瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

橄欖  98号  (2014/02)  東京

2014-02-16 13:58:53 | 「か行」で始まる詩誌
 同人は5人で、日原正彦が編集/発行をしている。A5版、30頁。
 「距離」早矢仕典子。
 「『海が見たい』/わたしがつぶや」いたので、「そのひとは/海への道を急ぎはじめているよう」なのだ。しかし、その道は山間に入っていき、海へ近づいているようではないのだ。おまけに「薄くうすく夕闇が浸透してくるので、どうやら海までの距離もぐずぐずと解けていってしまうようだった」のだ。
 見たい、とか、行ってみたい、とかいった自分の行動を伴う欲望には、なにかしらの代償が求められるような気がする。目的との間の距離をなくす代わりに自分の中で失うものもあるのではないだろうか。だから、その距離を縮めようとしたときに、ほんとうに見てもいいのか、ほんとうに行ってもいいのか、といった不安とも迷いともつかないものもあるのだろう。

   ほんとうに
   見たいのは海だったのかどうか
   見たい海 とはどんなものだったのだろう

   すると唐突に
   山が割れ 暗いそらが口を開いた

   あの先に、海がある と
   そのひとは言った

 そうして海にたどりついた時、その海はわたしが見たかった海とは異なるものになっているようだ。離れた距離にあった虚構の海と、近づいてしまった現実の海は、自分にとってはどこまでも異なるものとして存在するのだろう。
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詩集「真言の座」  冨上芳秀  (2014/01)  詩遊社

2014-02-14 19:42:16 | 詩集
 第8詩集。101頁に81編の散文詩を収めている。81編の作品は9篇ずつ9つに分けられている。
 詩遊叢書の1冊だが、装丁、挿画は上田寛子。このシリーズの表紙絵をずっと担当していて、その無邪気な軽やかさを装った不気味な絵にはいつも惹かれる。
 作者は「後記」で、「詩集は一つの建築である。(略)建築という空間の中に時間の音楽を奏でているのが詩集である。」と述べている。詩集を編んだ意図がよく伝わってくる。各作品が呼び集められるからには、総体として現出するものが求められるだろう。
 冷静な描写で物語が語られているのだが、物語は迷路のように曲がりくねっていて、道筋を危うくしている。そして、読む者はいつのまにか建物の奥深いところへ幽閉されてしまう。
 「夢が囲いの中で羊のように並んで鳴いていた」と始まる「夢羊の飼育」では、私は夢が逃げないように夜の中に入れて計量してから鍵をかけて管理していたのだが、いつも誤差が生じていた。

   性能のよい編物機が夜と昼の物語を編んだ。女は笑いながら長くて赤い舌を
   私の脳髄に差し込み淫らにすする。夢は私たちの家の窓という窓を赤と青に
   染めた。

 物語を語っていた話者は、ついにはその物語の中へ入り込んでいく。物語が話者を必要としたのであり、それによって成立する物語なのだ。
 感慨などとは無用のところに作品の意味が置かれている。それこそ建築物のように物語の捻れた構造が見せつけてくるものがすべての意味を担っている。
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詩集「町よ詩に満ちて」  関中子  (2013/11)  砂子屋書房

2014-02-11 19:34:01 | 詩集
 94頁に29編を収める。
 あとがきで「詩がうまれ、あふれ、流れる、そんな風に街を彩りたいものです。そういう町を見いだせる場を手にしたいものです。」と作者は記している。町を彩るために、言葉は自由奔放に繰られている。その言葉は4~、5行で終わってみたり、数頁にわたって語られたりする。

   眠るわたしは大根の白さのような甘い夢のかたち
   夜のとばりは降りないが
   わたしに記憶の堆積を取りこむ
                (「都会で雨は消えてしまう」より)

 町を彩りというよりも、彩られた町そのものを作ろうとしているようにも思える。作られたその町はときと共に移ろう。言い換えれば、町を作るということは、それを作ろうとした時間だけ真剣に生きたということだ。

   町よ 詩に満ちて 人に抱かれる とある人のとある時よ 詩に導
   かれて 盛衰をくり返す あの透明な白い貝の駅にも ひかりを呼
   び集めたような昇降手段や広いテーブルも 群衆になる夜の過ごし
   方ができる建築物も 人を吐いて吐いて どれほど呑めるのだろう
                (町よ 詩に満ちて」より)

 「町よ 詩に満ちて」と言うとき町は言葉で作られていくのであり、作者は、自らの生を言葉で満たしてしまおうとしているのだろう。 
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くり屋  60号  (2014/02)  広島

2014-02-10 21:01:39 | 詩集
木村恭子の個人誌。手作り感のあるA6版中綴じの16頁で、自作詩の他に毎号1、2名の寄稿作品を載せている。こぢんまりとしていながら大変に味わいのある詩誌。
 「調味料」木村恭子。
 学校までの道のりを尋ねてきた人と一緒に歩くことになる。その人は「子供のような麦藁帽子を目深にかぶっても」いて、「おおもりゆきこさんを覚えていらっしゃいますか と言う」のだ。わたしは「むしょうに懐かしいもので胸がいっぱいにな」るのだが、実際には「おおもりさんの思い出は何一つ浮かんで」こないのだ。
 その人が話すおおもりさんは、わたしとは別の人に関わった人だったような気もするし、話を聞いていると「やはりおおもりゆきこさんは いつもわたしの傍にいてくれ」た様な気もしてくるのだ。

   それからふと お砂糖やお塩のことを思いました 役
   目を終えると 名指すことの出来ない味わいだけを残
   して すがたをけしさってしまうもののことを

 「おおもりゆきこさん」はわたしの過去のいろいろなところにいたのかもしれない。そして今、子供のような麦わら帽子を目深にかぶってあらわれているのかもしれない。そんな人に会ったのだから、「果たしてこのあたりに学校などあったろうかと しだいにそれらのことすら分からなくなってゆくの」だ。
 自分の過去は、自分でも忘れてしまっているような事柄で本当は支えられてきたのかもしれない、となんとなく感じる時がある。「おおもりゆきこさん」は、今が幸せならわたしのことは覚えていなくていいのよ、と言ってくれるのだろうか。
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孔雀船  83号  (2014/01)  東京

2014-02-08 11:20:27 | 「か行」で始まる詩誌
 100頁あまりで、毎回そうそうたる顔ぶれの作品で楽しませてくれる詩誌。全国からの執筆者が集まっている。
 「缶けり」中井ひさ子では、蹴った缶が空を飛んで駐車場の後ろの林に入る。どうもこれはいつも決まっていることのようだ。そして缶が駆け込んだ林は、なにか蠢くものたちが居る場所なのだ。そして、「口に人差し指をあてた/影たちがそっと横に座」って、

   隠してあげる とささやく

   足が消える 手が消える
   思いが消えていく

   眠ってはいけない

   「見つけた」
   林の外で大きな声

   いつも ここから
   日暮れていくのだった

 蠢くものたちが隠してくれることを、誰だってときおりは望むだろう。他人からは見えないものになれる。隠れるとはそういうことなのだろう。そのうえ、思いさえも消えれば自分からも見えないものになれるのだ。
 でも蹴られた缶は元の場所に戻され、私はまた誰かに(鬼に)見つけられるのだ。一日の終わりとなれば隠されていた私が見つけられるのだろうが、それは決して哀しいばかりのことでもないのだろう。
 日暮れが、なにか明日につながるもののように思えてくる。
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