瀬崎祐の本棚

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詩集「うそっぱちかもしれないが」 中嶋康雄 (2019/06) 澪標

2019-06-11 21:38:33 | 詩集
 129頁に30編を収める。
 物語はくねくねと曲がりながら、それでも一続きのものとなってどこまでも進んでいく。どこまでこの物語はすすむのだと、読んでいるうちに冒険の旅に出ているような気分にもなってくる。

 たとえば、「光る自動販売機の夜のこと」では、自動販売機の影で月の光をあびて踊っているツンン人や入れ墨だらけのテン人が登場する。自動販売機のなかでまぐわって寝てしまったテン人を吸い取って肥大化したナメクジ状の男もあらわれる。ナメクジ状の滴女が産んだ白い卵をツンン人の女が拾っては食べ、残された卵からはナメクジ状の子男が孵って、

   自動販売機のコイン投入口に
   身をすり入れようと
   藻掻き藻掻くが
   ほとんどの子男は
   入る前に
   干からびて
   地面に落ちる

 それを影のない痩せた暗黒どもが食べて発狂していく。最後には、臭い虹をナメクジ状の子女がよじ登っていくのだ。
 何かの寓意があるのだろうかなどと意味を探る必要はないだろう。描かれた光景をただ想起して、そこにある狂騒感から寄せてくるものを受けとればよいのだろう。キモッと叫びながらも、楽しんでしまえばよいのだ。

 次にまともな作品を紹介する。「狭い道」。狭い道を歩いていると、もっと狭い溝が増えながら蠢いているのである。思わず声を出すと、それは蜘蛛の巣にひっかかりどこへも届かないうちに食べられてしまう。

   どこへも行き着かない道だ
   太った男が太鼓腹を出して眠っている
   臍の穴で人になり損ねている
   狭い道は眠りの道で
   あらゆるものが眠っている

 買い物かごをぶら下げたお婆さんが狭い溝をのぞきこんでなにかと話しているが、溝には「欠片も音もなにもない」のだ。
 これも意味など探る必要のない作品である。本当なら通りたくない狭い道だったのかもしれない。狭いから通りたくなかったのか、それとも通りたくないから狭くなったのか。買い物かごのお婆さんは振り返ればのっぺらぼうだろうし、話している声も聞こえはしないのだろう。
 いささかまともと思える作品でもこの狂騒さである。こちらでは”うそっぱち”であっても、そちらではどこまでも本当の世界なのだろう。

コメント
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