瀬崎祐の本棚

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詩集「朝の耳」 北村真 (2022/05) ボートハウス

2022-05-06 18:48:17 | 詩集
第5詩集。84頁に22編を収める。

「帰郷」。擦り切れそうな軍服に身をつつんだ若い日の父が、疲れた足を引きずるようにして帰ってくる。麦茶をむさぼるように飲みほした父は、戦友の家族に遺骨を届けるといってすぐに出て行く。そして「神社の鳥居を曲がり」「墓地へ続く新しい階段を」登って「森の奥に消え」ていく。

   命日でもないのに
   父は ときおり 帰還することがある
   手渡しそこねた戦友の指の骨を
   まだ 左胸のポケットにいれたまま

話者は、生前の父上が思い残して悔やんでいたことを聞かされていたのだろう。戦争は死んだ人にはもちろんのこと、生き残った人にも消えることのない心の傷をつける。ひとりひとりの失われた命への償いがいつまでも彷徨うのだ。

ⅡおよびⅢのいくつかの作品は東日本大震災、原発事故を詩っている。「津波に運ばれ 墓石に受けとめられた 暮らしの品々」のことや(「指で歩く」)、家屋をかろうじてまもってくれた四本の杉の木のこと(「防風林」)、そして「真新しい/モニタリングポストのとなり」で廃炉作業の説明をしていた人の写真のこと(「ゆびさし」)、デブリに「汚され」「太いタンクに閉じこめられつづける水」のこと(「水は」)、など。そのどれもが静かな口調での悲しみ、怒りとなっている。

そんな中の一編「人形」は、石垣の上のコンクリート枠に座っている人形を詩っている。「ここまで 流されてきたのだろうか ここに 取りのこされたのだろうか。」どんな人形なのかの描写はないが、私(瀬崎)には泥で汚れた西洋人形のイメージが浮かんだ。行き交う人は人形をちょっと見ては立ち去っていく。最終部分は、

   ここに ずっといたかのように。これからも
   ずっとここにいるかのように。人形が 座っ
   ている。笑ったまま 座っている。

それは風化することのない記憶のようなものだろう。笑い顔のあった日常が押し流され、そして押し流された日の記憶が風景の片隅にいつまでも取りのこされているのだ。

社会性のある題材を多く詩っている詩集だが、その根底にはひとりの人間としての感性が息づいている。そのために作品は、紋切り型のメッセージではないものになっていた。
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