瀬崎祐の本棚

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詩集「まーめんじ」 細田傳造 (2022/03) 栗売社

2022-03-11 20:53:31 | 詩集
88頁に26編を収める。
くだけた、ときには罵りの言葉のようなものも混じったりするのだが、その陰には寂しさがある。そして作品は心の底のほうに沈んでいるものを引き上げてくる力強さを持っている。

「匂い」。釣り上げた小魚、飼っていた伝書鳩、そして棲んでいた町の人間の匂い。話者は、幼い頃はちゃんとそうした生き物の匂いを嗅ぐことができていた。しかし、

   十二からこっち
   幾百もの腐った牛の肉を食い
   幾百もの人間の汗のにおいを嗅いで
   わたしの鼻は潰れた
   にくしみの臭気を
   かなしみの匂いをもはや知ることはない

さまざまな生き物が話者の前にあらわれるときに、かつてのような本当の姿ではなく、何か余分なものを纏ったものとしてあらわれるようになってしまったのだろう。そのために、その生き物の本来の匂い、本当の姿を感じ取ることもできなくなってしまったのだろう。長く生きるということは、自分がそうやって本来の匂いから遠ざかってしまうことなのかもしれない。

「まーめんじ」。詩集タイトルにもある”まーめんじ”とは、かつて子供たちの間で交わされたはやし言葉でマーメイドの幼児語とのこと。私(瀬崎)は小学校6年までは東京武蔵野ですごしたがこんな言葉は知らなかった。どのあたりで使われていたのだろうか。作品は、小学校低学年の頃におとこのことおんなのこがしていたけっこんゴッコのことを描いている。性というものがはっきりとした形を取る前の子供たちの遊びだったのだが、それでもその裏には何かが隠れていることを感じていたのだろう。

   けっこんゴッコというあれは
   鼻たれ小僧や
   まーめんじのちいさなおんなのこしか
   してはいけない悦楽だったのだ
   おんなのこたちはあれをしなくなって
   なにをしていたのだろう

まーめんじといった幼いときの言葉も先刻の”匂い”と一緒で、説明の言葉にはおさめきれない、自分の中に潜んでいた感覚を運んでくる。

「信太の森で」は静かな深い作品。三歳の孫にさそわれて、話者はおさかなつりをしている。おそらくは”ごっこあそび”なのだろうが、二人で動かない糸の先をみている。するとそこには「いつも森がある/川が/せせらぎがある」のだ。最終部分は、

   鳥はいつまでも鳴いてはいない
   私たちは一つの点になり
   急峻の岸辺に立って
   ひとひらの魚が
   一瞬光るのを待っている

そのとき、話者と孫は俗世界からは浮かび上がって桃源郷にいるに違いない
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