胡桃、三陸ウニとイクラのおむすびなどなど、お腹いっぱいになりました。
九時半過ぎにホテル『郡山ビューアネックス』にチェックイン。
これから仲間達とダーツをしに街へくり出します。
今日から三日間の宿泊です。明日は「休演日」! どこへ行きましょうかね。

巡業日記10・康楽館二日目の巻

2005年07月09日 | 芝居
康楽館公演二日目。舞台の寸法にも慣れてまいりました。
今日はこの劇場の楽屋についてお話したいと思います。
昨日も書きましたが、ここの楽屋は舞台裏と繋がっております。楽屋部分のみ二階建てで、上の階が幹部俳優さん、下が名題、名題下俳優が使用しております。どちらも小さい部屋ばかりですし、お手洗いも一箇所、お風呂も一箇所、洗面台は二つと、大勢では使いにくい環境ではございますが、皆々譲りあいで、込み合わないように使用しております。
楽屋の壁は板壁なのですが、ここにちょっと珍しいものが残されております。過去にこの小屋を訪れ芝居をしてきた、様々なジャンルの役者達の、<落書き>が記されているのです。判読できるもので古いものは、昭和一ケタのもの。歌舞伎ではなく大衆演劇の一座と思われます。その他歌劇、浪曲劇(浪曲に合わせて演技をするもの)、舞踊団、戦後では新劇、ひとり芝居、落語、講談、色々な座組みの出演者が、自分の名前や公演名、この小屋に出演した感想などを書き残しております。
現在でも活躍しておられる芸能人、俳優女優のお名前も沢山ございまして、ああ、この人たちもここに来たんだなあと、感慨深いものがございます。
もちろん歌舞伎の一座のものもございまして、ここ康楽館で歌舞伎が恒例となった昭和六十二年からのものがしっかりと残っています。すでに亡くなられた方、名前が変わった方、この世界から去られた方の名前もございまして、こちらも色々な思い出が湧き上がってまいります。
私はこの劇場は三回目の出演です。初めて訪れた平成十二年七月に、私も壁に一筆書かせて頂きました。ちゃんと残っていてなんだか嬉しくなりましたが、はてさて今回は何を書こうものやら…。

巡業日記9・秋田「康楽館」の巻

2005年07月08日 | 芝居
昨日は盛岡から秋田県小坂町への「移動日」でした。貸切バスで午後一時十五分にホテルから出発、約一時間半で、まず今回の公演地『康楽館』に立ち寄り、楽屋作りをしてから、宿泊地『十和田湖レイクビューホテル』に向かいました。
『康楽館』からホテルはバスで約三十分。山を一つ越えなくてはなりません。おりからの雨模様の天気のせいか、山道にはどんどん霧が立ちこめ、窓からは何も見えないありさまでした。
『康楽館』での公演は三日間ございますので、宿も三連泊です。ここでは夕食もホテルの食事を頂きます。とても盛りだくさんの品数で満腹、突き出たお腹を気にしながら、大浴場(温泉ですよ)のサウナで汗を流しました。
そして本日、午前八時半出発のバスで楽屋に向かいました。今回の公演地である『康楽館』は、明治年間に建てられた芝居小屋で、当時の姿がほぼそのままに残されている珍しい劇場です。狭いながらも本花道、回り舞台(今回は使用しませんが)を備え、客席も平土間と申しまして、椅子席ではなく相撲の桟敷のようなつくり。お客様は座布団に座っての観劇となります。
楽屋も昔のままで、舞台裏すぐのところに、舞台と壁一枚隔てることなく備えられております。
ここの舞台が、今回の巡業で一番狭いところでして、今日の昼の部(三日間六回公演です)の『吉野山』では、さすがに苦労しました。八人の花四天が並ぶとギチギチ。皆々花槍という、先に桜の花がついた長い槍を持っておりますから、お互いぶつからないよう、引っ掛けないようにするのに注意をはらいます。それでもどうしても、互いに迷惑をかけてしまうところもありましたが、これは今日の夜の部ではほとんど改まりましたし、明日からはもっと良くなるでしょう。
それにしましても、小さな劇場に鈴なりのお客様の、熱気と暖かい拍手! 四国の金丸座もそうなのですが、昔ながらの<小屋>に集まるお客様は、お芝居に参加する、と申しましょうか、本当に楽しんでご覧になっているようで、他の会場では反応がない場面でも、笑いがおこったり、盛大な拍手があったりと、演じていて本当に有難い反応が数々あって、嬉しい気持ちで一杯になります。舞台と客席の距離もいつもより近いので、お客様の表情もよくわかります。笑顔でご覧になっている皆様の姿が見えると、こちらも安心してお芝居できます。
しかしながら、ただお客様の反応のよさに一人満足してもいられないとも思います。皆様が拍手してくださるに値する演技を、仕事を、私ができているのか、そのことだけは、常に心のどこかに留め置いて、自戒とともに勤めたいものでございます。
ともかくも、あったか~い芝居小屋での公演は明日、明後日もございます。楽屋、舞台の折々を、しばらくお伝えいたしたいと存じます。

巡業日記番外・旅の総勢

2005年07月07日 | 芝居
ここでちょっと、今回の旅の総メンバーを御説明しておきましょう。より皆様のイメージがリアルになるかもしれませんね。
まず『俳優』。幹部さん、名題さん、名題下あわせてちょうど三十名。
それから幹部俳優さんの『付人』さんが七名。
同じく幹部俳優さんのマネージャー的な仕事をする『番頭』さんのうち、全行程に同行するのが三名。
次に音曲関係では、
『長唄』さんが八名。
『鳴り物』さんが五名。
『清元』さんが六名。
『竹本』さんが四名。
それからスタッフは、
『衣裳』さんが三名。
『床山』さんが五名。
『大道具』さんが六名。
『小道具』さんが二名。
『照明』さんが一名。
『運送』さん(トラックでの荷物運搬)が四名。
そして
『狂言作者』さん(「柝(拍子木)」を打ち、舞台進行をとりしきる)が一名。
『頭取』さん(楽屋内の庶務いっさいをとりしきる)が二名。
『事務局』(宿の手配や移動の段取り、その他あらゆる事柄の窓口になって下さる、松竹株式会社演劇部演劇営業課の方)が三名。
以上、計八十六名が、今回の巡業の総勢となるのです。

移動は基本的に団体行動です。しかしながら、出番の遅い早い、用事のあるなしによって、楽屋入りの時間も各人さまざまですので、一行を二つに分け、出発時刻をずらしての移動がほとんどです。
例えばわれわれのような弟子の立場の者は、師匠の楽屋作りがありますので、開演の二時間くらい前に会場に到着する<一便>のバス、あるいは電車に乗り、そういう仕事をしなくてもよい方や幹部俳優さんは、開演約一時間前に到着の<二便>を利用する、という具合です。帰りも同様で、早くに出番がすむ方達は<一便>、そうでない方は<二便>となります。
また幹部俳優さんは、時に応じてタクシーなどを使用し、一行とは別となることもございますし、大道具さん、照明さんは、搬入と仕込み、あるいは撤収に時間がかかることも多いので、本隊とは別の行程で移動することもままございます。

…ほぼひと月を、移動から舞台から、ともすれば食事まで、同じメンバーと共にするわけで、考えてみればよく飽きないなあと思いますけれど、会場や宿が変わるから、それほどマンネリを感じなくてすむのでしょう。
なによりも、東京では味わえない「旅の空」の解放感。この楽しさに尽きますね。

巡業日記8・宮古の巻

2005年07月06日 | 芝居
今日は移動の大変な一日でした。『宮古市民文化会館』で、六時開演の一回公演だったのですが、盛岡から宮古までは、貸し切りバスで二時間かかります。往復で四時間余り。座席についている時間のほうが、芝居の上演時間より長くなってしまいます。
ホテルの前からの出発は午後一時十五分。余裕があるので、昨日拝見できなかった報恩寺の五百羅漢を再び訪ねました。午前十時半到着、誰もいない羅漢堂に足を踏み入れると、今まで見たこともない光景にしばし呆然。薄ぐらいお堂の正面には、毘盧遮那仏を安置した壇。その四方を囲む壁に棚をしつらえ、現存する四百九十九体の羅漢像を並べたありさまは、しばし現世の喧噪を忘れさせる、静謐と荘厳の別世界です。
一体一体の像の、なんと生き生きとしていることか。あるいは笑い、あるいは怒り、一人瞑想し、また隣人と語らい。一瞬を切り取ったその姿から、いろいろなストーリーを想像させてやまない、聖者でありながら人間味を強く感じさせる姿は、全く見飽きるということがありませんでした。
おりしも羅漢堂を出ると、十一時を告げる鐘が搗かれました。余所者は私だけという静かな境内に、しみじみと響き渡ります。
思わず、

鐘の音も 雨に曇りて 杉木立

と駄句をひねりだしてみましたが、季語がございませんね。

寺を去ってから、昨日のように街を散策、ちょうどいい時間つぶしになりました。そして定刻にホテルを出発したバスは、延々山あいの道を進んで宮古へ向かいます。
会場はやや狭め。私達名題下の楽屋が、幹部俳優さんや名題俳優さんのところとは舞台を挟んだ正反対の場所で、お手洗いや流しから遠いのが不便といえば不便でしたが、まあ一回公演ですからね。
飲み物やお菓子などが並ぶケータリングに、今日は地元で採れたというサクランボがどっさり並びました。甘さと酸味が丁度よくてついつい沢山食べてしまいました。
終演は午後九時前。帰りのバスが出発したのは午後九時二十分くらいでしたか。それからまた二時間あまりの帰路となります。行きでは楽しめた景色も、もはや真っ暗になって何も見えず。空腹をお喋りや仮眠で紛らわしながらの道中でした。
盛岡についたのが午後十一時半過ぎ。それから、宣言通りに盛岡冷麺を食べに『焼肉・冷麺 盛楼閣』へ先輩と。夜中というのに焼肉と激辛冷麺(冷麺は辛さを七段階から選べるのですがその最高)を食します。これだから太るのですよね…。
ともあれ、盛岡麺尽くしもこれで完結。思い残すこともなく、この地を去ることができます……が、わんこそば、これは百杯食べたかったなあ……。

巡業日記7・盛岡麺尽くしの巻

2005年07月05日 | 芝居
今日は公演はございません。六日の公演地が岩手県宮古。そこへの移動の都合により、盛岡が今日、明日の宿泊地となりましたので、東京から盛岡へ行くだけ、いわゆる『移動日』となりました。
あらかじめ夕方に盛岡に着く新幹線の切符が渡されましたが、せっかく盛岡でお休みなので、観光をしようと思い立ち、午前十一時二分の東北新幹線「はやて」に乗車変更、午後一時三十三分には盛岡に着きました。二日間の宿となる『メトロポリタン盛岡 本館』にチェックイン、ひと休みしてからいざ盛岡観光へと向かいます。あいにくの小雨が残念といえば残念。
まずは前々から食べてみたかった<じゃじゃめん>を求めてその名もズバリ『盛岡じゃじゃめん』さんへ。うどんのような太くて白い麺に、ごま風味の肉味噌を乗せ、千切りのきゅうりを添えたものが出されます。これにお好みで、おろしニンニク、ラー油、お酢などを加えて頂くのですが、コクのある味噌の風味、モチモチの麺、なかなかのお味。東京でもよく見る、ジャージャー麺とは明らかに違う風味で、どこか家庭の味がいたしました。変わっているのは、食べ終わったあとのお皿に、玉子を溶き、麺のゆで汁を注いで肉味噌を再び少量溶き、刻んだ葱を乗せてスープにしてくれることで、これを<鶏卵湯(チーランタン)>と呼ぶのだそうです。こちらもあっさりしていながら旨味は十分。満腹になってしめて五百円也とは、お得ではございませんか?
食後は腹ごなしに、紺屋町、肴町周辺を散策です。昔ながらの家並みも散見できるこの界隈、地元の名物や工芸のお店が多いです。ふらりと立ち寄った『南部鉄器 鎌定』で、素敵な鍋敷きを発見、衝動買いしてしまいました。梅の花の模様なんですが、ちょっと現代的なデザインでモダンです。
それから南部絞の『草紫堂』で、草木染めの着物や布製小物を見たり、南部煎餅の老舗『白沢せんべい店』で、ごま味やニンニク味、盛岡冷麺味まであるバラエティー豊かな煎餅をバラ売りで買ったりしました。
町並み探訪のあとは、是非とも訪れたかった『三ツ石神社』へ。ここの境内には三つの巨石が鎮座ましまし、かつてこの地を荒らしていた鬼が、神様によってこの石に縛り付けられ、二度と悪行をしないという誓いに、岩に手形を捺した、という伝説が残っております。「岩」に「手」形、というところから、「岩手」の地名が興ったともいわれており、この土地にとっては大切な神社なのです。
故事因縁、伝説大好きな私。この巨石を拝まんと足を進めましたが、うっかり道を間違えたようでなかなかたどり着けませんでした。ようやく案内の看板を見つけ、やれひと安心と角を曲がると驚きました。想像以上の大きさの岩が、さながら地面を突き破ったかのように屹立しているのです。鬼を今も縛っているのでしょうか、周囲を鎖でめぐらし、注連を垂らした三つの岩は、まさしく奇石、なんとも異様、岩から漂う<気>と申しましょうか、なにか神聖な空気に圧倒されてしまいました。
肝心の手形は、はっきりそれと判別はできませんでしたが、本当に珍しいものを目にすることができてよかったです。
それから近くにある『報恩寺』で、五百羅漢を拝見する予定だったのですが、お堂が開いているのは四時までとのこと、三十分遅れで見られず悔しい思いをいたしました。
あとはのんびりホテルまで徒歩。帰ったのは五時半ですから、ほぼ三時間歩いたことになります。さすがに疲れました。
が、そうもいっていられません! 六時の待ち合わせで、わんこそばの『東家(あずまや)』で、はじめてのわんこそばに挑戦です! 以前体験した仲間の話を聞いて、是非ともチャレンジしたいと思っておりましたら、ある幹部俳優さんが、私を含め、一座の名題下さんを七人御招待下さったのです。この場をお借りして御礼申し上げます。
席につくと、まず薬味が並べられます。鶏そぼろ、ナメコおろし、海苔、トロロ、もちろん定番の刻み葱、ワサビなども。変わっているのはマグロのお刺身。これはまあ、口直しの意味もあるのでしょう。それからルールの説明。限界になったらお椀のふたを閉じること、ただし一本でも麺が残っていると終了とはみなさないこと、ふたを閉じるまではどんどん麺は追加されること…。
私、始まるまでは百杯くらいは簡単と思っておりました。仲間にも「百は軽いね」なんて言っていたのですが、ところがところが! 四十五杯くらいにはもうお腹が張ってきて、六十杯には満腹感、七十四杯でギブアップとなってしまいました。それまでの大言壮語はどこへやら、全く情けない結末でございます。かわりに私の弟弟子が、百七十四杯を平らげ、見事一番になってくれました。
早くに脱落したので、あとは皆が闘っている様子をじっくり見ておりましたが、従業員の方の鮮やかな「椀さばき」には感心しました。大きいお盆に二十杯ほど乗せて来ては、差し出される椀に麺を移し、空いたお椀はごっちゃにならないように各人のブロックごとに積み上げる。この一連の動きがまさに流れるようで、一種職人技とも言えるでしょう。「どんどん」「じゃんじゃん」「はいもう一杯」「頑張ってください~」といった掛け声も、独特のリズムと節回しで面白かったです。

とまあこんなわけで、今お腹いっぱいの状態でこの文章を書いております。今日の栄養は<じゃじゃ麺>と<わんこそば>だけで補給されましたが、いくら麺好きでも、これでいいのかという気がしないでもないです。
でも明日は、<盛岡冷麺>を必ず食べるつもりでいるのですから…。

巡業日記6・小諸の巻

2005年07月04日 | 芝居
今日は長野県小諸市『小諸市文化会館』での公演でした。午前十時半にホテルの前から貸し切りバスで会館へ向かうというスケジュールでしたが、せっかく長野に来たから、というわけで、出発前に善光寺へお参りしてまいりました。前日に先輩からお誘いを受けていたのですが、朝八時に起きて朝食会場でバイキング。それから部屋を片付け九時にロビーで待ち合わせ。先輩と後輩との三人で、駅前からバスに乗り、善光寺へ向かいました。
今日はあいにくの雨模様。それでも大勢の参拝客がいたのには驚きましたが、それだけ親しまれたお寺さんなのでしょう。趣味の写真も撮りながら、広い境内を巡ります。本堂の大きさにビックリしました。堂内の地下に、真っ暗な廊下がありまして、そこを手さぐりで進んでゆきますと「極楽の錠前」というものがあり、これにさわることができると、極楽往生間違いなし、といわれているそうで、私達も入ってみましたが、いやはや、本当に真っ暗! 自分の手も見えず、壁を伝ってやっとこさ歩けるという状態。幸いにも「極楽の錠前」にはちゃんと触ることができました。
さて小諸へのバス移動ですが、道中約七十分。けっこう長いです。私はバスの中では文字を読めない(すぐ酔ってしまう)体質なので、寝るか音楽を聞くぐらいしか時間がつぶせないのですが、今朝はうまく寝つけないまま、目的地に着いてしまいました。
今日の会館は舞台も楽屋も小さめ。廊下に荷物が溢れます。電気系統も、いっぺんにあちこちで使用するとブレーカーがおりてしまうことがわかって、急遽配電をしなおす一幕も。これも巡業らしい光景です。また、どこのおうちでも、朝からの雨に、洗濯物を乾かすのに苦労しておりました。
今日は二回公演で、夜の部は午後八時四十五分頃終演。撤収終了次第バスに乗り、佐久平駅から長野新幹線「あさま」で帰京、という段取りで、私達はあらかじめ、最終便の午後十時四分発の切符を渡されておりました。ところが思いのほか早く片づけが終わりまして、佐久平駅に午後九時二十分に到着できました。それならば、ということで、一つ前の午後九時三十三分の「あさま」に乗車変更、早くに東京に帰ることができました。
そのおかげで、この更新も本日中にできました。ちなみに今夜の夕食は、車中でコンビニ弁当&缶ビール。なにも御紹介するほどのモノではございませんね。

巡業日記5・長野の巻

2005年07月03日 | 芝居
今日は長野市『長野県民文化会館・大ホール』での一回公演でした。
一行は午前十時東京発の長野新幹線「あさま」で長野へ。私は上野から乗車しました。十一時半過ぎに到着、駅からはタクシーに分乗して、会館へ向かいます。
それからはいつも通りの荷開け、楽屋作り。ニ時から本番でした。
一回公演はやはり体力的には助かりますね。出した荷物をすぐしまうのはなんだかもったいないような気もしますけれど…。とくに今回は、自分も師匠も急ぎのこしらえがありますので、そういうことに神経を使うのが、実は一番疲れるのです。
芝居は五時に終演、楽屋の撤収は五時半過ぎに済み(早いでしょう?)、タクシーで今夜の宿『メトロポリタン長野』へ。夕食はやはり蕎麦! と思いまして、長野駅前の『手打ち蕎麦 戸隠』に入りました。手打ちならではのしっかりした歯ごたえ、なかなか美味しゅうございました。駅前にはいくつか物産店、お土産物屋がございまして、今夜の晩酌用に信濃ワインと馬刺しの薫製、それとワサビチーズなるものを買ってみました。ゆっくりお風呂に入ってから、楽しむことといたしましょう。

巡業日記4・大宮の巻

2005年07月02日 | 芝居
今日は埼玉県さいたま市『大宮ソニックシティ・大ホール』でした。二千人以上収容のとても大きな劇場で、舞台も広く、助かりました。
いわゆる文化ホール、市民会館には、舞台と直角につながる花道が設置できないのがほとんどです。たいていが、客席の下手側の壁にくっつくような形で、短い花道を仮設します。劇場によっては、使用する役者がいったん客席ロビーに出なくてはならない所もございます。
長さも劇場によって変わります。今月上演の『吉野山』では、萬屋(歌昇)さん扮する早見の藤太が、八人の花四天を引き連れて登場し、花道上での芝居が一くさりあるのですが、昨日まではどこも花道が短く、計九人の登場人物が並びきれない寸法でした。しょうがないので、藤太と数人の花四天が本舞台に入っての芝居となったのですが、これはいたしかたないこととはいえ、見た目的にどうかなと思われます。
幸い今日は、長さも十分ございましたので、きれいに並ぶことができました。やはり、いつも通りのフォーメーションは、やる方も落ち着けます。
花道には<揚げ幕>という仕切りの幕が取り付けられております。歌舞伎専門の劇場なら、その劇場の紋を染め抜くのが定式ですが、文化ホールや市民会館には、劇場の紋を定めた所は少ないです。多くは県、市町村のマークをそのまま使っておりまして、今日の会場は埼玉県のマーク「勾玉」を使っておりました。

今日は照明の関係か、舞台がとても暑かったです。梅雨明けこそまだですが、蒸し暑い日、カンカン照りの日も多いこのごろ。夏の舞台の恐ろしさは、これから本番を迎えます。