瀬崎祐の本棚

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詩集「ねじれた空を背負って」 たかとう匡子 (2024/03) 思潮社

2024-04-12 22:32:43 | 詩集
124頁に27編を収める。

巻頭に置かれた「よるべない地図に誘われて」に、「わたしはすなおに/そのまま混迷を行こうと決めた」とある。頼るものを失ったところから始まる歩みを書きとめようとする決意、それがこの詩集を支えている。

しかし不穏な空気はそこかしこに漂っている。
「転々」。光はくだけ散り、「親指と人差指のあいだ/赤い魚/跳ねる」のだ。正体不明の粒子も我が身に迫ってくる。助詞を省いた叙述が小気味よい。

   人はいつだって
   孤独
   多事多難
   渇きにあおられ
   ひたすら心臓の鼓動をおさえようと
   あせればあせるほど引きずり込まれていく

「爆/撃/音」がこだまして、話者はこの世界を浸蝕してきている異形のもの、それはそのまま異形の事態と言ってもいいのかもしれないのだが、に立ち向かおうとしている。

「ごく小さな事件簿」では、「空耳/かもしれない」ノックが聞こえ、話者は枇杷の木の葉についた虫を順次殺していく。すると「空はすこしずつ変化」して「何かの/壊れる音/乾いた頭蓋」があらわれ、倒壊した家の「基礎の土台があらわになっている」のである。日常生活に起こった”小さな事件”というのだが、ここには戦禍のイメージが色濃く漂っている。私達の日常も戦禍と無縁ではいられないのだ。

詩集タイトルにもなっている”ねじれた空を背負う”というイメージは、こうした否応なく不穏な世界の空気と結びついている私達の覚悟でもあるだろう。この言葉は作品「遁走曲(フーガ)」にあらわれる。妹に似た幼なごが走り去っていき、話者の「胸のうちがわでは/古傷が口をひろげていた」のだ。何かから逃げようとしていたのか、それは逃げ切れるようなものなのか。いや、逃げるという行為、その意思表示が必要だったのかもしれない。最終連は、

   予測できない時間にむしばまれて
   滑り落ちてきた観覧者のなか
   ひょっとしてあれは
   ねじれた空を背負ったわたしの妹
   と見えたが
   眼を凝らすと無人
   走り去っていったのは誰

困難な世界の中に在ることを確かめ、見事に背筋を伸ばしているような詩集だった。

「吊されて」は詩誌発表時に簡単な紹介をしたのだが、大幅に推敲がなされていた。
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