瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

ひょうたん  51号  (2013/12)  神奈川

2014-01-16 20:43:46 | 「は行」で始まる詩誌
 「豆腐譚」小原宏延。
 真夜中に、「豆腐の角に頭をぶつけて死んじまえ」という言葉を思い出し、幼いころに豆腐を買いに行ったことを思い出している。
 豆腐は押せば容易に形が歪み、さらに力を加えれば崩れてしまう。それほどに柔らかいのに、自分だけで在るときにはくっきりとした形を保っている。柔らかいのだが、その形はきちんと保たれている。この作品の話者は、そんな豆腐が「薄暗い大きな水槽の底に/整然と沈んだ白い立方体」である様子に惹かれている。

   豆腐の角はするどく切り立ち、
   わずかな狂いもない
   ひとはわずかに狂っている

 そんな豆腐のきりりとした居住まいとひとの居住まいを比べているわけだ。狂わない形を保つことに畏敬の念を持っているようにも思える。しかし、その「わずかな狂い」がひとが生きているということの証左でもあるのだろうが。

   真夜中に豆腐の白い角
   を思い浮かべるなんて
   でもそんな夜を過ごすのは
   失われた時への
   曲がり角なのかもしれない

 幼い頃を過ぎて「角がとれてまるくなった」と言われるのだが、「それこそ死角ではないのか」と苦々しいようにも思っている。一方、豆腐は柔らかく崩れながらもいつまでも決して角を失わない。そんな「まるくならない/白い瓦礫」なのだ。
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詩集「心音」  新沢まや  (2013/11)  土曜美術社出版販売

2014-01-13 14:21:57 | 詩集
 第1詩集。128頁に46編を収める。中原道夫の跋文が付いている。
 具体的な情景の描写や説明を可能なまでに排して、そこから浮かび上がってきたりすくい取ってきた感情だけを短い詩行で書きとめている。独りで呟いているような趣の作品であるのだが、それが読み手の気持ちまでも優しく撫でていく。
 あらゆる姿が/果てなく在るものだと/思い違ってしまう」とはじまる「やさしい嘘」。あらゆる生きているものが儚い存在であることを、今さらながらにかみしめているようなのだが、それに騙されていなくては生きていくことは辛いばかりになるのだろう。

   必ず失う身を
   携えておくばかりにして
   なおも忘れてしまう
   奇妙な暗示に埋もれた体

   果てる世界が示し続ける
   やさしい嘘に宥められ

 若干、気になった点を上げておく。
 言葉のリズムが過剰に整えられたために助詞の省略が不自然であったり、文語的な言い回しになっている部分が目に付いた。そして、はじめに書いたことの裏返しになるのだが、独りでの呟きが他者への働きかけを失いがちになっている作品もあった。自分の感情に客観的になる視点が必要であろうとも思われた。
 期待するところがあるのであえて苦言を書いた。このやわらかい感情をさらに大切に育てて欲しい。
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詩集「囀り」  渡ひろこ  (2013/11)  土曜美術社出版販売

2014-01-10 22:58:51 | 詩集
 第2詩集。111頁に23編を収める。
 第1章ではどこまでも自分を語ろうとしている。そのためには、自分を対象化する冷静な観察眼が必要とされるわけだ。そして、人々のなかでの自分の立ち位置を捉えようとしている。表題作「囀り」ではそのために発せられる言葉を詩っている。

   ほとばしる感情をメタファーにゆだねて
   苦く噛みしめる思いをほどいて昇華していく
   そうやって幾つ言葉を散らしてきたのだろうか

 そんな”囀り”のように発した言葉が誰かに届くのか否か、その言葉が誰かにとって意味があるものとなったのか否か。それは自分では判断する事ができないことがらである。ただ必死になって囀り続ける行為であるほかはないのだろう。

   わずかでも濁った声で囀り
   黒く曲がった旋律を見透かしたなら
   そのまま黙ってギュッと握りつぶして

 第2章では、そのようにして人々とのあいだに成立する世界が詩われている。
 そして第3章には今はもう亡い御母堂についての作品が集められている。それまでの章で表現された生き様をしてきた作者の、母に対する思いである。ここでの”囀り”は自分自身のなかに響いているのだろう。
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詩集「空の水没」  渡辺みえこ  (2013/11)  思潮社

2014-01-07 21:57:46 | 詩集
 第7詩集。95頁に27編を収める
 死者に取り囲まれているような詩集である。生を受けて亡くなった者や受けるはずの生を与えられなかった者の声がいたるところに満ちている。それらの声を受け止めた地点で作品が結実している。
 「母の井戸」では、父が掘った井戸に身を投げて母が死んだことが語られる。「私たち家族はその後/ずっとその水を飲んで暮らした」のである。それは母の死を自分の内側に取り込みながら生きてきた日々であったのだろう。その井戸の水は、亡くなった後も母が共にあることの証であったのだろう。だから、やがて井戸が涸れると「その後 姉は食中毒で死に/父は行方不明になって」しまうのである。

   月の明るい夜などには
   母が井戸をまたいで飛び込むのが
   見えるときがあった
   そんな夜には
   きっとあの井戸の底に水が満ちてくると
   信じることができた

 残された私ひとりがいつまでも井戸の傍らから離れないでいる。そのように絡みついてくる血脈が怖ろしくもあり、また愛おしくもある。
 死産で生まれた一卵性双生児の弟を詩った「泣いている弟」。彼は「私の背中で/私と一緒に成長している」のだ。「彼はいつも泣いてい」て「泣きながら何かを訴えている」のだ。私が生きていくうえで、始めから死んでいたもうひとりの私の存在が、おそらくは必要だったのだろう。何かを分け持つ存在を必要としたのだろう。その切羽詰まった思いが鋭く描かれている。

   私の背中から生まれ直す弟
   私を内にくるみこみながら
   青い胎児の形になって

 あとがきのような部分に「書くことに逆襲され、返り血を浴びることもあったが、血や叫びや、生きることの中で消えてしまうものを、言葉ですくい取る、詩という形式は、何よりも、もう一つの生だった。」とある。深く共感できる一文であった。
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詩集「半跏思惟」  苗村吉昭  (2013/10)  編集工房ノア

2014-01-04 13:04:51 | 詩集
 第5詩集。125頁に30編を収める。
 4つの章に分けられており、「壱」の8作品では、世界が構築されるまでの7日間を創造主の独白という形で描いており、人を超えた時点での物語となっている。「四」は、半跏思惟像についての5作品となっている。こちらでも作者は仏像を通して人を超えた存在のものに相対している。
 その間に置かれた作品「弐」「参」の作品で、形式的にいえば、作者は人の世界を描いていると言える。
 三歳の娘と一緒にショッピング・センターの催事場にいる「キャラクター・ショー」。ショーの後で長蛇の列に並びサイン色紙を買い写真撮影をする。

   キャラクター・ショーは僕らの人生に似ている と
   娘はやがて大きくなり
   今日貰ったサイン色紙を捨てる日が来るだろう
   キャラクター・ショーなど子供騙しの嘘っぱちだと気づく日が来るだろう
   しかし僕ら大人の世界だって大人騙しの嘘っぱちだ
   僕らはみんなファスナーのない着ぐるみを着て
   それぞれの事情を隠しながら
   嘘の微笑みと偽りの手を振り続けている

 苦笑いをするしかないのだが、その世界を受け入れて人は育ち生きていくわけだ。
 地球を収めた小さなガラス玉をのぞき込む「ガラス玉」という作品。ガラス玉の中に俺は、頭上から俺に見られている俺を見つける。そして俺は自分の現在・過去・未来を理解する。誰もが一度は空想するような情景だが、今の自分を肯定しようとしている気持ちが快い。
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