瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

詩集「朝の言葉」 大橋政人 (2018/07) 思潮社

2018-09-14 18:04:10 | 詩集
 第15詩集(作者は9冊の絵本も出している)。121頁に34編を収めている。

 Ⅰには地方新聞の詩のコーナーに連載した作品が16編。一行20文字×20行以内という条件があったとのこと。
 「雨の中に」は、雨の朝の目覚めを詩っている。「目がさめて/最初に思ったことが/そのひとの本当の心だ」との誰かの言葉を思い出したりしている。まだ他者との関係にも無防備な状態で思うことは、たしかに何の思惑も入っていないもののように感じる。なるほど。しかし、この作品の肝心の詩の部分はその先にある。

   階下から
   何やら人間の声がし始めて
   ようやくわが身を立ち上げたりするが

   それまでのひととき
   私はただ雨の音ばかり聞いている

 話者は何も思わずに、雨音の中でただ座っているのだ。”本当の心”も放棄して、ただこの世にあるだけの存在であったひとときだったのだ。こういう時間がその人の世界を広げてくれるのだろう。
 どの作品にも(詩など書かないであろう)新聞読者に伝わるものを持っている。先述の条件が「却っていい緊張感を与えてくれた」とのこと。さすがである。

 Ⅱ、Ⅲの作品は「Ⅰ部の付け足しのようなもの」とのこと。日常生活のあれこれや幼少年期に材を取った作品である。
 「行ったっきり」では、入院したきり帰ってこない人のことの世間話を聞いている。話者は嵯峨信之さんが最後の入院の時につぶやいたという「今回は多分/帰れないだろうな」を思い出している。新年の朝に、「行ったっきりの人たちの/今日の朝のことを思っ」ている。最終連は、

   行くしか能のない
   時間というものの
   どうしようもない不器用さについても

 場所は戻ってくることができるが、当然のこととして時間を戻ることはできない。誰でもいつかは、その場所に戻ってくる時間もなくすわけだな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩集「ただし、物体の大きさは無視できるものとする」 野田順子 (2018/09) モノクローム・プロジェクト 

2018-09-11 01:04:46 | 詩集
 第4詩集、110頁に24編を収める。
どの作品も小学生らしい女の子(男の子の作品の数編ある)の独白体である。子どもらしい無邪気さと残酷さが一体化している地点で作品世界を作り上げている。

 「宿題」は望遠鏡でひとりで皆既月食を観察する作品。観察を終えておかあさんのいる部屋に行くと、ぼくと同じ背格好の男の子のうしろ姿が見える。おかあさんはその子をぼくだと思っているようなのだ。でもぼくは声も出ないし、おかあさんに気づいてももらえない。庭から戻ってきたおとうさんもぼくに気付かない。

   おとうさん だまされないで!
   ぼくはこっちだよ ここにいるよ!

   ぼくがいっしょうけんめい叫んでいるのに
   おとうさんは
   まだしばらくは皆既月食だな
   と その子に話しかけた。

 ぼくは何とかしてその子の顔を見ようとするのだが、後ろ姿しか見えないのだ。地球を周りながら、なぜか同じ面しか見せない月の反対側の顔は、いったいどうなっているのだろう。
 このように少年少女に仮託された無邪気な悪意の世界を書くことによって、作者はどこへ向かおうとしたのだろうか。自らの中にひそむ悪意の部分と向きあおうとしたようにも思える。しかし、その無邪気で悪意の世界からも作者は疎外されているのかもしれない。

 理系らしい奇妙な詩集タイトルは、作品「すべり台」の中で、すべり台を滑り落ちてあなたにぶつかろうとするときの早さを求める際の条件の1行から来ている。しかしあなたはわたしに気付くことなくはね飛ばされて車に轢かれてしまう。

   救急車がやって来て
   あなたを運んで行った
   あたしは泣き叫んでいるのに
   誰も気づいてくれない
   どうしてどうしてどうして

ここでも、「宿題」の男の子と同じように、話者は見えないもの、存在しないものとして在る。話者が必死に語れば語るほどその姿は他者からは透きとおってしまうのだろうか。
 作者は今回の詩集の作品はひと月足らずで書きあげたとのこと。作品の語り口に勢いがある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩集「エチュード四肆舞」 池田康 (2018/07) 洪水企画

2018-09-06 16:54:59 | 詩集
 107頁。作品はすべて4行×4連の形でまとめられている。個々のタイトルはなく、「壱」から「肆」の4つの章にそれぞれ12編、計48編を収める。

 「壱」に収められた作品はかなり哲学的である。感情というよりも思考に支配されて言葉が動いている。

   しかしどこにでも行けるは幻想
   ものが正しく見えるなんてあり得ない
   言葉は嘘ばかりつく魔物だ
   この世はいつなくなってもおかしくない
                     (「壱ⅲ」第2連)

 「弐」になると作品のなかで感情が動き始めている。そして感情が動くということは他者との関わりが生じてくるということでも在る。そのようにして、「参」では外部事象とのつながりが生じてきている。「参ⅱ」では獅子舞が詩われている。

   笛の調べを食べたいと思う
   太鼓の音を食べたいと思う
   なんでもかんでも食べたいと思う
   獅子は悲しい
                  (第3連)

 「肆」は他者が構築している世界のなかに在る自分がいる。自己の観念のなかをさまよっていた話者は、「ハムレットの亡霊をさがす都市」や「戒厳下の都」をさまようようになっている。父母を探し、転がるフラフープを追っていくのである。

 4行×4連という詩形では起承転結も意識されているだろう。このように定型化して作品を作り上げることは、不自由でありながらもその制約のなかでは自由だという、矛盾したような開放感もあり得るだろう。あえて詩形への拘束という選択は、そのなかでどれだけ自分を解き放てるかという挑戦でもある。
 「壱」から「肆」までかなり単純化して捉えてしまったので、おそらく作者は苦笑いしていることだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Donc 1号 (2018/08) 富士見

2018-09-05 17:24:16 | ローマ字で始まる詩誌
 谷合吉重の個人誌の創刊号。詩誌名はフランス語の「だから」「それゆえに」という意味とのこと。そして「あらゆる文章はなにかを引き継いでゆく作業である、という認識の下で詩誌を継続できたらと思っている」とのこと。
 24頁、中綴じで、今号には有働薫、広瀬弓の作品もゲストとして載っている。

「ソクラテスのあたま」谷合吉重。理髪店のおやじは「お客さんのあたまかたちいいですね」「お客さんかわった車乗っていますね」とか言いながら傍らの青年の頬をつねったり耳を引っ張ったりしている。蹴りも入り、青年は笑いながら泣いている。最終部分は、

   行き場のないこのやろう
   逃げだすこともできず
   ただ苦笑いでたちつくしている
   おやじが剃刀をとりにいくと
   取り残された目に出会い
   ニカッと笑ったようにみえた
   ソクラテスのあたま

 苛めとしか思えないようなおやじの行為にはどんな意味があったのか。そのおやじに”ソクラテスのあたま”と言われる青年は何を覗き込んで笑ったのか。その場に居合わせてしまった作者もまた何かを覗き込んでしまったのだろう。

 「朝山夕山」と題した12頁にわたる詩集評が載っている。有働薫、たなかあきみつ、細田傳造など6冊の詩集、訳詩集を俎上にのせて、そこから始まる谷合のしっかりとした思考が書かれている。宗近真一郎の「リップヴァンウィンクルの詩学」の書評では、阿部嘉昭の「換喩詩学」にも触れ、「暗喩は解釈(奥)を呼応する。解釈を求めないというポジションは「換喩」へ帰属する。だから、「換喩」を「暗喩」に競合させるのは、「換喩」を方法として導入するということではなく、解釈をめぐって分断の線を引こうとすることである。」のような引用をしながら解説してくれていて、なるほどと思った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする