梅之芝居日記

歌舞伎俳優の修行をはじめてから15年がたちました。
日々の舞台の記録、お芝居ばなし等、お楽しみ下さい。

時雨月稽古場便り 巻の四

2006年09月30日 | 芝居
正午より『元禄忠臣蔵』の総ざらい。今回のような新歌舞伎のみのお稽古でも、古式にのっとり、お囃子連中による稽古開始前の<シャギリ>、稽古終了後の<打ち出し>と、それに続く関係者一同での<一本締め>はございます。詳しくは当ブログ2005年9月30日付け『総ざらいのしきたり』をご覧下さい。
私が勤めさせて頂く三役のなかでは、どうしても台詞のある<申し次ぎの若侍>に、意識が集中いたします。テンポや気持ちを大事にしながらも、言いにくい字面のコトバをどれだけはっきり言えるか。出番前に何度も稽古をしてから本番に臨むのですが、どうしても急ぎすぎてしまうところ、不明瞭になりかけてしまうところがございます。出番を終えてから、稽古を見ている仲間にダメ出しをしてもらっているのですが、「今日はこのコトバが聞き取りにくかった」「(テンポを)もう少し抑えられるんじゃないの?」などと、忌憚なく言ってもらえるので有り難いのです。課題をしっかり意識しながら喋ることを第一として、今現在の稽古を重ねて来ておりますが、だんだんと抑制が効いて来たとは思うものの、生来苦手なカ行タ行の発声に、未だ苦労しております。もっと冷静に! お客様の聞きやすい台詞になるように!

稽古自体はどんどんまとまってまいりましたので、稽古初日には五時間余かかったのが、今日は三時間半余りとなりました。ただ、稽古場での段取りが、そのまま舞台上で通用するとは限りません。明後日の舞台稽古では、どうなることでしょうか。照明、音響、効果の確認も加わりますので、出演者一同、長期戦を覚悟いたしております。

さて、午後六時からは『勧進帳』の<舞台稽古>。午後一時に『元禄~』での出番を終えた師匠も、再び劇場にもどりまして、富樫左衛門をお勤めです。その裃後見を勤めさせて頂きますが、以前経験しているとはいえ、前回は地方巡業でしたので、文化会館、芸術ホールなど、間口の狭い会場ばかり。今回は国立大劇場という大舞台ですから、舞台上でなにか用事をしようにも、相当な距離を移動しなくてはなりません。改めて、動き出すキッカケ、居所を確認しながら勤めさせて頂きました。一回ぽっきりの舞台、しかも十八番もの。後見も、芝居に合わせた格式、品を保って勤めたく存じますが、仕事の量も多いですし、以外とせわしない箇所もあるのです。明日の舞台をベストなものにできるよう、努力するのは当然ながら、こうしたときこそ、余分なものを削る、抑える、自然体になるということをしっかりと意識して臨みたいと考えております。

たびたび上演される演目ですので、全く何事もなく稽古終了。仲間を誘って平河天満宮そばの「とんがらし」で夕食をとって帰宅しました。

時雨月稽古場便り 巻の三

2006年09月29日 | 芝居
本日は正午より『元禄忠臣蔵』の<附立>でございましたが、午後二時五十分開幕予定で、四十周年記念式典祝賀舞踊の『石橋』の本番がございましたので、関係者各位のご了承のもと、『第二の使者』の申し次ぎ役をいたしましたあと、お稽古を退席させて頂きました。
午後一時半過ぎからまず後見の拵え。今回は六世中村歌右衛門の大旦那のお弟子でいらした、歌女之丞さんの後見ですので、芝翫茶の熨斗目の裃に、紋は<祗園守>という、成駒屋の裃を着させて頂きました。このような機会でしか身にまとうことのないものですから、大変有難く、また心引き締まる思いでした。
おかげさまで本番の舞台もつつがなく終わりました。研修生も舞台稽古よりもさらに落ち着いて、そして元気よく立ち回りを演じておりました。皆々、十月国立劇場の本公演にも舞台実習として出演する立場ですので、ここで怪我などしては元も子もありません。基本的なとんぼの技である<三徳>はもとより、石橋からの<返り落ち>も無事にこなし、大きな拍手もございました。全員しっかりと勤めおおせることができて、本当に良かったと思います。

今日の後見でちょっとハラハラしたこと…。立ち回りが始まってすぐに、雄獅子、雌獅子に、それぞれ二人ずつカラミがついて、衣裳の<ぶっかえり>をいたします。シンの衣裳の両肩に付けられた<玉>を、左右に取っ付いたカラミが引き抜くと、玉に付けられた太い糸が抜けて、それまでその糸で荒く縫い合わされていた衣裳がばらけ、下に着込んでいた衣裳が現れるというわけですが、カラミはその玉を抜いたあとですぐトンボを返りますので、玉を後ろに捨てまして、それを後見があとから拾うのです。
さあ今日の本番、無事ぶっかえりもすみ、私も違う用事を済ませて、いざ計二個の玉を拾おうとしましたら、何故か玉は一個しか落ちていないのです。あたりを確認してもどこにもない…! ひょっとしたら大ゼリの隙間から、十数メートル下の奈落に落ちてしまったのかしら、そうなったらまず見つからないし、衣裳さんは困るだろうし、ああどうしよう…と一瞬様々なことを考えましたが、あまりキョロキョロしても見苦しいですから、とりあえず幕になってから探すことにしてしまいました。
その後は何事もなく幕となり、やれやれ探し物だと舞台をウロウロ歩き出したとき、出番を終えた一人の研修生が、得物の牡丹の花枝を持ってなにかゴソゴソ。よく見れば、牡丹の花に糸が絡み付いた、まぎれもないもう一個の玉! どうも玉を抜いた人の力が余って、離れたところで構えていた研修生の花枝まで飛んでしまったようなんです。からまった当人もどうすればよいかわからないし、そのままで立ち回りを勤めていたというわけ。まあ無事に見つかって何より何より。珍しくも面白いエピソードの一つとなった次第です。

…一つ仕事は終了しましたが、明日は『勧進帳』の<舞台稽古>ですし、同時進行はまだ続きます。申し次ぎもまだまだ課題は多いです。忙しい時こそ誠心誠意、謙虚にならなければなりません。

時雨月稽古場便り 巻の二

2006年09月28日 | 芝居
本日は午前十時より『石橋』の<本番通り舞台稽古>。一日だけの公演ですから、<初日通り>という表現は使いません。
私が勤めます後見は裃姿、しかも化粧をして鬘もかぶる一番立派なかたちですので、自分のこしらえ、そして雌獅子を演じる中村歌女之丞さんのご用事もございますから、朝七時半起き、八時半楽屋入り。近年稀なる早出となりました。とはいっても、お芝居の世界で早いというだけで、学生さん、会社勤めの方々は、毎日このような生活なのですから、ワガママは言ってられませんね。

昨日、衣裳と鬘付きでの<附総>をしたおかげで、後見としたしましては別段まごつくこともなく、仕事をすることができましたが、立ち回りをいたします研修生たちは、開幕前に入念に居所合わせをしておりましても、稽古本番、音も入ってシンも本イキで動き出しますと勝手もかわりますから、ちょっと大変そうでした。それでも手数の多い立ち回りを、よく落ち着いて演じておりました。初めての鬘をかぶってのトンボも、ひょっとしたら勢いで鬘を飛ばしてしまうのではないかと心配もいたしましたが、全員大丈夫でした。取り越し苦労に終わったのでよかったですが、明日の本番でも油断なく頑張ってほしいと思います。

舞台稽古が十時四十分に終わって、十一時からは四十周年記念公演『勧進帳』の<附総>。いそいで化粧を落とし、稽古着に着替えて、楽屋から大稽古場にむかいます。師匠が演じます、富樫左衛門の<裃後見>は、平成十三年十一月の地方巡業で勉強させて頂いて以来です。改めて手順を確認しながら今日の稽古をいたしましたが、仕事はけして少なくはないものの、せわしないこともありませんので、落ち着いて、行儀良く勤めたいと思います。当公演では、兄弟子の梅蔵さんが番卒権内を演じられ、部屋子の梅丸が太刀持音若を勤めます。

さて午後一時からは『元禄忠臣蔵』の二回目の<立稽古>です。昨日じっくり段取りを合わせたので、だいぶスムーズに進行するようになりました。私が勤めます申し次ぎの台詞も、今日はだいぶ落ち着いて、一語一語をハッキリ言えるようになってきました。さらに努力し、素の中村梅之ではなく、役の若侍がせいているように見えるよう、演技を工夫してまいりたいと考えております。
この申し次ぎの若侍に続き、<大石の若党>をはさみ、私の三役目は、『最後の大評定』での<諸士>役です。題名にもある通り、赤穂藩士五十余名と大石内蔵助が、篭城か、殉死か、あるいは潔い城明け渡しか、これからの去就を決める切迫した場面です。大勢の諸士が舞台に居並び、大石の一言一句を固唾をのんで聞き入るのですが、播磨屋(吉右衛門)さんの台詞にあわせて、各人がそれぞれの表情、リアクションを見せます。この反応の仕方が、みんなが一様になってはつまりませんし、といって、てんでバラバラの演技になっても困ります。今回の公演にあたり、補綴、演出をなさっていらっしゃる織田紘二氏が、今日の稽古で「この台詞にはこういう気持ちで反応して」と要所要所の指示を下さり、このポイントをおさえた上で、あとは各人自由な演技で、大石の台詞に「自分たちの気持ちを乗せてゆくように」とのお話でございました。自由に、というのが一番難しいのですが、「やりすぎには注意しますから」との念押しもありました(これには出演者一同思わず笑いが)から、まずは色々と考えながら、また周りに居並ぶ共演者とも相談しながら芝居を作ってゆこうと思います。

三演目ぶっ続けのお稽古でしたが、五時過ぎに終わったので助かりました。夕食は番町の蕎麦屋「丸屋」で一杯ひっかけながら。ダッタん蕎麦、美味しいですね~。

時雨月稽古場便り 巻の一

2006年09月27日 | 芝居
昨日九月大歌舞伎の公演を終え、今日からさっそく十月公演の稽古が始まりました。
度々申し上げておりますように、今月末、そして十月はじめの特別公演のために、複数の稽古が同時進行になります。本日はまず午前十時より国立劇場内大稽古場におきまして、四十周年記念式典での祝賀舞踊『石橋』の<附総(つけそう。一回の稽古で、附立と総ざらいを行ったことにすること)>でした。雄獅子、雌獅子のお二人は衣裳と獅子頭を本番通り身につけた形での稽古。おかげでカラミ役の研修生は、<ぶっかえり>の仕掛けの玉を抜く稽古もできましたし、大きい衣裳や長い毛を身につけたシンとの距離感も掴めたわけで、お稽古日数がとれないなかで、<舞台稽古>前にこうした稽古ができたのは、大変良かったと思います。かくいう私も、獅子物の後見は初めてでございますし、なにしろ今日初めて稽古に参加するものですから、ほぼ本番通りの段取りで仕事をすることができましたのはとても有難かったです。
さて今回の『石橋』は、正面に大きな石橋をしつらえた装置に、馬簾付き四天姿の雄獅子と、前帯の傾城姿の雌獅子の連舞。後半で<ぶっかえり>となる演出です。当然毛振りもございますし、カラミの立ち回りも派手に付けられておりまして、ごく短い上演時間ですが、厳かで華やかな雰囲気が味わえることと存じます。研修生たちが、衣裳を着て、鬘をかぶってトンボを返る(それも何回も)のが初体験となりますので、どうか怪我なく無事に勤め上げてもらいたいものです。

小返しもありましたが、三十分ほどで終了。とはいえ大層な拵えで、何度も繰り返したわけですから、お二人の獅子は汗びっしょりでしたが、本番の感じが掴めてよかったとおっしゃっていました。
 
                   ☆

正午からは本公演『元禄忠臣蔵』の<顔寄せ>、引き続いての<立稽古>。<立稽古>は段取り決めや居所あわせなど行いながらの稽古。中断しての話し合いもしばしばです。今回上演する『江戸城の刃傷』『第二の使者』『最後の大評定』は、決して頻繁に上演されるものではございませんから、色々と打ち合わせをして、一から演出を作ってゆくところも多うございました。

私は『第二の使者』で、申し次ぎの若侍を勤めさせて頂きますが、私たちが演じる諸役の中で、プレッシャーがもっとも大きいのがこの<申し次ぎ>。すでに芝居が始まっている中にいきなり飛び込んでゆくこと、そして<会話>ではない<報告>の台詞を一方的によどみなく言い立てること。出ていった途端に台詞を忘れた、とか、ロレってしまってお客に笑われた、なんて先輩がたの失敗談を聞くにつけても、若輩の私などはなおさらドキドキしてしまいます。
しかも今回の私の台詞ですが、真山青果氏独特の語句語調満載で、さらには普通の申し次ぎより文章が長いときているものですから、胸中をお察し頂きたいものでございます。ハッキリと喋るのはいうまでもなく、緊迫の事態を告げる雰囲気も出さなければなりませんが、今日のお稽古ではちょっと焦りが勝ってしまい、テンポが速くなってしまいました。ゆっくり言う台詞ではありませんが、さりとてあまり早すぎても、お客様には聞き取りづらいですから、明日はしっかりコントロールできるよう努力します。
この他に二役を演じますが、こちらについてはまた明日お話いたしますね。

申し上げましたように、一から作る場面が多うございましたので、全六幕十二場の稽古終了に、五時間半余かかりました。今日で段取りが決まりましたから、明日以降はもう少し足取りが早くなるでしょう。稽古中は、ハッキリとした休憩時間は設けません。出演者の皆さんは、出番の合間をぬって、楽屋食堂で食事をとったり、控え室でストレッチをしたり(正座の場面が多いんです!)ボーッとしたり。そうでもしませんと体がもちませんよね。


雨の千穐楽

2006年09月26日 | 芝居
本日、<秀山祭九月大歌舞伎>が千穐楽を迎えました。
滞りなく無事に、と申し上げたかったのですが、昼の部『業平 小町』の終盤で、全く予期せぬ事態がおきまして、その対応のため、後見の動きが、普段とだいぶ違うものになりました。幸い最終的にはいつも通りになり、進行を妨げることもなく済みましたので、本当に安堵いたしましたが、舞台上でおこるアクシデントは、程度の大小、原因理由にかかわらず、全て<後見>の責任です。本日ご覧のお客様には、大変申し訳ない気持ちでいっぱいでございます。
今後とも、油断せず、怠りなく、後見としての勤めを全うできるよう、勉強いたします。今月仕事の多い業平の後見を学ばせて頂けたことは大変有難いことでございました。最後の最後で悔しい思いをいたしましたが、この思いを忘れずに、大事な自戒の記憶として、これからの心構えをしっかりと持ってまいりたいと決意いたしました。

夜の部『籠釣瓶花街酔醒』は、お陰様で無事勤めおおせました。早めに化粧をし終えて、自分の化粧道具、荷物などを片付けておきましたので、終演後も早くに楽屋を出ることができましたが…まあもの凄い雨で参りました。ちょうど切狂言の『鬼揃紅葉狩』が終わったばかりの頃ですから、ご覧になった皆様も、お困りだったのではないでしょうか。

…明日から早速『元禄忠臣蔵』のお稽古です。『石橋』や『勧進帳』も同時進行です。体調には気をつけて、全てを乗り切れますように。

思い出したように『車引』

2006年09月25日 | 芝居
秀山祭九月大歌舞伎も、残すところあと一日。今月はあっという間のひと月だったように思います。
当ブログも、今月はお芝居の話を中心に書き進めることができてよかったです。それもひとえに、今月の狂言立てが、昼夜にどっしりとした古典を据えての、歌舞伎らしい歌舞伎が揃ったおかげかもしれませんね。

もう明日は千穐楽ではございますが、『車引』から<牛車>のお話しをさせて頂きます。
この<牛車>、ようは乗り物なのですが、大道具さんの管轄になります。同じ乗り物でも、駕篭や輿、大八車などは小道具の扱いなのですが、こと『車引』では不思議と担当が違うのですね。おそらく時平役者が乗っかるだけで、舞台上での移動がない(つまり役者の手で操縦されない)ことに、その理由があるのかもしれませんが、あくまで私見でございます。

舞台では、牛車は下手向きに停まっています。役者二名が足を勤める黒牛には、首の上に<軛(くびき)>をあて、さらにその左右には<轅(ながえ)>という細長い棒状の板を渡しており、これが本体とつながっております。この<轅>を、劇中梅王丸と桜丸が引っこ抜いて、牛を追い散らし、さらに牛車本体を突き崩すと、時平があらわれるわけですが、皆様ご承知かと存じますが、時平役者は、最初からこの牛車に乗っているわけではございません。ギリギリまで舞台裏に控えていて、キッカケがくると、背景の書き割りに目立たないように作られた<切り穴>を通って、中に入り込むのです。

順を追ってご説明いたしましょう。いざ牛車をこわす場面となりますと、まず梅王丸と桜丸がウラを向いたところで、後見が<軛>を外して<轅>を抜き取ります。本当ならこの<轅>をそのまま梅王丸、桜丸が掴んで演技をするところなのでしょうが、牛車に合わせて作られた<轅>では、大きさといい形といい、役者が持つには地味になって見栄えがしません。
そこで、あらかじめ舞台上の牛がいるあたりに、手持ち用の立派な大きさ、そして柄が入った<轅>を黒の<消し幕>で覆って用意しておき、それを黒衣が取り替えて渡しているのです。そしてこの手持ち用の<轅>のみが、小道具の管轄となっておりますのが、この世界独特の分業のあり方ですね。

さて、繋ぎが外れて自由になった牛が、梅王丸、桜丸に追われてノシノシと引っ込みますと、続いて牛車本体が壊れる番です。役者の動きに合わせて、まず黒衣が二人で屋根を外し、それを牛車の裏側から大道具さん二名が受け取ります。この二人の大道具さんは少し前から、やがて登場する時平役者の出入りを隠すために、黒の<消し幕>を掲げるなど、いろいろと介錯をするために待機しているのです。黒衣は続いて、客席から見て左右、正面計三枚の壁を外し、牛車の台座部分に立てかけますが、立てかけ方も、見栄え良い形に決まっております。斜めに立てる部分もあって、なにか倒れないようにする仕掛けでもあるのかと思っておりましたが、角を一カ所嵌めるくぼみがある以外に、別段仕掛けはないとのこと。これは意外でした。

これでお客様の目の前に、白地に銀の箔模様の束帯、緋の長袴、<王子>のかつらにあご髭をはやし、金冠を頂いた、異形の悪公卿、藤原時平があらわれるというわけです。

説明の中でも触れましたように、二名の大道具さんが舞台上に姿を見せるのですが、舞台に出る大道具さんは、黒、紺の筒袖の着付け、裁着(たっつけ)袴、黒足袋の格好が決まりのようです。黒衣のように顔を隠しはいたしません。浅葱幕の<振りかぶせ>、劇中不要になった木戸の撤収、あるいは回り舞台を使った<明転>のときの大道具の転換時に、やはり舞台上で大道具さんの姿を見ることができますね。

今まで『車引』には、仕丁役で出ていることが多く、今月はじめて、じっくり舞台面を拝見することができたようなものです。梅松桜、それぞれの後見の仕事の多さに、あらためて気づかされました。
また<牛>の足を勤める方も、牛の足用の股引状のものをはいた上で、じっと正座をしなくてはならないので、足の負担は大きいとのこと。また今月は残暑の候ということもあり、張りボテの中の蒸し暑さといったらないそうですよ。

すれ違ってばかりの人

2006年09月24日 | 芝居
朝、楽屋口で師匠の楽屋入りを待っておりましたら、先日大阪の御堂会館で、第一回『若伎会』を終えたばかりの上方歌舞伎塾出身の後輩が、着物姿でいたものですから、(なぜココに!?)とビックリしました。実は来月の松竹座公演『染模様恩愛御書』のお稽古が、すでにここ歌舞伎座地下稽古場ではじまっているそうで(主演の高麗屋(染五郎)さんが、出番の合間をぬって駆けつけていらっしゃるのです)、出演する師匠とともに上京して来たとのことでした。一週間近い東京での稽古期間中は、当然ながらホテル生活ですが、すぐに大阪に戻るわけですから、関西籍の皆さんは、本当にお忙しいことですね。

昨日は更新できずに失礼をいたしました。今月の名題下部屋には、なかなかご一緒する機会のない方々が大勢いらっしゃることは、だいぶ前にお伝えいたしましたが、昨晩は、そんなめったに楽屋で会わない人たちとの、珍しい顔合わせの飲み会を企画しまして(といっても全部で三人だけですが)、銀座で痛飲した次第です。座組が違うということだけで、疎遠な人間関係になってはつまりません。折角の機会に、お芝居のことはもとより、プライベートのことでも、色々話ができたら、と思っておりましたが、日本酒をやりながら、たいそう話が弾みまして、面白おかしい数時間でした。またの集いも約束できましたし、本当に良かったです。

厳密に分けられているわけでは決してありませんが、<いつもの座組み>に近いものは、やはりございます。名題下部屋でも、いつもの面々、お馴染みの顔ぶれとなることは大変多いのですが、不思議なもので、その座組み座組みごとに<雰囲気>が違うんですよね。ときにポッと違う座組みに加わりますと、自分が慣れ親しんだものと違う空気が楽屋から感じられ、ちょっとした緊張感を味わうこともございます。月の最初はなんとなくすわりの悪い感じでも、千穐楽近くにはとけ込めて、楽しく過ごせるようになるのですが、なんとも面白いものですね。

最初に書いた関西籍の仲間たちとも、しばらくご一緒しておりません。先輩後輩、関東関西、いろいろな立場の人が一緒に過ごす名題下部屋での生活で、舞台以外でも、どんどん交流をしてゆければよいのですが…。

「ナンクルナイサ」を信条に?

2006年09月22日 | 芝居
空き時間に銀座界隈をプラプラ歩いていて気がつきましたが、<沖縄料理屋>、増えましたね。
度々ご紹介させて頂いている『竹富島』をはじめ、『うちなー家』『ナンクルナイサ』『ぱいかじ』『めんそーれ』『美ら姫』…。私が気がつかないだけで、本当はもっとあるのでしょうね。

実際沖縄に行ったわけではないくせに、沖縄料理は大好きで、仲間たちとの飲み会でも、度々足を運んでいます。食材が独特なので、楽しみながら食事ができるのが、わいわいやりながらの集まりにはピッタリだと思います。けっこう好き嫌いが分かれるモノもあるようですが、私はゴーヤも海ぶどうもティビチも平気、なんでも食べます。グルクン、イラブチャーなど珍しいお魚を食べられるのも面白いですね。個人的には<スヌイ(もずく)の天ぷら><ソーキそば><ヒラヤーチー>が好きですが、今はメニューから消えてしまいました、『竹富島』の<島らっきょうの天ぷら>は大好きな一品でした。
最初はキツいと思ていた泡盛も、今ではロックでしっかり味わえるようになりました。フルーティーな甘さがほのかに香る<夢幻の宴>がお気に入りです。

是非とも一度は訪れたいと、前々から思っているのが沖縄です。綺麗な海に遊び(泳げませんが)、夜風に吹かれながら泡盛で乾杯…。と浮かれてみたいものですが、沖縄は悲しい歴史の舞台でもあります。ついつい忘れてしまいがちなこの土地の記憶に耳を傾ける機会を、まずは作らなくてはなりませんね。

考えてみれば不思議な着方

2006年09月21日 | 芝居
今月昼の部の『寺子屋』に、赤ッ面の敵役、春藤玄蕃が登場いたしておりますが、このお役をはじめ、『俊寛』の丹左衛門、『源太勘当』の梶原源太、『道明寺』の判官代輝国などに共通するモノといえば、皆様お気づきになりますでしょうか。

これらのお役は、どれも<龍神巻>という衣裳の着方をいたしております。一番上に着ている<素襖(すおう)>の右袖を脱ぎ、熨斗のように細長く畳んだ上で背中に挟むというものですが、お能のほうで『春日龍神』の後シテを始め、龍神役の拵えで、多くこの着方をするところから名付けられたそうですが、有職故実としても、上使ですとか警護の武官などは、実際に片袖を脱ぐ風習があったそうですから、起源はもっと古いのかもしれません。そういえば<龍神巻>をするどのお役も、<使者>としての役目をもっていますね。では梶原源太はどうなのかという疑問もわきますが、同じ理屈で龍神巻きにしなかった俳優も過去いらしたそうですから、このお役に関しましては、形容本位で立派に見せる、先人のご工夫なのかもしれませんね。

さて、この<龍神巻>、衣裳を着るたびにいちいち畳んでいるのかと申しますとそうではなく、あらかじめ畳んだような形に仕立てたものを、後から背中側の帯に差し込むということがもっぱらです。シンが入っておりますので、実際に畳むより見栄えがして具合が良いのです。ただしこれは舞台上で巻いたまま終わるときだけ(『寺子屋』の玄蕃ように)です。『源太勘当』の源太、『俊寛』でも敵役の瀬尾太郎などは、演技の途中で、巻いている袖をほどいてもとのように広げます。こういうときはいちいち着付けのたびにシンをあてて畳むのです。畳む作業は衣裳方さんの担当です。シンは黒布を巻いた細長い板か、太めの針金で形作ったものになります。

一方、舞台上で<龍神巻>をする演目もあります。『土蜘』の源頼光、『船弁慶』の源義経などは、<長絹(ちょうけん)>という薄い織物の装束を、<後見>が畳みます。やはりシンをあてて畳むのですが、こちらはごく短い時間で仕上げなくてはならないので大変です。私は『土蜘』で、二度この後見を勉強させて頂きましたが、畳むことは畳めても、帯の中に差し込むのが意外と力がいるもので、うっかり浅く差したままにしようものなら、演技の最中でどんどん傾いてしまったり、ひどいときには落っこちてしまうこともあるのです。私がいたしましたときには、落ちることはございませんでしたが、ヒヤっとすることは何度かありました。畳み方も、綺麗に仕上げようとすれば、気をつけることが沢山あり、コツを掴むまでが一苦労な作業です。

<龍神巻>の着付けのときは、左の袖は凧のように突っ張らせるのが決まりです(先に挙げた『土蜘』『船弁慶』など松羽目ものの演目は除く)。こちらは布を巻いた二本の竹のシンを、袖の中でバッテンに交差させて差し込んで、張りをもたせているのですが、この竹のシン、その名も<タコ>と呼んでいます。両袖をこの<タコ>でふくらませれば、『暫』の鎌倉権五郎、あるいは『対面』の小林妹舞鶴で見られる格好となります。この<タコ>も、舞台上で着脱することがございます。

来月のお役

2006年09月20日 | 芝居
国立劇場から、来月の配役の通知がきました。

第二幕『第二の使者』で<若侍 甲>、第三幕『最後の大評定』で<大石の若党>と<諸士>。計三役でございます。<若侍 甲>は、いわゆる申し次ぎのような役で、せりふを頂戴しました。これから特訓です。半日の公演で三役ということで、ちょっとバタバタしてしまうかもしれませんが、お稽古をしてゆく中でペースをつかみ、落ち着いて役々を勤められるよう努力します。

一週間後からはじまるお稽古、さあどんな日誌を報告できますでしょうか。

聞き流してしまいそうですが

2006年09月19日 | 芝居
『籠釣瓶花街酔醒』には、これまで四回出演させて頂き、馴染み深いお芝居となってまいりましたが、舞台上、舞台裏、あるいは楽屋のモニターから聞こえてくる台詞の中に、ちょっと気になる江戸コトバがありました。

二幕第一場「立花屋見世先の場」で、無理難題で金をせびりに来た釣鐘権八が追い返された後で、女中のお咲が、アノ男はいったい何者なのだと立花屋の亭主に聞きます。昔八ッ橋太夫の親の元で中間奉公をしていた奴だと答えるのをうけて、若い者与助が、

「それじゃあ折助でございますか。道理で<さし売り>めいた奴だと思ってましたよ」

と言うのですが、この<さし売り>とは何なのかと、疑問に思ったわけです。
伺いますとこの<さし売り>の<さし>とは、文銭の穴に通す細い藁縄のことで、百文とか一貫文(千文)という、まとまった額の文銭を束ねていたものだそうです。
江戸時代、武家屋敷に勤める中間たちの多くは、半ばゴロツキのような、ガラの悪い者ばかりだったそうですが、商家や民家におしかけて、この<さし>を法外な値段で売りつける、なんてことがしばしばだったそうです。つまり与助は、権八が元中間だということがわかったので、「なるほど、いかにも<さし売り>でもしていたような、卑しい奴だ」と納得したわけなんですね。<折助>も、中間を小馬鹿にした呼びかたです。

続く二幕第二場「大音寺前浪宅の場」の幕開き、雇われ婆おとらとお針のおなつの会話。ひとしきり栄之丞の話をして、最後におなつが、男でも女でも、顔は良く生まれたいもんだと羨むと、おとらが、

「おまえさんは年が若いから、<西河岸(にしがし)>くらいは稼げるだろうが、私なぞは年が年だから、云々…(以下略)」

と、と慰めます。この<西河岸>とはどういうことかと申しますと、吉原江戸町や京町のはずれ、お歯黒どぶ沿いの一区画を<浄念河岸>と呼び、また大門の西側にあったので<西河岸>とも呼んでいました。ここに安価で遊べる<切り見世>がございまして、安いかわりに年増や顔の良くない女たちが客の相手をしたそうです。ということで、「おまえさんぐらいだったら、まだ西河岸でなら客が取れるね」と、マア気休めを言っているのでしょうね。

一見難解な時代物よりも、世話物のほうに、今となってはわからないコトバや風習があったりして、演じる側といたしましても気をつけたく存じます。かつて岡本綺堂氏が、ご自身の随筆の中で、「(未来の歌舞伎は)世話物が滅び、時代物、史劇たる新歌舞伎が残ることになるだろう」という旨の文章を残していらっしゃるのを拝読したことがございますが、幸い二十一世紀の歌舞伎にも、世話物は残ることができました。私のような脇の立場の者も、先輩がたからの教えや、残された資料を引き継いで、すこしでも江戸のにおいを表現できるよう役者になりたいと、高望みかもしれませんが、目標にいたしております。

舞台は回る

2006年09月18日 | 芝居
夜の部『籠釣瓶花街酔醒』は、上演時間は約二時間、四幕七場という長編です(初演は八幕二十場)。明治二十一(一八八八)年の初演ですが、吉原の風俗、風習がふんだんに盛り込まれた、いかにも世話物らしい作品です。
七つの場面のうち六つが吉原の廓の中。唯一「大音寺前浪宅の場」が廓の外の場面ですが、これとても吉原のすぐ西側(今の台東区竜泉地区)ですから、ごく限られた区域の中で、場面がどんどん変わってゆくというのは、数多くある多幕ものの世話物の中でも、ちょっと珍しいかもしれませんね。

さて、歌舞伎では各場各場の転換には、幕の開閉、暗転、明転、あるいは回り舞台、引き道具など、様々な手法がございますが、『籠釣瓶』のなかでは、回り舞台をフルに活用した<三方飾り>という舞台設営を行っております。
<三方飾り>とは、回り舞台の内側、つまり<盆>の中に、三つの場面の装置、書き割りを、上から見れば三角形になるように組む方法です。あらかじめ三場面を作っておけば、あとは回り舞台を回すだけで転換ができるのですね。

この演目でいえば、二幕目第二場「大音寺前浪宅の場」と、三幕目第一場「兵庫屋二階遣手部屋の場」同じく第二場「廻し部屋の場」が、まず盆の中に作られます。
「浪宅の場」が終わりますと、いったん幕が閉められますが、つなぎの合方の間に舞台を廻し、「遣手部屋の場」を前面に出します。やがて幕が開き、この場で芝居が行われている間に、先ほどの「浪宅の場」をばらし、すぐさま三幕第三場「八ッ橋部屋縁切りの場」を作っておきます。
さて、「遣り手部屋の場」から次の「廻し部屋の場」へは回り舞台を使った明転。お客様の目の前で、ゆっくりと舞台が変わります。ごく短い「廻し部屋の場」が終わると再び舞台を廻しての明転。さっき作ったばかりの「八ッ橋部屋縁切りの場」に、大勢の役者が乗って現れるという手順です。

文章で書けばごく簡単なことですが、大道具さん、照明さん、予め舞台に出しておく<出道具>をセットする小道具さんにとっては、大変な作業です。限られた人員を三つに分けて、同時進行で作業を行わなくてはなりませんし、芝居の進行を止めないように、迅速、かつ正確な仕事を求められているのです。
私どもは師匠について、舞台裏に控えておりますが、舞台表で華やかな演技が繰り広げられている間、その裏側で行われている一分一秒を争う設営作業を拝見しておりますと、つくづくその大変さ、あるいは<プロ>の仕事ぶりに頭が下がる思いです。スタッフの皆様のお力で、テンポの良い舞台転換が可能になっているわけですから、私たち出演者は、舞台裏や転換中の舞台上で用事をするにしても、うっかりでもお仕事のお邪魔をするような振る舞いをせぬよう、気をつけております。


本日祭礼

2006年09月17日 | 芝居
『業平 小町』の後の空き時間に、地元の氏神様〈牛嶋神社〉の秋祭りに出かけてきました。
けして恵まれた天候ではございませんでしたが、押上、小梅、中之郷など各町内からの威勢のよい御輿の巡行、祭り囃子の浮き立つリズム、神社境内の出店のにぎわい…。熱気に包まれた界隈の雰囲気に、しばし酔いました。老いも若きも取り混ぜて、氏子の皆様の熱意とご苦労なくしては成り立たない歴史的行事。いつかはきちんとお手伝いさせて頂きたく存じます。
屋台の焼きそばとモツ煮で昼ご飯をすましてしまいましたが、氷の中でキンキンに冷えたビールの誘惑を振り払うのが、おりもおりだけに苦労しました。ラムネで我慢(当然ですが)いたしましたが、これはこれでまた一興です。

昼我慢したぶん、夜の部終演後の先輩との一席ではアルコールを堪能しました。後輩も一緒でしたが始終舞台の話。自分の知らない時代のお芝居話は本当に面白く、また勉強になりました。

ちょっとお知らせ

2006年09月16日 | 芝居
十月の国立劇場本公演に先立ちまして、二つの舞台で勉強させて頂くことになりました。
一つは九月二十九日に国立劇場大劇場で執り行われる『国立劇場開場40周年記念式典』の最後に祝賀舞踊として上演される『石橋』。雄獅子を第一期生の中村吉三郎さん、雌獅子を第二期生の中村歌女之丞さんがお勤めになりまして、私は歌女之丞さんの<裃後見>をさせて頂くことになりました。カラミは現在研修中の第十八期生が演じます。
二つめは以前ご紹介した、十月一日にやはり大劇場で上演される『弁慶二態 ~能と歌舞伎による~』での、歌舞伎十八番の内『勧進帳』で、師匠演じます富樫左衛門の<裃後見>です。

どちらも一回ぽっきりの舞台。後見を勤める身として、常にもまして集中し、心して臨みたいと思っておりますが、当然ながら『元禄忠臣蔵』のお稽古と同時進行で取り組んでゆくことになるのでしょう。今年八月の大変さに比べれば、何の何の…といいたいところですが、はてさて夏の経験は活かされるのでしょうか? いずれお稽古の模様も報告させて頂きます。

今日は短文にて失礼いたします。

悔しい思いをするときも

2006年09月14日 | 芝居
本日<中日>。残り二週間となりました。気候もぐっと涼しく(というか肌寒く)なってまいりましたね。体調には気をつけて、あと半分頑張ります。

師匠の衣裳の着付けは、弟子の立場の者が責任をもって担当するのは、以前お話しさせて頂いたと思います。今月私は、『業平 小町』での、業平の着付けをさせて頂いておりますが、業平の衣裳は公家装束でも一番おおがかりな<束帯>でございまして、使う紐の数も増えますし、見た目第一、綺麗に仕上げなくてはなりません。歌舞伎といえど公家装束はたまにしかでませんし、<かさばる>衣裳を綺麗にまとめることに、慣れない身ゆえ最初はずいぶん手間取りまして、いまでこそ少しはジタバタせずに作業できるようにならいましたが、衣裳さんはじめ周りの方々から毎日色々とダメ出しを受けながら勉強しております。まだまだ基本ができてないなと反省することばかりです。

私が師匠の着付け、とくに初めて着せる衣裳の着付けをいたしますときは、舞台稽古までに過去の上演写真や映像を拝見して、「こういう風に着せなくては」というイメージを作ることから始めますが、自分の頭の中と手先指先が、上手く連動してくれればよいものの、実際は初めて触れる衣裳に戸惑うことばかり。ヒダをとるには? 端折るには? どこを持ったら上手くさばける? と疑問の嵐に襲われます。衣裳さんはじめ兄弟子、先輩方にいろいろ質問して、疑問を解決してはゆきますが、結局コツとか手さばきというものは、頭で理解するものではなく、自分の体に叩き込まねばなりません。

今年一月の『鶴壽千歳』で、似た拵えの装束は着付けましたが、純然たる束帯は今回が初めてなので、いまは汗かきながらの作業になってしまっても致し方ないのかもしれません。ただしそれは今回まで! 次にどんな演目であれ、師匠が束帯をお召しになるときは、もう落ち着いて、テキパキ綺麗に着せることが出来なくてはいけないのだと思います。

平成十一年に入門した私ですが、<まだ>七年でもあり、<もう>七年でもあります。ときに自分を追い込み、カツを入れ、つねに勉強の心を忘れずに、どんな仕事でも取り組んでまいりたいと考えております。