瀬崎祐の本棚

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交野が原 85号 (2018/09) 大阪

2018-09-16 20:34:36 | 「か行」で始まる詩誌
金堀則夫発行の充実した個人誌。104頁。

詩作品は31編で、中本道代「平頂山」の、確かな言葉によって示された塑像のような世界、高階杞一「失う」の、軽妙な言葉で色づけられた機微、野木京子「海には道もなく」の、もう一度自己を尋ね歩いているような言葉の彷徨い、などを楽しんだ。

なかでも北原千代「白いアスパラガス」は、あの”先生”が登場する作品。隠微で、艶めかしい雰囲気が絡みついてくる。先生が買ってきたアスパラガスを湯がき、付け合わせのスクランブルエッグを作る。

   茹であがったアスパラは わずかに頭を垂れ
   て皿に横たわり 柔らかいスクランブルエッ
   グから卵液が滲む 先生の唇がアスパラのか
   つての白さを犯し わたしは痛みを感じた

岩佐なを「蒟蒻」、藤田晴央「視線」、一色真理「使者」は、いずれも”父”を詩っている。「しぐれに降られ濡れる前に/運よく死ん」で「バスに乗って行ってしまった」父の哀切(「蒟蒻」)、視線をカメラに向けることなく撮られた女性の写真を残した亡父(「視線」)、そして、ここは使者の住む町であり、話者を「生まれながらの使者」だと言い聞かせ続けた父(「使者」)。それぞれの“父”の有り様がそれぞれの作者の今を支えているのだろう。

八木忠栄「石ころと草ぐさ」では、猫は行方不明になり、てんまり虫はどこまでもころがる。鐘は鳴り、草ははえる。世界のあらゆるものがが騒々しく動き回っているようだ。

   かすみを裂き石ころを蹴とばし
   列なすダンプカーがわめきたてて
   野を突っ走るよ
   干ものになって。

書評は12編で、取り上げられた詩集、評論集の9冊は私も読んでいたが、気づかなかった点をとらえているものも多く、興味深く読んだ。
斎藤恵子は「自己をひとつの世界として読む」と題して秋山基夫「文学史の人々」を評している。ここでいう”自己”とは、秋山が取り上げた子規、鴎外、一葉などの自己世界のこと。齋藤は、それを「まるごと受けいれ自己のものとして読むことが、読むということなのだ」としている。 

瀬崎は詩「唇」「舌」の2編を載せてもらっている。
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