155頁に150編の四行詩を載せる。
ただ、本書を詩集と言っていいのか否かは定かではない。まず作品をひとつ紹介する。
尖る
今宵ある
頭痛は青き夕ぞらの
しらしらとして
鷺より尖る
あとがきで作者は「この本は(略)/歌集でいえば、第三歌集ということになる」と書き、また「絶句形式という四行詩に挑戦した」ともある。そして「詩集と歌集の境界線上にあ」り、「ジャンルにあまり拘泥する必要もない」とのこと。
言葉のリズムはまったくの57577なので、そのリズム感を感じてしまうと、つい4行分かち書きの短歌として読みたくもなってくる自分がいた。しかし、この表記を選択したからには、それは作者としては避けたいことだったのだろうか。
稲妻
展望の
バーにて語るものなくて
閃(ひらめ)く稲妻を
わがこころとす
各詩編にタイトルがつくことは短歌とは大きく異なる点だろう。いささか気になったのは、ほとんどの作品で作品本文中の一語をタイトルとしていること。短い限られた文字数の作品にせっかくタイトルを付けるのであれば、本文中の言葉とは別の、本文とバランスを取って揺れるようなタイトルにしてはどうだっただろうか。たとえば、次の作品のように。
火の色
なけなしの記憶
集めて夢を見る
秋冷の野は
朽ち葉いろせり
私(瀬崎)はあくまでも(四行)詩として読むことことしかできないのだが、そのリズムは心地よいものだった。時間を流さずに今を詩いながら、そこにこれまでの生の時間を包含させている作品群だった。
ただ、本書を詩集と言っていいのか否かは定かではない。まず作品をひとつ紹介する。
尖る
今宵ある
頭痛は青き夕ぞらの
しらしらとして
鷺より尖る
あとがきで作者は「この本は(略)/歌集でいえば、第三歌集ということになる」と書き、また「絶句形式という四行詩に挑戦した」ともある。そして「詩集と歌集の境界線上にあ」り、「ジャンルにあまり拘泥する必要もない」とのこと。
言葉のリズムはまったくの57577なので、そのリズム感を感じてしまうと、つい4行分かち書きの短歌として読みたくもなってくる自分がいた。しかし、この表記を選択したからには、それは作者としては避けたいことだったのだろうか。
稲妻
展望の
バーにて語るものなくて
閃(ひらめ)く稲妻を
わがこころとす
各詩編にタイトルがつくことは短歌とは大きく異なる点だろう。いささか気になったのは、ほとんどの作品で作品本文中の一語をタイトルとしていること。短い限られた文字数の作品にせっかくタイトルを付けるのであれば、本文中の言葉とは別の、本文とバランスを取って揺れるようなタイトルにしてはどうだっただろうか。たとえば、次の作品のように。
火の色
なけなしの記憶
集めて夢を見る
秋冷の野は
朽ち葉いろせり
私(瀬崎)はあくまでも(四行)詩として読むことことしかできないのだが、そのリズムは心地よいものだった。時間を流さずに今を詩いながら、そこにこれまでの生の時間を包含させている作品群だった。