瀬崎祐の本棚

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詩集「オウムアムア」 田村雅之 (2018/09) 砂子屋書房

2019-01-11 18:02:41 | 詩集
 111頁に19編を収める。砂子屋書房の詩集は頁を繰ったときの手触りがとてもしなやかである。指先が心地よい。

 「手--柏木義円」は、作者の故郷である群馬県で「安中教会の牧師を四十年近くつとめ、「上毛教界月報」を出し続けた」柏木義円のお孫さんとの遭遇を描いている。作者の祖父は義円とも交友があったとので、その遭遇は大変に貴重なものだったのだろう。義円の晩年の写真をみて、「大きなふくらみのある手の甲、その手の組み合わせ方。それが義円先生のすべてを表出しているように思」うのだ。

   神の手なんて言うと安っぽくなるので、言わない。が、
   わたしにはとても真似ができそうにない。ひとつの人格
   のあらわれだ。
   幾枚かの写真から、それを見つけ、理解したことだけで、
   今日は充分、満足なのであった。

作者の作品には蘊蓄が随所にあらわれる。そこからくる格調のようなものも作者独特の味わいとなっている。しかし、日常生活から少し離れたような立ち位置ですまして事象を見ているようで、実は作品にはとても直情らしい作者の人情味が溢れている。

 「オウムアムア」。詩のタイトルは2017年に発見された巨大彗星の名前である。葉巻形をしたその恒星間天体は、気の遠くなるような年月を単位として太陽系にやってきて、やがてペガサス座に移動するという。話者は「その赤い船に/上等のスコッチを差し出してみる」のだが、

   いやいや
   そんないさおしの
   誘惑なぞに
   しみてたまるか、と
   無言の答えが
   返ってきそうだ

 宇宙のすべてを担った存在でありながら地球人には何も伝えてはくれないのだ。人間の営みなぞとは無縁のところでの存在に、話者は驚嘆と共に敬意を表したいと思ったのだろう。しかし、当の”斥候”(オウムアムアのハワイ語の意味)にとっては、酒などは、ふん!といったところか。酒を愛する人間くさい話者によって、まったくそれとは無関係な存在である彗星がより印象的となっている。

 この詩集と一緒に自選詩集「『デジャビュ』以後」(2018/09 砂子屋書房)も届いた。1992年以後の既刊6冊の詩集からの作品を載せて440頁あまり。存在感がある。
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詩集「合歓の花」 北畑光男 (2018/11) 思潮社

2019-01-08 21:37:43 | 詩集
 第9詩集。91頁に21編を収める。
 「焼き鳥」は、煙のなかで「ばらばらになって消えそうに飛んでいる/鶏」を詩っている。身体は部分ごとに分けられ、串に刺されて炙られる様を「なんだか自分にそっくり」と自虐気味に話者は思っている。

   炭の火を赤黒く変えるおれの油
   ばらばらになった
   焼き鳥のおれ

   火は沈黙のまま赤々と燃え
   生きなければならないおれを怒るのである

 仕事や生活で意のままにならないことからくる鬱屈した思いは、誰にでもあるだろう。そんな話者への共感が作品を支える。最終連は「おれがおれを食っているのである」。哀しみを湛えた苦いユーモア感覚がここにはある。

 「挽歌」は重い作品である。ライトの中に見えたこおろぎは、死んだ仲間を食っていたのである。そして話者は、戦友の「おれを食って生き延びろ」という言葉を聞いた話を反芻している。そこには生きるための非情さがある。

 「岩魚」では、さらに直接的に食物連鎖を詩っている。釣り上げられてしまった岩魚は、俺は死んでいくから「もう俺の食べる分だけは/死ななくていいから」と言い残す。岩魚も自分が生きていくためには、これまでは他者の死を必要としていたのだ。最終部分は、

   寒い夕陽が折れています

   老人は岩魚を釣りにきて
   岩魚に自分が釣り上げられています

 このように、この詩集では、生きるために引き受けなければならない哀しみがくりかえし詩われている。「背の川」では、貧しい少年や行き場のない子どもが川辺にいる光景が描かれている。「そんな子どもの背には川が流れて」いるのだ。そして透明になって流されてくる人が見えるのだ。

   ちいさい手を合わせています
   生きててごめんね

   少年は
   自分の背を流れる河に
   幻の石を
   自分に向けて投げています

 静かな情景描写から起ちあがってくる情念が、見えなかったものを見せ始めている。
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詩集「後の淵」 志村喜代子 (2018/08) 水仁舎

2019-01-06 16:02:06 | 詩集
 14年ぶりの第3詩集。正方形の判型で、水仁舎らしい瀟洒な装幀。85頁に31編を収める。三浦雅士の栞が付く。

 動詞は少なく、ものの名を呼ぶ声が静かに聞こえてくる。それらのものを最小限度に抑えられた動詞がつないでいる。ものや人の動きを見せるというよりも、動いてきたもの、これから動こうとしているものを見せている。

 「障子」。死者が戻った家は「障子が 破れ/大口をあけていた」のだ。なにかが「突きぬけた」ようなのだ。

   ふたたびは戻らぬ者の
   呼吸(いき)の切っ先が
   毎夜
   わたくしの内なる萱原をどよもす

 もはや他者の姿はなく、話者以外の人は誰もいないような静けさが詩集全体に漂っている。ただ一人で鎮魂をおこなっている詩集である。

 「湖水」。その「かなしばりの水面」は言いかけた言葉を沈めてしまう場所であるようだ。この世で意味のある言葉などありはしないようにも思えてくるのだろう。

   ここで
   と言い切った極みの
   青インク は
   すぐにも色褪せ
   青という青を消し
   この世を抜け出てしまう

 言葉が去った後に残されるものを探している。それは言葉では表現できないものであるから、そのためにも去って行く言葉を作者は発しているようだ。

夫を失った作者は、残された者として”後”に魅きつけられているという。”後の淵”というのも「うつつを生き、後ありて彼の世への明け暮れを結ぶ」往来であるかもしれないという。他者が不在であるように感じたのは、作者と並ぶ者が立ち去った後だったからなのだろう。
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詩集「気象の余白」 岬多可子 (2019/019) 私家版

2019-01-04 22:06:45 | 詩集
 毎年新年に届く葉書大の掌詩集。きれいな毛糸で綴じられており、今回が7冊目。13~15行の作品12編を収める。
 つづられた言葉はどこか怪しげな風情を漂わせながら絡みつきはじめる。それは読む者に絡みつくというよりも、話者自身が言葉を発するほどに次第に絡め取られていくようなのだ。

 「毛」という作品では、話者は裸足で大きな肘掛け椅子に沈んで暮らしているのだ。何ものかにそれこそ絡め取られているようなのだ。

   ときどきやってくる
   毛並みのなかに
   足を 包まれてみる

   毛布よりは
   獣っぽく 熱っぽい

 話者が暮らすその場所は、何者かに身を任せきった安寧の場所であるようだ。他者を必要としない完結した場所でもあるようだ。しかしその場所でうずくまっている話者の姿は、他者から見たらぞっとするようなおぞましい光景なのかもしれない。

 このように作品は凄惨さをともなった美しさをたたえている。「炎」では、「石榴の花も咲き散」り、その色は「雛口の中」のように赤いのだ。そしてひとの器官は「点々と 赤く/湿って 爛れている」のだ。
 「虹」では、「光にひとは灼かれ」て散策路の途中までしか行くことができない。虹を捉えようとしても「指がきっと悪かったのだ」といって、「七色を数えきれず/夏の空が 閉じられる」のだ。

 「月」では、いつも頭上高くにあるものに話者は捉えられている。

   見ていないあいだにも
   ずっと 見られていて

   暗いなか
   水気の多い 弱いところを
   あからさまにされる

 隠したいもの、それは自身の意識からも葬り去りたいものなのかもしれないのだが、そんなものを抱えていることを、”月”はあらためて突きつけてくるのだ。最終連は「蛹化も羽化も/見られていないところで/ひっそりと するのに」。小さな生物の秘かな営みは、話者にはもはや赦されてはいないようなのだ。 

 添えられたカードには「新年早々、不穏なものになってしまいました」とあった。いやいや、新年には不穏なものに出会う覚悟が必要なのだろう。
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