第3詩集。125頁に20編を収める。
冒頭の「岩場で」は3つの章からなる。「母」は、危ない岩場を一人で行くことを決めた子を見送る作品。おそらく子は振りかえることもしないのだろう。「背中を若い帆のように光らせて」海の方へ行ってしまうのだ。
放てば欠けていくだけの真昼の月でいい わたしは 淋しさは別のところから
吹く 一羽の鳥が肌寒い春の風に乗り 彼方へ渡っていく
いつの日にか子に取りのこされる宿命の母親の姿がここにはある。そんな場に来てしまった母親の心情が簡潔に沁みてくる。「青年」では、親の存在などは意識の外に置いた”僕”が水平線と対峙している。誰でもが、自分が主人公となるそれぞれの物語を持っているのだろう。
「日向灘」。この浜には「金色の目をしたひと/いっぽん足のひと/ツノのあるひと」などがいて、それぞれ松林の彼方に消えたり、記紀のなかに迷い込んだりしたのだ。話者は流木に火を放って記憶を焚いてしまうのだが、
浜で拾ったちいさな木片は
てのひらほどのひとを
運んだものである
火にくべるまでもない
からり
骨の明るみに届いている
風景の中に積み重なっている歴史を感じているのだろう。逝く人を見送る淋しさもあるのだろうが、それを諦観を持って受け入れようともしているようだ。
「足りない夢」「陰沼」「雨の川」といった散文詩は寓話的な趣のものとなっていて印象的だった。
そしてⅱには長編の散文詩が3編収められている。「崖下の家」は幼いころからの家族の記憶、「おまえは歌うな」は小咄のように書かれた断章集、そして「並木 翠のラビリンス」は、かつての日にわたしが殺して埋めたあなたに並木道で遭遇する物語。物語が長さを必要としたのだろうが、やや冗長となってしまった。
冒頭の「岩場で」は3つの章からなる。「母」は、危ない岩場を一人で行くことを決めた子を見送る作品。おそらく子は振りかえることもしないのだろう。「背中を若い帆のように光らせて」海の方へ行ってしまうのだ。
放てば欠けていくだけの真昼の月でいい わたしは 淋しさは別のところから
吹く 一羽の鳥が肌寒い春の風に乗り 彼方へ渡っていく
いつの日にか子に取りのこされる宿命の母親の姿がここにはある。そんな場に来てしまった母親の心情が簡潔に沁みてくる。「青年」では、親の存在などは意識の外に置いた”僕”が水平線と対峙している。誰でもが、自分が主人公となるそれぞれの物語を持っているのだろう。
「日向灘」。この浜には「金色の目をしたひと/いっぽん足のひと/ツノのあるひと」などがいて、それぞれ松林の彼方に消えたり、記紀のなかに迷い込んだりしたのだ。話者は流木に火を放って記憶を焚いてしまうのだが、
浜で拾ったちいさな木片は
てのひらほどのひとを
運んだものである
火にくべるまでもない
からり
骨の明るみに届いている
風景の中に積み重なっている歴史を感じているのだろう。逝く人を見送る淋しさもあるのだろうが、それを諦観を持って受け入れようともしているようだ。
「足りない夢」「陰沼」「雨の川」といった散文詩は寓話的な趣のものとなっていて印象的だった。
そしてⅱには長編の散文詩が3編収められている。「崖下の家」は幼いころからの家族の記憶、「おまえは歌うな」は小咄のように書かれた断章集、そして「並木 翠のラビリンス」は、かつての日にわたしが殺して埋めたあなたに並木道で遭遇する物語。物語が長さを必要としたのだろうが、やや冗長となってしまった。