瀬崎祐の本棚

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おもちゃ箱の午後  9号  (2015/03)  東京

2015-04-02 23:21:05 | 「あ行」で始まる詩誌
 なぜ書くのかという問いを忘れていないような姿勢の18人の作品を収める。61頁。

 「冬の家族写真」古崎未央。
 15行の短い作品だが、長編小説を読んだような充足感を味わった。それほどの詩行の周りにまとわりついているものがどこまでも物語を拡げていた。

   わたしたち まるで死んでしまったみたいだといいながら
   冬の家族写真をみんなで弔う
   君の皺が増えるころ
   もういないかもしれないわたしが
   晩ご飯を考えながら
   冷えた手を冷えた手で包む

 このなにも説明してくれていない詩行が、なぜこれほどまでに伝えてくるものを持っているのだろうと不思議にさえ思う。詩は理屈ではないのだとあらためて思った。

 「眼鏡のない魚雷」榎本櫻湖。
 眼鏡がないのだから見えていないけれども、とにかく向かっていくのだろう。見えていないから何に当たるか判らないのだが、当たればそこで爆発するつもりなのだろう。
 行く手には、「夜景のみえる中世の騎士の甲冑」や「名前のわからない髭面の丈高い草」、「白粉をはたいた鱗を煌めかせ」た「熱帯魚の群れ」など、さまざまなものがあらわれては消えていく。
 そんなに書いたのに、最後になって「ほんとうにそういう経緯だったのか」と振り返っている。「いまから魔法使いに会いにいく」と、また新しい場所へ出かけていくわけだ。

 「窓に(セカイが流れて」渡辺玄英。
 詩行を追いながら、とても不安定な気持ちになっていく。ひとつの作品の中で複数の話者が錯綜しているようにも思えるし、話者の中での錯綜が生じているようにも思える。いずれにしても、書きとめられた言葉は括弧でくくられて問い返され、曖昧にされている。

   雨がふると(ソラないのにね
   きらきらの(ぼくらわたしらはたくさん
   セカイをたくさんに反射している(みたい
   たくさんの放火魔がいっせいに駆けていく

 書かれたことの不確かさは、このセカイの不確かさから作者のところへ届いたものなのだろう。
コメント
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