第1詩集か。134頁に19編を載せる。
「岐路」。飛蝗が跳ぶような道で戸惑っているのか、決断をしようとしているのか。
遠くを見たいものです。ただしい風景の沈む泡泡のなかで、
同じ質量に閉じこめられた窓際のコップに
わからないまま揃えられた前髪は戦ぎ
浮かんでは消え、浮かんでは消え
草を編んだ苦い汁が手から溢れて、そうしたら黄色い帽子を被ってあなたは
そこの角を曲がり
見えなくなってしまうでしょう
少し長い引用になったが、このように夥しい言葉が差し出されてくる。そのひとつひとつの言葉が担うものはとても軽い。一つところに拘ることのないその軽やかさが、作者の武器といってもいいだろう。
これをはじめとした作品を読みながら、私(瀬崎)の中では言葉がラップのように唱えられていた。ラップはリズムを持った時間と共に展開される。作者は自分の生を受け止めるためには、その時間を過ごすための言葉が必要だったのだろう。それがかなり抒情的でもあるところが面白い。
3編は”詩型融合”との断り書きがついていて、短歌+自由詩、あるいは俳句+短歌+自由詩となっている。その一つ「俄か蛇」。俄か雨で蛇の目傘をさすところをベースに置いて作品世界が展開されていく。冒頭に置かれた歌は「ぱらぱらと/俄か雨、ふる/音つたい/胸までの距離を/さぐる 蛇の目」。夢の中で見た蛇は父を招き寄せる、母を招き寄せる。
ほら銀河の模様を縫い込んだアオザイだよ、母がいつか誂えてくれる、胸に蛇
が這いのぼりその鱗が私の肌を温める、ちくちくと刺される、いたいよいたい
よと泣いても母は縫い物をやめない、
そして蛇の卵の中には妹が入っているのだと思えてくる。私は卵を飲み込み、「ぱらぱらと/俄か蛇、ふる/音つたい/夢までの距離を/さぐる 雨の目」の歌で終わっていく。詩の中に溶けこんでいる短歌の部分はゴチック体で表記され、リズムを支えながら物語を展開させている。見事な蛇譚になっている。
「岐路」。飛蝗が跳ぶような道で戸惑っているのか、決断をしようとしているのか。
遠くを見たいものです。ただしい風景の沈む泡泡のなかで、
同じ質量に閉じこめられた窓際のコップに
わからないまま揃えられた前髪は戦ぎ
浮かんでは消え、浮かんでは消え
草を編んだ苦い汁が手から溢れて、そうしたら黄色い帽子を被ってあなたは
そこの角を曲がり
見えなくなってしまうでしょう
少し長い引用になったが、このように夥しい言葉が差し出されてくる。そのひとつひとつの言葉が担うものはとても軽い。一つところに拘ることのないその軽やかさが、作者の武器といってもいいだろう。
これをはじめとした作品を読みながら、私(瀬崎)の中では言葉がラップのように唱えられていた。ラップはリズムを持った時間と共に展開される。作者は自分の生を受け止めるためには、その時間を過ごすための言葉が必要だったのだろう。それがかなり抒情的でもあるところが面白い。
3編は”詩型融合”との断り書きがついていて、短歌+自由詩、あるいは俳句+短歌+自由詩となっている。その一つ「俄か蛇」。俄か雨で蛇の目傘をさすところをベースに置いて作品世界が展開されていく。冒頭に置かれた歌は「ぱらぱらと/俄か雨、ふる/音つたい/胸までの距離を/さぐる 蛇の目」。夢の中で見た蛇は父を招き寄せる、母を招き寄せる。
ほら銀河の模様を縫い込んだアオザイだよ、母がいつか誂えてくれる、胸に蛇
が這いのぼりその鱗が私の肌を温める、ちくちくと刺される、いたいよいたい
よと泣いても母は縫い物をやめない、
そして蛇の卵の中には妹が入っているのだと思えてくる。私は卵を飲み込み、「ぱらぱらと/俄か蛇、ふる/音つたい/夢までの距離を/さぐる 雨の目」の歌で終わっていく。詩の中に溶けこんでいる短歌の部分はゴチック体で表記され、リズムを支えながら物語を展開させている。見事な蛇譚になっている。
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