瀬崎祐の本棚

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すぴんくす  16号  (2012/02)  東京

2012-03-13 22:12:30 | 「さ行」で始まる詩誌
 海埜今日子のエッセイは内容が濃い(インターネットの「灰皿町吸殻山大字豹」というブログにも”5の付く日”ごとに”日記”が書かれている)。今号には「書くことで、あなたたちと再開する、何度も」と題して、世田谷区豪徳寺界隈を歩き、フェルメール展を見に行ったことを書いている。
 六歳ぐらいまで住んでいた生家跡を見に行ったのである。そして亡父のことを思い出すのだが、いろいろな事情で父の顔写真も残っていないのだ。そんなことも海埜は書く。

   書くことで二度生きれるのではないかと思ったのだ。そのことに
   ついて書くことで、私は彼らと再会できる。(略)彼らとよりよ
   く会うために、私は書いているのではなかったか。

 ここには”書く”という行為の意味が切実に捉えられている。書く意味のあることを海埜は書いているのだ。やがて、自分が父の顔に似てきたことについて、

   亡き人の印象のようなものが、私たちにヴェールをかけ、浸透し
   ていったのだ。彼らは、きっと私たちに残ってくれる。

 こうして私たちは亡くした人に会う。渋谷・Bunkamuraでフェルメールの絵に再会したときの海埜の言葉はこうだ。

   眺めながら書くこと。或いは眺めながら思い出すこと。それはフ
   ェルメールとの再会だけではなく、そのときの私との再会でもあ
   るだろう。(略)書くことでの再会は、あなたに、あるいはいつ
   かの私に手紙を書くことではなかったか。過去ばかりではなく、
   未来の、それを読むだれかへ。

 そうか、ある人を思い出すということは、その人と一緒にあった私自身とももう一度再会していることでもあったのだな。それを呼び寄せるためのひとつの手段として”書く”という行為もあるのだな。
コメント (1)
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