梅之芝居日記

歌舞伎俳優の修行をはじめてから15年がたちました。
日々の舞台の記録、お芝居ばなし等、お楽しみ下さい。

『輝虎配膳』あれこれ

2005年05月31日 | 芝居
今日は『輝虎配膳』の「舞台稽古」、『盟三五大切』、『教草吉原雀』の「総ざらい」でした。
『輝虎配膳』。長尾輝虎(後の謙信)と武田信玄との争いを描いた「時代物」でございます。武田方についている名軍師、山本勘介を、我が陣へ引き入れたい輝虎が、勘介の母である越路を館へ招待し、輝虎自ら接待の食事を給仕して(これが『輝虎配膳』の外題の由来です)もてなし、交渉しますが、この計略を潔しとしない越路はそのお膳をひっくり返して拒絶。それに激昂した輝虎が刀を抜いたところに、越路に同行してきた勘介の妻お勝の、必死の命乞いによって助かることとなり、無事帰参することになる、というあらすじです。
このお芝居、歌舞伎座では三十三年ぶりの上演だそうでございますが、今回長尾輝虎役を、師匠梅玉が勤めます。今日はこの舞台を、舞台裏から御紹介いたしたいと存じます。
お膳をひっくり返されて、それまで慇懃に接してきた輝虎の堪忍袋の緒が切れて、頭に頂く金烏帽子をかなぐり捨て、怒りのセリフをいいながら、着ている衣裳を上から順々に一枚一枚脱いでゆき(肌脱ぎ、と申します)、最後は太刀を抜いての大見得となるのですが、この「順々に衣裳を脱ぐ」というころ、この場面のために、普通よりニ枚も多く重ね着をいたします。そして一番上に着る<狩衣>も、しっかり着付なければなりませんので、普段の着付ならニ本使用すれば済む腰紐(衣裳の着崩れを防ぐために結ぶ細紐)を、今回は五本使用します。
また「金烏帽子をかなぐり捨て」る場面、それまでカツラに固定していた烏帽子を、後ろに控える「黒衣」の後見が、直前になって仕掛けの栓を抜くことでカツラから外れるようにし、輝虎の芝居に合わせて取り去ることで、かなぐり捨てたように見せます。
またこの輝虎は、戦国武将の強さを表すために、「ヒゲ」を生やした化粧をいたします。といっても、ヒゲを顔に描くのではなく、床山さんが用意した<付けヒゲ>をつけるのですが、これには付けヒゲ専用の接着剤を使って固定いたします。剥がすときも同様に、専用の化粧品を使っています。
…それから、小道具の<太刀>も、同じ型のものを二つ用意し、場面によって使い分けるのですが…。どこでどう使い分けているのか、これは皆様、どうぞ舞台をご覧になって、御確認下さいませ。

『教草』吉原雀

2005年05月30日 | 芝居
今日は『輝虎配膳』の「総ざらい」と、『盟三五大切』、『教草吉原雀』の「附立」でした。
この『教草吉原雀』、いつもは単に『吉原雀』の外題(げだい。タイトルの意味)で上演されておりますが、今回は頭に「教草」とついていますね。さらに配役表をご覧になった方はお気付きでしょうが、いつもの「鳥売りの男」「鳥売りの女」の他に、「鳥刺し」という役がございます。今回、いつもの『吉原雀』とどう変わるのか、ちょっと御説明いたしましょう。
そもそも『吉原雀』は二種類ございます。演奏が、「長唄」によるものと、「清元節」によるもの、この二つです。長唄の方が先に作られ(明和五年)、その六十年後に、長唄の原曲を改作して清元節のが誕生しました(文政七年)。したがって、歌詞は共通する部分も多いです。
そして、長唄の方の正式な外題が、『教草吉原雀』なのです。
しかしながら、普段は長唄の演奏でも清元節の演奏でも、チラシやポスターにはただ『吉原雀』とだけ表記することが多いですね(平成十三年六月歌舞伎座での上演時も、長唄の演奏でしたが外題はたんに『吉原雀』でした)。
では今回、何故あらためて「教草」をつけたのか、ということになりますが、これは「いつもとは演出が変わります」ということを、それとなくお伝えしているわけでございます。
その「いつもと違う」演出と申しますのが、
鳥売りの男女は、実は「雀の精」だった
という設定が加わったことなんです。それまで普通に、廓での男女の駆け引きなどを、軽快に踊っていた二人が、鳥刺し(小鳥を鳥モチ竿で捕まえる人)が登場するとその本性を顕わし、立ち回りになる(あくまで舞踊の表現で)、というストーリーになっているわけです。
この設定(趣向、とも申します)は、昭和五十九年十二月の国立劇場での上演のさい考えられたもので、振付けは、六世藤間勘十郎(後に勘祖)さんです。そのときの配役は、鳥売りの夫婦に、天王寺屋(富十郎)さん、成駒屋(当時児太郎、現福助)さん、そして鳥刺しが成駒屋(橋之助)さんでした。
ちなみに明和五年の『教草吉原雀』初演でも、鳥売りの男が実は源義家、鳥売りの女は実は安倍宗任の妻で、さらに出羽の国の鷹の精だった(!)という設定になっていたそうでございます。
ともあれ、普段とはひと味違う『吉原雀』、是非ご覧下さいませ。

NHKホールにて

2005年05月29日 | 芝居
昨日書きました通り、今日はNHKホールでの『古典芸能観賞会』。天王寺屋(富十郎)さんの『船弁慶』に、師匠梅玉が源義経役で出演いたしました。
歌舞伎座「五月大歌舞伎」の公演中に、すでにお稽古が始まっておりました。千穐楽の二十七日が「舞台稽古」で、ちょうどその時間が、『研辰』と重なっておりましたから、師匠についての仕事ができませんでした。その日は兄弟子方にすっかりお世話になってしまいまして、今日はじめて、この公演で働くことになったわけです。
午後ニ時からの歌舞伎座での『輝虎配膳(てるとらはいぜん)』を終えてから、すぐに渋谷のNHKホールへ。着いたのは四時少し前でした。すでに師匠梅玉の楽屋は、舞台稽古の日につくってありますから、今日は使う分だけの化粧品を出したりするだけで準備完了です。
楽屋、と申しましても、歌舞伎座や国立劇場など、歌舞伎専門の劇場のそれとは違い、どちらかと申しますと「控え室」といった感じです。鏡台、シャワー、トイレこそございますが、広さもそれほどございませんし、畳敷きでもございません。衣裳を着るときなど、直の床では不都合も多いので、この公演のために、臨時で畳を二枚だけ、床に敷いてありました。
私達お弟子さんの控え室もございますから、そこで黒衣に着替え(舞台に後見として出るわけではなくとも、万が一のこともありますから、黒衣でいた方が都合がいいのです)、あとは普段の公演と同様、諸々の仕事をこなしてまいります。
六時十五分頃『船弁慶』の幕が開きました。仮設とはいえ花道もございます。師匠の役は花道から出るので、客席ロビーの隅をパーテーションで囲った「揚げ幕」まで、おかもちを持ってお供します。舞台に出ていった後は早速「撤収作業」。もう使わない楽屋用品をどんどんしまって参ります。こうしておけば、帰るのが早くなりますからね。あらかた片付けたら、あとは師匠がお帰りになってからの作業になります。わりかし早く片付いたので、舞台袖から芝居を拝見。歌舞伎座よりも高さがある舞台、横幅も少し広いでしょうか。広々とした印象です。「紅白歌合戦」を収録するくらいのホールだけに、音がよく反響します。ここをはじめとして、「ホール」と銘打つ会館は、クラシックやライブ等、コンサート用に設計がなされていることが多く、音の聞こえ方が、歌舞伎座など歌舞伎専用の劇場とは違ってまいります。
七時半頃、何事もなく無事終演。師匠がお帰りになったのは八時頃だったでしょうか。それから最終的な片づけをして、二十分後には撤収完了。まとめた荷物は「六月大歌舞伎」で使うものでもあるので、私と兄弟子との二人で、タクシーで歌舞伎座まで運びました。
…一日だけのお仕事といいますのは、荷物の運び入れ、撤収がややせわしなくもあり、また楽屋の勝手も普段とは違って参りますし、本番一回のみ、ということで、失敗が許されないという緊張感も、いつもより余計に感じられます。付人さん、お弟子さん、みなで協力し、助け合い、なるべく「いつもの公演」のように仕事ができるよう、勤めております。

研修時代10・卒業~入門へ

2005年05月28日 | 芝居
三回目の発表会が終わった時点で、二年間の研修は終了となります。発表会後一週間ほどは、今後の説明会やら後片付けやら。そして「研修修了式」を執り行って、めでたく卒業というわけです。
卒業後の我々の動向について御説明いたしましょう。卒業と同時に、「社団法人 日本俳優協会」に入会し、立場としては、「社団法人 伝統歌舞伎保存会」の<預かり>、となります。芸名こそないものの、一歌舞伎俳優として認められ、約半年、本名のまま各劇場に出演します(基本的に研修修了生は、全員一つの劇場にまとまって出演します)。
さて、この約半年間、幹部俳優さんと一緒の舞台に立つことで、だんだんと、「どこの一門に入門したいか」ということが決まって参ります(もっとも、研修中から「絶対ここに入門する!」という決意をもった人もいたりしますけど)。入門に関しては、基本的に我々の希望は尊重されますが、受入先である幹部俳優さんの方にも、いろいろ御都合はあるものですから、そういった、研修修了生と幹部俳優さんとの橋渡し役を、前記の「社団法人 伝統歌舞伎保存会」の事務局の方が勤めて下さいます。
そうした入門についての話が始まるのが、卒業の年の秋。研修修了生と幹部俳優さんとの間で話がまとまれば、入門決定ということになり、それからは、師匠となった幹部俳優さんと行動を共にすることになるわけです。
私の場合ですと、研修終了後の初舞台が、平成十年五月の歌舞伎座。それから六月七月の国立劇場、八月は勉強会「稚魚の会」。そして九月の歌舞伎座の時、はじめて師匠梅玉に御挨拶をし、入門が決定。十月は師匠は国立劇場でしたが、研修修了生全員が名古屋の御園座に出演が決まっていたので別れてしまいましたが、十一月の大阪松竹座、十二月の歌舞伎座は、本名のまま師匠と行動を共にし(もちろん弟子としての仕事もしました)、翌平成十一年一月歌舞伎座で、「中村梅之」の名を頂き、正式な入門となったのでした。
さて、『研修時代』も全十回で無事卒業までこぎつけました。まだまだエピソードはつきませんが、それはまた、折に触れてお話いたしましょう。

今日から早速、歌舞伎座「六月大歌舞伎」のお稽古が始まりました。私は、夜の部『盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)』の序幕第ニ場の「若い者」に出演、『教草吉原雀(おしえぐさよしわらすずめ)』では、「着付後見」をさせていただきます。
それから明日二十九日は、NHKホールで、「古典芸能鑑賞会」がございまして、天王寺屋(富十郎)さんが『船弁慶』をなさいます。師匠梅玉も、「源義経」役で出演いたします。夕方からの公演ですので、昼間歌舞伎座で「六月大歌舞伎」の稽古をしてから、渋谷へ向かいます。
明日は、「ホールで演じる歌舞伎」の御報告ができればと思います。

千穐楽報告・そして『おことわり』

2005年05月27日 | 芝居
本日、「五月大歌舞伎」無事千穐楽を迎えることができました。連日大入り満員、有り難いことでございましたし、私自身も体調を崩すことなく、楽しく舞台を勤めることができました。
今日の『芝居前』では、劇中口上でも、また男伊達、女伊達の方々のセリフにも、千穐楽を祝ったり、中村屋(勘三郎)さんへのねぎらいの言葉が加わったりと、お目出度い雰囲気でいっぱいでした。
『研辰』では、大和屋(玉三郎)さんが第三場「宿屋の場」に特別出演なさって、中村屋さんに芝居で絡むという大御馳走。客席も沸きに沸きました。初日以来、カーテンコールが行われておりましたが、大和屋さんはそれにもお出になり、私達名題下俳優も今日は総出演でした。
初日が遅かったせいか、ひと月が長いように思われましたが、こう終わってみますと、なんとなく淋しい気もいたします。


さて、ここで皆様におことわり申し上げたいことがございます。
「幹部俳優さんの呼称法」に関してなのですが、これまで、当ホームページでは、特定の幹部俳優さんについて書くとき、「芸名+さん」という表記法を使ってまいりました。
しかしながら、では実際に私が、普段の会話のなかで幹部俳優さんのことを、そういう「芸名+さん」という呼び方で呼んでいるかと申しますと、それは違いまして、むしろ直接的に芸名を呼ぶことは、場合によっては失礼になったり不遜ととられることもあるのです。
実際には私は、「屋号+さん」、あるいは「屋号+~の旦那(あるいは若旦那、など)」という呼び方で、お呼びするのですけれども、このホームページは、広く一般の方々にお読み頂くことを目的としており、その場合、「屋号」による呼称法は、読者の皆様にとってはわかりにくいのではないかと考え、例の「芸名+さん」の表記を使用しておりました。
この度、このような「文章表現上の呼称法」と、「実際の私が使う呼称法」の区別を、はっきりさせるべきでは、との御指摘を頂きました。そこで、この場をお借りしまして、改めて文章により、皆様に御理解頂きたく存じます。
これからは、原則として幹部俳優さんの呼称法は、
『屋号を書き、カッコ書きで芸名を表記し、「さん」をつける』
と統一いたします(すでに上記「千穐楽報告」でその表記法を使っております)。
そしてこれは、今までの「芸名+さん」も含めて、あくまで
『文章表現上の呼称法』
であり、
『私が実際に使う呼称法』
とは違うものである、ということを、御了承頂きたく存じます。
長文にて御無礼かと存じますが、このホームページをご覧頂く全ての皆様に、失礼、誤解を招かぬため、何卒よろしくお願い申し上げます。


研修時代9・舞台に立つ

2005年05月26日 | 芝居
二年間の研修のなかで、その成果を皆様にご覧頂く『研修発表会』が三回、行われます。一年目の研修が終わる三月、二年目の十一月、そして卒業公演ともいえる、二年目の研修が終わっての三月です(月は変動もあります)。
私達十四期生は、
<一回目>歌舞伎実技『車引』、日本舞踊『廓八景』、長唄・三味線『松の緑』、立ち回り『基本の型』
<二回目>歌舞伎実技『修禅寺物語』、日本舞踊『菖蒲浴衣』、鳴り物『娘道成寺』、義太夫『忠臣蔵・三段目』、長唄・三味線『小鍛冶』
<三回目>歌舞伎実技『引窓』、日本舞踊『雨の五郎』、立ち回り『小金吾の立ち回り』
を、発表いたしました。このうち一回目と三回目の「歌舞伎実技」は衣裳、化粧も本公演通りですが、二回目のみ紋付袴の「素」による上演でした。また、立ち回りの『基本の型』は、松太郎さんのタテによる、様々なシチュエーションの短い立ち回りをメドレーで、紋付袴の「素」の拵えで見せるもの。『小金吾の立ち回り』は、「義経千本桜・小金吾討死の場」から、小金吾と黒四天の立ち回り部分のみ抜粋し、大道具、衣裳ともに本式で演じるものです(小金吾役は、十期生の市川新七さんが出演して下さいました)。舞踊、音曲の発表は、みな紋付袴です。
…三回共に、国立劇場小劇場にお客様をお呼びしての発表ですから、一回目の発表会が、実質の「初舞台」といえるかもしれませんね。この一回目は、当然ながら何から何まで初体験尽くし。衣裳を着て動くこと、所作板の上で踊ること、木の舞台でとんぼを返ること、などなど。稽古場とは全然勝手が変わりますから、戸惑うことしきりでしたが、講師の方々の猛烈な指導と、研修所出身の先輩方がお手伝いに来て下さり、着付けから化粧の手直しから舞台上の後見まで、何から何までお世話になりました。このような支えがあって、はじめて成り立つ公演なのですね。
私は『車引』では桜丸、『修禅寺物語』では金窪兵衛、『引窓』では女房お早を勉強させて頂きました。思えば若衆、端敵、老け女形と、いろいろな役柄を学べたわけで、大変有り難く思います。
『廓八景』で、一人だけ早く扇子を開いてしまって恥ずかしい思いをしたり、『忠臣蔵三段目』で、高師直の大笑いを語って血管が切れるかと思ったり(ありえませんけどね)、『娘道成寺』で、我々の鳴り物と、賛助出演の長唄さんの演奏がバラバラになってしまい、どうにも収拾がつかなかったことなど、思い出は沢山ございますが、今では後輩の発表会のお手伝いゆく立場なのですから、月日のたつのは早いものですね。
…ちなみに初めて舞台で芝居をしたときの私の感想は、
「なんて暑いんだろう!」
です。


(追記)『発表会』は計三回ですが、二回目の発表会の前に、「朗読」と「箏曲」を、国立演芸場にて、ごく内輪の人たちの前で発表する『あげざらい』というものもございました。お琴をひいておりましたら、琴爪が外れて遠くへ転がっていってしまいました…クスン。

研修時代8・再び運命の時

2005年05月25日 | 芝居
二日間のブランクでしたが、ようやく閑話休題ということで、研修生の思い出を。
実は大事なことを書き忘れておりました。それは、「研修生にはもう一度試験がある」ということです。
入所のための一回目の試験では、実技的な試験は行われませんでしたね。これは先述の通り、礼儀や行儀を審査する意味が強いのと、実技課題を出したところで、その場で受験生が簡単に実演できるほど、歌舞伎は「甘くない」からです。
しかし、研修が始まり、さまざまな課目を習ってゆくなかで、養成所側としても、「本当にこの生徒達に、伝統芸能を演じる適性があるのか?」を改めて判断する必要がでてくるわけです。そこで、半年ほど研修をうけた頃に、改めて「適性審査」という実技試験が行われるのです。これに落ちた場合は、即刻退学! じつに恐ろしい試験です。
課目は三つ。「歌舞伎実技」「日本舞踊」「立ち回り・とんぼ」です。私達の期では、又五郎さん指導の「白浪五人男・稲瀬川勢揃いの場」から五人男の名乗りだけを抜粋したもの、花柳流の「松の緑」、そして松太郎さん指導の「義経千本桜・吉野山」の花四天の立ち回りが、課題となりました。
二週間ほどの夏休みが明けた九月のはじめが試験日。もちろん夏休み中も研修室で自習、特訓を重ねておりました。「日本舞踊」は十人の研修生全員で踊りましたが、「稲瀬川勢揃いの場」は、五人男というくらいですので、五人ずつ半分にわけて二回(私は赤星十三郎役)。「立ち回り・とんぼ」は忠信役と藤太役、それに八人の花四天という配役(私は花四天でした)をし、とんぼも実際に返る(ただし「三徳」のみ)、というものでした。
すでに何度も稽古したとはいえ、もしセリフが詰まったら、とか、振りを忘れたら…と思うと気が気でなく、不安でいっぱいでした。目の前には審査員として、又五郎さん花柳壽楽さん松太郎さんはじめ大勢の関係者が見つめてらっしゃる…。いざはじまってしまうともう無我夢中というか、いつのまにかに踊って喋ってとんぼを返っておりました。
審査は当日の三課目の成果と、それ以外の研修課目の講師から提出されている「評価表」とによって合否を決定し、結果は一人ひとり別室に呼ばれて口頭で通知されます。「やるだけやったから大丈夫」なんて思ってみても「もしかしたら…」と悪い予感。またしてもマンジリともせぬ待ち時間を過ごしましたが、やがて私の名が呼ばれ、別室に向かうと…。国立劇場の養成担当の職員方が居並んでおりまして、その責任者の方から、「無事合格」、そして「これからも歌舞伎(の修行を)続けてくれますね」という、有り難いお言葉を頂戴したのでした。
結局十人の研修生は全員合格いたしました。そしてこのときからが、正式な研修生としての修行となったのです。


ちょっと一息(もう一日)

2005年05月24日 | 芝居
今日は再び「同期会」で遅くなってしまうので、もう一日、小文にてご了承下さい。
昨日の東京の集中豪雨、すごかったですね。歌舞伎座では、我々の地下の楽屋から、舞台へ抜ける通路が浸水してしまいまして、一時通り抜け禁止に。私が「お化け提灯」を終えて楽屋へ戻ろうとしたら、みんなが「雨で通れない」と騒いでいるんです。屋根つきの通路ですからそんなことはないだろうと見てみたら、まるで洪水のときのような「激流」が通路を飲み込んでいるではありませんか! しかたがないのでいったん楽屋口に回って、表から戻りましたが、こことても床はビチャビチャ。足袋がすっかり濡れてしまいました。
地下に戻るとさらにびっくり。エレベーターのドアから水が流れ落ちてきているのです。みんなで慌てて新聞紙をしいて、履物の被害を食い止めているところでした。
歌舞伎座のまわりの、排水の便が悪いんですかね。ともかく一時的な雨ですんでやれやれです。
「鳴尾」に行く頃はお月様も出てました。

それではこのへんで。明日からは「研修時代」、必ずお届けいたします。

ちょっと一息

2005年05月23日 | 芝居
今日は前にもご紹介いたしました、ホルモン・ダイニング「鳴尾」に友人達と参りますので、夜に書き込めないと思います。今回はちょっと気を変えまして、ここ最近行ったお店のご紹介をいたしたいと思います。
まずは「酒肆 吾妻橋」。浅草にあるアサヒビールタワー(変なオブジェののっかっている)の横です。木をいかした内装の、落ち着いた雰囲気のお店で、昼間は食事、夜はダイニングバーになります。昼間行ったのですが、ミートソーススパゲティーが、コクがあり、麺も歯ごたえよく、とても美味しかったです。今度は夜行ってみたいですね。
お店のアドレスはhttp://www.asahi-annex.com

それから表参道の「青山 もくち」。青山通りから骨董通りにはいるくらいにありまして、気軽に入れる割烹といったかんじ。美味しい和食を食べさせてくれます。食材のこだわりもすごいもので、全ての食材の出荷元、生産地がわかる小冊子を見せてくれます(かわった店名の由来も、ここに書いてあります)。
豚肉と水菜を、「イグサ」の粉末を溶いた出汁でいただく「イグサ鍋」は、ここでしか味わえない逸品でしょう。
アドレスはhttp://mokuchi.com

あとは歌舞伎座楽屋口のすぐ左の小路を入ったところの「居酒屋 おやじの味」。先日はじめて入りましたが、お料理は気取らぬ庶民的なものでボリュームあり。グラスになみなみお酒をついでくれるのが嬉しいですね。賑やかな店内で、話も弾みます。
アドレスはhttp://r.gnavi.co.jp/g940500/

そうこうしているうちに出勤時間となりました。ではまた。

研修時代7・正座の行

2005年05月22日 | 芝居
体を使う「立ち回り・とんぼ」の稽古で苦しんだ私ですが、逆に動かないお稽古でもつらいものはあるものです。
「長唄・三味線」「鳴り物」「義太夫節」「箏曲」といったいわゆる「音曲」の稽古には、正座がつきもの。これがまた手強い敵でございました。私、昔から案外正座は平気だったのですが、一時間二十分の授業時間、座りっぱなしとなるわけですからね。研修がはじまったばかりの頃は、そんなに長時間正座した経験がないひとばかりでしたから、ちょっとの用事で立ち上がることができなくなってしまったり、しびれや、膝の痛みなどに苦しむ人が続出、講師の方はちゃんと心得ていらして、時間を見計らって「休息(足?)時間」を下さいました。
それでも研修室の床は板敷きですから、たとえしびれなくともだんだんと痛くなってくるもので、「長唄・三味線」「鳴り物」「義太夫節」のときは、研修生は二列横並びに座っていましたので、「上敷(じょうしき)」という長いゴザ状のものをしいていましたからまだしもなんですが、「箏曲」では、扱う楽器が大きいので、研修生がきちんと並んで座ることができず、したがって上敷もしけず、これは苦しゅうございました。
しかし不思議なもので、二年間の研修の中で、だんだんと馴れてしまうんですね。何十分も座りっぱなしなんてお役も数々ありますし、思えば研修中の苦しみは、なによりの「正座の稽古」だったのかもしれませんね。

今日はNHK教育で『放浪記』です。これからじっくり拝見いたします!

研修時代6・インドア人間の苦闘

2005年05月21日 | 芝居
卒業後、“即戦力”として舞台で働けるようにするための多彩な研修内容なわけですが、我々のような名題下俳優は、普段の公演では、なんといっても<立ち回り>に出ることが多く、そのため<立ち回り・とんぼ>の授業は重点的に、みっちり仕込まれます。
講師は尾上松太郎先生。お手伝いで坂東三津之助(当時みの虫)さんや坂東橘太郎さんもご教授下さいました。
まずは立ち回りの<基本の型>。山形、からうす、千鳥、蛇籠などの基本動作を、簡単な立ち回りを繰り返しながら覚えさせられます。それからが<とんぼ>。国立劇場の駐車場脇に作られている“トンボ道場(柔らかい砂を敷き詰めた土俵と、助走するスペースからなるトンボ専用の稽古場)”や、研修室にマットを敷いてのお稽古です。トンボには、その場でクルリと返る<三徳>や、助走をつけて人やものを飛び越す<返り越し>、高い所から落ちる<返り落ち>などありますが、まずは<三徳>から。いきなり一人では返れませんから、左右に補助の人を立たせ両手を持ってもらい、まずは回転する感覚をつかみ、慣れてきたら補助を外して一人でやってみる。こう書いてしまえば簡単なようですが、一筋縄ではいきません。トンボは、基本的に片方の足を後ろに蹴り上げる力“蹴り”と、もう片方の足で上に跳ねる“弾み”、そして上半身を丸く引きつける“しゃくり”の三つの力のバランスで成り立ちますが、一人になると、どうしても怖くなってしまい及び腰になり、蹴りが甘くなったり全然弾めなくなったりしてしまい、回転力が弱まって、きちんと着地ができなくなってしまうんです。尻から落ちればまだよい方。ドシンと腰から落ちれば痛いし、ときには頭から突っ込んでしまうということも。
もとより身体を動かすのが苦手な私。最初は本当に辛かった。怖さが失敗を生み、失敗がさらなる恐怖を生むという悪循環で、身体は痛いし精神的には追いつめられるしで、正直稽古は憂鬱でした。ところが、それでもがむしゃらにやってゆけば、いつかは突破口が開けるもので、ある日フッと楽に返ることができたんです。そうなってくると、だんだん自信もついて楽しくなってくるもので、無事一回目の発表会で<三徳>をお見せすることができるまでになりました。続いては<返り越し>ですが、こちらも恐怖心はそれまで以上でしたが、卒業までには身につけることができました。

苦手意識ばかりが先に立っていた私が、とりあえずここまでできるようになったのは、ひとえに講師の尾上松太郎先生のおかげです。厳しく怒られ、叱られましたが、それがかえって私を発奮させ、負けるものか! の意地の一心で稽古する原動力になったのだと思います。上手くできたときには誉めて下さいましたし、これがまたさらなるやる気を生む。どの授業もそれぞれ厳しさはございましたが、私にとりましては、<立ち回り・トンボ>の授業は、それまでユルユルだった心根を、鍛え直してくれた一番の時間だったと思っております。

それからもう七年。今でも舞台でトンボを返っております。あのとき教わったこと、味わった気持ちを忘れずに、体力の続く限りは頑張って参りたいものです。

研修時代5・演技を学ぶ

2005年05月20日 | 芝居
なんといっても「歌舞伎実技」の研修がメインとなるわけですが、なんの演目をテキストにするのか、その期の研修生の人数によって、変動があります(人数より役の数が足りないと稽古できませんからね)。十二人ではじまり、途中ニ名が辞めて十人となった私達の期は、又五郎さん(当時は「先生」とお呼びしておりましたが)に『白浪五人男・稲瀬川勢揃いの場』、『車引』、『双蝶々曲輪日記・引窓の場』を、田之助さんからは『修禅寺物語』、それと松助さんと共に『引窓』の補導を、吉之丞さんからは『鏡山旧錦絵・奥庭仕返しの場』、『一條大蔵卿・御殿の場』、その他仲居、腰元、傾城など女形の基本演技を御指導頂きました。
一口に指導、といっても人それぞれで、例えば又五郎さんの御指導は、御自身の覚えていらっしゃる型、セリフ回しを忠実に細かく教える方法、それに対して田之助さんは『修禅寺物語』という新歌舞伎自体が型がない芝居ですので、ある程度の段取りを決めたあとは、演技、セリフ廻し自体は、研修生のセンス、考えで自由にやらせ、それが「歌舞伎の常識」「役者の行儀」に外れたとき、ていねいに直して下さるという方法、というように、おのずと変わってまいります。
最初は台本の漢字も読めない、足を割る、とか、おこつく、という動きの用語も知らない状態から、先生の実演を見よう見まね、幾度も怒られながら、「体で覚えてゆく」のですね。
とりわけ難しかったのは、演技の基本となる体勢、つまり「腰を入れる」こと、そして「女形の発声」でした。「腰を入れる」ために、背筋を垂直に伸ばしたまま、膝を直角におり、ちょうど相撲の「四股」の形をつくり、そのままじっとする、という稽古方があるのですが、これが苦しい! 膝がパンパンになってしまうのです。「女形の発声」も、当然今まで出したこともないような声を出すのですから、素頓狂な金切り声になってしまったり、あるいは高音がでなかったり、自分にあった声の出しどころを見つけるのには、結構時間がかかりました。
また、研修生一人一人に、立役、女形の得手不得手はでてきてしまうものですが、そうはいっても、稽古中には苦手な役どころもやらされます。田之助さんの『修禅寺物語』の稽古は、どんどんローテーションで役を変えてゆくものですから、ゴツイ体躯の娘やら、どこかなよやかな老爺やら、おもわず先生も笑ってしまう迷演がまま見られたものでした。私もこの老爺をしましたときは、当時の実年齢が若かったこともありますけど、「ぜんぜんダメ」と同期にいわれ、悲しかった記憶がございます。

研修時代4・多彩なカリキュラム

2005年05月19日 | 芝居
さて、二年間の研修生活で、どのような勉強をしたのか、まずは全カリキュラムを御紹介しましょう。
「歌舞伎実技」。ある演目をテキストとして、実際に演技を学ぶ。
「日本舞踊」。歌舞伎の演技の基礎となる体の使い方を学ぶ。
「長唄・三味線」「鳴物(鼓、太鼓)」「義太夫節」「箏曲」。演奏技術や発声を学び音感を養う。
「発音・発声」。元NHKアナウンサーの指導により、正しい発音とアクセントを覚える。
「講議」。歌舞伎研究家による歌舞伎概論等で、歌舞伎、演劇の基礎知識を学ぶ。
「茶道作法」。お茶の点前を通じて、礼儀作法を覚える。
「化粧」。歌舞伎の化粧法を実際にすることで学ぶ。
「立ち回り・とんぼ」。立ち回りの型、トンボ返りの技術の習得。
「体操」。1、日本体育大学の講師による、トンボの習得を助けるトレーニング/2、1とは違う講師による、基礎的な筋肉アップのトレーニングと疲労した筋肉をほぐすためのストレッチ。
以上がメインカリキュラムで、他に、歌舞伎座や国立劇場での「公演見学」が月1、2回、歌舞伎ゆかりの名所旧跡をめぐる「史跡見学」が年に1、2回。このような課目を、二年間学んできたのです。
講師の方々は、いずれも一線で活躍されていらっしゃる方で、「実技」は又五郎さん、田之助さん、松助さん(こちらは「化粧」も)、吉之丞さん。「舞踊」は現藤間勘十郎さん、故人となられた藤間勘五郎さんと、御夫人の勘紫寿さん、そして花柳泰輔さん、花柳錦吾さん。
「立ち回り・とんぼ」は尾上松太郎さん、坂東みの虫(現三津之助)さん、坂東橘太郎さん。
この方達をはじめとして沢山の方々が、ずぶの素人の私達を根気強く御指導して下さったおかげで、今、曲がりなりにも「歌舞伎俳優」として舞台に立たせて頂いているのでございます。
二年間の研修には、たくさん思い出がございます。次はそんな思い出をお話させて頂きます。

研修時代3・研修生の一日

2005年05月18日 | 芝居
さて、四月のはじめに「開講式」がおこなわれ、それには研修生一同、紋付袴で出席でした。十四人が合格したのですが、なんらかの事情で、二人が開講前に辞めてしまいましたので、十二人でのスタート。自分達ではまだ着こなせないので、研修所出身の先輩方が、着付けを手伝いに来てくれました。「歌舞伎俳優」の他にも「歌舞伎鳴物」、そして研修する場所は違いますが「能楽」も、研修をはじめますので、それぞれの研修生が一同に会しての式となりました。
さて、翌日からいよいよ研修がはじまったわけですが、昨日も書きました通り、研修は演芸場脇の別棟で行われます。朝は入り口に掛けられた出席札(自分の名前が表は黒、裏は赤で書かれている)を表に返してから控え室に入り、着物に着替え、研修室に入ります。
基本的な研修時間は一課目につき一時間二十分。午前十時半から一課目、その後一時までが昼休み、それから三課目を、十分の休憩を挟みながら続けて行いまして、午後五時二十分に終了。これが一日の流れになります。ひと月ごとに、講師の方々のスケジュールに合わせ、カリキュラムが組まれます。土曜日曜はお休みです。
研修生は毎日二人ずつの当番を決め、講師の先生のお迎え、着替えの手伝い、お出しするお茶、おしぼりの準備等を分担して行います。また、一日の研修終了後、「研修日誌」を書くのも、当番の仕事です。
研修は基本的に春、夏は浴衣、秋、冬は単衣の着物。立ち回りや体操の授業の時はジャージの上下やTシャツに短パン等。
研修室は前方の壁に大きな鏡をとりつけており、床は所作板(改修工事後に硬いフローリングになってしまいました)、後方の窓際には、化粧の研修に使う鏡台が人数分並べられており、これは国立劇場の楽屋にあるのと同じものです。
その他研修に使う道具類をしまう棚や、マットなどが並んでいたりしますが、それでも、自由に使えるスペースは二十余畳ほど、十数人で稽古するには充分な広さです。
……研修が始まってから一週間ほどは、実技的な研修はなく、着物の着付けや心構え、VTR鑑賞などが中心となり、時間も変則的でした。
何日目でしたか、昼過ぎに研修が終わってから、急いで歌舞伎座に行き、一幕見で当時七十四才の雀右衛門さんの『娘道成寺』を拝見したこともありました。懐かしい思い出です。

どんな課目があったのかは、明日お話いたしましょう。

研修時代・決断するまで

2005年05月16日 | 芝居
小学校五年生から歌舞伎に夢中になってしまった私。卒業文集の「私の夢」欄にも堂々と「歌舞伎役者」と書いたほどです。中学二年の春に関西に転校、歌舞伎の舞台とも遠ざかってしまいましたが、歌舞伎役者へ、との夢は膨らむ一方でした。すでに、国立劇場での「俳優研修」の存在は知っていましたが、研修生になるには試験を受けねばならず、その条件は「中学卒業以上二十四才まで」。私が中学を卒業する平成八年は、ちょうど二年に一回の募集の年でした。
三年生になり、友達が進学先をあれやこれやと考えているなかで、私は「国立劇場の研修生になり歌舞伎役者になる」という、担任も困ってしまうような「進路」を選ぼうとしておりました。もし、晴れて研修生になったとしても、最終学歴は「中卒」になってしまいます。研修生になれなかったことを考えても、高校受験だけは受けた方がよいのでは、いや高校を出てからでも研修生になるのには遅くはないのではないか、といわれましたが、私、ネがひねくれ者の頑固者、他人と同じ道を歩きたくないものでしたから、卒業したら絶対研修生になる、高校なんて行きたくない!とつっぱねておりました。
世間のことを何も知らないものでしたから、本人は大した考えもなく言い放ったわけでしたけれど、両親はじめ、まわりはさぞかし心配だったことでしょう。進路を本格的に決めなくてはならない時期に来て、ずいぶんと話し合いました。こちらも向こう見ずとはいえ、親の気持ちも痛いほどわかりましたし、でも自分にとっての高校進学の意味は見つからない。さりとて仲の良い友人との別れを考えたり、あるいは研修生になれなかったときのことを思ってしまったりすると、先行きの見えない不安。なんと申しましょうか、精神的に辛い、苦しい一時期もありました。
しかし、最後の最後には、両親の理解が得られ、私も自信をもって「国立劇場の研修所を受験する」と、決意することができたのです。ただし、受験に落ちた時のことを考えて、通信制の高校(無試験)に入学することにいたしました。
クラスメイトはずいぶん驚いておりましたけど、私が歌舞伎好きなのは知っていましたから、みんな応援してくれました。「有名になってね」なんて言葉が、どんなに励みになったかわかりません(まだ有名にはなってませんけどね)。
とまれ、中学三年生の春、私は「国立劇場歌舞伎俳優研修」の受験を決意いたしたのでございました。